ナガサワ先生の高校白書 38    23年 スペイン夏 

ナガサワ先生の高校白書 38    23年 スペイン夏 

 3年ぶりにサンチャゴ巡礼の続きを再開した。今回は「北の路」El camino norteをビルバオから歩いた。今年、猛暑のスペインではコルドバ、47度など、びっくりするような気温が伝えられているが、北スペインはケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb、最暖月平均気温22度未満)なので夏は快適。日本の大部分は温暖湿潤気候(Cfa、最暖月22度以上)だが、スペインの大半は夏に亜熱帯高圧帯に覆われる地中海性気候Csなので雨がほとんど降らず、アンダルシアでは40度近くになることは普通とはいえ、今年は酷暑である。

 カミーノ・ノルテのガイドブックを見ながら、一日25kmほどを歩く計画を立てたが、うまく行かなかった。その理由はコロナの影響で巡礼宿albergueの一部が閉鎖されていたためである。メインルートである「フランス人の道」に比べ、もともと少ない上に私営巡礼宿が多く、予約を受付けていて、一般旅行客で埋まってしまうという状態。いきなり最初のカストロ・ウルディアーレスで野宿を経験した。ホテルも全て満室という。しかたなく海辺の公園で宿にあぶれた5人で楽しく夕食をとり、野宿した。フランス人姉妹はハンモック、後の三人は芝生にマットを敷き、シュラフで寝た。海鳥の鳴き声でなかなか寝つけなかったが、隣のアンディは耳栓をしていた。虫除けスプーなど皆の用意周到さに驚いた。結局、コブレセスまでは歩いたが、足を痛めたこともあり、ここからは普通の旅行に切り換え、アストリアス州の州都オビエドを観光した後、バスでビルバオに帰った(3時間45分)。車中、隣のスペイン人が、「ビトリアは是非訪ねろ、すごくいい町だ」というので、バスを40分ほど乗り継ぎ訪ねた。ここもバスク地方で、広場の夏祭り?コンサートではバスク語の歌が圧倒的に多かった。翌日、修復中のカテドラルのガイドツアーに参加した。私に気を遣ってくれ、説明のエッセンスを最後に英語で話してもらい、また一人の参加者が英語で説明してくれたこともあり、なんとか内容の半分は理解した。スペイン内戦でビトリアはフランコ側に征服され、教会も弾圧されたという。町の中心に反テロ博物館があった。フランコ時代はバスク独立を掲げ、武力闘争したETA(1959年結成、2010年武装闘争放棄宣言)による爆弾テロ、民主化後はそれに反対するフランコ派のテロも加わり、多くの人びとが犠牲になったという。テロに反対する民衆の抗議運動が多数の写真で説明されていた。入場料はなかったが、持ち物検査はあった。この町のバルやレストランが集中している通りは昼から夜中まで盛り上がっていて彼らのオシャベリは楽しそうに続いていた。

 ビルバオに戻りローカル線でゲルニカに行った。この小さな町は1937年4月のドイツ軍による爆撃で破壊され、ピカソがそれに怒って絵を描いたことで有名である。絶対王政時代以前からバスク地方は地域ごとの自治権を得ていて、ビスカヤ地方がカスティーリャ王国に併合された後も、代々の国王はゲルニカの一般評議会のオークの木の下でフエロ(慣習法と地方特権)を守ることを誓ってきた。19世紀にそれを失いスペイン国家に統合されていくが、1931年共和政時代に自治権は復活し、37年に自治政府が発足した。しかし自治など認めないフランコ将軍は共和国側につくバスクを攻撃するさなか、ナチ・ドイツ・コンドル部隊がゲルニカを爆撃、破壊した。そして記録に上ではこの事件をないことにしたのだ。フランコ死後もちろんバスク語禁止は解かれ、自治権も79年に復活している。現在美しい議場は完全予約制になり入れなかったが、近くに平和博物館がありそこを見学した。館内では当時の惨状や生活を伝える写真とともに、証言のビデオが字幕付きで上映されていて見応え十分だった。空爆を経験し、それに憤る語りは胸に迫る迫力があった。

 フランコ独裁時代には政治的意見表明だけでなくバスク語も禁止された。その鬱憤のはけ口はアスレチック・クラブ・ビルバオというサッカーチームの応援に向かった。様々な店にチームの写真やユニフォームが飾ってあるし、ユニフォームを着ている人も見かける。このチームはバスク人だけからなる名門チームである。同じバスクのサン・セバスチャンのクラブ、レアル・ソシエダには久保建英がいるようにこの「純血主義」はアスレチック・クラブだけのようだ。鉄鋼業、造船業で栄えたビルバオは90年代にグローバリズムの影響で不況となり、芸術と美食に町の活路を見いだし、それに成功した。町のそこかしこに奇抜な建築や芸術的モニュメントが建つが、それを象徴するのがグッゲンハイム現代美術館である。ここでは草間彌生とオスカー・ココシュカ、Lynette Yiadom-Boakyeが特集されていた。草間の人気は高く展示室には長い列が出来ていたが、私はナチに反対し闘ったココシュカの歩みをじっくり鑑賞し、初見のイギリス人Lynetteの素晴らしい肖像画を楽しんだ。

 今回の旅は苦労が多く、何度も「捨てる神あれば、拾う神あり」を実感した。40km以上歩きたどり着いたグエメスの巡礼宿では暖かい夕食にワインも付き、宿泊代は好きなように払うdonativoだった。見知らぬ人に道中多く助けられた。バスクの助け合いの精神を象徴する「モンドラゴン協同組合」などを勉強する機会はなかったが、整った街並み、日本にはない広場、豊かな街路樹と広い公園、水飲み場(ローマの多さには負けるが)、バルの存在はスペイン人の生活を楽しくしていると実感した旅だった。

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