メニュー  >  安倍改憲をつぶす、 その先に何を展望し、実現するか 憲法前文と九条の原理の実現プロセスについて(?)
安倍改憲をつぶす、
その先に何を展望し、実現するか
憲法前文と九条の原理の実現プロセスについて(?)


武藤一羊【むとう いちよう:PP研運営委員】


6月9日追記:この原稿は、雑誌『ピープルズ・プラン』第79号に掲載されたものです。実際に本誌を手に取って購読されることをおすすめします。また、雑誌『ピープルズ・プラン』第81号では、激変する米朝関係をうけて、最新情況に即して論説が展開されます。ご期待ください。(編集部)

I戦後国家の解体過程における安倍改憲の位相

 この論考全体ではタイトルに掲げた「安倍改憲をつぶすその先に何を」というかなりの難物を論じるつもりである。
しかしそれを空中で論じるつもりはないし、できもしない。
順を追って次第に問題の深層に降りていくことを目指しつつ、最初の接近として、まず改憲をめぐる今日の状況の性格を検討しよう。
 二〇一八年をもって、この国の政治・社会は、安倍晋三の独断によって、一気に改憲プロセスに引きずり込まれた。
今年を「勝負の年」と宣言した安倍晋三は、憑かれたように、期限を切って、今年中に改憲発議、国民投票に持ち込むつもりさえあるようだ。「首相官邸がめざすのは今年後半の発議だ。今月二二日召集の通常国会の大幅延長、あるいは秋の臨時国会で発議すれば、発議から六〇?一八〇日に行われる国民投票を退位前の一九年冒頭までに行うことができる」(『朝日新聞』二〇一八・一・五)。なぜそんなに急ぐのかといえば、「首相が打ち出した改正憲法の二〇二〇年施行を実現するための日程が極めて窮屈だからだ。一九年夏には参院選があり、改憲に積極的な勢力が国会の発議に必要な三分の二を割り込めば、今年九月の総裁選で三選を決めたとしても、自らの政権下での発議は不可能になる」。ふざけている。憲法改正という重大事の日程を、自分の総裁再選の予定日から逆算して設定するなど、およそ考えられない思い上がりである。国家の私物化はそこまで進んだのである。「憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく」(『東京新聞』二〇一八・一・五)などと言うが、国民的議論などする時間もないではないか。
憲法を死に体のように扱い、議会を嘘と言い抜けで愚弄しつつ、二〇二〇年公布と期限を切った改憲にむかってつんのめるようにダッシュする安倍政権と、この状況に危機感をいだき、安倍政治に抵抗し、安倍改憲をつぶし、多少ともまともな政治を回復しようとする社会・政治勢力(以下「われわれ」と呼ぶ)が、いま歴史的な対決に入っている、と現状をとらえるならば、この対決の性格と彼我の力関係を見定めておくことはわれわれにとって不可欠だろう。私は、改憲をめぐる闘いは(使いたくない軍事用語をあえて使うが)法案や要求をめぐる個々の戦闘の集合ではなくて、それらが有機的に連動する一つの大きい政治的戦役という性格を帯びていることを確認すべきであると考える。
 この「戦役」は改憲発議阻止の闘争で始まる。反改憲行動の中心人物の一人である高田健は「〈勝負は国民投票で〉という幻想を捨て、改憲発議阻止へ」と題する文書(一月一一日)でそれを訴えた。これは空論ではなく、現実の展開を踏まえた提起である。あまりにも性急で粗雑な安倍の改憲計画は、改憲諸派間、また自民党内部さえ、深刻な意見の対立を引き起こしている。他方、改憲発議は、満場一致でなければならないと主張してきた立憲民主党の枝野代表は、日教組の「新春の集い」で違憲の安保法制を前提にした九条には絶対に手を触れさせてはならないとし「一切妥協なく、徹底して貫いて参りたい」と約束した。(『朝日新聞』一月一一日)高田は、昨年一二月の時事通信の世論調査では、発議を二〇一八年の通常国会で行うことへの反対が七割近く、賛成は二割ほどであると指摘している。発議を阻止する条件は確かに存在しているのだ。
 そして発議阻止を実現する最大の条件は、たとえ発議に成功しても、国民投票では勝ち味がないと改憲派が判断せざるをえない状況を形成することだ。改憲の最終的な勝負はそこにかかっている。そしてこの勝負は列島社会の多数者の態度決定にかかっている。この多数者の多くは、各種世論調査が示すように、改憲を差し迫った必要とは感じていないのである。それが力関係の場なのである。

