小泉雅英
朝から思わぬ春の雪に見舞われ、強風で出航できず延期していた兄の散骨を、先日、ようやく終えた。風は少しあったが快晴で、4月末の横浜(八景島)沖の海で、小さなボートから、白い粉末の遺骨を、海に流した。数えることのできぬ小さな粒子となった兄は、風に舞い上がり、海面で浮遊する粉末の遺骨を包み込み、波に流され、消えて行った。こうして、兄の散骨葬を終え、一つの区切りがついたと感じている。

1.
1945年春から夏にかけて繰り返された、米軍機による大空襲の中、焼夷弾の下を逃げ廻った母の胎内で、誰よりも長く抱かれて過ごした兄は、予定日を過ぎて産まれ、79年4ヶ月という歳月を生き、昨2024年10月末に亡くなった。地元の小学校、中学校を出た後、大阪湾に注ぐ安治川河口の造船所に、訓練生として採用された。商船高校や商船大学に入って、将来は「一等航海士に成るんや」、と夢を語っていたこともあるが、高校進学さえままならなかった。高校に行かせてやって欲しいと、中学の担任も来訪され、母も悩んだ末に、区役所に相談したが、生活保護の支給を停止すると言われ、進学を断念する他なかった。母の日雇いの賃金だけでは、五人家族は暮らせなかったのだ。「全世界を獲得する」と標榜したブント(共産主義者同盟)の登場など、新しい社会を目指して、多くの労働者・学生が合流し、60年安保闘争が高揚していた頃の、日本の一つの現実だった。
2.
数年後、姉が中学を卒業し、誰もが知る大手運動具メーカーに就職した。革製の野球用グローブを製造する工場だった。こうして兄と姉の労働によって、ようやく生活保護を脱し、私は高校進学を果たすことができた。数年後、妹が続いた。その少し前に、家族5人が長く住んだ6畳一間の間借り生活から脱し、6畳3畳に小さな台所の付いた、「文化住宅」(賃貸住宅の大阪での呼び名)に引っ越した。狭いながらも、家族だけの、初めての「我が家」だった。玄関を入った所に三和土(たたき)があって、そこを上がると、3畳と6畳の二間が続き、その先に縁側を広げたような、小さな板の間があり、汲み取り式便所が付いていた。そんな小さな空間だが、生まれて初めての「我が家」の感覚は、格別だった。既に兄は会社の寮に入り、姉も少し離れた地方都市で、住み込みで働いていたので、午後から深夜にかけて、駅前の労働者の集まる大衆酒場で働く母と、中3の私と妹の三人が住むには、充分な広さだった。やがて、私の高校進学にも刺激されたのか、兄は5年余り勤めた造船所を退職し、社員寮も出て、「我が家」に合流して来た。以後、仕事を転々としながら、共に暮らし、時に現実の厳しさに打ち負かされ、泣きながら、それでも将来の夢と、理想を語り合ったりした。兄もまだ、二十歳を過ぎたばかりだったのだ。
3.
