〈書評〉大野光明・小杉亮子・松井隆志編『社会運動史研究6 闘う1980年代』新曜社、2025年7月

〈書評〉大野光明・小杉亮子・松井隆志編『社会運動史研究6 闘う1980年代』新曜社、2025年7月

横山道史(『市民の意見』編集委員)

 

本誌の特集である「1980年代」という「時代」は、私の小学校時代と重なる。幼少期は社会運動の空気を肌で感じるような機会に恵まれることはなかったし、ましてや80年代がどんな時代だったのかと問われても、それを語るほどの実感や体験に乏しいというのが率直なところだ。そうした80年代の実感や体験を大きく欠いた私の位置からすれば、「1980年代」が「脱政治化」された時代であり社会運動が退潮した時代でもあったというイメージともまた無縁である。

 むろん、本誌はこの表層的なイメージを覆そうとする試みである。それは、空白だとされる80年代の社会運動を掘り起こす作業をつうじてなされる。ここで具体的に取り上げられているのは、反天皇制運動、指紋押捺拒否闘争、レズビアン解放運動、女性のサークルづくり、反基地・反核運動、地域労働運動、消費者運動などである。80年代を意識的に同時代として生きた人にとっては、「あれがない、これがない」とその欠落をあげつらうこともあるかもしれないが(編者のひとりである松井隆志も「あとがき」でこの点に触れている)、この「空白」の時代を「闘う」時代として再構成する試みは端緒についたばかりである。

それゆえに、また、80年代を闘った当事者たちの肉声は、それぞれが認識する当時の情況と抱える問題の重層性と共同性を、とりわけ若い読者に鮮明に伝えるものとなっている。その中でも、80年代の運動空間を俯瞰して語る天野恵一のインタビューは、「80年代」というテーマ(社会運動の性格)を考えるうえで示唆に富んでいる。特に私が腑に落ちたのは、「80年代」の社会運動は、「60年代」を起点としながらも、そこで浮上した運動上の陥穽、すなわち、「革命」や「暴力」という問題と対峙する中から分岐していく流れとして位置づけうる、という天野の具体的な運動経験にもとづく証言である。すなわち、「革命的暴力」というイデオロギーに支配された運動の負性に、反省的に対象化する中から「80年代」は立ち上がってきたというのである。それは、体制全体の変革をいったんカッコに括るシングル・イシュー型の闘争でありながら、同時に、多様な運動との連帯をも探っていく、そのような「個別性」と「普遍性」とを追求していく「闘い」として展開してきたのである。

その「闘い」を日常のデモのレベルで具体的に語るのは、横須賀の反基地・反核運動の新倉裕史である。新倉のインタビューは、横須賀=「基地の町」という「地域」に深く根差した持続的な活動の実態を明らかにしている。その中には、いくつもの印象的なエピソードが散りばめられている。たとえば、米軍の巡航核ミサイル「トマホーク」の配備に対する草の根の署名運動にかんする出来事は、それが「地域とのつながりを断ち切らない」(むしろ、つながりを紡いでいく)運動の方法のひとつの可能性を示しているという点で興味深い。というのも、新倉たちの署名運動は、単に賛同人を増やしていくことだけを目的としているわけではなかったからだ。そうではなくて、「自分よりも右の人に声をかけ」ることで、まさに町ぐるみの運動へと変えていくことに成功した事例というべきものである。結果、賛同人の多くは保守市政を支える人たちで構成され、その草の根性ゆえに当時の横須賀市長の「核チェック」(横須賀に入港する艦船の非核の証明要請)の対応を引き出すことにもつながったのである。

ところで、先に触れた天野の「80年代」に関する明確な歴史的整理に対して、「左翼運動」を軸に「1980年代」という「時代」を問いなおした先行的試みがあるので、ここで参照しよう。『季刊ピープルズ・プラン』(vol.92、2021年)の特集「左翼運動はどこで転換したか」である。この特集は、二つのパートからなる。パートⅠは「〈1970年〉革命的暴力と新左翼」、パートⅡは「1980年代―左翼勢力の退潮と新しい運動の登場」である。すなわち、この特集では、「80年代」は社会運動が退潮した「時代」ではなく、あくまで左翼勢力が退潮した「時代」とされる。そして、同時に、「新しい運動の登場」の「時代」としても位置づけられている。

では「新しい運動の登場」として評価しうる「新しさ」とは何であるのか? パートⅡの巻頭言を担当した白川真澄(ちなみに、パートⅠの担当は天野である)は、それは、「新しい主体」によって特徴づけられるとし、なかでも女性が主体として登場してきたことにひとつの「新しさ」を見出している。「チェルノブイリ原発事故をきっかけとする都市部の反原発運動の高揚、『生活者』と自己規定した女性たちによる生協運動、男性中心の労働運動の殻を打ち破り男女雇用平等法を求めて立ち上がった女性の運動」などである。そして、こうした女性たちの運動もまた、「67年~70年のたたかいのなかで芽生えていた新しい要素(日常性の問い直し、自己決定・自治への志向)が開花」したという連続性の中で捉え返されている。

 このように「80年代」を社会運動史の観点から「闘う」時代として再定位しようとするとき、女性たちの運動は欠かすことのできない潮流である。この問題意識は、本誌にも通底している。二つの特集記事である「レズビアン解放運動」と「女性のサークルづくり」はその現れであり、編者たちも述べているように、どちらかといえば、これまでの運動史として十分に記録・記述されてこなかった部類に属する。先述した『季刊ピープルズ・プラン』(vol.92、2021年)が「生活者の運動」をはじめとする著名な女性たちの運動を扱っているのとは対照的である。それゆえに、これらの記事は、「80年代」運動史を文字通り「掘り起こす」という意味において重要な作業の一環となっている。

とはいえ、腑に落ちない点もある。というのも、これらの記事には「掘り起こす」という以上の意味合いが必ずしも明確ではないからである。巻頭の第3節「1980年代の運動を現在へと開く」は、本特集の内容に即しながら運動とそれをとりまく社会構造の変化について論じているが、これらの記事のみがテーマ(巻頭の第3節)と明確に関連づけられていない。これは単なる偶然だろうか? 

編者たちの「1980年代」社会運動への問いは始まったばかりである。「同時代性」のほぼ欠落した私にも、その輪郭がぼんやりとではあるが伝わってくる特集内容であった。そして、私はいま、この読書体験に触発されて、手元にある『季刊クライシス 臨時増刊号 エコロジー・フェミニズム・社会主義』(社会評論社、1985年)を読み始めている。「80年代」は雑誌の時代でもあったという天野の言葉を胸に(ちなみに、特集記事ではないが、【社会運動アーカイブス インタビュー】は、80年代の運動経験について多くを語っていることを最後に付け加えておく)。

お知らせカテゴリの最新記事