福岡愛子(戦後研)
著者の高原太一は1989年生まれ。内外の歴史が不可逆的な転換を遂げた後に生まれ育った世代である。中学2年生の時に社会科見学で砂川現地を訪れ、大学3年生の時のフィールドワークで砂川と「再会」して、「米軍立川基地拡張反対運動の再検討」と題する論文で博士号を取得するに至った。本書は、その博論を基にその後の調査研究によって追加した章も含めた561ページの大著である。
高原は、かつての砂川闘争経験者が熱い期待を寄せる研究者であり、自ら様々な現場に足を運ぶアクティヴィストでもある。
2008年以降アメリカ国立公文書館で、日米両政府が最高裁長官を介して秘密裏に「砂川事件」裁判に関与したことを示す文書が発見された。その結果として有罪となっていた砂川事件の元被告らは、「伊達判決を生かす会」を結成して裁判のやり直しや国賠訴訟を求め、今も闘い続けている。
その会が2024年に開催した「伊達判決65周年記念」集会に、講師として異例の若さで招かれたのが高原太一だった。丹念な資料調査に基づく報告を行った後、彼は「100周年集会」への展望にも言及した。確かに彼なら「砂川闘争」「伊達判決」それぞれの100周年を見届け論じ続けるに違いない――そんな思いに会場は沸いた。
彼の単著第一作となる本書は、以下の章立てから成る。
序章 砂川闘争研究への接近
第1章 正当・正統性ーー地元農家と「絶対反対」の論理
第2章 介入──「基地問題文化人懇談会」高橋磌一の「砂川問題」
第3章 包摂──「基地の教師」の砂川闘争
第4章 参加──地元中学生/傍らで観る者たちの砂川闘争史
第5章 表象──写真家たちの「砂川闘争」
第6章 共鳴──砂川からガザへ 収用/収容される/する者たち
終章 多面体の歴史像からポスト民衆史へ
補章 もうひとりの歴史家――警察資料が明かす砂川事件の実相
一見して、砂川闘争と関わりをもった主体ごとに特定の章が設けられており、幅広い層の人びとへの興味がそそられる。
序章によると、「本書では1955、56年の反対運動については砂川闘争と呼び、1957年の基地内測量をめぐって発生した刑事事件に限って砂川事件と記す」。「一般に砂川闘争と呼ばれ」ている「強力な反対運動を展開した人びとの歴史を、同時代の記録=表現をもとに、地域、支援者、連帯という三つの視点から歴史学的に書きなおすものである」。
また本書の目的は、「衝突中心史観」に「一石を投じる」ことだという。その第一章に「地元農家」をすえて砂川の前史から説き起こし、筆頭当事者たちの「絶対反対」の意味と論理を解明する。
著者のそのような選択は、既成の理論枠組みや方法論ありきで生じたものではない。彼が砂川通いの初期に出会った人びとに耳を傾け、その声に導かれた結果なのだ。彼/彼女らに共通していたのは、既存の「砂川闘争像への違和感」だったという。
「流血の砂川」の結果1956年10月に運動が「勝利」し支援者たちが去った後も、そこに住み続けた人びとには「長く厳しい闘い」があった。既存の〈砂川闘争の歴史〉が看過してきたそのような〈実相〉に迫るために、高原は、豊富に記録され保存・公開もされているという資料を縦横無尽に読み解いていく。
その記述のディテールこそ、一般読者から「研究書なのに面白い」「ページをめくる手が止まらなくなる」という感想が聞かれる所以であろう。
たとえば第一章では、「先祖伝来の土地を守る」だけでは終わらない地元民の言葉が、次々と蘇ってくるようだ。砂川町基地拡張反対同盟のリーダー達――行動隊長だった青木市五郎の衆議院内閣委員会での参考人発言や、副行動隊長・宮岡正雄の自著『砂川闘争の記録』からの引用――はもちろんのこと、「砂川の母と子らの文集」や「砂川町の婦人たち…の現地座談会」などから、当時の女性たちの声も聞こえてくる。
砂川の地は、1916年陸軍飛行場建設計画によって売り渡しを迫られ戦況に合わせて利用されたあげく、米軍機の標的となった。特に1945年8月敗戦間近の空襲では、命こそ助かったが家も農具も失って廃業状態となった人びとが多かった。
終戦後の辛苦を経て、なんとか農作業を再開し麦や桑が芽を出し始めた頃、「とつぜん何のまえぶれもなしに、米軍がブルドーザーで、飛行場に接した農地を麦も桑もいっしょくたに掻きとってしま」った。「自分のからだがけずりとられていくような思い」だったが、「鉄砲をかまえた兵隊がいるので、どうすることもでき」なかった。
この「終戦後無断接収」から十年後、1955年5月に「米軍基地拡張計画」が突然通告された時、130戸以上の地元民が反対運動に結束した。9月には早くもその町ぐるみ態勢が崩れるのだが、23戸が最後まで残って「絶対反対」「不服従」を貫いた。それは、ある地元女性にとって「どこまでも正義のたたかい」であり「人間としての気持ちから…最後まで守れる…守れなくても歴史の上に残る立派なたたかい」となった。青木も「歴史の“片すみ”に参加したような気がした」と語っている。
