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福島原発をめぐる現状と問題点について
私的な走り書き

2011年4月8日
武藤一羊

1 
 2011年4月半ば現在、福島原発の状態は危機的であると見える。破壊された原子炉の正確な状態も把握できていないようであり、冷却システムの復旧には手もつけられず、その条件つくりのための二段、三段手前の措置が取られているにすぎないようである。それに成功したとしても、冷却水の循環システムを回復し、一応の安定に到達する見通しは立っていない。最悪の事態は何か、それはすでに始まっているのか、住民としてそれに対処する方法はなにか、われわれの側の正確な評価と見通しが必要である。福島原発危機の正確な認識が出発点である。御用学者ではない科学者、専門家の合議をつうじてこちら側の見解を出し、広める緊急の必要がある。それがこの問題対処への社会的ベースをつくることになる。

2 
 政府は事態への対処能力を欠いているように見える。それを場つなぎの後追い的対策と気休め的言辞でごまかしつつ、全体としての責任放棄、住民の健康と安全を守る義務の放棄に逃げ込むことが危惧される。政府の態度については以下の点が特徴的である。(1)事故原発の現状についての責任ある総体的評価と認識を示さず、「予断を許さない」という無限定な予測に逃げ込んでいること;(2)政府の発表に「住民の健康と安全を守る」という言葉がなく、事態は「ただちに健康に影響はない」という無責任な表現で提示されていること(「自主退避」という無責任な方針はその表れ);(3)総体的評価の欠如と関連して、何より事態終結のシナリオ、現に政府がとっている事態収拾への方針を示さないこと;もしまだ方針がないなら、どのようなプロセスで、どのような責任主体がそれを作ろうとしているかを示すべきである(放射能漏れをとめるまで「少なくとも数カ月」というが、その根拠もどのような筋道でどのような状態を実現するかは何も語られない;保安院、東電、官房長官などが、それぞれ記者会見で小出しにデータを発表するが、政府として責任もった評価、方針は誰も示さない;首相や官房長官は「専門家」を引き合いに出すが、それが誰か、方針決定にどのように関与しているのかは明かされない);(4)現在の能力の範囲内でも、事態の展開の可能性を見据えたいくつかのシナリオを提示し、それぞれに対策を提示することをしていないこと;(5)事故炉の内部のデータ、放射性物質の放出と拡散の全体的な状況などについて、正確な情報をリアルタイムで公開することを拒否し、放射能の拡散について常時シミュレーションを行っているSPEEDIさえ公開せず、住民が自己判断に基づいて自衛する手段を奪っていること;(6)そのため、強制退避者、屋内退避+「自主退避」地域住民など将来の見通しも立てられず、遺棄された状態に置かれていること;(7)運転中の原発を停止させていない、とくに東海地震が起これば福島の二の舞になる恐れの強い浜岡原発を停止させていないこと(4月7日深夜の大余震は、女川、東通、六ヶ所がいかに危い状態に置かれていたかを改めて示した)。

 以上はそのまま、政府が最低限緊急になすべきこと、すなわち、被災者・住民が政府に突き付けるべき最低限の要求のいくつかを表している。

3 
 状況がさらに悪化すれば、否応なく退避地域は拡大されざるをえないし、被災は広範になっていく。すでに始まっているように、広範な地帯で農業、漁業、地域が存続を脅かされる。事態がさらに悪化し、それでも政府が、欺瞞的楽観主義と局地的・個別的対応という現在の姿勢をつづけるなら、状況全体は、責任放棄による統治不能状態に傾斜していき、それを乗り切るためには、住民の健康とか安全を強調したり、脱原発を言いたてたりする言論と行動を力で抑えつける衝動を生み出す可能性がある。すでにマスコミで脱原発をタブーとするPCが発動されていて、脱原発論者が民放が番組から降ろされる例が報告されている。

 最悪の政治的シナリオは、上からの統制による強権支配――核汚染問題の治安問題への転化――の導入であろう。すでに流言飛語排除という名目で、明白に違憲であるネット言論の検閲が進められようとしている。政府としての責任を回避したまま「依らしむべし、知らしむべからず」という姿勢で住民の参加を排除し、政権が住民の安全を顧みないですむ体制をつくる、そのような仕方で事態を「収拾」する――それが現政権の選択だと観察される。そのために天皇夫妻の被災地「巡行」が異様な規模で開始された。意図的に、敗戦後の昭和天皇の全国巡行をなぞったものであろう。戦後の天皇巡幸の成功によって戦争責任は棚上げにされ、一億一致して復興のためにがんばろう、という政治風土が生み出されたのである。今回の「がんばれ、ニッポン!」コールは新しい危機において、自己破壊的な挙国一致に日本人を追い込む呪文である。

 マスコミ、とくにテレビは、いまだに事態の矮小化、局地化、安心心理醸成につとめ、脱原発意見を排除しつつ、東電とそれを支えてきた構造全体を擁護し、その責任追及を許さない立場に固執している。この壁を破る力はまだ作られていない。世論誘導的な世論調査ではあるが、この危機的状況にあっても、脱原発はまだ圧倒的な顕在的世論になってはいない。統一地方選で、脱原発は主要な争点になりえなかった。住民=市民社会と政府・東電・親原発勢力の間に、はっきりした対峙の図柄が形成されていない。


