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この文章はつるたまさひでさんのブログ今日考えたことより転載しました。

【今月のお薦め/つるたまさひで】
絶望の国の幸福な若者たち


『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』 (光文社新書) でデビューした古市くんの本。
クールで生温かい記述(笑)。

若者にとって絶望的な日本、とはいうもののいますぐ沈んでしまうわけでもない日本の中でも充足して生きていっている若者の姿を描いているといっていいかもしれない。

いろいろ批判もされているけれども、彼が記述するようなことはけっこう一般的にあるだろうと思う。社会運動の視点としては、じゃあそういう若者にどうアプローチするのがいいのかという読み方もありえるだろう。

こうあって欲しいと思える社会の実現に向けて、彼が記述するような若者ととどんな切り口で話ができるだろうと思う。

彼らの生き方の根っこにあるものが何かありそうだとも思う。何が彼女や彼を動かしているのか、彼が記述するよりも、もう一つ深いところに何かありそうな気もする。


とりあえず、気になったところを追いかけてみよう。

この本は若者のことを考えるための、「叩き台」・・・15p


この姿勢はいい。(上から目線だけど)


61pには車の販売台数のことが記述されていて、それが人口構成の問題だと指摘しているが、この本の後の方では、車へのこだわりがなくなっている若い世代にも言及している。このあたりの議論の進め方はちょっといただけない。

第一章のタイトルは
 <「若者」の誕生と終焉>
この章では主要に日本での歴史的な若者論の(代わり映えしない)変遷について書かれている。そして、以下のように総括する。

本章で述べてきたのは若者論や「若者」語りにパターンがあるということであって、若者が変化していないということではない。「現象」をむやみやたらに、価値判断に結びつけてしまうのが問題なっだけである。変化と、劣化は違う。 64p



100pの小見出しは「不満はないけど、不安はある」というもの。いくつかの意識調査による国際比較でそういう意識を裏付けている。

そして、そこ以降でそれを分析する。ここで大澤真幸を引用して、「将来より幸せになれるだろう」と考えられなければ、「今は不幸だ」とか「生活に満足していない」と答えられないという話を引用する。つまり、これから先の希望があるときは現状を否定しても全否定にはならないが、それがないときは全否定につながってしまうので、現状に満足していると答えるしかないという。確かにそういうこともありそうだと思う。つまり、現在の若者の不満の不在は状況が絶望的だということに裏付けられているということだ。そしてそれをタルコット・パーソンズの「コンサマトリー」という概念を援用して補強する。104p

次に、若者が幸せな理由の補助線として「仲間」を提示する。要するに仲間がいて充足しているという話だ。107p?

同時にその若者たちは「何かしたい」「このままじゃいない」とも考えているという。112p

その気持ちにフィットする分かりやすい「出口」を準備すればいいらしい。しかし、それは長くは続かないとも指摘する。113p

彼は昨年のワールドカップも観察して、香山リカの「プチナショナリズム」論も批判する。

だが、日の丸を振りかざし、大声で「ニッポン」を応援する若者たちの姿を、「ナショナリズム」という用語で分析することにはあまり意味はないだろう。なぜららば、それは組織化されず群衆の状態にとどまり続けるという点において、さしたる危険性もないからだ。241 
三浦展も指摘するように、若者たちの「日本志向」や「愛国志向」は、政治的ナショナリズムとは分けて考えるべきだ。242
150p

注241
「希望難民ご一行様」でも指摘したが、彼らを動員するファシリテーターが狡猾だった場合の危険性は残る。ただしそれは「国家」以外にコミットできる共同体が爆発的に増えた現在において、ナショナリズムによる動員を心配しすぎることはないように思う。むしろナショナリズムはおそらく二次的な問題に過ぎず、まずは承認の供給不足こそ真剣に対応されるべきだろう。