実は小作農出身だった青木市五郎は、桑苗作りの技能に秀でた人物で、桑苗問屋として鍛えた才覚で単身米軍基地に出向き「接収確認書」を取り付けたという。しかし本書で特筆されるのは、突出した個別性ではなく地元農家との共通体験でつながる彼の代表性である。青木の個人史をとおして、砂川は、明治以来の養蚕業の発展や世界経済とのつながりという歴史的・地理的背景のなかに位置づけられる。
そのような手法により、第2章以降の各章ごとに個々の人物が焦点化され、様々なつながりが展開される。地元農家とは対照的といえる高橋磌一は、三回は砂川を訪れて報告を書き、戦後教育がめざした「科学的な歴史」を「民衆の生活のぬくもりの中でとらえる感覚」を求めながら、歴史教育者として自らの矛盾を自覚し「たじろぐ」。そんな文化人との距離を感じつつ、砂川中学校の教師たちは「教育二法」の下でどのように反対運動と関わるか、反対派と条件派と警官の子供たちが同席するクラスにどう対応するか、悩みながらサークル運動や文集づくりを模索する。中学生たちの作文からは、十分に参加したといえるほどの思考と心情の深さがうかがわれ、状況の変化に応じた基地や戦争のリアリティが伝わってくる。
写真家たちの章では、地元農家との交流を深めながらスケッチし撮影し続けた新海覚雄を中心として、闘いではなく生活を、「衝突」よりは「待機の時間」を写した作品が注目される。「町ぐるみ」崩壊後には「家族ぐるみの闘争で家族も変化した」など、女性座談会での発言も挿入されている。視覚芸術を徹底的に見つめ、文字資料を多声的に聞き取った高原ならではの意味づけは、説得力がある。
続く第6章において本書の記述は、2023年のパレスチナ情勢という現実問題を契機として、「流血の砂川」への回帰と再評価に至る。救急車さえも空爆に遭ったガザの報道写真が、『流血の砂川』で負傷者救護班にさえ襲いかかった警察の暴力シーンにつながるのである。
このような着想も写真の解釈も、高原個人の記録=表現だといえる。彼は「研究書としては型破りとなるような個人的な経験」を持ち出すことに躊躇し、自らを「筆者」と称してきた。にもかかわらず、終章に向かうにつれ「私たち」という主語が何度か現れ、私はそれを何の抵抗もなく受け入れることができた。
私自身一人称で書いてきたこの文章も、書評としては型破りかもしれない。しかし一読者としての私の独特の感慨は、本書のどこかしらで「ここに、私がいる」と思えたことだった。地方の大学で1968-1972年を過ごした私は、「全共闘世代」の回想や「60年代」に関する歴史叙述の中に自分を見出すことなどほとんどなかった。そのこととの違いからも、高原が色川大吉を継承しつつめざした新しい「民衆史」というものの意義がわかるような気がする。
本書では、まさに第6章から補章までの終盤で、砂川闘争研究のモノグラフに収まりきらない細やかな歴史叙述によって、民衆にとってあの戦争とその戦後が何だったのか、それがいかにつながっていたか、深く考えさせられる。自分の個人史ともつながり、記憶や知識を喚起して、今の日本に生きることの意味をも問わざるを得なくなる。「歴史の“片すみ”に参加」したくなるのだ。
砂川の「衝突」現場で可視化されたのは、国家の軍事目的のために土地の強制収用を行う側が、国策に抵抗する民衆に対してふるった暴力だ。それを若い警官たちに強いた側にも、その暴力による負傷者の救護・治療に当たった医師の側にも、十数年前の戦争経験者がいた。元軍医だったかもしれない近隣病院の医師は、戦後砂川の「野戦病院」と化した現場で「人生観が変わった」ほどの衝撃を受けた。
また短歌を通してつながっていたハンセン病患者たちは、自らも「強制収容」という国策による暴力を受けた立場で、砂川のニュースに耳をそばだて「基地」や「闘争」を歌に詠んだ。「国策」や「国益」を掲げて行使される暴力のすさまじさと、それに抵抗する側の「連帯」の意味深さを感じずにはいられない。
しかしそのような二項対立的認識は、本書の読後感として最もふさわしくない。幾度もの激しい「衝突」にもかかわらず、「警棒の威力」に非武装で抵抗した反対派には一人の死者も出なかったが、「砂川闘争」唯一の死者として記録に残ったのは若い警官の自死だった。当時の報道によると「砂川問題を起点として、私の人生観が大きく変わった」と、彼の遺書には書かれていたという。「連帯」し得たかもしれない大切な人を、私たちは失ったのである。それは「闘争」の避けがたい一面だったのだろうか。
本書を閉じて、タイトルに並ぶ闘争…連帯…民衆の文字を見なおす。それらが多用された時代を知る者には面映いほど実直に問い直されたそれぞれの言葉は、改めて光を当てられ再認識された。新しい声による継承を願わずにはいられない。