力関係
―攻勢から守勢へ北朝鮮の核をめぐる危機

 力関係について大雑把な掴み方をすれば、二〇一五年、われわれは安保法制をめぐる闘いで攻勢側に立ち、かれら(以下安倍集団を中心とする改憲勢力をかれらと呼ぶ)が守勢にまわったことが確認される。いや話は逆ではないか、という声が聞こえる。この間、集団安保法案はじめ違憲の悪法を問答無用で押し通したのはかれらであり、われわれは法案通過をひとつも阻止はできなかったではないか。むしろ、攻勢はかれら、守勢はわれわれ、と言うべきではないか。
たしかに法案阻止はできなかった。しかしわれわれの側にあまり敗北感はなく、かなり手応えはあった、まだまだやれるという気分が強かったのではなかろうか。逆に後に述べるように、この局面において孤立感に襲われたのはかれらであった。さらに二〇一六年を経て、二〇一七年、かれらは森友・加計問題というかれらの本性に根差す公権力私物化の露見で、窮地に陥り、信用を失墜し、ウソと言い抜けと証拠隠滅と、大義なき総選挙などという政権のもてあそび、その総選挙で起きた「敵失」などのおかげでやっと生き延びていると言えよう。では二〇一八年、われわれはいまでも攻勢側に立っているか。
 そうとは言えない。この対決において、二〇一七年、彼らがどちらかというと攻勢にまわり、われわれが守勢に回っていると見るべきだと私は考える。そしてそれは、改憲に懸けられている事柄の核心部分における守勢であると私は考える。

 なぜか。われわれが守勢に立っている大きな要因の一つは、われわれが北朝鮮核・ミサイル危機(以下、朝鮮民主主義人民共和国を仮に北朝鮮と呼ぶ)に正面から向き合わず、原則的対応を怠ったため、かれらの九条改憲の土俵つくりを容易にしたことであると私は考える。その状態はいまだに続いている。
 北朝鮮の核・ミサイルが、森友・加計スキャンダルで追い詰められていた安倍政権にとって、かれらの非行から民衆の注意を逸らす強力な援軍となったことは、一〇月総選挙の後、麻生太郎が自民党議員のパーティーで、「衆院選での自民大勝」は「明らかに北朝鮮のおかげ」と口を滑らせたとおりである。安倍は、すべてのカードはテーブルの上にある、つまり朝鮮戦争を辞さないとするアメリカ大統領の旗持ちを嬉々として買って出て、無責任にも、交渉は無駄、極限までの制裁圧力をと世界中に触れ回る一方、国内では北朝鮮への嫌悪とそのミサイルへの恐怖とを煽り、それを口実に、急激な軍拡と自衛隊の軍事活動領域の拡大を行ってきた。海上では、臨戦態勢で展開された米艦隊に海自の「護衛艦」が一体として組み込まれ、米軍の指揮の下、北朝鮮への威嚇行動を共にするところまでコミットメントの水準を引き上げた。米日合同訓練と称されているがこれらはすでに北朝鮮威嚇のための軍事行動である。二〇一五年、安保法制強行の際に集団的自衛権行使を合憲と言いくるめるためにいろいろ弁じられていた制約すらもはや完全に無視され、自衛隊は米軍の指揮下にそれと不可分の一体として行動している以上、戦闘が起これば自動的に米軍の一部として交戦することになる。
 安倍は誇らしげに言う。「日米関係は、日米史で今が最も強いと申し上げることができます。…安保法制により、米国とお互いに助け合うことができるようになりました。助け合えなければ信頼できませんよね。昨年は自衛艦が米艦の防護を初めて行いました。助け合いが可能になったので三つの米空母打撃群が日本海に入り、かつてない大規模な演習ができた。助け合える同盟が強いことを証明した実例だと思います」。

