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敗戦70年を越えて:安倍極右政権を倒すとは何を意味するか、その先に何が開けるのか――国家の正統化原理の角度からの考察(5)


武藤一羊
(PP研運営委員)
2015年8月1日記


象徴天皇制国家


 戦後日本国家による帝国継承原理の保持のもっとも有効な装置は象徴天皇制であった。「国体護持」=天皇制の存続がなるかどうかが、一九四五年八月、日本支配集団がポツダム宣言を受け入れるかどうかの唯一最大の基準だったことを考えれば、マッカーサー率いる占領当局が、アメリカが天皇制を廃止しなかったばかりか、裕仁本人が戦犯としての訴追を免れるようあらゆる手を尽くし、その結果、彼が天皇の座に座り続けたことは、国体護持の悲願の成就そのものであった。こうして国家制度としての大日本帝国の継承性は確保された。そればかりでなく、「万世一系」の天皇家をいただく日本国というものの神代からの継承性も、国家丸抱えの天皇家の儀式を通じて確保された。これらすべては、しかし、米国の国益とアメリカ占領軍の旧敵国統治の便宜のためにおこなわれたアメリカの選択の結果であったから、この天皇制はまるごとアメリカ製の天皇制であった。天皇裕仁本人は、進んでアメリカに取り入り、とくに冷戦の激化のなかで共産主義の進出をくいとめるため米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望むというメッセージをマッカーサーに送るところまで行った。天皇はまぎれもなくアメリカの覇権原理を戦後国家に作り付けにする装置の一つであった。他方裕仁は、「人間宣言」を発して神格を否定し、新憲法によって国と国民の象徴の地位を保証された。その新憲法は、旧憲法の改正として、旧憲法の手続きによって、すなわち裕仁の名において公布された。

 こうして戦後天皇制はみごとに戦後国家の三原理――それは相互に矛盾する三原理であった――を一身に体現することとなった。かかるものとしてそれは、戦後国家の真の象徴となった。逆に言えば、戦後日本は象徴天皇制国家となった。

 これが逆に戦後国家の性格そのものを規定した。戦後天皇制が戦前帝国の明示的継承の象徴であったなら、ことは簡単であったろう。それなら天皇制は、米国原理への右からの抵抗のよりどころとなっていたであろうし、三島由紀夫は自死の必要を感じなかったであろう。(もっともそのような天皇制を占領軍は認めなかったであろうが)。戦後天皇制というこの三元的自己矛盾の塊である得体の知れぬ国家統合装置は、しかしその自己矛盾のゆえに、メタ次元において帝国継承原理継承の決定的な保証となった。なぜならそれは軍と戦争の最高指導者であった裕仁天皇の戦争犯罪免責によって、彼の命令下で、また彼の名において行われた侵略、植民地化、戦争、戦争犯罪の全面的追求を不可能にしたからである。軍と戦争の最高指導者裕仁が免責され、以前と同じ天皇の座についているとき、どうしてその部下たちの罪を問い、処罰することができるだろうか。

 Xデーと称された裕仁の死(一九八九年)の前後には裕仁を「終戦のご聖断」によって平和をもたらした「平和の人」とする政府、マスコミ挙げての大キャンペーンがくりひろげられ、それにしたがって昭和天皇の免責は確定されていく。それにしたがって、戦後日本全体が自己を免責する。天皇明仁は、即位にあたって、父裕仁についてこう述べた。

顧みれば,大行天皇(昭和天皇)には,御在位六〇有余年,ひたすら世界の平和と国の幸福を祈念され,激動の時代にあって,常に国民とともに幾多の苦難を乗り越えられ,今日,我が国は国民生活の安定と繁栄を実現し,平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました。ここに,皇位を継承するに当たり,大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし,いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ,皆さんとともに日本国憲法を守り,これに従って責務を果たすことを誓い,国運の一層の進展と世界の平和,人類福祉の増進を切に希望してやみません。