注242
「愛国消費 欲しいのは日本文化と日本への誇り」徳間書店2010年



上記の現象はナショナリズムではなく「日本ブーム」に近いという古市くんの指摘と慎太郎や橋下への支持をどう重ね合わせることができるだろう。

慎太郎・橋下支持と若者の関係などを誰かに分析して欲しいと思う。

慎太郎と橋下の支持に関しては、その名前しか知らなかったということはあると思うが、府知事選挙についてはどうだろう。自民・民主の相乗り候補が大阪維新の会のそんなに有名とも思えない府議に負けたことの説明にはならないと思う。

選挙への無関心と、彼ら(維新の会)の主張が通り首長に選ばれていくことの連関とか、東日本震災にボランティアとしてかかわることで見えてくる政治の問題、それらに関するパースペクティブみたいなものが欲しいと思う。どんな問題であれ、ちゃんと関わり出すと政治とは無縁ではいられないはずなのではないだろうか。それとも、そこまではいかないからブームで終わるということなのか。

で、古い左翼には、あんまり評判がよくない古市君だけど、田母神の「頑張れ日本」については注250で以下のようにコメントしている。

「頑張れとか言うなら、日本じゃなくてお前が頑張れ」なんてことは可哀想なので言わないであげて欲しい。老人政党「たちあがれ日本」もそうだが、自分では頑張る能力も立ち上がる元気もないんだから。


176pではアースデイを例に、これくらい敷居を低くしてエンターメント性を高めないと社会運動(アースデイをそう呼んでいいかどうかわからないが)に多くの人を動員するのは難しい。人を集めるためにはアースデイくらいカジュアルじゃないとダメだ、と書かれている。

確かに現状でそういう側面はある。ま、9月に行われた反原発集会には6万人集まったが。人数の多寡は行動のインパクトに影響するのは間違いない。社会運動の集会になるべくたくさんの人を集めたいと思うし、そのためにできる工夫はもっと考えられなければならないと思うけれども、それだけが指標じゃないだろうとも思う。jン


176pでは「いつの時代も、知識人と民衆には大きなギャップがある」から始まる「モラル・エコノミー」を説明する節がある。スコットのモラル・エコノミーとは違うような気がする(調べてないけど)。その説の中身はともかく、この「知識人と民衆の大きなギャップ」というあたりに古市君への大きな違和感の根っこがあるのかなぁと感じた。

さっきも書いたようにどうして慎太郎や橋下が人気があるのか、と思うのだが、そのギャップを使って操作するのではなく、ギャップを埋める方向で考えることができないのかなぁと彼の書いてるものを読むと感じるのだった。古市くん、「そんなもの操作できるんだから、操作しちゃえばいいじゃん」といってるように読めるんだなぁ。印象評価だけど。

彼が181pで書いてるように、運動はちゃんと「親密圏」と「公共圏」をつなげなくちゃいけない、そういうことがうまい運動が人を集めているということもありそうな話だと思う。だけど、彼がこの後に書いてるようにI-phoneの話で人が動かされるとは思えない部分もある。問題はそれがどんな文脈で語られるか、誰から語られ、何をターゲットにするかということだろう。

186pには運動が居場所になれば、目標は冷却すると彼のピースボート体験をここでも繰り返すのだけれども、居場所ができたとしても、目標をより深いものにしていく可能性もあると思う。居場所ができることと、もともとの運動の目的の関係性に関して、ピースボートを例に目標が冷却されがちだという話を指摘するのは大切なことだと思うが、その関係をそううなふうに終わらせないように、居場所を維持しつつ目標を深めていくために何が必要なのか、ということを考えたいと思う。

スピリッチュアリティと運動の微妙で危険な関係もそのあたりで考えることができるかもしれない。

190-191pでデモについて、古市くんは、効果は皆無に近いけど、本人たちが幸せなんだからいいじゃないかと揶揄する。そして、社会を変えるためにはもっと建設的な方法があると。