 これらは、この間安倍政権が、北朝鮮危機を利用しつつ進めてきた軍事化のほんの一部にすぎず、ヘリ空母「いずも」の空母への改装や巡航ミサイルの導入など重大な項目を挙げるだけで長いリストが必要だろう。憲法九条はもはやほとんど政策決定上の考慮に入れられていない。枝野立憲民主党党首は、違憲の安保立法をそのままにした上での改憲発議は認めないと言明したが、その安保立法の規定した集団的自衛権規定さえ超える軍事化の実績作りが過去一年、一斉に、堰を切ったように進められた。憲法九条の改訂に先立つ系統的な九条蹂躙が始まっている。北朝鮮危機はその主要な口実として利用されている。
 この展開に反改憲運動は正面から立ち向かったとは言えるだろうか。少なくとも二〇一五年の安保法制反対時のような大きい運動を呼び掛けて九条改変の先取りともいうべきこの事態に正面から対決しようとする試みはなかった。
安倍改憲反対の統一集会やデモは行われた。しかし、それは北朝鮮の核・ミサイル問題を憲法九条問題との有機的、歴史的関連で捉えることなく、個別の出来事として、戦争反対、話し合いで解決を、というスローガンを付け加える以上にはでなかった。その間、多くの政党、マスコミの姿勢は圧倒的に「北」の核・ミサイルを国連決議違反と非難し、制裁強化を支持するもので、その上で武力行使でなく「話し合いを」と唱えるにとどまった。
 二〇一七年一一月二九日の北朝鮮によるICBM発射について、一二月四日、参議院は「これまでにない重大かつ差し迫った脅威で、地域および国際社会の平和と安全を著しく損なう」と抗議する決議を全会一致で採択した。決議はこれを「国際社会に対する正面からの挑発として断じて容認できない」と非難し、度重なる核実験、ミサイル発射は「核・ミサイル開発をあくまでも継続するという北朝鮮の意図の表れ」と指摘し、日本政府に対し、国連安全保障理事会の制裁決議の完全な履行を各国に働きかけ、「北朝鮮の考えを改めさせるとともに意味のある対話に引き出し、外交努力による平和的解決を模索すべきだ」と要望した。
 この決議は、共産党を含めて満場一致で採択された。翌日衆議院もこれに続いた。挙国一致、朝鮮危機にはこの線で全国民が足並みを揃えるという形が整えられた。これは改憲の是非がこの認識を前提にして論じられるのを当然とする状況の出現に他ならない。それは改憲をめぐる議論をあらかじめ強力に方向付ける。われわれはこのように方向付けられたナショナル・コンセンサス作りを有効に防ぐことができなかった。
 しかしこの国会決議のどこがおかしいのか、とひとは問うかもしれない。北朝鮮は、国連決議にも従わず、核保有国として認めろと要求し、米国本土を核ミサイルで攻撃すると脅すといった許しがたい国ではないか、軍事攻撃カードと制裁の圧力によって核・ミサイルを放棄させるのは当然ではないか。