その後、1966年に、府営住宅に当選、熊取(泉佐野市)に引っ越した。大阪市内で生まれ育った私は、大阪にもこんな田舎があるのかと驚いたが、夏の夜は、駅からの帰途、たくさんの蛍が点滅し、暗い脚下を照らしてくれた。夏の終わりには、曼珠沙華が美しかった。玉ねぎの産地で、いろんな所に玉ねぎが積まれていた。府営住宅は、鉄筋コンクリート造5階建、2DKという間取りで、ステンレスの流し台や広い台所、水洗便所や風呂場も付いているなど、生まれて初めての環境だった。しかも5階だったので、眺望も素晴らしく、大阪湾の対岸の神戸の山々まで見渡せた。六甲山脈の稜線に夕陽が沈んでいく時、オレンジ色の空が、少しずつ変化し、広い空にいつの間にか、夜が広がっていた。そんな時間と風景の変化が好きで、いつも窓から眺めていた。この府営住宅に入れて、ほんとうに良かったと感じた。
この熊取の住宅で、すでに結婚した姉を除き、母、兄、私、妹の、家族4人が住んだ。ここから、母は、阪和線で終点の天王寺まで出て、駅構内の飲食店の洗い場で働き始めた。私は大阪市内の高校に通った。妹は、地元の中学校に転校し、あぜ道を歩いて通学していた。兄は、しばらく、どこかに勤めたかと思うと、いつの間にか辞めて、また別の会社に就職する、そんなことを繰り返していた。どこに勤めても最初は、「みんなええ人ばっかりや」と、その職場を過剰に褒めちぎり、しばらくすると、暗くなっていった。何があったのかは分からないが、どこでも、最終的に人間関係が、うまく行かなくなるようだった。そして、外で蓄積された不満は、結局、家の中で、とくに弟である私にぶつけてきた。何度も繰り返し兄と衝突し、時に暴力的な状況となった。
4.
そんな中で、この真新しい住居に、父が来たことがあった。どういう経緯だったのか分からないが、ある日、この部屋で、父と対面した。何かを話したのか、何も話さなかったのか、全く記憶にないが、中途半端な、なんとも言いようのない時間だったことは確かだ。私には生まれた時から父はいないので、この人が父親だと言われても、何の感情もなく、話すこともなかった。ただ一つ、その日、父の帰り際だったか、その後だったか、激昂した兄が、窓からウイスキーのボトルを投げつけたのだった。これだけは強烈な記憶として、今も忘れられない。もし、あの時、ボトルが誰かに直撃していれば、どうなっていたのだろうか。幸い、ボトルは道路に激突しただけで、ガラスの破片と流れたウイスキーが、ただ地面に散乱していた。兄は5歳くらいまで、父と一緒に暮らしていたが、ある日、間借りしていた家の家主(母の姉の夫=私の伯父)から、父は追い出された。理由も分からず、父と引き離された兄は、母と二人取り残された。このことが、幼い兄に、どんなに深い傷となっただろうか、と思う。父とは言っても、別に妻がいて、別の家庭を営んでいたのだった。そう言えば、幼い頃、母が私を連れて、その家を訪れたことがあった。その家に到着すると、勝手口の小窓が開き、中から女性の声がして、冷たい水が飛び出してきた。何も分からない私は、何か叫んでいる母と、夏ではないのに、頭の上から、季節外れの冷たい水を浴びせられた。そんなことはこの時だけだが、なぜ母はその家を訪れたのだろうか、生活費を求めて行ったのだろうか、そんなことを母に尋ねる機会も既に失った。その日の帰り道、幼い私の手を引きながら、どんな気持ちで、母は歩いていたのだろうか。
5.
この頃の兄は、仕事もうまくいかず、現実のいろんなことで気持ちが「荒れ」ていて、兄弟喧嘩が絶えなかった。酒を飲んで議論し、「荒れ」ることも多くなった。このままでは、やって行けないと感じた私は、ある時、逃げるように家を出た。たまたま、できたばかりの「朝日奨学生」という新聞社が創った制度を知り、直ぐに応募したのだ。大阪市内の販売店に配属され、そこに住み込んで、店から高校に通うことになった。自転車に新聞を積み込んで、朝刊と夕刊の配達をした。一つの部屋と朝夕2食を提供され、1年間働きながら、高校に通った。その後、卒業式を待たずに(「卒業式」自主粉砕!)、兄と妹を残して、母と二人で上京した。ある会社の東京進出に際し、母が社員寮の寮母の職を得たのだった。初めて乗る新幹線で、新大阪から、母と二人、新天地に向けての旅だった。生まれ育った故郷でありながら、暗い記憶も多く、安住の場すらない大阪には、もう戻ることもないだろう、と感じていた。1968年2月の終わり、まだ春には少し早かったが、新しい季節の始まりを予感し、何となく淡い希望を抱いていた。母は52歳、私はもうすぐ18歳だった。
6.
