メニュー  >  【つるたまさひで読書メモ】 『社会を変えるには』小熊英二著 第7回
【つるたまさひで読書メモ】
『社会を変えるには』小熊英二著
第7回


450pからは社会運動をどうやればいいのかノウハウのための諸理論の紹介。こんな風に具体的なものを生み出そうとする視点は好きだ。

「資源動員論」とは「運動とは、不満があるから暴動がおきるといういった非合理的な行動ではなくて、合理的な行動だと唱えるもの。運動体は目標とする変革のために、どういう資源を動員し、どういう組織で、どういう戦略をとって敵手と闘うのかを重視。ここでの資源とは資金、人的資源、知的財産、外部資源へアクセスできるネットワーク、意思決定者へのコネクション。こういう枠組みで、敵方がどういう資源を持っているかを考え、味方の資源を動員し、成功に導く戦略をたてること」

「政治的機会構造論」とは、例えば、政治システムが開放的かどうか、情報公開が行われているか、政治過程へのアクセうが可能か、などで運動の結果は違う。、また有力な同盟者が存在するか、権力エリートの内側が安定しているか、分裂などがあるか、などを考慮しなくてはならない。そうした政治的機会構造から、運動の成否が決まるというもの。

書かれていることはあたりまえのことなのだが、政治的機会構造で運動の成否が決まるという理論だ、とまでいわれてしまうと、それは違うと思う。小熊さんはその評価を具体的には書いていないが。450-1p

次の『争点関心サイクル』という節(451-2p)では、争点に対する行動の盛り上がりのサイクルの話で、問題解決のためのコストが高すぎると、人々の関心が減退していく、だから原発の問題では、それをなくすためには「産業文明をやめないとだめだ」とか「資本主義が変わらないとだめだ」という主張は逆効果で、やらないほうがいいという。 逆に、(この理論からいうと)原発がなくても意外に困らない、とか、実現可能な代替案、が運動の持続性を導くとも書かれる。しかし、現在のシステムのだめさを象徴しているのが原発問題だというのは小熊さんも書いている話だ。そのことをちゃんと語るべきではないかという思いは強いなぁ。

次の節は『情報の二段の流れと「イノベーター」』453-4p

まず、最初の二段の流れだが、情報は最初に知識や関心の高い人に伝わり、そこから一般の人に伝わる、というもの。だから、最初にどこに呼びかけるかというターゲットの選定とか、ビラの配り方もその観点から、いい方法を探せという。

次の「イノベーター理論」これはマーケティングの理論だが、消費者のうち革新者(イノベーター)は2.5%、次に動く初期採用者が13.5%、社会全体のトレンドになってから早めに動く初期追随者が34%(以下略)。最初の16%が動くと爆発的な普及がこるという。それを応用すると、先端のイノベーターだけに呼びかけてもだめだけれども、最後に動くような人を想定してわかりやすくて反感を買わない」訴え方はあまり効果がないという。

『情報の二段の流れと「イノベーター」』に関して、そういう工夫が必要なこともあるかもしれないと思うが、だからといって、その完成度の高さのために時間をかけると、それも効果を薄れさせたりするだろう。そのビラが誰向けなのかとかいうことを考えないのはやはり問題なのだろうが、そんな理論にとらわれちゃうのもどうかと思う。ただ、ビラに関しては、もう少し費用対効果を考えてもいいかも。

そして、続けて小熊さんは「関心はあるけれども知識がない、知識はあるけれども行動するのはためらう」という層へのアピールが有効で、全部をねらうより効果的だということになります、と書くのだが、そういうターゲティングをどう行えばいいのか、そういう意味ではSNSなどを使って、関心がありそうなところに届けるメッセージというのは効果的かもしれない。

フレーミング(454-456p)「問題の認識」のしかた(フレーム=枠組み)を変えること。

例えば、辺野古の問題で、安保問題だけではなく、ジュゴンの生息の問題から訴えるとか、ダム建設について開発か自然保護かというフレームから、決めるのは住民投票でというような形で。そして、小熊さんは、ここで重要なのは、違う枠組みを提示して世界観を変える、そのことによって形成を逆転させる、はっとさせる、それ以前とは違う認識にさせることだと説明する。ドイツの緑の党が。君たちは右なのか左なのかと問われて、「前だ」と答えた例が出されている。つまり、同じ土俵で勝ち負けを争うのではなく、違う土俵を作るのだ、とも書かれている。

そう、こんな発想の転換が効果的なことはあるだろう。しかし、辺野古問題の軸に安保問題があるのは間違いないはず。そこを抜きにしてジュゴンというのもどうかと思う。

構築主義と主体形成 456-7p主体はあらかじめあるのではなく、運動の中で形成されていくという視点、これは大事だと思う。

モラルエコノミー 458ー9p 人間は困ったから立ち上がるというわけではなく、モラルエコノミーを侵されたと感じたときに立ち上がる。(この場合のエコノミーは経済よりも広い意味)そのモラルエコノミーが発動するのはどういうときか、が問題なのだが、小熊さんはその秩序は時代や社会によって異なると書いているが、それを規定するものは何か、どのようにそれを把握するかということは書いてない。問題を提起するときにモラルエコノミーを意識すればいいのだろうが、それが何かをつかむのは非常に困難だ。

プロプリエーション 「流用」と訳される。運動に聖書の言葉を使うとか、文部省の唱歌を持ち出すとか。権力者のヘゲモニーを利用しつつ、逆転させる、「本歌取り」とか「カバーバージョン」という意訳もできるかも、と書かれている。それがどうした、という感じもあるが、上手に使えば、それが有効なときはあるだろう。

