イスラエルによるジェノサイドの背景

イスラエルによるジェノサイドの背景

                                   田浪亜央江

◆イスラエルの政策の帰結としての〈10.7〉

 私はこの10年あまりは、展望がまったく見えないパレスチナの状況下で、武装闘争とは異なる闘争のかたちとしてパレスチナ人が選び取っている、文化による闘争・抵抗に関心をもって、現地にいる間はその動向を追うことに多くの時間を割いてきました。 

 「10月7日にハマス(ハマース)によるイスラエル攻撃が始まった」という言い方で現在の事態について話を始めることが一般化しています。10月7日を始点とするならばそう表現するしかないわけですが、私自身はいまの事態を「パレスチナを占領するイスラエルが、パレスチナにおける最終的な民族浄化(パレスチナ人口の消滅)を目指し、時間をかけて着々とパレスチナ社会を追いつめて来た政策の帰着」と表現するしかないと思っています。ハマースによる越境攻撃というかたちで始まることは想定外でも、「いつか起こること」でした。タイミングという意味でも、イスラエルにとってはもう機は熟していたというしかありません。 

国際環境としては、イスラエルの政策批判をすべて「反ユダヤ主義」とする倒錯を意図的に作り出す外交戦略がかなり成功してきました。欧米では、イスラエル批判を行う研究者の講演が中止に追い込まれたり、作品のなかでイスラエル人をネガティブに描いたことが反ユダヤ主義だとしてアーティストがものすごいバッシングを受けたりということが続いてきました。また、イスラエルに対するボイコット、イスラエルからの資本の引き上げ、イスラエルに対する制裁を指す「BDS」キャンペーンに対してここ数年ユダヤ団体が強い攻撃を始め、アメリカの多くの州やドイツでこれが非合法化されました。「BDS」の呼びかけは2005年にパレスチナ社会が行ったもので、日本を含めた非暴力的な国際連帯運動として広がりを見せてきたものです。

そして、2001年のいわゆる〈9/11〉以降の対テロ戦争が世界的に拡大・浸透し、「テロ対策」という言葉が日本の小さな地方行事のようなもののなかでさえ普通に使われるほど定着してしまいました。そのなかで占領地を実験場にし、占領を通して技術革新を行ってきたイスラエル軍事産業はシェアを伸ばしてきました。戦争の負のイメージが貼りついていたイスラエルが、「安全安心」を守る技術の先進国として捉え直され、国際社会で受け入れられるようになりました。そして他方では、イラクとシリアの一部を一時支配していた組織「イスラーム国」(IS)による凄まじい暴力イメージが、イスラームそのものと結びつけられてしまい、「イスラム組織ハマスのテロと闘うイスラエル」という一面的な捉え方が一般化してしまった。そして2020年の「アブラハム合意」のように、アラブ諸国とイスラエルの関係改善も進み、以前のようにアラブ諸国がイスラエルの占領を強く非難することもなくなりました。

今回に限らず、こうした機会にパレスチナ問題について一から学びたいという声はよく聞きますし、それは大切なことです。ただ、歴史的な経緯や出来事を順番に学んで、それでイスラエルがなぜ今あのようにガザで凄まじいジェノサイドをしているのかということが分かるかというと、そうでもないと思うんです。ですから今日は、もちろん時間的な制約上ということもありますが、経緯を順番にお話しするというよりも、パレスチナ問題の捉え方について先にお話ししたいんです。

◆入植型植民地主義としてのシオニズム運動

パレスチナ問題がどういう問題かと言うと、一般的には1948年、今から75年前にイスラエルという国が出来た。その時にもともと住んでいたパレスチナ人は追い出されて難民になってしまった。それ以来一つの土地をめぐって、ユダヤ人(イスラエル人)とパレスチナ人が争っている、と説明されます。イスラエル建国当時、およそ70万人から110万人のパレスチナ人が難民になった。建国後イスラエルは、建国当時に支配下に入れられなかった土地、つまりガザ地区とヨルダン川西岸地区をさらに占領した。…これは歴史的な経緯としては間違っていませんが、捉え方としては不十分です。つまりこの捉え方だと、イスラエルという国が出来たのは良かった、あるいは必要悪だとしても、とにかくユダヤ人が国を作ったこと自体についてはとやかく言わない。でもその時にパレスチナ人が難民になったことや、いったん決まった領土を越えてイスラエルが占領を続けているのは良くない、という感じに結果論として振り返ることになります。

