ナガサワ先生の高校白書 36

ナガサワ先生の高校白書 36

 コロナによる学校生活の制限はだいぶ緩和されている。その結果、現在の勤務校でも修学旅行が10月中旬に実施され、2年生は沖縄に向かった。そのための事前学習と称し、沖縄の文化や歴史と現状のあれこれを学ぶ機会を、生徒の旅行委員会は独自の新聞を作り提供してきた。さらに沖縄戦のこと、戦後の基地問題、第2次大戦のことを調べ、新聞を作る課題を社会科として夏休みに生徒に課した。文献やインターネットを通じ事実を調べ、感想を記すという内容である。A4紙にびっしり書き込み、調べたことを整理し、写真なども貼って、さらにレイアウトを工夫した力作を生徒は制作した。作品は教室の外壁に貼り、皆が読めるように展示した。学校説明会に来ていた中学生のそれら作品を読んで感心していた様子は印象的だった。

 私が担当している世界史では、旅行前の授業において琉球王国時代の薩摩藩島津氏との関係から始め、明治政府の所業を紹介し、そもそもヤマトは17世紀の初めから搾取と横暴を重ね、琉球人はそれに対し抵抗に抵抗を重ねてきたことを話した。以下はその内容である。

 15世紀前半に琉球を統一した尚巴志は朝貢国に寛大な明や室町時代の日本各地と貿易の利を上げる一方、首里王府の大名とそれにつかえる士(琉球の支配層)は庶民(百姓)を搾取していた。これらを一変させたのは、戦国の世を統一した豊臣秀吉の東アジア征服の試みだった。この時まで良好な関係だった島津氏と琉球王国に間にもヒビが入った。琉球を他の大名と同じく自己の支配下にあると考えた秀吉は、島津を通じて、明征服のための朝鮮出兵に兵力と人夫を提供せよと命じた。間に立つ島津は兵糧米や金銀を琉球が出せば兵は自分が出すと言ってきた。ためらう王府に、さらに島津は自分がそれを出しておくから奄美の島々をよこせと責め立てた。つまり軍事優先で誇大妄想ともいえる秀吉の東アジア支配への動員によって島津―琉球関係が厳しい上下関係へと変質したのである。

この関係は徳川政権に代わっても続いた。壊れた中国との貿易を復活したい徳川政権は、いったん明に拒否された関係修復の仲立ちを琉球王国に要請した。しかし王府がこれを断ったため、徳川の許可を得た島津藩が侵攻し(1609年)、琉球の抵抗を粉砕した。その後王や重臣を連れ去り臣従を誓わせたうえ、2年後琉球に戻し、彼の地を支配する体制を島津は構築した。島津氏は中国にはその支配実体を隠し、中国と琉球王国との貿易を維持させ、その利益を搾取する仕組みを作った。中国はこの事実を把握していたが、そのまま両属関係を黙認した。さらに島津は年貢の3割を薩摩に送るように強制し、まさに植民地として琉球を支配した。

17世紀中頃には琉球側に負債が貯まったので、それを砂糖で返したいと王府が申し出て薩摩に歓迎された。こうして砂糖生産が行われるようになった。さらに年貢の幾分かを砂糖で納めさせた島津は余りの砂糖も全て買い上げることにしたので、王府は村々に砂糖きびを栽培させ砂糖で貢租を払うよう制度を改め、さらにウコンも専売制とし、薩摩に送る体制となった。両属関係とはいうものの清(1644年に明を滅ぼす)からは恩恵を受け、島津からは栽培作物の指定などまさに琉球は植民地支配を受けていた。

こうした島津と王府の搾取に対し、民衆による抵抗―八重山の百姓一揆―や島津支配や王府体制を前提としながら百姓の生活向上を図った政治家も存在はした。しかし大きな不満を持つ民衆の生活を根本から改変する政治家も運動も現れなかった。
 1868年、薩長土肥の下級武士が明治維新を起こし、徳川政権を倒し近代的中央集権国家を指向する明治政府が成立した。政府は琉球にも廃藩置県を実施するため清との関係を切るように琉球王国に要請したが、「非武装の話合いによる外交政策以外に、琉球の平和と安全を守る道がない」と主張し、王府はこれをやんわり拒否した。王府の訴えに応え交渉に乗り出した清の抗議を日本は受けたが、1879年明治政府は軍を送り、琉球王尚泰を東京に拉致すると、代わりに県知事を送り支配した。ここに琉球王国は滅亡したが、清のさらなる抗議とアメリカの仲介を受け、これをめぐる東京と北京の交渉が続き、その過程で明治政府は宮古・八重山を清にゆずる提案をしたが、清は返答せずこの件はうやむやのままになった。

こうして薩摩に代り明治政府が植民地として沖縄県を、旧慣温存政策(貢租の徴収や宮古・八重山の人頭税等)のもと支配するようになった。しかし当時の沖縄では薩摩に代わった明治政府を同じヤマトによる支配とみて、旧支配層は消極的に抵抗し、それに同調する民衆は多数を占めていた。他方、旧支配層の抵抗を自らの特権維持とみた平民出身者は明治政府の近代性に期待する動きを見せた。こうした状況に明治政府は「飴と鞭」で支配層に向き合った。抵抗する士には拷問により忠誠を誓わせる一方、内地では76年に打切った秩禄を沖縄では1903年まで支給し、民衆には学校教育を通じて同化を進めた。この統治を税金の収支からみると、1882年に県歳入は65万円で歳出45万、つまり20万円が中央政府へ送られた。1925年には634万円の歳入の内227万円が沖縄で使われ、407万円が東京に向かった。この割合は宮崎、鳥取の2倍である。まさに搾取。

 日清戦争(1894-95)で清が敗北するまで日本の統治は安定せず、旧支配層は清への復帰を望む運動を継続したが、敗北後は清復帰を断念した。その後、尚家を世襲の県知事とする運動が起きたが、平民出身の官僚からは、日本人としての平等を求め、差別撤廃を要求する運動が起きた。これが謝花昇の参政権獲得運動である。当時の奈良原知事の露骨な差別的支配に対する県民の怒りを背景に、また自由民権運動や政党内閣(隈板内閣、1898年、明治31年)の協力のもと、この鹿児島出身の植民地主義者を後一歩で罷免へと追いつめた。結局、隈板内閣の瓦解を受け、彼の罷免は失敗した。その後も謝花は奈良原に抵抗を試みるも日本人としての平等を求めるこの運動は、謝花の発狂という悲劇と共に終了した。

 彼らの求めた参政権獲得=明治憲法の沖縄施行は遅れに遅れてようやく1912年に実現した。当時、徴兵された沖縄出身者が日露戦争に参戦し、戦後、さらに同化が進展しつつ、旧慣は内地の制度にしだいに置き換わり、ブルジョワ化した旧支配層も参政権を求めるようになっていたのである。

その同化の柱が天皇への忠誠であったことから、アジア太平洋戦争時のさまざまな悲劇を生んだことを説明し、事前学習や旅行先で直接見聞きする沖縄の現状理解への手引きとした。

参考文献
    国場幸太郎『沖縄の歩み』(岩波現代文庫、2019年)
    小熊英二『日本人の境界』(新曜社、1998年)                                                 

コラムカテゴリの最新記事