メニュー  >  白川真澄「ウクライナ戦争にどう向き合うべきか」への私の3つの異論点                     伊田広行

白川真澄さんが4月に「ウクライナ戦争にどう向き合うべきか」というメモ的文章で、ロシア侵攻についての見解をバランスよくまとめられている。大きくは同じ感覚のところも多くあるが、日本で論じるときに、日本社会への影響を考える必要もあることや、非暴力主義のスタンスの温度差的違いから、白川さんのまとめ方と私の考えには異なるところもあるので、私の立場から、白川さんの意見へのコメントを「3つの異論点」として述べておきたい。
(私は、表舞台で議論を展開して自説が正しいと言って論争したいと思っていないが、自分のスタンスの確立、そして、一部読者が自分の考えを整理することに役立つならいいなと思って書いているので、興味ある方は、今回のコメントの前提については、私の過去の「ロシア侵攻」に関するブログ記事を見ていただきたい。メディアに出ている学者や防衛省関連の人への批判を書いている。)

まず、1点目の異論点は、今回の戦争には2つでなく3つの性質があるという点である。白川は「ウクライナ戦争は、(1)ウクライナの民衆自身の侵略に対する抵抗戦争、(2)NATOとロシアの間の代理戦争(米国の武器支援を受けた戦争)、という二重の性質・側面を持っている」というが、私は、そう見ていること自体が不十分で、「3つ目の性質」が見えていないと考える。
私が最初から考えているのが、一つの国の中には多様な人がいるということであり、ウクライナの政権側とは異なる思想や生き方のひとがウクライナの中にいるということである。私は、ロシアの侵攻に対する抵抗・自衛の中にも、権力側のナショナリズム・軍事的思考からのものと、民衆側の自発的なもの(ナショナリズムにはあまり囚われていないが自らの自発的な意思で銃を握って抗戦に参加した人)があるとみており、この区分は重要と思っている。
したがって、この視点からは、「ウクライナ戦争の3つ目の側面・性質」として「ウクライナの政権・主流体制と一体化しない人々が「ウクライナとロシアの対立」戦争に巻き込まれているという側面」があるということを指摘したい。

  ロシア侵攻がひどいのは自明だが、ゼレンスキーをはじめとして、ウクライナ国内・政権内には、「ナショナリスト、民族主義者」的な思考の人がかなりいると思われる(右派もいるが右派とあえていわなくても)。すくなくとも、「国・領土・国民を守るために、武力で対抗するのだ」というマッチョな「軍事的思考」の人が主流で、日本国憲法のような「非暴力・非武装で、平和的な存在なっていこう」「ナショナリズムは危険なので捨てよう」「人を殺したくない」という思考は政権内では力を持っていないようだ。見解は別れるが、ウクライナの政治・政権が、ナショナリスティックであったことが今回のロシア侵攻の背景にある、その意味で、ウクライナの政治にも責任があると思っている。
私は、過去の戦争でのナチスのユダヤ人などの収容所虐殺を含め諸経験を学ぶなかから、とにかく早い段階から逃げることに重要性を見るスタンスを形成してきた。その感覚から、なぜ権力者の闘いの中に巻き込まれないといけないのか、死にたくないという感覚がある。本来もちろん、郷土を捨てて逃げなくてはならないことが不条理だが、馬鹿な政治家を隣及び自国に持った国にいる中で、運命的に不条理に巻き込まれることはある。その中で、最悪よりは少しマシな選択として、郷土を捨ててでもとにかく逃げて、命を守るという選択が、私が考える「私がこういう状況になったとき」のリアルな対応である。
 だから私は、とにかくできるだけ皆が逃げるのがいいとおもっている。非暴力・平和教育を受けたうえで、ナショナリズムに煽られてではなく、洗脳ではない中で、本当に闘いたい人が闘うのはいいが、男性、軍人も含めて、誰でもが安全に逃げられるような道を保証する政治こそがウクライナには必要と思う。

その点で、戦争になったときに最初からウクライナ政権が、人命を第一に、とにかく皆を逃がすことを政治的目標の第一に置いたかというと、ウクライナはそうではなかった。ゼリンスキーは、非常時のリーダーらしく、武器を持って戦うことを国民に“雄々しく”呼びかけ、愛国心を煽り、男性は国内から逃げるなと制限した。フェミ的ニュアンス・非暴力主義者のニュアンスは見られなかった。
白川は、後半で日本の話と絡めたときには「民衆の抵抗権、個人の正当防衛権を認めるが、国家の自衛権をフィクションとして否認する立場に立つ」といっているのに、「ウクライナ戦争の性質を2側面に限定している点」ではこの3点目を忘れてしまっていると感じる。