そうではなくて、イスラエル建国というのは19世紀末から始まり、20世紀初頭に規模を拡大した入植型植民地主義(セトラーコロニアリズム)だと捉える。パレスチナ人のあいだでは彼らが難民化した当初から、というよりもパレスチナ社会がシオニスト運動の影響を受け始めて混乱した頃からこうした捉え方はありましたが、パレスチナの外の研究者目線ではそれほど一般的ではなくて、わりと最近広がり、定着した見方です。ですからイスラエル建国がスタートではなく、それは大きな画期ではあるが、むしろイスラエル建国によってパレスチナの植民地化が本格化したんです。そしてそれは今も続き、ひじょうに暴力的なかたちで完成が目指されている。 

イスラエルの建国の理念であるシオニズムは、アメリカや南アフリカなどで実行された入植型植民地主義のバリエーションです。アメリカや南アフリカの建国運動でも宗教が動員されましたが、シオニズムの場合もそうでした。シオニズム運動のリーダーたちはもともと宗教色の薄い人が多かったのに、彼らが見下していた保守的で伝統的なユダヤ教徒の宗教心を利用しました。シオニズム運動の勃興期、パレスチナはオスマン帝国の周縁地だったわけですが、第一次大戦でオスマン帝国が敗戦国側になったことで、イギリスとフランスが東はペルシャ湾、西は地中海に達するこの地域を分け合いながら独自に分割を行います。国際連盟のお墨付きで「イギリス委任統治領パレスチナ」として切り取られた時に、現在おなじみの細長い三角形のパレスチナの領域が作られました。

イギリスの委任統治はシオニズム運動に「理解」を示し、将来はここをユダヤ国家として独立させるという前提で制度設計を行なう不公正なものでした。地元のアラブ社会は、次第にシオニズムの植民地主義的な危険性に気が付いて反対運動を起こします。気を付けていただきたいのは、「地元のアラブ社会」というのをあえて宗教的に見れば、ムスリムやクリスチャンやユダヤ教徒たちです。もともとこの地域では、アラブの、つまりアラビア語を話すクリスチャンやユダヤ教徒やムスリムが一緒に暮らしていたんです。でも反対運動の主体となったのはクリスチャンとムスリムで、地元のユダヤ教徒はヨーロッパから来たシオニストに取り込まれて、地元社会から剝がされていきます。

そういうなかでイギリスへの抗議行動が起き、緊張関係が作り出されていくなかでイギリスは問題の解決を、第二次大戦直後の国際連合に委ねます。国連のパレスチナ委員会は、もはやアラブ社会とユダヤ社会の対立関係は宥和不能なので、この地を二つに、ユダヤ国家とアラブ国家に分けちゃおうというとんでもない決定をするわけです。分割の仕方自体、人口の3分の一足らずのユダヤ人が、パレスチナの56%の領域のユダヤ国家を支配するというおかしなものですが、そもそもこの分割のアイディア自体が間違いなんです。

先日の11月29日は、国連主催の「パレスチナ人民連帯国際デー」でした。私たちも他の地域のさまざまな団体の活動に呼応して正午から19時までという長丁場でイベントをしましたが、本来この日はパレスチナ問題に関して、国連の「原罪」が作られた日です。グテイレス事務総長はこの日のメッセージで、パレスチナの人々への「揺るぎなき関与」を口にして、エルサレムを共通の首都とする二国家共存を訴えました。国連事務総長が今の局面でガザに起きている不公正について自分の声でアピールを出していることは悪くないことですが、でもこの地にもともと存在しなかった民族概念を導入して二つの国に民族を振り分けるという、この分割の発想こそが間違いだったということは、強調したいです。

