メニュー  >  コロナ危機「ロックダウンは民主主義に反し、やらない日本は、その分だけ民主的なのか?」    夏原 想(文筆家)
 世界ではこの時期になっても、断続的に全面的ないし部分的なロックダウンが行われている。特に、ヨーロッパでは第3波に見舞われ、ドイツ、フランス、東欧などで国によってやり方は様々だが、現在でもロックダウンが実施されている。当然のことだが、ロックダウンについての厳密な定義などなく、ウイルスの拡散を防ぐための、都市住民に対する移動制限を含む厳しい行動抑制の総称であり、違反者には罰則が伴う。
 このロックダウンの法的根拠は、英国では公衆衛生(疾病管理)法Pubilic Health(Control of Disease)Act、ドイツ感染防止法Gesetz zur Infektionsprävention、フランス衛生緊急事態法LOI n° 2020-290 du 23 mars 2020 d'urgence pour faire face à l'épidémie de covid-19 (1)、(その後も公衆衛生上の緊急事態終結法5 Loi n° 2020-856 du 9 juillet 2020 organisant la sortie de l'état d'urgence sanitaire 等がある)などで、多くの場合、感染防止のため法の範囲で政府(行政機関)に強い権限を与え,その都度議会は必要な法を整備するといったやり方が採られている。当然ながら、執行する機関に与えられた権限は、目的に合った厳格なものであり、行政権力側の逸脱した行為には国民だけでなく、議会や司法から厳しい批判が浴びせられる。

<ロックダウンができないのではなく、政府は絶対にやりたくないだけ>
 日本の場合は、このような強い権限を与える法はないので、法的にロックダウンは不可能であるが、諸外国のように行政に強い権限を与える法は必要だという意見はなくはない。多くの場合それは、右派からのものである。
 典型的ものは、産経新聞記事「ロックダウンできない日本 諸外国で目立つ強制力」(2020.4.30Web版)の中でも明らかであるが、「日本国憲法に国家緊急権が規定されていないことが背景にある」(大和大学 岩田温)として、憲法を改変し、緊急事態の権限を国家に与えるべきだ、というものである。一見それは、感染の早期の収束を求めることを装ってはいるが、実際には、コロナ危機に乗じて、国家の権力強化を意図したものであり、憲法改変の雰囲気づくりを狙って主張しているに過ぎないのだ。そもそも、ヨーロッパの国々でのロックダウンの法的根拠は、上述したように感染防止に関する法であって、直接、憲法の緊急権を根拠にしているのではない。この産経新聞の記事の中でも「フランスは、衛生緊急事態法を施行」と書いており、どこにも憲法は結びついてはいないのだが、整合性もなく、強引にロックダウンには憲法改変が必要だという主張をしている。現行憲法上、できるかどうかには、議論はあるが、例えば、都立大の木村草太は「規制が必要であるとの十分な科学的根拠があれば、それを違憲と批判する人は少ないはず」(BuzzFeedNews2020.4.10)だとしており、必ずしも憲法改変がなければできないということではない。
 実際には、欧州のような感染防止のための法を制定する気が現在の政権にあるかと言えば、まったくないと言っていい。なぜならば、自公政権は経済活動を停止させるロックダウンなど絶対にしたくないからであり、欧州のような法ができて困るのは政府だからである。それは、特別措置法が成立しても、緊急事態宣言を出し渋った安倍・菅政権の姿勢で明らかである。また、感染拡大の大きな要因となったGoToキャンペーン政策を強引に実施したことでも、経済を優先させているのは明らかである。この姿勢は、ブラジルのボルソナロやトランプのような右派に共通しており、日本の極右勢力の支持を仰ぐ現政権も、このレールに乗っていると考えられる。常に、世論と野党に押され、しぶしぶ感染防止対策を講じているのが実態である。一部に、ロックダウンをしないのは、欧米に比べ感染が少ないからだと主張する意見もあるが、日本より感染がはるかに少ないオーストラリア、ニュージーランドでも頻繁にロックダウンは行われていることを見れば、見当違いが明白なのが分かる。安倍・菅が正直ならば、ブラジルのボルソナロのように、「コロナなど風邪のようなものだ。どこの国でも人は死ぬ。大事なのは経済だ」と本音を言うだろう。つまり、日本でロックダウンができない最大の理由は、政府にその意図がまったくないからであり、できないのではなく、やりたくないのである。

<個人の自由の神聖視>