戦後の社会運動の実例として、いくつかあげられる中で、興味深かったのは「水俣病訴訟」の節のなかでの記述。苦界浄土やユージンスミスの写真を紹介。そして、はじめに人を動かす「原体験」の話。これが解明されないという話なのだが。そこにどうアプローチするか、スピリチュアリティの領域に踏み込んで考えることが必要だと思う。田中正造を援用する花崎皋平さんなどの先行研究もあるはず。もう少しそれらに言及されていても良かったのではないかと思った。

『こうすると失敗する』(484p?)という節では、個体論的な運動はダメだと強調する(個体論については第3回で少し紹介している)。個体論的な発想が、運動に弊害を起こさないようにする注意点として、

・運動を「組織」と考えないこと。(「組織を握る」とか「組織を守る」という発想から離れる)

・「統一」という発想も、組織を個体とみなした発想。(○○労組と??党、△△同盟のトップで会合を開いて統一戦線を組んでその組織人員で動員を予想する、とか、意見が違う組織のトップをまとめるために方針を無難なものにする、とか、「末端組合員」で従わないものは追放するとか。そうすると、楽しくないので、ますます人が来なくなり、社会からもあれは特別な人々だと思われる悪循環。こうした例が過去には多くあった。

・人間も「個体」とみなすべきではない。つまり、レッテルを貼って、その人を変わらないものと見るべきではない。

というなことを、この節で小熊さんは書き、「個体論的ではない運動」という次の節で、運動を組織として考えるのではなく、動いている状態としてだ、という。

しかし、この「個体論」ぼくには少しわかりにくかった。運動は動体でであり、固定的なものとして見るな、ということなのだろうが、もう少しわかりやすい説明の仕方があるのではないか、「個体論」とかいう言葉を使わないで説明したほうがわかりやすいのではないだろうか。

でも、この「個体論的ではない運動」という節には、いくつか興味深い記述がある。

まず、集まる人の人数について多ければいいというものではない、と小熊さんは書く。「数が多ければえらい、というのは近代社会の特徴的な考え方ですが、それだけでは決まりません。数が集まらないと正しさが信じられない、報道されないと自信が持てない、というのは不幸なことです」487p

これは某「首都圏反*連」の若い人たちにもちゃんと噛み締めて読んで欲しい部分だ。そういえば、古くから反原発をやっているこの団体の人で反原連のメンバー団体の人が総会で人数発表の問題のことをとりあげたと言っていた。この話について、「デモとは何か」の五野井さんから興味深い話を聞いたのだが、とりあえず内緒にしておこう。

「政治家や官僚と話をすることも重要」という提起、これは最近考えていたことでもあった。小熊さんはこんな風に書く。

・・・「あなたはほんとうにそういうことがやりたくて政治家になったのですか」と問えばいいでしょう。たいていの人は、悪いことと自覚しながらそれができるほど、強くはありません。490p

そう、最近、考えていたのは、地元の与党側の議員。自民党や公明党の議員と直接話をして、何をどうしたらいいと考えているのか聞いてみるというのはどうかということ。そのうち、これはやりたいと思っている。幸いにぼくの選挙区の平将明という自民党議員はときどき面白い話もしている。当然、いろいろブラックなところもあるみたいだが。ともあれ、常識的な話では、民主主義や人々の参加をあからさまに否定する議員はいないはずだ。個人的に話を聞きにいくこともありだが、彼らと胸を割って話をするというその仕組みをどう作るかというのが課題になるかも。

「批判は好きだが対話や活動は苦手だ」という人も活動できる方法はあるということを紹介するとき、さらっと「そういう人は社会運動に向いていない以前に、社会生活にも向いていないきもしますが」と書いてる(492p)のが面白かった。一瞬、デモに出てくるようになる前のこの本の著者のイメージともかぶる(笑)。

この7章の最後の節は「楽しくあること、楽しそうであること」これは大事だと実感。

「あとがき」では自分を呼んで講演会を企画するよりも読書会をという(512p)。これもそうだろうなぁと思う。一人ひとりが参加して、意見を言えるような場をたくさんつくることの大切さはもっと強調されるべきだろう。

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以上、ながながとメモを掲載させてもらいました。
オリジナルは
http://tu-ta.at.webry.info/201303/article_4.html

http://tu-ta.at.webry.info/201303/article_7.html
で、これに若干、加筆しました。

P.S.
また、『「デモ」とは何か』(五野井郁夫著)も同様の問題意識で書かれているようです。こちらの本のメモは
http://tu-ta.at.webry.info/201302/article_1.html
にあります。

五野井さん、先日話を聞かせてもらった時に、『ポスト新しい社会運動』という風に最新の社会運動を位置づけていました。ぼくが関わっている昔からある社会運動と彼が言うところの『ポスト新しい社会運動』が出会う機会がもっと必要なのではないかと考えています。

2010年代の社会運動・社会変革をテーマとした本としては
湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』メモ(12・24修正)
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/blog1/index.php?content_id=19
もあります。これはグーグルクロームで読むと形が崩れていて、読みにくいですが。

こんな風に社会運動や社会変革がテーマに何冊もの本が一般向けに出版されるというようなことは近年なかったのではないでしょうか。何かが変わり始めているのは確かだと思います。この変化を確実なものにする努力がいままで以上に問われているように思います。

P.S.2
「いま日本でおきていることがどういうことなのか。社会を変えるというのはどういうことなのか。歴史的、社会構造的、あるいは思想的に考えてみようというのが、本書全体の趣旨です」

というこの本の試みが成功しているかどうか、最後に書ければ、と書いてそのままになっていました。成功しているかどうか、やはりわからないままです。ただ、なんとかしたいという気持ちと、この設問に答えようとする姿勢は強く伝わってきます。それが大切なのではないかと思うのです。
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