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「自衛隊は暴力装置」って、あたりまえのことでしょ?

山口響
2010年11月24日

 仙谷由人官房長官が11月18日の参院予算委員会で自衛隊を「暴力装置」と呼んだことに各方面からの批判があがっている。

 この件に関していえば、仙谷長官はまったく間違っていない。世間には、「赤い」官房長官ゆえに自衛隊に対して偏見を持っているという、半ば意図的な誤解もあるようだ。しかし、政治学的にみれば、(自衛隊を含む)軍隊一般が「暴力装置」であるのは常識中の常識。

 軍隊が強大な暴力行使の権限を持っていることを事実として認めるからこそ、軍隊に対する文民統制(シビリアン・コントロール)という観念が出てくる。逆に言えば、軍隊を「暴力装置」として正確に認識しえない人には、文民統制を論じる資格などない。仙谷を批判した世耕弘成議員や丸川珠代議員は、もう一度中学に戻って社会科の授業を受けなおした方がいいのではないだろうか。

 仙谷発言への非難の根拠はもっぱら、「日本の平和と安全のために日々努力している自衛隊員に失礼」というもののようだ。『産経新聞』電子版のある記事によれば、30代の陸自隊員が、「『暴力装置』とはマイナスイメージの言葉で、社会悪のようなイメージ。まるで自衛隊は存在してはだめだと言いたげだった。おそらく自身の経歴からにじみ出た軍隊観だと思うが、一国の官房長官にここまで毛嫌いされているのかと思うと、悲しいし、むなしい」と取材に答えたという。

 こういう批判をする人たちは、自衛隊は「暴力装置」ではなく「実力組織」だと呼ばれるべきだと言う。しかし、実を言うと、「実力組織」と呼ぶ方が自衛隊によっぽど失礼なのだ。

 「実力組織」というワケのわからない呼び名は、「陸海空軍は保有しない」とする憲法9条のタテマエと、国際スタンダードで言えば明らかに軍隊としか言えないような自衛隊を持っている実態との間の妥協の産物としてあった。自衛隊は、9条のタテマエの下で、日陰者の存在であり、タブーであり、まさしく「社会悪」でなければならなかった。上の発言をした陸自隊員は、「実力組織」という名の背景にある、そういう歴史的経緯を知らないのだろう。

 仙谷「暴力装置」発言は、自衛隊を貶めるものではなく、むしろ、自衛隊を軍隊一般という枠組みの下に引き出すことで、それをはじめて「日の当たる」存在に変えるような効果を持ちうるものだ。にもかかわらず、歴史に対する無知ゆえに、なぜか自衛隊の応援団が仙谷を批判するというねじれ現象が起こっている。

 「暴力装置」という発言は、自衛隊の現実をなし崩し的に正当化し日本を「普通の国」に変える方向を導きうるが、他方で、自衛隊の実態を正しく認識させてその解消に向かわせる方向を指し示すこともできる。

 その点で私が注目していたのは、民主党の外交・安全保障調査会が、「普通科」を「歩兵」、「一佐」を「大佐」と呼びかえるなどの旧軍用語復活を提案しようとしていたことだ(後に撤回)。新しい防衛大綱の策定に向けた同調査会の提案内容は、武器輸出三原則の緩和や南西諸島方面の防衛力強化など、自民党時代にもできなかったようなひどいものばかりだが、この用語言い換えだけは唯一、肯定的に評価できると私は考えていた。

 なぜなら、それは、自衛隊が「普通の軍隊」に過ぎないという事実を白日の下にさらすことになるからだ。もちろん、民主党の提案自体は、自衛隊をもっと社会の中で認知させたいという動機から出ていることは私も承知している。

 日米密約の実態暴露についても、同様に、まったく逆ベクトルの二つの力学が作用している。ひとつは、密約を公にして開き直り、それを既成事実として認めさせようというものであり、もうひとつは、密約の実態を世間にさらして、日米安保そのものの批判につなげようという方向である。

 実際の政治的な力関係の中で、あやまった方向が勝ってしまう危険性はあるだろう。しかし、「暴力装置」概念にせよ、旧軍用語言い換えにしても、日米密約暴露にしても、まずは実態をきちんと見ることからしか物事は始まらないのではないか、と思う。
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