大井赤亥(政治学者)
「3・2・1の法則」から「多党化元年」へ?
2025年7月の参院選から高市首相の選出、公明党の連立離脱と自維政権の誕生にいたり、日本政治はあらたな再編期に入った。
自民党は2010年代の国政選挙を通して1800万の比例票を獲得し、公明党の700万をあわせて、自公両党で2500万の安定した与党地盤を構築してきたが、2025年参院選では自公あわせて1800万に急減した[1]。野党第一党の立憲民主党は好機を活かせず現状維持に留まり、公明党と共産党という二つの組織政党もまた支持者の高齢化によって党勢を減退させている。
その反面、参院選で特徴的だったのは参政党や日本保守党など、自民党よりイデオロギー的に右領域での多極化であった。日本保守党はかつて安倍晋三を支持していた自民党右派層を吸収し、「『オーガニック信仰』が生んだ異形の右派政党」(古谷経衡)とされる参政党が14議席へと躍進することになった。
2010年代の日本政治を整理する枠組として、私は「3・2・1の法則」という視点を示してきた[2]。すなわち、第二次安倍政権が成立した2012年以降、日本の政党選択肢は「自公・民主党系野党・維新」の三極によって担われ、国政選挙の比例得票数を見れば、この三極は「3・2・1の法則」とでも呼ぶべき安定的な力関係で推移してきた。
しかし、2025年参院選においては、参政党の登場や国民民主の独自路線により、「自公(保守)、民主党系野党(中道)、維新(新自由主義)」という三極の図式それ自体が成り立たなくなっている。総じて、二大政党による政権交代というプロジェクトは破綻し、日本政治はあらたな多党化の様相を示している。
有権者の世代交代と「団塊の世代」
政党政治の流動化をもたらしている要因の一つは、明らかに有権者の世代交代である。
55年体制の政治的安定は、800万人を超える「団塊の世代」が自社両党と結びつき、経済成長の果実を広く差配することで成り立ってきた。有権者が団体を通じて自らの利害を政治に表出し、政党政治の安定はそれらに支えられてきたといえる。
しかし、「2025年問題」といわれるように、巨大な人口規模で「戦後民主主義の担い手」であり続けた団塊の世代は今年で75歳以上となり、政治的公共空間から退出していく[3]。それにあわせて、高齢層によって支えられてきた旧来型の「保革」の名残りもまた、今後、完全に希薄化されていくことは間違いない。
有権者の世代交代はまた、有権者と政党を繋いできた中間団体の衰退とも重なっている。かつては業界団体や労働組合といった中間団体が強固であり、こうした団体が有権者と政党を繋ぎ、団体の代表者を通じて政府や自治体と交渉して利益を拡大してきた。
しかし、現在、中間団体の力は弱まっている。政治学者の濱本真輔によれば、1986年には約27%の有権者が労働組合や同業者団体の選挙運動に接触していたが、2005年には約8%にまで下がっている。自治会・町内会やPTAといった地域団体の加入率も下がっており、2000年代以降は非加入率が40%前後となっている。1990年前後を分岐点として、団体を通じた政治参加の後退が顕著になってきたのである[4]。
政党対立の枠としての55年体制は1993年に終焉したが、当然ながら、55年体制を支えてきた有権者の認識や投票行動がその時を持って断絶するわけではなかった。1993年に45歳前後だった「団塊の世代」は、その800万の塊でもってその後も直接間接に政党政治を規定してきた。しかし、2025年はそれらの有権者がいよいよ退場する頃合いであり、55年体制の「本当の終わり」といえる。
政治を忌み嫌う政治の担い手
日本の人口構成には「団塊世代」と「団塊ジュニア世代」という二つの山があり、図式的にいえば、今後、日本の有権者のボリュームゾーンに踊り出すのは800万人の団塊ジュニア世代(1971~1974年生まれ)である。団塊ジュニア世代は2025年現在で50~54歳であり、1975年から1980年代半ばに生まれた「ポスト団塊ジュニア世代」とあわせて、いわゆる「現役世代」を構成している。
「現役世代」が日本の有権者となった1990年代前後は、それまで2、3割だった無党派層が急速に5割以上に増える節目にあたり、「現役世代」がその親世代と同様の政党との繋がりを築けてこなかったのは自明である。
バブルの崩壊と低成長期に重なり、雇用や就労の形態が大きく崩れ、かつての業界団体や労働組合との接点は希薄となった。また、主に地域の自営業者によって支えれてきた自治会や町内会も高齢化を迎えて存続の危機にある。そのようは変化のなかで、有権者と政治家や選挙との接点は急速に薄らいでいく。