このあたりが活動家をかなり怒らせる部分だろうなと思う。ぼくもやっぱり気分はよくない。デモだけをとりだして、それに効果があるかどうかなんていう風に議論すること自体がばからしくもある。古市くんが考えている「建設的な手段」、この本を読んで想像はできるのだけど、そういうこととデモは別に存在するわけじゃない。古市くんが書いてるように、確かにいまの日本の社会運動が行うデモの力はとるに足らないようにも見えるし、現実にそういわれたら否定できない側面もあるだろう。でも、社会運動がいまの段階で目に見える効果がないからという理由で街頭に出ることをやめたらだめだと思う。

そして、古市くんはデモより楽しいことはあるって、この章(4章)の最後に書くんだけど、これは誰に向けて書いてるのだろう。古市くんのまわりにはデモが一番楽しいと信仰してるような人がいるのかな。それとも古市くんが作り出した虚像?楽しいデモはあるし、デモより楽しいこともある。そんなこと決めないでくれと思う。

203-209pにかけては、3・11以降の反原発デモについて記述している。209pでは《「原発やめろデモ」がどのようなインパクトを持ったのかは不明だ》と書き、注330をつけて、マスコミに報道されたから、政策決定や人々の意識になんらかの影響を与えたかも、とも書く。

彼の社会運動・デモ批判に気をとられて、この本が若者論・若者語りだったことを忘れていた。書いているほうもこのあたりでは忘れてるように読めなくもない。

234p以降では「希望」と「復興」について書かれている。これから<長期になるだろう困難期を、「希望」なんていう言葉で誤魔化すべきではないと思う>と指摘する。ここはそうかもしれない。

しかし、この5章の結語では<希望論者自身が、責任を持ってこの国に「希望」を作り出していくというのならば、生温かく見守ってあげるほかない> 何度も出てくるこの「生温かく見守る」という表現だが、なんだかすごくいやだなと思う。人を見下して、馬鹿にするニュアンスがぎっちりつまっている。古市くんのなかにあるこんな表現を使いたくなる「ねじれ」こそを古市くんは研究対象にすべきなんじゃないかとさえ思ってしまう。

「希望」の問題については、ぼくも少しは考えてきた。
http://tu-ta.at.webry.info/200607/article_32.html
ここで、こんな風に書いている。

部分引用

いまのこの状況というのはどのような状況か

花崎皋平(「どこへ行く」自由学校「遊」ブックレット8 2003年5月コモンズ)は以下のように書く。
==
2001年秋からの報道は、爆撃、自爆攻撃、飢餓、流浪、死でいろどられています。世界に希望の光は見えません。気休めに過ぎない希望など語らず、現実をごまかさないで見つめるべきだと思っています。・・・・
==

それに対して、ぼくはPP研のMLで以下のように書いた。

==
確かに、現実をごまかさずに見るべきだろう。しかし、気休めに過ぎないかもしれない希望も語りたいのだと。
「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンがある。現状ではかなり「気休めにしか過ぎない」部分もあると思うのだ。その実現の根拠などぼくに語ることはできない。しかし、ずーっと遠くのほうにある今にも消えそうな希望の光を心にとどめて、もしかしたらそれは気休めにしかならなくても、その希望を語りつづけたいと思うのだ。

(中略)

(花崎さんが「どこへ行く」で紹介している)そういう一つひとつがぼくの消えそうな希望をつなぎとめてくれる。そう、ぼくが語ると「気休めに過ぎない」希望も花崎さんのちょっと地味な筆で書かれると、ぼくの気休めに過ぎないものから、一歩だけかもしれないけれども、外に出ることができるようだ。花崎さんが冒頭で書いているように確かに状況は絶望的だけれども、それでもこのパンフレットには小さな希望がつまっている。それは「気休めに過ぎないもの」から少しだけかもしれないけれども実現に向けて踏み出しはじめているようなのだ。花崎さんがここで紹介しているいくつかの取り組みはほんとうに小さい小さいものだし、ぼくが関わっているいくつかの取り組みは、もしかしたら気休めに過ぎないかもしれないと思えるようなものだ。そして、「そんな小さな取り組みをいくら紡ぎ合わせても世の中なんて変わらない」という声はいつも聞こえている。確かにそうかもしれない。だけど、ぼくに出来ること、ぼくがしたいことは、そんな小さなことの数々。もしかして、運よくそれを紡ぎ合わせることが出来れば、それは素敵だと思うし、いつかそうならないかなと、それこそ気休めの夢を見るけれども、そういう夢でもないと、日々をすごしていけないでしょ。