 日本のマスメディアは、中国の強権による個人の自由を抑制するコロナ対策を、自由民主主義に反するという理由から全面的に批判した。それはすべての商業新聞で書かれたことである。(しかし奇妙なことに、マスメディアは、中国同様に、国家権力による強制であるロックダウン等を実施している欧米政府を自由民主主義に反するとは書かない。しかし、日本のマスメディアに論理的一貫性などないのは、今に始まったことではないので、ここでは言及しない。)日本のマスメディアの基本的な論調は、国家が個人の自由を制限することは、「悪」であるというものだ。国家は国民の自由を制限してはならず、それは原則的にすべてやってはいけないことだという主張である。つまり、感染拡大防止を目的としたロックダウンはおろか、個人の自由の制限はない方が好ましいというものだ。
 このような論調は、欧米のマスメディアも主要な政党の主張にも、極めて少ない。欧米では、個人の自由より感染防止が優先するのは当然だという考えが主流である。なぜなら、感染防止、検疫quarantineそのものが、国家による個人の自由の制限なくしてはあり得ないからである。だから、極めて法と目的に厳格で実行性のある対策が求められるのである。
 それでも、欧米でロックダウン反対派によるデモが頻発している。反対しているのは、制限に飽き飽きした人びとだと思われるが、その中でも、最も分かりやすいのがドイツで、政治的な立場がはっきりしている勢力がある。それは極右のAfDドイツのための選択肢の支持者や無政府主義的自由至上主義者であり、政治勢力の中では少数派である。連邦議会に議席を持つ勢力で、中道のCDUからDie Linke左派党までには、基本的な立場としての反対派はいない。つまり、日本ように感染防止のためでも個人の自由の制限に反対するという主張は大きくはないのである。
 日本の場合には、感染対策にやる気がない政府に強権を与えるのは、別な目的で国民を弾圧しかねないという危険性があると考えるのは、確かに納得がいく。実際に、ハンガリーの極右オルバン政権は、2020年3月、非常事態に伴い首相の権限を無期限に引き延ばす法を可決させた。その後、この法は撤廃されたが、この極右政権には、権力の無制限化の野望が常に見え隠れする。このように、感染防止の名を借りた反対派への言論封鎖の懸念は、日本の政権には常につきまとう。しかし、ロックダウンに反対する理由は、それだけではない。
 日本のロックダウン反対派には、感染防止のためでも個人の自由の制限には、原則的に反対するという姿勢がある。そこには、紛れもなく個人の自由の神聖視がある。
 ここでの個人の自由の神聖視とは、デヴィッド・ハーヴェイが「新自由主義」の中で、「同意の形成」で指摘したものと同じものである。ハーヴェイが「個人的自由を神聖視する政治運動はいずれも、新自由主義の囲いに取り込まれやすい」と指摘した、まさにそれである。ハーヴェイは「個人の自由という価値観と社会的公正という価値観とは、必ずしも両立しない。社会的公正の追求は社会的連帯を前提とする。そしてそれは、何らかのより全般的な闘争、たとえば社会的平等や環境的公正を求める闘争のためには、個人の欲求やニーズや願望を二の次にする覚悟を前提とする。」と言う。ここで「社会的公正」、「社会的平等や環境的公正」を「すべての人びとためにパンデミックを抑え込むこと」に置き換えれば、この文章はそのまま成立する。
 ハーヴェイは、かつての「新左翼」にも、自由の謳歌のあまり、新自由主義との親和性があったことを指摘したのだが、おうおうにして、所謂「リベラル」な一部の人びとにも、自由の無定見な神聖視、絶対視があるのだ。それが、欧州のロックダウン反対派にも見られるのだが、日本の場合も同様な傾向を持つ人々が少なからず存在する。
 重要なのは、個人の自由の制限が何のために要求されるのか、ということである。日本国憲法では、「公共の福祉に反しない限り」と (「公共の福祉」という概念は極めて曖昧だが)個人の自由と権利の絶対視を避けるという理念は生かされている。それを抜きにして、自由を考えることは、新自由主義に取り込まれた誤りと同様なことを繰り返すことになる。
 西側民主主義諸国での民主主義は、いつの間にか、自由主義と合体し、自由民主主義となったが、この自由民主主義は、たびたび資本主義を擁護するために使われる。それは、自由が神聖視・絶対視され、民主主義と結びついているからである。たびたび、資本主義の擁護と結びついているのが、自由の中の一つ、所有権と所有物の自由処分権だが、その絶対視などを認めてはならないのだ。重要なのは、誰の、何のためのいかなる自由なのかであり、それは常に問われなければならないのだ。
 ルーズベルトは1941年1月一般教書演説 で四つの自由を提起した。1.言論と表現の自由  2.神を礼拝する自由  3欠乏からの自由  4.恐怖からの自由 である。これらは、今でも完全に勝ち取らなければならない自由なのであるが、いつの間にか、ハーヴェイの言うように、忘れられた自由となってしまったのだ。
 自由と民主主義を考える時、このような視点を忘れてはならない。自由は「神聖ニシテ侵スへカラス」ではないのである。
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