総じて、「現役世代」は、合従連衡と金権腐敗を繰り返す政党政治を前に、政治家をうさん臭いものと、そして政党を信じるに値しないものと見てきた。政治家はいつも国会で居眠りばかりして、新幹線乗り放題などの特権を享受しつつ、地位と金もうけだけに恋々とし、選挙になれば人様の迷惑を顧みずに街宣車で大声で街中を走りまわる……。彼らにとって政治家とはそのような存在であろう。
これからの日本政治は、政治家を忌み嫌い、政党を信じない有権者が、それでもなお政党政治を支える有権者のボリュームゾーンを担うことになる。そのような時代に政党政治が未曾有の試練に晒されることはたしかであろう。
粘土と砂の並存と政党の試練
日本の有権者を示す言葉として、2005年の小泉郵政選挙を評した中曽根康弘の「粘土が砂になった」というものがある。それまで民意を粘土にまとめてきた集団が求心力を失い、有権者がばらばらの個人になることによって古い自民党が溶解したというのである。
今後しばらくの日本政治は、いわば粘土と砂とが並存しながら、どちらも社会を一元的に構成しない、そんな過渡期が一定期間にわたり続くのではないだろうか。
町内会にも宗教団体にも労働組合にも属さず、自らの利害を反映させる回路を持たない砂のような個人は増えている。しかし、みんなの党や維新の栄枯盛衰が示すように、無党派層に依拠する「第三極」は持続的な政治的選択肢へと成長しきれず頭打ちになってきた。2025年参院選では参政党はたしかに砂をかき集めたが、恐らく同床異夢で参政党に投票した多種多様な砂を参政党は粘土に鋳直せるのか、それはまだ未知数である。
他方、粘土は確実に小さくなっている。自民の業界団体や個人後援会は弱体化し、野党を支える連合の組合員も漸次減少して2024年には700万を切った。公明や共産における組織の高齢化は著しい。
しかし、とはいえなお、業界団体などの選挙における組織力は砂を上回っており、はるかに強固でもある[5]。全国的な中間団体の組織力が、政党政治の力関係をある程度は左右する状況は、今後もしばらくは消えないであろう。
すなわち、今後しばらくの日本政治では、縮小しながらもなお存在感を持つ粘土と、広がりながらもなお結束力を持たない砂とが互いに並存しながら時々の変化が生じるであろう。政治が流動化することは確実だが、どのように流動化するかは未知数なのである。そんな時代に、政党も今まで以上の適者生存の圧力に晒されていくであろう。
「平成デモクラシー」から「連合政治」へ
1994年の政治改革は小選挙区制によって二大政党制の創出を企図したものであり、その試みは「平成デモクラシー」と総称されてきた。しかし、このようなプロジェクトが現在の日本社会の有権者の多様化に即しているものとは到底思えず、総じて、「平成デモクラシー」のプロジェクトは遠い過去のものになりつつある。
他方、日本の政治学をさかのぼれば、「平成デモクラシー」と相対するように、穏健な多党制を求めた議論も存在し、1970年代に政治学者の篠原一らによって唱えられた「連合政治」の理論はその代表格といえる。55年体制下において公明党や新自由クラブなどの多党化が進むなか、篠原はそれを肯定的に受けとめ、二大政党神話からの脱却と多極共存型のコンセンサス・デモクラシーを説いたのである。
篠原によれば、イギリスを模範とした二大政党制は民主主義のモデルとして理想視されてきた反面、多党制による連立政治は「逸脱の形態」とされてきた。55年体制下の日本でもまた、「連合(coalition)」には、政権側からすれば政治的不安定をもたらすものとして、野党の側でも権力奪取のための「数合わせ論」として、マイナスの評価が与えられてきた。
しかし、二大政党は若干のアングロ・サクソン諸国で見られた例外にすぎず、第二次大戦後の欧州諸国における政治形態はむしろ「穏健な多党制」であり、それでなお政治の安定と経済成長が実現されてきた。日本もまた、1970年代以降、民社党や公明党の台頭によって事実上の「四党制の時代」に入っており、政治学者のサルトーリの類型をかりれば「穏健な多元主義」に移行していたのである。
したがって、篠原は、日本の政党政治においては二大政党制よりも「むしろ連合形態をとるものと考える方が常識的」であり、「連合という行動様式に習熟しない政治勢力はしょせん歴史の舞台から姿を消していく」と喝破している[6]。
篠原が「連合政治」を提唱してから半世紀をへて、眼前の政治状況はそれに奇妙なほどフィットしている。20世紀後半の先進国を画した中道政治の安定は、端的に、経済成長を背景とした分厚い中産階級に支えられたものであった。1990年代以降、ポスト工業化に伴い雇用や価値観が多様化するにつれ、政党が多党化するのは自然であろう。政党政治も多元化する市民社会への適応が迫られているのである。
