メニュー  >  「日本は後進国になった」論を吟味する  ――ポスト・コロナの日本社会をめぐって 白川真澄
《ワクチン接種は、なぜ、これほど遅れているのか》
 ワクチン接種が、なぜ、日本ではこれほどひどく遅れているのか。コロナの感染拡大が続くなかで、誰もが訝しく感じることである。人口100人あたりのワクチン接種完了人数は、米国の31.44人、イギリスの22.44人に対して、日本は0.79人にすぎない(5月3日現在)。米英に比べて遅れているドイツの7.68人、インドの2.00人に比べても、あまりにも少ない。医療従事者のなかでの接種完了者も、全体の2割の99万人にとどまる(4月28日現在)。後期高齢者への接種も始まり、私も予約を試みたが、コールセンターにもインターネットにも終日つながらない。やっとつながったら、すでに予約が一杯になっているとだけ知らされた。ワクチン供給が不足していて、接種がいつになるか目途が立たない状態だ。
 ワクチン接種の効果を過大に期待する見方に私は与しないが、それにしても極端なまでの立ち遅れである。日本はお金も技術力も豊富な「先進国」であるはずなのに、どうして? と誰もが疑問に思うのは当然のことだ。
 この疑問を切り口にして、「いつの間に日本は『後進国』に転落したのか」と問うたコラム(日経新聞4月9日付けの「大機小機」)が、ちょっとした反響を呼んでいる。このコラムは、その6つの指標を挙げている。①「ワクチン後進国」、②「デジタル後進国」、③「環境後進国」、④「ジェンダー後進国」、⑤「人権後進国」、⑥「財政後進国」。
 いずれも事実認識としては間違っていないが、性質や原因が異なる問題を一括りにして「後進国になった」とするのは、いささか乱暴だ。すこし立ち入って吟味する必要がある。なお、先進国/後進国という区分や序列づけの方法には問題があるが、とりあえず「後進国」を世界のなかでランクが低く取り残されている国という意味で使うことにする。

《医療・ジェンダー・人権・環境・財政は》
 「ワクチン後進国」であることは、ワクチン接種の立ち遅れのみならず、コロナ危機下で露呈された医療体制の脆弱性を見れば明らかだ。新型インフルの流行(2009年)の経験から、グローバル化のなかで起こる感染症のリスクと対策の必要性が警告されていたにもかかわらず、必要な医療体制は整備されてこなかった。高齢化に伴って医療費は増え続けたが、それも自然増をカバーする程度であった。むしろ医療費削減が叫ばれ、保健所数の削減や公立病院の統廃合が進められた。そして、コロナ感染拡大のなかで、感染拡大防止よりも経済優先の発想(GoToキャンペーン、東京五輪開催)が支配してきた。
 たとえばキューバはGDPが世界63位、1人あたりGDPが日本の5分の1にすぎない経済的「後進国」である。だが、人間の命と健康を尊重し、医療の優れた技術と体制を確保してきた「医療先進国」である。米国の経済封鎖に苦しめられながら、多くの国に医療援助を行ってきた。コロナ危機下では独自にワクチン開発を進め、この8月までに高齢者全員を含む700万人に、年末までに国民全員に接種を実施する計画だと言う。政治がどちらを向くのかという違いが大きな差を生んでいるのだ。
日本が「ジェンダー後進国」であり、「人権後進国」であることに疑問の余地はない。「女性活躍」を謳いながら夫婦別姓にさえ反対する政治家が政権与党の実権を握っている。非正規雇用の割合が女性で高く、コロナによる解雇や収入減の打撃は女性に集中している。あるいは、難民受け入れに最も消極的であり(2019年の難民認定数はドイツの5万3973人に対して、日本はわずか44人)、難民認定申請者の強制送還ができるように入管法を改正しようとする。これだけで十分な例証になるだろう。
 「環境後進国」への転落も、その通りである。CO2排出削減に向けて電源構成に占める再生可能エネルギーの割合は、ようやく21%(19年度)になったが、ドイツの40%、デンマークの84%に比べるとみすぼらしい。加えて、老朽原発を含めて原発再稼働に前のめりになり、原発の割合を現在の4.3%から2030年には20〜22%にまで引き上げようというのだから、時代逆行も甚だしい。
 「財政後進国」という捉え方は、どうか。たしかに、日本の公的債務残高の対GDP比は266%(2020年)と、イタリアの161%、米国の131%などに比べて群を抜いて高い。しかし、リーマン・ショック以降、日本だけでなく欧米諸国も、中央銀行の大規模な金融緩和に支えられて財政出動を拡大し公的債務残高を増やし続けてきた。コロナ経済危機は、この傾向を一気に加速した。債務残高の対GDP比は、19年から20年にかけて日本が28.2㌽、米国が22・5㌽、イギリスが22.6㌽、イタリアが27.0㌽、ドイツが13.8㌽と、いずれの国も飛躍的に上昇した。米国やイギリスが法人税率の引き上げなど増税によって債務残高を減らす方針を打ち出したとはいえ、ポスト・コロナの時代でも政府の財政出動と中銀の金融緩和に強く依存せざるをえないことに変わりはない。政府債務残高と中銀の総資産が膨れあがる巨大なリスクを抱えた金融化資本主義は、避けがたい流れなのだ。日本はその最先頭を走って借金を膨らませている点で、むしろ「最先進国」であると言ってよい(ただし、政府が借金を増やすことを称賛するMMT派とは、まったく違う意味でだが)。
 