その後の半世紀は、私の家族だけではなく、日本社会も世界も激動の連続で、様々なことがあったが、それらを詳述する余裕はない。ここでは兄に関わる要点のみ略記し、その後、一挙に、兄の晩年から死に至る時間に繋げたい。
社員寮の寮母として提供された6畳3畳の木造アパートに、母と二人で暮らしていたが、やがて高校を卒業した妹と、失業中の兄も上京、合流した。こうして、1970年頃には、再び、家族4人の生活が始まった。ここから、私と妹は大学に通い、やがて兄も定時制高校に通うようになった。大阪時代に、府立市岡高校(定時制)に入学していたが、10年間ほど中断していた。そんな兄を何とか励まし、1978年春、33歳で都立大附属高校(定時制)に編入したのだった。その間も、いろんなアルバイトをしながら、ようやく定時制高校を卒業し、その後、法政大学文学部(2部)に進学、紆余曲折の末に卒業した。その間も、様々な仕事に従事していたが、現実の厳しさに、中断に次ぐ中断を重ね、その都度、家族の中で「荒れ」、とりわけ私と衝突し、暴力を振るったが、私は防戦のみで、兄を殴り返すことはできなかった。もし、そんな反撃をしたら、殺し合いになっていただろう、と思う。そんな状況でも、何とか立ち直って欲しいと、励まし、経済的にも援助し続けたのだった。
7.
兄はなぜ何度も繰り返し、仕事や人間関係に挫折し、「荒れ」、時に暴力さえ振るうようになったのか。しかも、その暴力は、家庭内だけではなく、やがて外でもふるうことがあった。ある時、飲み屋でやくざかチンピラと喧嘩し、傷害事件を起こした。国選弁護士からの連絡で、警察署に行ったが、留置場の兄に面会するのは辛かった。私自身、留置場は何度か経験しているが、それは政治闘争の中であり、「確信犯」として、不当ではあっても、何ら恥じることのないものだ。兄の暴力事件は、それとは全く違う行為だった。留置されている兄の姿は、見たくなかった。結局、その時は略式起訴で、罰金刑で済んだが、以来、いつか、もっと大きな事件を起こし、誰かを傷つけたり、兄自身も長く拘束されてしまうのではないかと、不安を抱き続けてきた。兄の死は、実は、私には、その長年の不安からの解放でもあったのだ。
兄はなぜ繰り返し、仕事や人間関係に挫折し、「荒れ」、時に暴力さえ振るうようになったのか。その答えは簡単ではないが、結局、兄は、自らの人生の挫折を捉えかえし、それを克服することが出来なかったからではないか、と思っている。その挫折とは、二つあり、それぞれが深い傷となっていたはずだ。一つ目は、5歳ほどで、父親から暴力的に引き離されたこと。もう一つは、高校への進学を断念させられたことである。この幼児期と思春期の二つの挫折(=精神的な傷)は、生涯にわたり消えることはなく、精神の奥深く、火山のように、燃え続けていたのではないか。仕事や人間関係で失敗した時、苦境にある時など、何かにつけて、理不尽な社会への恨みとして、その負のエネルギーが爆発し、噴出した。結局、兄は、それらを制御し、克服することができなかったのだ。
その両方に関わる人物、伯父のこんな行為と言葉は、今も強烈な記憶として残っている。ある時、どういう経緯からか、私たち家族が間借りしていた部屋の片隅の、兄の簡便な勉強机を、伯父がいきなり叩き割った。「貧乏人の小倅(こせがれ)に、勉強なんか要らんのや。蛙の子は蛙なんじゃ!」
この事件は、晩年になっても、何度も兄の口から飛び出し、これが原因で、姉とも喧嘩になった。いつまでも過去にこだわるのは、もうやめた方が良いよ、と姉は諭していたのだが、兄の中では、これは過去の出来事ではなく、今もリアルな記憶として、何かの拍子で噴出して来るのだった。この伯父に対し、兄は生涯にわたり恨みを抱くようになった。「俺はいつか、あいつをやったるからな」と言うのを、何度も聞いた。そんな恨み辛みや僻みは、自らが苦しい時、上手くいかなかった時、制御の難しい暴力として、噴出したのだった。