◆時間をかけて進行する民族浄化

そしてこの分割決議後シオニストたちは、ユダヤ国家と決まった領域からは出来るだけ多くの非ユダヤ人を追い出すという軍事作戦を実行します。国連の分割決議で言われた「ユダヤ国家」って、ユダヤ人は50万人、アラブ人は40万人という、相対的にマジョリティのユダヤ人が主権をもつという話なんです。なのに出来る限り「ユダヤ人だけ」の国を作る、そのためにアラブ人を追放するという、分割決議とはまったく違う事態が起きた。そして周辺のアラブ諸国との戦争のなかで領域を拡大し、結局77%にまで領域を拡大します。問題の多かった分割決議にさえ違反するかたちでイスラエルが領土を確保した段階で停戦となり、この国連決議違反によって作られた国家が国連入りし、多くの国に承認されていきます。

第二次大戦後、世界的に見れば脱植民地化が進んでいくわけですが、イスラエルはそれと逆行するかたちで、大戦終結から3年後に建国され、植民地支配を猛烈に開始するわけです。もちろん北米や南アフリカ、オーストラリアといった同様の起源をもつ国と並べてみると、イスラエルの建国の起源が特殊とは言えないんですが、現在もこの植民地化の動きが続いている、その事態がガザのなかで先行して加速化し、極端に可視化されている、そのことについて私たちは今、反応しなくてはならない。にもかかわらず、米英仏独はイスラエルを非難しないどころか、イスラエル支持を鮮明にし、イスラエルを批判すれば「反ユダヤ主義」という間違ったレッテルをつけ、それがまかり通ってしまう。植民地主義って、何の反省もなく全然ご健在だったんだ、と今さらながら驚きます。

マスコミでは「パレスチナ問題」という言葉は使われていても、植民地主義とは言われません。私はこの機会に、まずキーワードとして「植民地主義」に並んで、「民族浄化」と「アパルトヘイト」という言葉を出しておきたいと思います。民族浄化というのは、虐殺も含まれますが、必ずしもそればかりでなく、さまざまな手段を使ったり組み合わせたりして、ある民族を一定の空間からいなくさせることです。入植者たちは土地の支配をしようとして、先住民であるパレスチナ人を民族浄化してきたわけです。パレスチナ人の民族浄化を実行する強力な手段の一つが人種隔離政策、つまりアパルトヘイト政策です。2002年から建設されたヨルダン川西岸地区の隔離壁は、この地区に大きな切込みを入れるように建設されていて、パレスチナの通常の生活が成り立たないような状況にあります。こうやってパレスチナ社会を弱体化させ、民族浄化を一気にではなく、国際的にはあまり目立たせないようなかたちで、これまで比較的ゆっくりと行ってきたんです。

イスラエルの植民地政策によって、パレスチナ人が追い出され続けている。これは一貫したイスラエルの政策であり、決してハマースの越境攻撃に対するイスラエルの報復として、突発的に始まったものではありません。こういう話をすると、必ず聞かれるのが、「ではハマースの行為は問題ではないのか」、ということです。私としては、あんな絶望的な作戦をさせるほどパレスチナ社会が追いつめられて来たのに、それを放置して来た国際社会全体のほうがよっぽど問題だろうとしか言えません。

ただ、ハマースの行為を問題だと言うなら、どういうものとして問題にすべきかということです。植民地支配下の抵抗勢力の暴力が戦争犯罪として問われるべきなのかどうかには疑問がありますが、少なくともハマースが戦争犯罪を行ったというなら、ちゃんと裁くべきです。しかしイスラエルがハマースの作戦実行者のほとんどをその場で、裁判にもかけずに射殺してしまい、彼らを裁くことなど考えていない。イスラエルの軍事作戦では、ハマースを殲滅するといって、ハマース以外の人々を大量に巻き込みながらその場で彼らを殺すわけですよね。なぜこの違法性が問われないのか。イスラエルの長年の民族浄化という歴史的経緯を捉えずに、今回のハマースの作戦だけ切り取って「ハマースの問題」を考えるなんて、そもそも議論として成立しないと思います。