危機の原因には沈黙―一九五〇年以来朝鮮戦争は継続している

 おかしいのは、この対応は、なぜこのような事態が起こったのかを一切問わないことにある。そこからは、この事態に「対処」するという表層的対応以上のものは生まれようもなく、「出口」はない。強いて解決を求めるとすれば軍事攻撃で北朝鮮の体制を壊滅させることしかなくなる。数十、数百万の人間の殺りくと社会の破壊をもたらす可能性をはらむ戦争を解決と呼ぶことはとうていできないであろう。
 解決とは、今日の事態に導いた原因を取り除くことでしかうまれない。それは最低限、一九五〇年に始まった朝鮮戦争を終わらせることである。考えてみればこれは信じがたい経過である。第二次大戦終結と朝鮮の日本帝国支配からの解放からわずか五年で勃発し、国土の破壊と百万単位の人々の死を招いたこの戦争は、一九五三年に停戦協定によって戦火は収まり、南北の軍事境界線が引かれ、国土は分割された。しかし戦火が収まっただけで、戦争は終結されなかった。それから六三年間、戦争を終わらせ、正常な関係を構築するための平和条約は、米北間で、交渉もされず、結ばれもせず実に六四年が経過している。(私事だが、私が一九歳で大学に入ったのが一九五〇年四月、その六月に朝鮮戦争が始まった。その私はいま八六歳である)。
 この朝鮮戦争が比喩ではなく文字通り、実質を伴って今日まで続いているのである。国連軍の帽子もかぶり続ける米国は、米韓軍事同盟により韓国に軍事基地を置き、三万の軍隊を駐留させ、戦時には韓国軍の指揮権は米軍が握る。
沖縄と日本本土の基地には五万の米軍が位置についていて、朝鮮有事の際には直ちに出動する態勢に置かれている。そして北朝鮮にむけてチーム・スピリットに始まる大規模な米韓合同演習が、執拗に、定期的に続けられてきた。「日米同盟」の下、在日米軍基地と日本自衛隊とはこの北朝鮮への米国の軍事的包囲の有機的一部である。
 過去六〇余年のうち、クリントン大統領の訪朝準備のため二〇〇〇年一〇月オルブライト国務長官がピョンヤンを訪問するなど、米朝関係正常化のチャンスがなかったわけではない。しかしこの計画を含め戦争終結と平和回復の試みはすべてつぶれた。ブッシュ大統領は九・一一後の「反テロ戦争」において北朝鮮を「テロ支援国」として「悪の枢軸」の一員に分類し、敵対的な存在として包囲を強めた。この稿の主題ではないので歴史的経過は追わないが、米国による北朝鮮の軍事的包囲が冷戦終結後も一貫して続けられてきたことは明白である。その裏には、冷戦終結に続くソ連の崩壊によって、米国陣営の側に、東欧諸国に続いて北朝鮮の体制崩壊を引き起こせるのではないか、という物欲しげな期待があり、米国の北朝鮮政策の重点は、包囲の継続かレジーム打倒か、の間を揺れ動いてきた。
 北朝鮮はこの軍事包囲に対して自衛するためとして核開発、核武装の道を選んだ。この政策選択が賢明であったかどうか。ありうる政治選択として是認しうるか。私はそれが賢明であるとは思わないし、是認もしえない。しかしそれが原理的に是認されるべきものであるかどうか、自衛のためとして核武装することを認め得るものかどうかと問うならば、答えは、立場によって異なるであろう。核兵器をいかなる意味でも容認せず、非核化を推進する立場に立てばこのような対応が正しいとは絶対に認めることはできない。(それが私の立場であり、そしておそらく多くのわれわれの立場であろう)。そしてその場合には、同時に巨大核武装国アメリカによる軍事的包囲・威圧も同時に容認できないはずである。逆に核兵器を肯定し核抑止力論の立場に立つものは、核包囲にたいする核自衛を原理的に非難しえない。日本政府は日米同盟によって米国の拡大核抑止に安全を依存するという立場なので、原理的に北朝鮮の核武装を非難できる立場にいないのである。それを脇において北朝鮮を非難することは、「われわれ(米日ブロック)には核の権利があるが、お前にはない」と告げるのと同じことであり、そのような一方的態度が抵抗なしに受け入れられるはずはないのである。