《「経済敗戦」論・「産業衰退」論》
 「ワクチン後進国」と「デジタル後進国」に共通する問題点として挙げられているのは、日本の研究・技術開発あるいはイノベーションの立ち遅れである。この点を共通軸にして、「後進国に転落した」論と「経済敗戦」論・「産業衰退」論が重なり合ってくる。
 「経済敗戦」論とは、GDPや労働生産性といった経済指標で見ると、バブル崩壊後の30年間で日本は敗戦し経済大国の座からすべり落ちつつある、という議論である。産経新聞は、日本のGDPの世界に占める割合が15%から6%にまで落ちたことは「平成日本の『敗北』を冷静に物語っている」(2019年元旦社説)と悲憤慷慨している。
 右派の言論だけではない。安倍政権を手厳しく批判する論者のなかでも、たとえば田崎 基は「産業は衰退し国際競争力も失い、他の先進国に遅れをとり差は広がる一方だ」として、日本が「戦なき敗戦」を喫したと言う(『令和日本の敗戦』)。金子 勝も、「敗戦」という言い方はしないが、次のように述べている。「日本の経済成長がストップし、長期停滞から抜け出せずにいる最大の原因は産業衰退にあります」、「研究開発のための投資額が減少し、アメリカや中国から大きく引き離され……産業の国際競争力がどんどん低下していった」(『メガ・リスク時代の「日本再生」戦略』)、と。
 たしかに、主要な経済指標を見れば、この30年間で日本の地位は急速に下がり、経済大国の座から転落しつつあると言える。GDPこそ米中に次いでまだ世界3位だが、米国とのその差は1.9倍から4.2倍に拡大(1990年→2019年)。中国との差は、100:12から100:280へと大逆転された。経済的豊かさを示す国民1人あたりGDPは、OECD加盟国36カ国中18位と、1996年の7位から大きく後退。国際競争力の鍵を握る労働生産性(1人あたり)は、同じ36カ国中21位(2018年)と、1990年の14位からずっと下がった。金子が指摘するように、国際的にトップレベルにある産業分野は自動車くらいで、電機は没落し、ITやバイオなど先端分野ではまったく歯が立たない。
 こうした現実は多くの人に、日本は経済大国の地位を失い衰退に向かっているという焦燥感や不安を抱かせる。