自公連立の制度疲労と「国民政党」の落日
自民党は高市総裁を誕生させ、鳩山一郎から数えて29代目で初の女性総裁を生み出した。
男性が圧倒的に多数の自民党で、初当選以来20年間にわたり政界を生き残り、女性宰相に就くまでは多くの労苦や理不尽もあったことは容易に想像できる。高市総裁が「ガラスの天井」を破った意義は大きく、その点は党派を超えて率直に寿がれるべきであろう。
もちろん、高市が選択的夫婦別姓に消極的なことから、「初の女性首相が誕生するかもしれない、と聞いてもうれしくない」(上野千鶴子)との声もフェミニズム論壇から上がっている。しかしそれでなお、高市総裁の実現は「リベラルな女性総理」の誕生にとってもその一里塚になるものではないだろうか。
その上で、高市自民党の誕生は、2027年の統一地方選を控え、参政党に奪われた右派支持層を取り戻すための「保守回帰」とも捉えることもできる。結果、公明党は26年にわたる協力関係を「白紙」とする想定外の連立離脱となった。
自民党にとって公明党は、組織票によって小選挙区の自民党候補を押しあげてくれる貴重な存在でありながら、集団的自衛権や外国人参政権といった課題では「与党内野党」として振る舞う痛し痒しの連立友党であった。
公明党の存在感は一つの小選挙区あたり2万票といわれる創価学会票であり、支持基盤の先細る自民党議員の当選を支えてきた。都市部に強い公明党と農村部に強い自民党とは選挙区地理的にも補完関係にあった。
公明党との選挙協力が白紙となれば、2024年衆院選で小選挙区で当選した132人の自民党議員のうち25~45人が落選危機に陥るという。広範な有権者を包摂してきた「国民政党」としての自民党の足腰は、根本的な衰退を迫られるであろう。
「保守的」と見られる左派やリベラル派
有権者の世代交代は、しかし、むしろかつての「革新」、現在の中道リベラルや左派政党に対して、より深刻な課題を投げかけている。立憲民主党はこの間の政局変動にあっていささか受け身の対応に終始し、共産党や社民党も組織の高齢化もあって停滞を余儀なくされている。
不透明な政治において一つたしかなことは、かつての「革新」勢力を引き継ぎ、現在、ジェンダーや反差別、社会保障の充実を掲げて権力を批判する左派やリベラル派が、時代の変化のなかで有権者から乖離し、現役世代にとって「保守的」な人々と映っているという現象である。
現在の日本社会は人口減少や少子高齢化に規定され、快刀乱麻を断つ根本的解決や、利害調整を度外視した革命的決着というのは存在しない。誰が政権を担おうと、行政のとれる政策の裁量は限られており、眼前の課題に対して、プラグマティックな試行錯誤を通じて弥縫策を繰り出していくしかない。
そこにあって、「社会主義」という切り札を失い、権力を担う立場から久しく遠ざかってきた左派やリベラル派は、転じて、行政が提示する弥縫策の弥縫さにこだわり、試行錯誤の錯誤に難癖をつける、悪しき意味での「権力批判」にその存在意義を見出しがちである。それが、55年体制の「革新」の理想を共有しない若年層からは、現実の改革に何でも反対する「保守的」な勢力として映ってはいないだろうか。
絶えず変化する時代のなかで、新しい有権者にとって、むしろ左派やリベラル派が「保守的」と見られる転換、すなわち「保守化する左派」とでもいうような現象が生じているのである。
若年層の「政治的覚醒」と左派
左派が「保守的」に映る一例としては、たとえば、2024年衆院選の争点の一つとなった「紙の保険証」の存廃がある。立憲や共産などは「紙の保険証を守ります」と訴えたが、こうした主張を、堀江貴文氏やひろゆき氏といったインフルエンサーはSNS上で繰り返し批判し、高齢者に迎合する「シルバー民主主義」、日本のデジタル化やイノベーションを阻む「老害」勢力として印象づけた[7]。
左派やリベラル派が「保守的」に見える例は、「103万円の壁」でも同様だった。国民民主の玉木雄一郎氏は、パートやアルバイトの課税発生額である「103万円の壁」をとりあげ、大学生や主婦層の手取りを増やすと訴えて若年世代の支持を得た。
私自身、大学で講師をしながら、授業アンケートなどを通じて「103万円の壁」の打破が大学生から歓迎されていることを痛感した。年間103万円とは月にならせば8万5000円であり、大学生や主婦のあいだで所得税の発生と手取り減は深刻に捉えられてきた課題である。これまで政治的無関心とされてきた若年層は、「シルバー民主主義への反乱」という形で、たしかに政治的に「覚醒」したのである。