◆オスロ合意の問題

 さて、1948年に建国されたイスラエル国家は、その約20年後の1967年、建国当時には支配下に含めることも出来なかった場所も占領します。日本では「第三次中東戦争」と呼ばれている戦争をイスラエルが奇襲攻撃で開始して、エジプト・ヨルダン・シリアを6日間で負かしてしまう。このとき占領したパレスチナの残りの部分が、ガザ地区とヨルダン川西岸地区、それから東エルサレムです。エルサレムは、ここでは話をシンプルにするため、ヨルダン川西岸地区と一緒にしてお話します。この時にも約30万人のパレスチナ人が難民になりました。

 ガザ地区には8つ、ヨルダン川西岸地区には19の難民キャンプがありますが、ほかにヨルダン、シリア、レバノンに難民キャンプがあります。難民たちの状況は、居住地によってさまざまで、状況によっても変わります。例えばレバノン政府によるひどい差別を受けているレバノン在住のパレスチナ難民に比べて、シリアにいるパレスチナ難民の受けている処遇はかなり「まし」だったんですが、シリアのヤルムーク・キャンプは2011年に始まった内戦中に包囲されて、餓死者が出る凄まじい状況になりました。一時的には安定しているように見えても、居住している国の状況が悪くなった時に、難民はその国の国民なら受けられるかもしれない最低限の保護から、最初からはじかれたり、真っ先に追い出されたりします。こうしたパレスチナ難民の話を詳しくするには、別の機会が必要です。

 難民となったパレスチナ人たちは、次第に民族的なアイデンティティをもち始め、若い世代の中にはパレスチナ解放のためゲリラ活動に身を投じる人も出てきます。そのリーダーが長年日本では「アラファト議長」と呼ばれて来たヤーセル・アラファートで、彼が率いたのがファタハ(パレスチナ民族解放運動)です。その絶頂期は1970年代から80年代までです。話をかなり端折りますが、皆さんの多くが、おそらくアラファートがイスラエルのラビン首相と握手をした「オスロ合意」のイメージを御記憶だと思います。1993年のことですから、今年でちょうど30年です。あの時世界中はまるで、「パレスチナ問題はこれで解決した」かのような報道をして、お祭り騒ぎになりました。確かにパレスチナの占領地でも、内容をよく知らないまま、ただ「自治」の言葉に踊らされて大勢の人が大喜びで屋根に上って祝砲を上げるような大騒ぎだった。もちろん長年の占領に苦しんで来たパレスチナ人が喜ぶ気持ちは分かります。でもパレスチナの外の難民についてはまったく触れていなかったので、そこでは反対や失望の声が出ましたし、パレスチナ社会に分断が生じました。

 それだけではなくて、オスロ合意こそは、今のパレスチナの状況をここまで混迷化させた元凶です。あれは対等な握手ではなく、湾岸戦争が大きな要因ですが、すでにファタハの立場がかなり不安定になっていて、アラファートは見かけだけの「成果」作りに追い込まれていたんです。翌年、和平に前向きだったラビン首相がイスラエル国内の右派によって暗殺されたせいで風向きが変わり、オスロ合意の内容が履行されなくなって失敗した、かのように言われますが、そもそもオスロ合意自体が問題だったんです。オスロ合意によってパレスチナが自治を始めることになったわけですが、その他のことはすべて今後の交渉に委ねましょう、ということです。