 この発言は、しばしば「皆さんとともに日本国憲法を守り」の部分ばかりが引用されるが、全体としては昭和天皇を平和の人として讃える歴史の歪曲の辞である。これによって、血生臭い昭和は蓋をされ、それと共に千万単位の人命を奪い、広大な国土を破壊した責任は覆い隠された。こうして明仁は父裕仁の戦争責任とその責任の隠蔽責任を相続したのである。

 一九九五年以降全面的に開始される帝国継承原理派の国家権力への進軍はこのように整えられた戦後国家の地形の上に展開されている。だがそれは戦後国家の明示的な解体過程であり、戦後天皇制は戦後国家の三原理の絶対矛盾的な均衡の上に成立しているので、国家が帝国継承原理に一元化されることは、天皇家と天皇制にとって危機的な事態である。天皇制は極右の私的シンボルとなってしまっては存続できないからである。安倍政権は、二〇一二年、四月二八日を「主権回復の日」と設定し、天皇夫妻を出席させ、それを改憲キャンペーンの出発点にしようと目論み、その集会の最後を、式次第にない「自発的」な「天皇陛下バンザイ!」の三唱で締めくくった。安倍も唱和した。天皇夫妻は明らかに不快感を表し、それに背を向けて会場を立ち去った。それ以来、天皇夫妻は、自身を憲法原理によって基礎づけることで安倍政権からの自己防衛を図り、頻繁な戦跡への慰霊の旅をおこなって、帝国の過去の賛美からの差異化を試みている。しかし昭和天皇を「平和の人」とする前提を覆さぬかぎり、明仁天皇制は安倍集団の掌から降りることはできないであろう。

 だが安倍政権にいたる帝国継承原理の展開についてはもう一度立ち返ることにして、この辺で肝心の憲法平和主義原理について検討しよう。


憲法平和主義原理はどのように形成されたか


 戦後日本国家は日本国憲法によって構成されたことになっている国家であった。だが現実には、これまで見たように、憲法原理はそれとは異質なアメリカ覇権原理および帝国継承原理と並んで存在し、原理として自己を貫徹することはなかったし、できなかった。戦後日本国家においては、三つの相互に矛盾する正統化原理はどれも排他的に自己を貫徹できず、そのため原理としての本来の資格を大きく失っていった。その結果、戦後日本国家は明確な正統化原理を持たぬ国家、逆説的に言えば、オポチュニズムを原理とする国家となった。

 国家レベルでは、国家非武装=憲法平和主義の原理的性格は、一九五九年いわゆる砂川事件裁判での東京地裁伊達秋雄裁判長による安保条約違憲判決によって一旦は明確に宣言された。だがそれに驚いた政府は、最高裁長官田中耕太郎と駐日大使ダグラス・マッカーサー二世との密談を経て、最高裁への跳躍上告を行い、最高裁は、日米安保条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかの法的判断を下すことはできない(統治行為論)として原判決を破棄し、憲法判断を回避した。憲法平和主義が国家の正統化原理の資格を外された瞬間である

 原理の資格を外したことで、行政権力は、その後数十年にわたって段階的に「解釈改憲」を行い、それによって自衛隊を合憲とし、自衛隊の増強、日米軍事一体化などを系統的に推進することが可能になった。とはいえ、憲法九条は存在し、その規制力は働いていたので、「歯止め」と言われる自己規制が設けられて戦後期の長期にわたってブレーキの役割をはたしていたことも事実である。専守防衛とか基盤的防衛力とかいう独特のコンセプトも憲法九条との関連で作られた戦後日本独特のものであった。