そんな兄に、私も何度かアドバイスをしたことがある。いろんな問題を、個人的に爆発させるだけでは、何の解決にもならない。問題を直視し、克服する方途を考えない限り、いつまでも過去に囚われたままでしかないと、あまりにも真っ当な考えを述べたが、プライドを傷つけられたとか、馬鹿にされたとかで、聞き入れられることはなく、険悪な状況となり、逆効果でしかなかった。こうして、さんざん母や姉や私を苦しめ、悲しませてきた兄は、それでも、我儘を通せる母の保護を受け続け、自己反省の機会も、社会性も失ったのかも知れない。晩年の母を老人ホームに見舞った時、母は 遺言のように、「兄ちゃんのこと、頼むでぇ」と言っていた。自分という存在を、いつでも「承認」してくれる人は、母だけだった。
8.
母と二人、都営住宅に長く暮らした兄は、2012年末に母亡き後は、「独居老人」となった。兄の死後、先日、約10年ぶりにその部屋を訪れたが、足の踏み場もない程の書籍だった。家族5人が、六畳一間に間借りしていた子どもの頃は、本棚はもちろん、周りに本らしきものなど無かった。今は知らないが、1950年代〜60年代半ばまでの大阪には、地域図書館もなく、せいぜい貸本屋があるだけだった。人一倍、知識欲旺盛な兄は、晩年まで、書物への飢餓感から解放されることはなかったのだろう。もはや誰もいない部屋に入って、そのことを、あらためて痛感させられた。結婚に至るような人間関係も、深い友人関係も築けなかったようだが、狭い部屋で一人、本の山に埋もれて暮らした晩年は、それでも幸福だったのかも知れない。そんな兄が、もしも中学から高校へ進学し、幸いにも大学生活まで送れていたとすれば、何の恨み辛みも、つまらぬ学歴コンプレックスなども生まれず、持ち前の陽気さを全開し、人間関係も、人生も、全く違ったものとなっていただろうな、と思う。
9.
子どもの頃に、深く刻印された「蛙の子は蛙」という言葉に、兄も私も抗い続けて来たが、結局、それを乗り越えることのできぬまま、兄は逝った。これは個人的な暴発では、何の解決にも繋がるはずはなかった。そんな母や兄の苦境を見ていたので、私自身は、ある時期、世界の根本的な変革(革命)を目指して、先の「ブント」の流れを汲む組織に加盟し、政治運動に、全力投球したことがあった。兄の場合、社会変革も自己変革も視野になく、私的な恨み辛みに拘泥し続けたのだった。誰かと悩みや問題を共にし、解決するような、人間関係を結べなかったし、そのような意思もなかったようだ。だから、自らの苦しさ辛さには敏感だったが、他者の苦しさを認識できず、民族排外的思考も克服できなかった。それが、兄のほんとうの問題だったのではないか、と思う。「連帯を求めて孤立を畏れず」ではなく、社会の中での「連帯」を求めず、その回路さえ失い、「自分の場所」、「承認」を求めるだけでは、結局、孤立に至る他ないのだ。こうして、自分という存在を、承認してくれるのは、母だけだった。「蛙の子は蛙」というのは、個人的に解決できることではなく、社会的構造的な問題なのだ。
どこに生まれるのかは、誰も選べないが、生まれた環境によって、その人の人生が大きく変わることは、紛れもない現実だ。人生の初めから、大きなハンディキャップを負わされた子と、何の憂いもなく、伸び伸びと学び、遊べる環境で育てられた子とは、その後の人生は大きく異なる。ある程度裕福な家庭に生まれた子は、食べ物に不自由することもなく、栄養満点で、文武両道の健康優良児として育ち、思う存分、本を読み、芸術を享受し、友人たちにも恵まれ、優秀な子が通う学校を卒業した後は、「自分を生かせる」職業に就き、それなりの報酬と地位も得て、やがて家庭を築き、子どもを育てる。こうした川の流れのような、幸福の循環と連鎖を生きて行くことになるだろう。