オスロ合意の一番の問題は、イスラエルの占領がまったく言及されなかったばかりか、「最終的地位交渉」の対象ということで、入植地とか治安管理などはイスラエルが握ったままということが明文化されてしまったことです。オスロ合意後、「占領」という言葉はあちこちで使われなくなり、日本の外務省も使わなくなってしまいます。国際法違反である占領の終結が和平の前提のはずなのに、それがまったく触れられないまま、占領地の現実変更という国際法違反行為である入植地建設は止まらない。イスラエルはパレスチナの自治が始まる前に、むしろ駆け込み的に入植地を拡大していきます。 

◆「ガザ撤退」をめぐる国際社会の錯誤

そして「自治」などと言っても、これによって占領地がむしろバラバラに分断されてしまいました。エリコという町とガザで先行して開始された自治を、これも交渉の結果として名目的に広げてみせた。A地区、B地区、C地区というふうに区分けされてしまって、パレスチナ側が警察権と行政権を握っているA地区は、ヨルダン川西岸地区の18%だけで、両方ともイスラエルが握っているC地区というのが60%です。しかもA地区は島のようにバラバラで、つながっておらず、B地区と接しながらC地区に囲まれていたりするわけです。今100以上の国がパレスチナの国家承認をしているわけですが、国家としての実体なんかないんです。自治政府による反対派の弾圧を含めた治安管理と、行政機構の整備は進んでいますが、住民が生活し権利を保障されるような一体的な空間はほぼ「ない」という、SFのような状況です。狭いA地区、とくに自治政府の大統領府があるラーマッラーだけに投資が集中して、占領地全体で見るとすさまじい格差が出ています。

さらに2002年頃から、ヨルダン川西岸地区で隔離壁の建設が始まりました。先ほど触れたイスラエルのアパルトヘイト政策を可視化させている、「アパルトヘイト・ウォール」です。カルキリヤという町などは、町の周囲をすっぽりと壁で覆われ、町の出入りはベルト状の一方向からでしか出来ない状態です。また、壁に覆われていなくても、何かあれば町や村から幹線道路に出る道が封鎖され、移動が出来ないということが起こります。現地に行くと、例えばラーマッラーからヘブロンまで乗り合いタクシーで移動する場合、ドライバーが連絡を取り合って道路封鎖の状況を確認し、ルートを変更しながら走るといったことは、ごく日常的です。今回のガザでの事態が始まった10月7日以降しばらくは、西岸地区では外出禁止令が出されて、幹線道路を通っただけで射殺された人も出ています。

 ガザのほうに目を転じます。先ほどオスロ合意の問題を強調しましたが、それに加えて強調したいのがイスラエルの「ガザ撤退」をめぐる国際社会の錯誤についてです。2005年に当時のイスラエルの首相、アリエル・シャロンが決めたことですが、パレスチナ側と何の交渉もせず、一方的にガザから入植地を撤去し、イスラエル軍も撤退したことで、ガザからイスラエル人がいなくなったんです。「撤退」というと聞こえが良くて、まるでイスラエルが平和への努力をしているみたいで、実際そのように報じられました。当時私はイスラエルにいたんですが、入植地撤去に反対して何かにしがみついている入植者が運び出される映像が繰り返し流れて、イスラエル社会が多大な「痛み」を引き受けたようなイメージが作られました。でもこれは、コストのかかる入植地を維持することはやめて、代わりにガザを四方から軍事的に管理するという、新たな占領のやり方です。細長い形をしたガザは、狭いところでは幅5キロしかありませんから、軍事的に見れば域内に駐留している必要はない。撤退した入植者も、高額の補償金を政府から受け取り、代替の住居が与えられました。これ以来イスラエルの世論では、「イスラエルはガザから撤退したのに、イスラエルの存在を認めないハマースがガザから攻撃を続けている」という倒錯的な捉え方が主流になりました。