 福島原発事故はすでに〈日本の事件〉ではなく、グローバルな規模での災害であることが明確にされる必要がある。これが100%人災であること、事故発生後の対応の失敗、地球環境へのとめどない汚染の拡大、これらが合わさって、地球社会への犯罪的性格の事件を構成しているという認識が必要だ。津波災害被害者への世界の連帯とは別に、福島原発事故と日本政府・東電の無責任対応は、すでに国際社会の厳しい批判にさらされている。日本が対処できなければ、被害は世界中に広がるからである。日本政府、日本社会、マスコミには現在の事態が、グローバルな非難の的であるという理解が欠如している。もしくは理解を拒んでいる。ヨーロッパでは「Fukushima」が危機感をもって捉えられ、脱原発の大波を呼び起こしている。さらに福島からの放射能拡散についてもリアルタイムのシミュレーションが行われ、日本政府の「ただちには無害」的な対応への厳しい批判が向けられている。このギャップは埋められなければならない。

 福島原発事故が100%人災であるということは、このような原発計画を推進してきた日本国家と企業、それを受け入れてきた日本社会が、全体として世界社会に対する加害者であることを意味している。この認識は日本社会にまだ共有されてはいない。


 何が必要か。日本列島住民が、状況の打開のための当事者能力を有する社会的力として現われることが必要であり、それを表現する仕組みを下から、被災者を中心に、つくりあげることが急務だと私は思う。

 そのような当事者力は、日本政府、東電、マスコミにたいする交渉主体として現われるし、同時に住民の下からの支え合いの力、全体的対策と復興の担い手でもあるだろう。今回の災害の複合的性格(地震―津波―原発)から、このような社会的交渉主体は、複数の多面的なプロセスをとって形成されると考えられる。20万人に近い被災者が避難所での生活を強いられているなかで、津波被災者の救援と復興はそれ自身前例をみない社会的タスクである。今回は、それに原発災害という異質の災害がかぶさった。原発周辺住民、被害を受けている農漁民、事業者、住民など直接の被災者、浜岡を始め原発周辺のコミュニティなど被災可能性に直面している住民などがむろん第一次的な当事者である。しかし原発災害については、放射能の汚染を被っている、また被る危険性のあるすべての住民が当事者である。そして更に福島事故による環境汚染その他の被害を受ける海外の人びとも当事者である。

 当面する問題の性質、緊急性に応じて複数の要求と声の結集が行われるだろうし、それはすでに始まっている。その中で、日本列島全体、太平洋、世界全体の住民に甚大な被害をもたらしつつある福島原発事故について、政府にまっとうな対応と責任ある姿勢を要求し、それを実現するために交渉する主体の出現を促すことは、火急の課題だと思う。すでにいくつかのイニシャチブが取られている。それらイニシャチブの間の協議をふくめて、社会的当事者として日本列島住民が姿を現せる仕組みをつくりあげることに力を注ぐ必要があると思う。政府と住民との交渉には、原発事故だけではなく、地震・津波被災全体についての当事者連合が組まれる必要がある。原発災害と地震・津波災害とは、相対的に区別されながらも不可分に結びついている。

 この結集は被災の集中する日本列島で集約的、かつ緊急に求められているが、事柄の性質からいってそれはグローバルな脱原発の動きの一部であり、世界の動きとの意識的なつながりをつくることが必要だ。危機感にうごかされた原発推進勢力は、国際的に動き始めているからだ。米軍のトモダチ作戦は、災害救助を通じて米軍指揮下の米日共同作戦システムのテストの意味が強かったが、米国の肩入れは、そればかりではなく、サルコジ訪日・アレバ社技術者派遣などとともに、グローバルな原発推進プログラムを守るための日本支援という性格をそなえている。この勢力にたいして、「フクシマ」を引き金とするインドやヨーロッパの反原発運動の高揚が向き合っている。国内の対峙の戦線をそこにつなげることが必要だ。

 政府、マスコミ、東電の後追い的対策、気休め的言論の無責任性とウソについてはますます多くの人が気付きつつある。政府の無責任に振り回される被災者、退避地域住民、農民、漁民は、怒りと抗議の声をあげている。状況は変わりつつある。私たちは、一方では、政府が政府として責任を果たすよう要求し、他方では連帯に基づく自衛手段(相互支持、正確な情報の共有、解析など)を整える必要があるだろう。

 今回の福島原発事故は、容易には癒されない日本社会の患部として世代をこえて引き継いでいくしかない性質のものである。対症療法ですまないことは自明だ。当面の危機に立ち向かう過程で、脱原発―それはシングル・イッシュウではない文明パターンの転換のことである――への列島社会の進路の切り替えができるかどうか。それがいま私たちが直面する問題の性格である。危機のこの局面のなかで、切り替えに成功すれば、トンネルの奥にかすかな光を見出すことができるだろう。いまは点のような光でもそれは出口の光であろう。
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