 トランプと安倍がとっている「制裁への屈服か戦争か」という瀬戸際政策を貫くものは、問題の歴史的な根をそのままに、原因から切り離して結果だけを取り除こうとする傲慢で虫の良い態度である。それは問題を解決するどころか、戦争に導く危険がきわめて大きい。繰り返すが、問題の解決は、一九五〇年以来六七年にわたって継続している朝鮮戦争を、形式的にも(平和条約によって)、実質的にも(対等な友好的関係の形成によって)終わらせることである。
このプロセスは、同時に東北アジアの共通の安全への取り組みに結び付けられなければならない。それは関係多国間での東アジア非核兵器地帯の創設を核とするものであり、その中で北朝鮮の核自衛の理由、もしくは口実は、失われるであろう。
 このような努力がまったく放棄されるなかで亢進している現在の危機は、基本的に米国と北朝鮮の間のものである。
(北朝鮮と日本の関係は、それとは別個に二〇〇二年の日朝平壌共同声明を軸とするものであるべきである)。ところが安倍は、問題の根源とも無関係に、また日朝関係とも全く無関係に、進んで米朝核・ミサイル関係に割って入り、米国を代弁して北朝鮮への敵対的当事者を買って出た。そしてなぜか意気揚々、制裁の極限的強化とか、北朝鮮との交渉はまったく無益とか、無責任で軽薄な言辞を撒き散らしつつ、これをチャンスと急速な軍事力の増強を推進している。北朝鮮核危機はこうして、安倍政権にとっては、改憲世論を高め、民心を排外主義に向かわせ、多数派民衆を「あるべき日本人」の鋳型に押し込むための格好の材料として利用されている。だがこの火遊びは危ない。危機の出口を持たぬままそれは戦争のバネを跳ねさせるかもしれない。
われわれは、ニセの解決への期待を退け、本当の解決に向かうべきである。われわれは、この北朝鮮核・ミサイル危機に、核心のところで対処せず、したがって解決の道を明確に示すことができず、それゆえ改憲をめぐる対決において守勢に立たされている。
 われわれは、ただの「話し合い解決」要求の代わりに、「朝鮮戦争を終わらせよ!米国は平和条約交渉を開始せよ!その第一歩として米国は無条件の話し合いに応じよ!」という要求を米国政府に突きつける必要がある。そして日本政府には、「米国の旗振りをやめよ、米国の戦争への参加を断わり、米軍の準戦争行動(共同演習・共同訓練など)に自衛隊を参加させるな、北朝鮮危機を利用した違憲軍拡を中止せよ、日本本土・沖縄の基地の使用中止を米国に要求せよ、日朝共同宣言に沿って北朝鮮との国交樹立交渉を開始せよ」などと要求すべきだろう。戦後長らく「アメリカの戦争に日本を巻き込むな」といういわゆる「巻き込まれ論」が平和運動を動機づけてきた。この論の弱点、またそのはらむ一国主義と排外主義について、私はずっと批判してきたし、それはいまでも変わらない。しかし今回の安倍の振舞いは、あらぬ目的のために進んで自国をも危険にさらす行為である。多数の原発を沿岸に並べている日本を壊滅させるにはICBMも核爆弾も不要である。そのなかでの安倍の火遊びのあやうさはどこまで認識されているだろうか。北朝鮮危機、それに便乗した九条蹂躙と改憲とのこれほど明白な状況的関連があるにも関わらず、われわれがそれを改憲プロセスの進行そのものと見ず、外在的出来事として扱ってきた-私にはそう見える-のはなぜなのか。
 日本列島住民にとって安全上の危険は北朝鮮からというより、安倍政権から来ている。ここでは、このような政府に対する民衆の「自衛力」の発動が唯一の安全保障であり、その「自衛力」はいまこそ発動されるべきであろう。