イスラエルは一方的に撤退したあと、占領を終結したと法的に宣言しています。つまり占領地域の治安維持や住民の福祉に関するいっさいの義務からは免れたと一方的に決定した上で、ハマースによる敵対行為が続くなか、殊勝にも最低限の民間人保護(電力などの供給)のみ「やってあげる」という姿勢です。何と勝手な話でしょう。そもそもは1967年の戦争で、当時エジプトが統治していたガザをイスラエルが占領したわけです。そして長年、テルアビブなどの都市で建設業や港湾労働などに安く従事させる労働力としてガザの人々を使った。早朝ガザから働きに出て、イスラエル国内に滞在させずに夜はガザに戻す。イスラエル人に適用される労災などの補償はない。その挙句、狭くてイスラエルにとって活用できる宗教的な資源はほとんないから、ガザの地面の上からは出て行って占領を終わったことにし、管理や住民保護の義務を一方的に放棄する。普通こんな占領ないですよね。イスラエルが占領を続けていると強調するだけでは、あまりにも隔靴掻痒です。ジャーナリストの小田切拓さんが、「占領ではなくて、新しい言葉を作る必要があった」と言っていましたが、同感です。

そもそもということでは、パレスチナ側が団結しないほうがイスラエルにとって都合がいいので、1987年にハマースが結成された当初、ハマースの勢力を伸長させるためにイスラエルは資金援助したと言われています。ガザの占領当局にいたイスラエル側の関係者が、退役後にメディアに証言していることもあり、これはわりと知られている話です。

◆異常な状況にあったガザ

 ガザ撤退の翌年、2回目のパレスチナ立法評議会選挙があり、オスロ合意に反対して最初の選挙はボイコットしたハマースが、選挙に参加して勝利します。これを危険視した国際社会は、パレスチナ支援を停止してしまいます。なかでもEUは、自治政府職員の給料に充てられていた援助を停止しました。自治政府内での不満がハマースに向かったところ、アメリカがファタハに兵器を供与し、内戦を煽り、イスラエルもファタハの要請に答えるかたちで武器を供与します。当時の報道を見ていて本当にショックだったのを思い出しますが、ファタハを西岸地区、ハマースがガザの権力を分掌するかたちになり、自治政府が分裂してしまうわけです。ただ、枕詞のようにハマースが「ガザを実効支配している」と言われますが、2006年に選挙で勝ったのはハマースです。

そしてイスラエルはここで、鬼の首をとったようにハマースによって支配されているガザが危険だと騒ぎ、ハマースからの防衛を名目にガザの軍事封鎖を開始するわけです。ガザの周囲に無人地帯を設け、その地域に立ち入れば攻撃されてしまいます。ガザでは物流が絶たれれば人道危機に陥るのは時間の問題ですから、封鎖に対抗してエジプト側と地下でつなぐトンネルが多数掘られました。これはエジプトのインフォーマルな経済にも大きなメリットだったんですが、2009年ガザとエジプトの境界に地下20~30メートルもの深度で、鉄の壁が埋め込ました。つまりガザを覆う壁を最初に作ったのはエジプトなんですが、鉄壁の埋め込みにはアメリカとフランスが関与しました。

ガザからイスラエル人がいなくなったことで、イスラエルのメディアはガザを暗黒の地のように描き始め、ガザの住民を人間ではない、得体の知れない生き物のように戯画化し始めます。入植者がいた当時は、入植者目線ではあれ、イスラエル社会でもガザにおける「人間の生活」のイメージは一応存在していたのですが。そしてガザにはイスラエル人がいないということで、イスラエルにとってガザ攻撃はやりたい放題になるわけです。

その恐ろしさを最初にあからさまに示したのが、2008年から2009年にかけての攻撃でした。例のバラク・オバマが大統領選に勝ち、正式に就任する直前でアメリカの外交が動かない時期を狙ったわけです。その後も2012年、2014年、2021年と攻撃は繰り返され、それが終わるたびにガザの包囲は強固なものになりました。現在の鉄壁(アイアン・ウォール)システムをイスラエルが完成させたのは、2021年の攻撃の後のことです。トンネル対策ということで、地中深くまで厚い鉄の板を埋め込んでいて、地上はカメラとレーダー、遠隔攻撃システムを備えた6mの壁で、無人地帯と緩衝地帯、合わせて400メートル手前までしか近寄れないものです。