《賃金が上がらなかったのは、経済成長できなかったからではない》
 経済成長ができずGDPが増えない、1人あたりGDPや労働生産性が伸びない、国際競争力が低下する――こうしたことは、本当はどうでもよい(人びとにとっては)ことなのである。
 しかし、問題は、低成長=長期停滞のなかで日本でだけ実質賃金が下がり続け、人びとが貧しくなってきたことだ(このことは、田崎や金子も強調している)。驚くべきことに、年収300万円以下の低所得世帯の全世帯に占める割合は、24.9%(1990年)から33.5%(2017年)へと、30年近くで8.6%も増えている。また、年収200万円に満たない労働者(ワーキングプア)は、この20年近くで853万人(2002年)から1200万人(2019年)へと347万人も増大。この格差の拡大と貧困の増大は、非正規雇用の労働者が全体の4割近くにまで急増したことに主として起因する。
 賃金が伸び悩み人びとの収入が増えなかった理由を、低成長や労働生産性の低さのせいにしてはいけない。それは、市場経済が公式通りに機能していると信じる主流派経済学の固定観念でしかない。そうした常識はすでに、労働力不足が深刻になっても(「完全雇用」状態)賃金が上がらないという、グローバル化のなかでの新しい現象の出現によって破綻を告げられている。
 にもかかわらず、賃金の上昇や収入の増加、雇用の創出のためにも経済成長と労働生産性の上昇が必要不可欠だという議論が、いまなお繰り返される(「反緊縮」を唱える左派のなかでも)。しかし、デジタル化やイノベーションによって労働生産性を高めて高い経済成長を復活させようとする選択、つまり経済大国に戻ろうとする路線は、ポスト・コロナ時代には成功しないだけではない。多くの社会的な犠牲や軋轢を引き起こすにちがいない。
 歴史的に見れば、先進国は人口減少、とくに生産年齢人口の減少に規定されて否応なく低成長=長期停滞の時代に入っている。日本はいち早くその時代に入ったが、例外的に人口が増え続けてきた米国もここ6年連続で出生数が減少し、女性の合計特殊出生率も20年には1.64と過去最低を記録した。人口の伸びが鈍っている趨勢が、移民の大量の流入によって反転できるのかは不確かだ。AIやデジタル化によって人口減少を補ってあまりある労働生産性の飛躍的上昇を実現すれば、あるいは大規模なグリーン投資を行えば経済成長の復活は可能だという議論は、あまりにリアリティを欠くと私には思われる。
 人口減少・高齢化に伴う低成長、そして気候危機の解決が迫られる時代に、経済成長主義、つまりあらゆる社会問題を経済成長によって解決できるという考え方は、もはや通用しない。生産性の低いサービス分野や中小企業を切り捨てて、ITや金融といった先端部門に労働力を移動させて国際競争力を強化するといったシナリオは、絵に画いた餅である。いま求められているのは、この時代にふさわしい脱成長の経済・社会のあり方を模索し創造することである。人口減少・高齢化と低成長の先陣を切った日本は、その課題の解決を迫られてきたという点で「先進国」の最先頭に押し出されているのだ。
 これからの経済は、生産性が高くなくても雇用が創出される分野、経済的利益(付加価値)は大きくないが社会的必要性を満たす分野を中心に置く経済へと大転換しなければならない。その分野は、医療・介護、食と農、そして再生可能エネルギーである。このことは、気候危機の解決(CO2削減)、そして感染症の流行が繰り返されるリスクへの対応という観点からも必要だ。これまで医療・介護や農業など(ごみ収集、清掃、スーパー、配送なども含めて)の仕事に従事するエッセンシャルワーカーへの社会的評価、つまり賃金は不当に低く抑えられてきた。これからは、賃金は労働生産性(どれだけ付加価値=売上高が大きいか)に連動して決められるのではなく、その労働が社会的必要性をどれだけ満たすかという基準によって決定されなければならない。
 このことは、資本主義というシステム自体を変革し超えていく課題につながる。なぜなら、D・グレーバーが言うように、資本主義は人びとの必要を満たす仕事、つまり「他者のためになる労働であればあるほど、受け取る報酬がより少なくなるという一般的原則」(『ブルジッド・ジョブ』)を貫徹するからである。

《何が必要か》
 「いつの間に日本は『後進国』に転落したのか」というコラムに戻ろう。コラムは「コロナ危機下で科学的精神と人道主義に基づいて民主主義を立て直し、資本主義を鍛え直さないかぎり、先進国には戻れない」と結んでいる。
 「人権」と「ジェンダー」の面では、日本は先進国であったことは一度もない。また環境の面では、公害対策や太陽光発電の分野では先進的であった時期もあったが、いまや後塵を拝している。その意味では、「人権後進国」、「ジェンダー後進国」、「環境後進国」からできるだけ急いで脱却することは喫緊の課題だ。また、「ワクチン後進国」については、医療の分野に資源(資金と人材)を重点的に投入する必要性は、感染症のリスクへの対応と経済の転換の2つの面からますます強まっている。「財政」の面では、社会保障の拡充をめざしつつ、巨額の累積債務をこれ以上増やさないように工夫する。つまり安定財源を確保するために、法人税率引き上げや富裕層増税に強化など公正な増税が求められる。
 「人権」に関わるテーマだが、「デジタル後進国」からの脱却が言われている。だが、現実に進行しているのは、デジタル庁設置をテコにして「行政のデジタル化」を強引に進めようとする動きだ。これは、住民サービスの利便性の向上を名目にしているが、個人情報を国が一元的に監視し、かつ民間企業のビジネスに自由に利活用させるのが狙いである。だから、新しい法制には個人情報を保護する自己コントロール権、つまり個人情報の取得や利活用に際しての本人同意の義務づけは、まったく規定されていない。情報サービスの利便性や効率化の誘惑の前にいったん立ちどまろう。社会と行政のデジタル化を進める前に、人権の確立こそ急がれなければなるまい。
最後に、繰り返しになるが、経済的「先進国に戻る」必要はない。国際競争力を強化して経済大国に復活するという経済成長主義の夢想と決別し、脱成長という別の道を選ぶべき時である。
(2021年5月11日)

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