一方で、心休まる家庭もなく、外をほっつき歩くしかない子もいる。お腹が減れば、大型スーパーで、店員の目をかすめて万引きし、公園のベンチで菓子をほうばり、身体を休める子もいる。家に帰っても、父と母が喧嘩し、父の暴力に、母が泣いているかも知れない。そんな子は、身なりも清潔さがなくなり、学校でもイジメられるか、腕力があれば、逆に誰かをイジメたり、カツアゲで小遣いを稼ぐようになるだろう。義務教育を終えた後は、体力にものを言わせ、現場仕事でそれなりの収入を得て、若い間は楽しく暮らせるだろう。その中で伴侶と出会い、子どもも産まれ、新しい家族を持ち、親となって、人生の新しい段階が始まる。ところが、現場作業の中で事故に遭い、歩くことも困難になると、人生も暗転する。勤務先とは言っても個人事業で、社会保険など加入しておらず、労災も申請できない。働けなくなると、収入は途絶え、生活苦となり、やがて、子どもを預けて、女房がパートに出ることになるが、少しでも高給を求めて、水商売に移っていくかも知れない。生活時間のずれから、夫婦のずれも始まり、衝突も増えていく。やがて子どもが成長しても、安らげる環境は失われ、かつての親と同じく、街を彷徨するようになるだろう。
「蛙の子は蛙」というのは、社会構造的な問題なので、個人的に解決できることではない。こうした格差は今、むしろ拡がっているような気がしている。社会の流動性は弱まり、出自による格差は、いっそう固定化しているのではないのか。しかも貧困は、単に経済的な格差問題ではなく、人間関係や社会的・文化的な貧困でもあるのだ。そんな社会を変え、差別や抑圧のない社会を求めて、多くの人々が闘って来た。私もその末端で活動し、それなりの犠牲も支払ったが、少しでも良くなったのかどうか。まだまだ道は遠いだろう。
10.
このところ、研究者の講演を聴くために、いろんな大学を訪れる機会がある。別世界のような、静かなキャンパスを歩いて思うのは、やっぱり大学は良いな、ということだ。誰もが、小学校、中学はもちろん、高校にも普通に進学し、もっと勉強したい子は、大学にも進学できるような社会になれば、どんなに良いだろうか。青春の初めの数年間を、何の経済的心配もなく、こんな環境で学び、同世代の人たちと出会い、議論を交わし、共に成長できれば、どれほど素晴らしいことだろう。誰もがそんな環境で過ごせる社会を実現したいものだ。
兄が緊急入院して、ひと月が過ぎた頃、自身も病気を抱える姪が、自作の絵を贈った。その姪っ子へ、兄はこんな返礼メールを送っていた。
「良子(仮名)ちゃん有難う。なかなか良く描けていてピックリです。これからも美術展に出かけたり、絵を描いたり、本を読んだり、生きて行く愉しみを自分で発見、充実した時間を送るように心がけてほしい。人生で自分のやりたい仕事につければハッピーだけど、思うようにならない事が多いです。その時に好きな趣味があれば心が救われます。
僕はお母さんが生きて、まだ元気な頃は、サントリーホールのコンサートや国立劇場、歌舞伎座にいつも同行していました。ささやかなことですが、そのことでお母さんの晩年は良かったと思います。元気で楽しい時間を持てるよう、願っています。」
このメールの3週間後、兄は亡くなった。入院して2ヶ月足らずの余命だった。(了)
小泉雅英(2025/5/11)