 このなかで、憲法平和主義を原理として掲げ、実践の指針とし、それを通じて逆に国家の方を縛っていったのは、民衆の抵抗と社会運動であった。戦後期の大半、一九五五年から一九八〇年代半ばまでは、日本の政治は保守・革新という二大陣営の対抗によって特徴づけられていたが、この革新陣営は、憲法平和主義と民主主義をかかげて、自民党を中心とする保守陣営の「戦争と反動」の政策に対峙するというものであった。多数派は社会の中でも議会内でも自民党=保守派であったが、革新は最大労組であった総評と組織は強固でないが大衆的人気のある社会党のブロックという社会に根をもつ実体を備えていた。この総評・社会党ブロックに共産党と知識人を加えた社会勢力を社会理論家清水晋三は〈戦後革新勢力〉と名付けた。この勢力はむろん一枚岩ではなく、とくに社会党・総評と日本共産党の間には根深い不信と対立があったけれど、この陣営は全体として、親社会主義圏で、マルクス主義にも開かれていた。学生運動はこの勢力の行動的、思想的最左派の位置を占めていた。

 平和・民主主義原理が米国の覇権原理と「復古反動」への動きにたいして原理として獲得されていくプロセスは、占領下の再軍備への抵抗、朝鮮戦争への反戦運動、全面講和キャンペーンなどを前史として、講和後の米軍基地反対闘争、一九五四年のビキニ水爆実験での日本漁民の被災を引き金に草の根から起こった原水爆禁止運動、そして何より岸信介政権による新安保条約に反対する広範で激しい安保闘争など、民衆の運動そのもののなかにあった。平和・民主主義を原理として権威をもって定着させたのが巨大な政治闘争としてたたかわれた六〇年安保闘争だった。その後、自民党政府は、この原理への正面からの敵対を避ける方針をとった。岸政権崩壊の後を受けた池田政権は「所得倍増」計画で人々の関心を政治から引き離し、経済成長=消費生活向上に振り向ける戦略をとり、ある程度それに成功した。

 この間、運動の主要な担い手は〈戦後革新勢力〉であった。自民党政権への対抗勢力として、この勢力が憲法の原理的部分――九条非武装平和主義はその核心――を本来国家が従うべき原理として国家に対して突き付けるという関係が生じ、常態化した。国家はこの要求を全面的に受け入れるわけにはいかないが、頭から退けることもできない。そこで非核三原則、武器輸出三原則のような、抜け穴はあるが、米国に対しても、日本自身にたいしても一定の歯止めとして作用する「原則」が採択され、そのことがまた社会における平和主義原理としての定着を促した。寄港を求める外国軍艦船に核兵器を搭載していないことを証明する「非核証明書」の提出を義務付けることで、事実上の核兵器搭載艦の入港を禁止している神戸市の場合は、原則が原則として適用された先進例である。「原水爆禁止は日本国民の悲願」という言い方の決まり文句としての定着も、広島と長崎の被爆から直接に出てきたものではなく、一九五四年のビキニ事件を引き金に起こった原水爆禁止運動とそのなかでの被爆者たちのカミングアウトをつうじて起こったことであった。

 戦後革新勢力はこうした運動の主体を<国民>と言い表わした。運動主流の総評・社会党ブロックは、原水禁運動など労働運動ではない広範な運動を〈国民運動〉と呼び、組織内に「国民運動部」を設けて他運動との連携をはかった。毎年春に行われる春闘は、一九七七年以後、労働者以外の偕層の利益を擁護するという意味をこめて国民春闘と呼ばれるようになった。戦後初期には<人民>を用いていた共産党も、いつの頃か〈国民〉を用いるようになり、二〇〇四年制定の綱領では〈国民主権の民主主義〉をめざすとしている。ここでは〈国民〉が誰を指すのか、日本国籍者だけをさすのかどうかは、明確でない。ともあれ〈戦後革新勢力〉は、国民の名による運動主体という性格で形成された。

 〈戦後革新勢力〉は日本本土の運動であったが、それとは位相を異にしつつ、米軍政下におかれた沖縄では、米軍による土地取り上げへの「ぬちどうたから」思想による体をはった非暴力抵抗が米軍政にたいしてたたかわていた。その上に、ピープルとしての自己決定権の行使として「平和憲法の下の日本」を選択する祖国復帰運動が強力に展開される。本土の革新勢力はこの運動を支援したが、その底に横たわる沖縄理解は皮相で手前勝手なものであった。