それに対する左派やリベラル派の反応は複雑であった。「103万円の壁」の是正が若年世代に歓迎されている現状を前に、しかし自分たちこそ「真の若者の味方」というスタンスを迫られ、その結果、左派やリベラル派は、「103万円の壁」の是正はしょせん弥縫策であり、本来は「学生がアルバイトをしないで勉強できる社会を作らなければならない」として、給付型奨学金の拡充を訴えるものであった。
しかし、何より実際に大学生の立場になって考えてみればいい。当事者の大学生にとって、いつ実現するかもしれない「学生がアルバイトしなくてよい社会」よりも、来年のアルバイトの手取りが増える方がはるかに現実味を感じられるだろう。そこにあって、理想論をかざして眼前の具体的改革の問題点を指摘する左派は、転じて、改革に水を差す「保守的」な立場に映ったであろう。
ここには、現状の「根本的解決」を掲げる立場が、実は現状の改革を遅らせる足枷と映り、「保守的」に捉えられるというパラドクスがある。
左派の再生があるとすれば……
有権者の世代交代と社会の地殻変動をうけ、社会はたしかに変わってきた。しかし、それは左派が望んだのとは別の形で、であった。
左派やリベラル派は、その変化と自分たちの信条とを折りあわせることのできないまま、変化そのものに受動的で、結果として「保守的」な立場に追いやられている。現在、日本の左派やリベラル派はこのような隘路に陥っている。
もちろん、救いもある。これから日本の有権者のボリュームゾーンに躍り出る現役世代には、反戦平和主義や反権威主義といった〈戦後民主主義〉的な価値観にはコミットしていないものの、子育てや教育など将来世代への支援を望み、個人の成長のための社会投資型の福祉国家を支持する「新しいリベラル」が勃興しているという[8]。
左派やリベラル派の再生があるとすれば、世代や価値観の異なる他者と対話を通じて、これら「新しいリベラル」の民意の受け皿となること、そのための不断の自己改革に乗りだす以外にないであろう。
最後に、そのための展望を模索してみよう。
2010年代の日本政治は、その国政選挙での比例票を見れば、自公が「3」、民主党系野党が「2」、維新が「1」という安定的な力関係、すなわち「3・2・1の法則」で推移してきた。この力関係の下では、3の自公に対して野党は2の民主党系野党と1の維新に分散しており、自公政権が漁夫の利を得てきた。競争的な政治の復権のためには、単純に考えて、「中道リベラル(民主党系野党)」と「改革(維新)」を結合させる「2+1=3」のアプローチが必要なのである。
重要なのは、「中道リベラル」と「改革」との政策群は相互補完的な関係にあるということである。少子高齢化を与件とすれば、公共インフラの整理統合や議員定数の見直し、官民の役割分担の再定義など、時代の変化にあわせた「改革」は避けて通れない。他方、これから日本の有権者のボリュームゾーンに躍り出る現役世代には、子育てや教育支援の拡充を望み、個人の成長のための社会投資型の福祉国家を支持する「新しいリベラル」も勃興しており、政府の主導権も強化されなければならない。
今、必要なのは「中道リベラル」と「改革」の二つの方向性を包摂統合し、一つの選択肢として有権者に示すことに他ならない。
「変わらないためには、変わらなければならない」。身を捩るような自己変革の必要性を前に、それに躊躇してこれまでの惰性に甘んじるか、それとも時代に即した変化に敢然と乗り出すか。左派は今、その分岐点に立たされている。
[1] 2025年参院選からこの間の政治分析では、中北浩爾「参院選で見えた日本政治の近く変動」『中央公論』2025年9月号、木下ちがやの「朝日新聞コメントプラス」の一連のコメント、および白川真澄「メモ:2025年7・20参院選の結果は何を語り出しているか」ピープルズプラン研究所、7月22日が秀逸である。
[2] 大井赤亥「1993年体制と『3・2・1の法則』」『中央公論』2022年10月号、同「『3・2・1の法則』と政党政治の再編成」『世界』2023年9月号など。
[3] 木下ちがや『“みんな”の政治学-変わらない政治を変えるには?』法律文化社、109頁。
[4] 朝日新聞取材班『「言った者勝ち」社会』朝日新書、2025年、115頁。
[5] 中北浩爾「退潮傾向でも…自公まだ強固」『東京新聞』2025年9月2日。
[6] 篠原一『連合時代の政治理論』現代の理論社、1977年、篠原一編『連合政治Ⅰ・Ⅱ』岩波書店、1984年など。
[7] 伊藤昌亮「オールドなもの」への敵意──左右対立の消失と新たな争点」『世界』2025年2月号。
[8] 橋本努・金澤悠介『新しいリベラル』ちくま新書、2025年。