ときどき書いてるんだが、「社会変革など、どうせできっこない」とあきらめて生きるよりも「その可能性は薄いかもしれないけれども、いつかそれは実現するかもしれない。もしかしたら、それはぼくが死んだ後かもしれないけど」と思って生きる方が、ぼくにとって、気分がいい、そっちのほうが好きだということだ。メインストリームが変わるという根拠は限りなく薄いかもしれない。でも、流れを少しは変えることができるはずだ。そして、いつかはメインストリームも変わるかもしれないと思って生きること。それはぼくにとって、信仰のようなものでもある。


243-246pでは若者の貧困にリアリティががないのは「わかりやすい貧困者」がなかなかいないからで、「僕たちの社会は、一見あまりにも豊かだ。若者たちは、一見あまりにも幸せなのだ」、しかし、その豊かさは持続しないと指摘する。いまは若くて元気だが、病気をしたらどうなるか、守ってくれる親がいなくなったらどうなるかという話だ。

未来への不安は尽きない。

246pの小見出しは「貧困は未来の問題、承認は現在の問題」とある。

その小見出しのもとにある247pでは昔の貧困といまの貧困が異なるのは、いまの貧困はそこから抜け出す機会が、昔と比べたらあまりにも少ないからだと説明される。

そして、承認の問題だが、ツイッターやSNSではお手軽な承認は得られるが、それは「社会を変える」ツールにはなりえないという。それらが提供する「共同性」に「社会を変える」という目的性は回収されてしまうだろう(251p)というのが古市くんの予測だ。ツイッターなどが社会運動のツールになることは間違いないと思う。しかし、それは社会を変えることにつながるかどうかという問題だろうか。それが万能だと主張するつもりはないが、限定された領域ではツイッターやフェイスブックなどが効果を発揮することはあるはずだし、それが社会を変えることにつながらないとは思えない。

そして、社会運動は社会を変える要素にはなりえていると思う。レベッカ・ソルニットが「暗闇のなかの希望」でいうように、それがなければ、もっとひどくなることを防いでいる側面はあるはず。


次に興味深いのは255pの中国の「農民工」と「蟻族」(高学歴ワーキングプア)の対比。8割の農民工が満足しており、蟻族のそれは1%だと。そこから、現代の日本の若者は「農民工」化しているという。

そして、以下のように書く。

・・・。そういった「ナンバーワン」を目指すレースから早々と降りてしまうのは、省エネで幸せになる方法でもある。
いくら親切な大人たちが「若者の貧困」を社会問題化したり。「若者はかわいそう」と叫んだところで、若者たちはリアリティを感じられない。それは・・・「近代」という時代が、臨界点に達したことの象徴なのかも知れない。257ー258p



しかし、みんなが《「ナンバーワン」を目指すレースから早々と降りて》しまえば、メインストリームの流れも変わる可能性はあるのではないか。それを社会変革とつなげる可能性を考えたい。

265-266pでは日本の財政破綻の可能性について触れ、IMF管理下に入ったらというようなことが書かれている。「そのような事態になっても日本国民が死に絶えてしまうわけではない」という。そこまではほんとうにそうだと思うが、それが守るべきものをもたない「若者」にとって。チャンスだといわれてしまうと、それはちょっと違うだろう。若くて強い人間にはそうかもしれないが、弱い立場に置かれている若者はもっときついところに追い込まれるだけだろう。ここは若者強者としての古市くんのスタンスが明確になってしまっているように思える。