私は、以上の「政権と国民各人の生き方にはギャップがある場合がある」「馬鹿な政治家によって戦争に巻き込まれてしまった」という視点を前提として――ここから異論点の第2になるのだが――白川さんが、「障がいを持つ人や高齢者など逃げることのできない人も多くいる。」「自分たちが住んでいる町や村から逃げることのできない人は大勢いる。逃げるという方法は、多くの人にとって可能な選択肢というよりも特定の人びとにとって可能な方法である。」というように、逃げる路線への積極性が見られない記述をしていることに反対する。
ウクライナ政府は必死で、全力で、国民を逃がそうとしたか。していないだろう。病人、障害を持つ人や高齢者、子どもなど、「社会的弱者」こそ逃がすことを戦争開始直後から第一優先課題として本気でやろうとすれば、かなりできるはずである。ロシアと交渉して、ロシアの「協力」も使って戦場から逃がすことをやろうとしたかというと、「ロシアに捕まると殺されたりレイプされる」ということで、ロシアに投降したり逃げることも制限してきた。人道回廊の議論でも、ロシア側への選択肢は排除していた。選択肢を狭めていた。病院などへの攻撃を非難はするが、本当に病人や施設高齢者・障碍者を助けたいと思うなら、それを第一課題としてロシアと交渉すべきであるがしなかった。
だから白川が「逃げることができない人がいるのが必然」のように書くのは間違いと考える。それは政治による変化を見ずに、運命のように認識している間違いである。この「弱者は逃げられない」というのが2点目の異論点である。

私が、以上のような点で白川の主張に違和感を感じるのは、日本で万が一外国からの本格的な侵攻があったときに(私は尖閣列島など遠隔の島以外では侵攻はないと考えている)、私は政府の軍隊(自衛隊)と一体となって武器をもってえ戦うことはないと思うからで、その感覚は大事だと思っている。
白川さんもそういう感覚は日本では考えているようだが、ウクライナでは、ウクライナ国内が一枚岩でないという視点が欠如し、「雄々しくロシアと戦い続けると宣言する政権」と反体制(非暴力)の民衆、戦争で巻き込まれて命が危なくなる人々との区分が甘くなっていると感じた。そこに、ウクライナの政権を含む、ナショナリズムへの批判性(嫌悪感)や、非暴力主義への深い共感の面(軍隊・武力的なものへの嫌悪感・拒否感)での私との温度差を感じた。

次に、第3の異論点であるが、白川は「日本における軍事力強化の大合唱に屈服することにはならない。いまこそ、非軍事・非武装を積極的に主張すべき時である。」「国家の自衛権をフィクションとして否認する立場」と後半でのべている。
私はそれに賛成であるが、今ウクライナ戦争への意見を日本で言うことは、日本国内の各人の思想的スタンスを醸成する契機になるので、だからこそ、自分の言説の、日本での影響も考えなくてはならないと考える。
日本で主流の言説は、「ロシアが悪くて、ウクライナの抵抗戦は全面的に正しい」として、「政治判断して、妥協・降伏してでも国民の命を守れ」「ウクライナにも悪いところがあった」というような意見をつるし上げて叩くようになっている。また「現実政治は武力で決まる」「ロシアを交渉テーブルにつかせるためには、軍事的にロシアを追い詰めるしかない」「武力には武力でという思想で、日本は今こそ軍事力を高め、台湾有事などにも備えていかなくてはならない」「敵基地を先制攻撃してでも自衛しないといけない」というようになっている中で、白川のように「ウクライナの抵抗戦を支持する」というニュアンスが強い主張は、「非軍事・非武装を積極的に主張し、その理解を広げる」に資するよりも、足を引っ張るのではないか。
テレビで防衛相防衛研究所なるところの人物が何人も出て、武力主義(戦術発想)の思想を振りまいているのである。そのなかで、白川のスタンスは、そうした「ロシアを交渉のテーブルにつかせるためにもウクライナが戦争で反撃し優位な状況を作るしかない」という防衛研究所のスタンスと重なるところが結果的に多くなっている。
私は、今こそ、非暴力の思想が問われていると思うので、防衛研究所のスタンスとは全く異なる思想もあるのだとし、『逃げること』をもっと前に出すことが大事ではないか、それを「お花畑」と嘲笑する空気と対抗することが必要ではないかと思っている。「武力的に攻撃されても武力的に対抗する以外を考える」という思想を深めることが大事と思っている。
そうした視点で、これまでも、今回も、自説を書いてきたし、自分の生き方としてきたし、DV論・ジェンダー論を展開してきた。この観点から、白川さんの後半の主張は、前半のウクライナ支持の主張と後半の左翼的主張の間に、「実際に日本社会・読者個人に与える影響」を感がると矛盾した面があると感じた。
DV加害者は「相手が襲ってきたら暴力的に対抗する」「相手がメンチ切ってくるとか偉そうに言ってくるとか、肩がぶつかるなど、調子乗ってきたら「はぁ?」という感じで対抗する」ような人が多い。その延長に「妻が攻撃的なので我慢しきれず切れた」というような人がプログラム参加初期には多い。それに対して、そういう時に暴力を選ばずに、非暴力的に生きるということを考えていくのが、「DV加害者プログラム」である。そうしたことの積み重ねの上に、もし「尖閣列島が占領されたら」「台湾有事が起こったら」にも、平和的な対応を考えられる力が醸成されなくてはならない。
以上が、白川さんの4月メモを一読したコメントである。

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