 沖縄の運動は、根底に、一個の尊厳あるピープルとして自己の帰属を自ら決定することを求める脱植民地化の運動という次元をもっていた。当時の運動はさしあたり米帝国の軍事支配に向けられていたが、その米国支配の一枚下の地盤には、沖縄処分以来の日本帝国の国内植民地としての沖縄支配の地層が横たわっていた。大戦末期、日本は米軍の本土上陸を引き延ばすため沖縄を捨石として利用したため、沖縄は日本国領土上での唯一の地上戦の場となり、住民の四分の一が殺される結果をまねいた。裕仁天皇は、一九四五年二月、近衛文麿が降伏を勧めたとき、 沖縄で一度打撃を与えることで、有利な条件で戦争を終結したいとして同意しなかった。それが凄惨な地上戦を結果したのである。さらに、日本は、講和条約締結時に、アメリカに沖縄にたいする日本国の残存主権を認めさせたが、これは将来の植民地支配権を確実にするための抵当権設定のような意味を持っていた。将来の帰属についての沖縄の自己決定権行使をあらかじめ封じたのである。大きい状況の節目において、日本国は沖縄を取引の質草として使いまわしてきたのである。

 当時の日本の運動は、この関係、帝国から戦後日本国を貫通する植民地支配者としての日本国=やまとの沖縄への立ち位置に気づくことはなかった。沖縄はアメリカに不当に奪われ、侵略的な軍事基地に変えられた日本領土の一部、したがって奪い返すべき領土であった。沖縄について毎年行われたキャンペーンは、与論島から船を仕立てて米軍政下の沖縄との境界である北緯二七度線にぎりぎりまで近づき、国頭村から船で乗り出した沖縄側代表と海上で交流し、共闘を誓うというものであった。このとき歌われたのは「沖縄をかえせ!」という闘争歌だった。作詞は全司法労組福岡支部。歌詞はこうである。

かたき土を破りて 民族の怒りにもゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもって 守りそだてた沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ 沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ

 これはヤマトから沖縄への呼びかけだ。ここにある「民族」とはどう見ても沖縄民族ではなく、日本=ヤマト民族を指すのであろう。むろん最も激しい怒りに燃えているのは沖縄の人びとであろうけれど、たしかにヤマトの方も怒っている。だがここでは沖縄はヤマトの一部とみなされ、ヤマト民族として怒りにもえているという筋になる。いずれにせよこの歌の主語「我ら」は民族=日本であるが、それは沖縄を含む我らである。では、それに続く「我らと我らの祖先」が「血と汗をもって 守りそだてた沖縄よ」とは何であろうか。ここで、主語「我ら」は突如沖縄を含まぬ「ヤマト」に分離する。ここで「ヤマトが苦労して手に入れ、国内植民地として手なづけたお前、沖縄よ」という含意が生じる。そして、その沖縄に向かって我らは「叫ぶ」のである。沖縄よ、お前は、我らのものだ、アメリカのものではない、だから当然の権利保有者(潜在主権者)としての我らに、アメリカよ、我らのものであるこの植民地を返還せよ。この歌は、返還後は意味を失い歌われなくなった。だが、一文字だけ取り換えることで意味を逆転させる芸当が行われ、その形で歌い継がれているようだ。機知に富む沖縄のアーティストが、歌詞の最後を「沖縄へかえせ」としたのである。(それでも私は、このメロディを聞くと、この歌が盛んに歌われた当時の運動の文化的雰囲気を思い出して気色がわるくなる)。

 沖縄のケースが明らにしたように、戦後革新勢力の手による平和主義の原理化には大きい欠落があった。それは戦後国家の構造そのものを対象化できず、構造がつくりだした空間内部の光景しか目に入らない認識装置をしつらえたのである。
(続く)

※全5回にわたって掲載してきた武藤さんの論説ですが、今回のアップロードをもちまして終了となります。
※なお、本論説は、武藤さんが準備中の論文集の書下ろし原稿の一部になります(8月8日追記)。
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