とはいうものの、267pの「日本が終わってしまってもいい」と言い切るスタンスは好きだ。こんな風に書かれている。

「日本」なくなっても、かつて「日本」だった国に生きる人々が幸せなのだとしたら、何が問題なのだろう。国家の存続よりも、国家の歴史よりも、国家の名誉よりも、大切なのは一人一人がいかに生きられるか、ということのはずである。267-268p


同時に注446で《社会体制の移行期には大きな犠牲が生まれることが予想されるから、安易な革命や「日本」の終わりを望むべきではない》と書いてもいるけど。

巻末に佐藤健さんという俳優との対談がある。著者が彼に関心を寄せたのは、「龍馬伝」放送時のインタビュー。そこで佐藤さんは、生まれ変われても幕末より現代がいい。「一泊二日で友達と千葉でバーベキューに行く幸せ」をかみしめられるから、と答えていたという。

ぼくがこのインタビューで大事だと思ったのが、古市さんが「幸せだと思えるのはある程度経済的な豊かさがあるからであって。それがないと・・・」281p と言ってる部分で、この「ある程度」っていうのが人によってぜんぜん違うから微妙なんだけど、そこで彼が7割が満足してるというのに対して、佐藤さんがこんな風に答えている。

今の若者は「満足してる」って答えちゃうと思うんですよ。でも満足してるって言ってる中で、ああだこうだと不満を毎日言ってると思うんです。282p

古市さんはこの部分こそを、この本の中でもっと深めるべきだったんじゃないかと思う。

また、この対談の中で古市さんはミスチルのHEROという歌をひきあいにだして、「小さな世界を守ること」が大事だといっている。ぼくはこの歌を知らなかったから、ネットでまず歌詞を探して、
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=Aa00106
それから聞いてみた。
http://www.youtube.com/watch?v=sfCpNKA4HQo

最近の桜井くんを見ていると、必ずしも「大きな世界」を見過ごしているようにも見えない。「大きな世界」を変えることを否定してるわけじゃないと思う。大きな世界と小さな世界の、その「つなぎ目」の部分こそが大事なんじゃないかと思う。この歌もそんな風にも聴くことはできるんじゃないか、とも思う。ちょっと無理やりな感じもあるけど。

また、この対談でもサッカーと戦争とナショナリズムの話がでてくる。古市さんはそれはつながらないとここでも言ってるようにも思う。そして佐藤さんがデンマークでもいいのに日本を応援しちゃうのはイリュージョンだけど、それでも応援しちゃうというのを受けて、「サッカーを応援しちゃうくらいには、イリュージョンはある程度はまだ生きてる、ってことなのかも・・・」と応えている。

それから、面白かったのが、古市さんが社会保障の問題を説明して、若い人にはやばいことになってるというのに対して、佐藤さんが「でも、人って失敗しないと変われないじゃないですか、絶対。だからたぶん「やばいってみんなが自覚するまで変わらないですね」293p という部分。いつになったら、どうしたらたくさんの人が「やばい」って気づくのかなぁ。

で、対談の最後のところで古市さんは再び「大きな世界」と「小さな世界」の話に持っていって、「小さな世界」を大切にできる佐藤さんのような人が大切だっていうのに対して、佐藤さんが「日本をよろしくお願いします(笑)」って応えるのが笑えたんだけど、さっきも書いたように、その「小さな世界」の幸せを大切にしながら、「大きな世界」にアプローチしていくことがすごく大事なんじゃないかと思う。

そして、あとがきで古市さんは想像力について書いている。結局、彼もがやりたかったことも、その「大きな世界」と「小さな世界」のつなぎめを探すことだったんじゃないかと思えなくもない。


この想像力の話で思い出したのは小倉利丸さんが最近書いていたブログ。
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=152
同じ想像力っていう言葉でもなかなか違う話だなぁ。
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