きわめて異常なガザの封鎖状態は、17年間続いています。欧米や日本をはじめ、国際社会のほとんどが、西岸(ファタハ)自治政府としか公式な関係をもっていない。そしてイスラエルが許可した物資のみ搬入され、電気、水道、ガスなどの供給量をイスラエルがコントロールしています。発電所の燃料不足による停電が数日間にわたることも多く、最近では一日電力を利用できるのは一日4時間程度だったようです。集中治療を受けている患者、新生児等がこれによって命を落とすこともあります。先ほども言いましたが、イスラエルはこれを「合法的な措置」だと説明しているわけです。しかし爆撃こそなくても、封鎖というのは集団的に人の命を危険にさらす戦争行為、国際法違反の集団懲罰です。しかも数年に一度、何か正当化できる口実を見つけては実際に大規模に攻撃を行う。

また、下水の処理には電力を必要としますが、それに必要な電力など供給されないので、未処理の汚水が海に放出され、環境悪化が深刻になりました。2012年の在パレスチナ国連国別チーム(UNCT)レポートでは、「2020年のガザは、もはや人が住むのに適さない場所になる」と報告されていました。失業率もどんどん上昇し、最近では50%以上、若者の失業率は64%でした。また、先ほど述べたようにEUがガザの自治政府職員への給与を停止してしまったので、2014年以降、カタールがそれを肩代わりしてきましたが、それも規定額の60%です。そのカタールも2023年7月以降、自国の財政悪化を理由に援助を遅延させ、9月には再開したものの、もうガザの状況は破局的でした。

イスラエルにとってはハマースの存在がガザ封鎖の口実ですから、ハマースを生かさず殺さずの状態においてきた。ただ今回の場合は、これまでとは桁違いの規模で、性格も違います。逃げ場のない中でのこれまでの攻撃自体、たいへん惨いものではあったのですが、それでも死者の数は比較的少なかった。イスラエルの攻撃能力を示してガザの人々の抵抗意欲をくじき、ハマースが必要以上に息を吹き返すのを阻止することが目的でした。今回はハマースの殲滅を謳っていますから、ガザ封鎖の口実としてのハマースをもはや不要とするくらいに、ガザの徹底破壊と人口の減少を狙っているのでしょう。早々とガザの復興について考えている人がいますが、復興の物理的空間が消滅しているような、ぞっとする事態を考えずにはいられません。

こういう話の最後には、「私たちが出来ること」について言及するのが一般的ですが、正直今さら何をしてもすぐに事態を変える力にはなりません。しかしこんなふうにジェノサイドの進行が可視化されて目に飛び込むような事態のなかで何もせず黙っている人ばかりだったら、この世界を成り立たせている基本的な前提が壊れてしまい、もうこの世界に何の信頼も持てなくなります。私自身は今回の事態が始まって以降、しばらくは鬱状態に近かったと思いますが、いろいろな人、とくに留学生や在留外国人たちと出会ったり出会い直したりし、さまざまなアクションのやり方に触れたり、一緒に作っていくことのなかで力を頂いています。

冒頭に述べたBDS運動については、ぜひご自身で調べて情報を得て、消費者・市民としてやれそうなことを考えてください。また、日本とイスラエルが軍事面で関係強化をしていることにも注目し、抗議して下さい。まずご自分で調べたり、周りの人と話すことで行動の入り口に立ってください。強調したいのは、イスラエル批判と反ユダヤ主義をきちんと区別できるようにし、イスラエル批判へのタブー視をやめようということです。仮に非難・批判されても動じず、しっかりと反論できる情報や論理を私たち一人一人が自分の言葉で獲得してゆくことがとても大切だと思います。

田浪亜央江(たなみあおえ、中東地域研究・パレスチナ文化研究)

この文章は、広島市内での二つの講演会の内容をベースに再構成したものです。

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