 さて以上に見てきた北朝鮮核・ミサイル危機と安倍の改憲プランの関係は、どちらかというと状況的、表層的な次元に属するものである。一九五〇年勃発の朝鮮戦争は、日本戦後国家と憲法問題の深部に構造的に組み込まれた要因であり、安倍改憲阻止と「安倍改憲を越えて」といういう二つのテーマをつなぐ環だと私は考えているので、それについては、後にもう一度立ち戻ることにしよう。ここでは、いったん朝鮮半島危機を離れて、改憲をめぐる力関係を戦後国家の解体・再編という見地から検討することに移ろう。
状況的次元ではなくて、構造的力関係というべき次元についてである。

安倍改憲提案の背景―後退戦の自覚

 まず目下の改憲プロセスが、二〇一七年五月憲法記念日に日本会議系の改憲集会に向けて安倍が発した「九条二項+自衛隊三項」という奇妙な提案で滑り出したことの意味に注目しよう。このことは、五年間の執政の結果として安倍政権がどのような(安倍にとってあまり祝福できない)改憲状況のなかに身を置いているかを如実に反映するとともに、その改憲模索への軌跡がいかに戦後国家の構造に媒介された-それに妨害され、またその弱みに付け込みもした-ものであるかを明るみだすからである。
 安倍の九条提案は、彼の独創ではなく、日本会議の戦略家で安倍のブレーンである伊藤哲夫の状況判断と提案に依拠したものであることは広く知られている。伊藤は、雑誌『明日の選択』の二〇一六年九月号に寄せた「〈三分の二〉獲得後の改憲戦略」という文章の中で、改憲をめぐる彼我の力関係についてかなり冷静に現状分析を行い、それに見合った改憲戦略を引き出そうとした。伊藤の全体状況への判断は、改憲勢力が国会議席の「三分の二の壁」を突破したにもかかわらず、改憲への状況はそれほど甘くない、改憲は「ようやく現実の出発点に立った」にすぎない、というものであった。「かかる状況を前にして」どのような改憲戦略を立てるか。伊藤はその状況を「肯定否定いずれをも内包させた微妙な現実を前提にしての出発」という含みのある表現で描写する。
 面白いのは伊藤が、護憲派陣営にたいして「自民党を中心とした安保法制推進側は一方的な防戦を余儀なくされた」と判断していることだ。「何をいっても、メディアを挙げた危険・強引・憲法違反のレッテルに主張を阻まれ、有効な反論を展開することができなかったのである」と伊藤は振り返る。国会包囲を含むこの間の民衆運動の抵抗は、安倍政権側を守勢に追い込んでいたことが向こう側から確認できる。したがって彼らにとって必要なのは「反転攻勢」ということになるのだ。
 しかし現実には、秘密法も安保法制も共謀罪法も自民党の強引、無法な国会運営で通され、運動側は敗北した。「われわれはまさに今、国民世論における微妙な「潮目」の変化の時を迎えている」と伊藤は見る。いまが反転攻勢に出るチャンスだというわけである。

「思考の転換」―二段階戦略への切り替え

 ここで伊藤は、右翼としては大飛躍に他ならない「思考の転換」を提案する。それが「反転攻勢」の中核となる戦略でもある。二〇一五年の経験を学んだのである。伊藤は改憲をめぐる現状をこう分析する。

 残念ながら、今日の国民世論の現状は、…「戦後レジームからの脱却」といった文脈での改憲を支持していない。にもかかわらず、ここであえて強引にこの路線を貫こうとするならば、改憲陣営の分裂を招くことは必定。本来ならバラバラである筈の、憲法を漠然と「普遍の原理」視する一般国民を逆に護憲派に丸ごと追いやることにもなりかねないといってよい。とすれば、ここでは一歩退き、現行の憲法の規定は当面認めた上で、その補完に出るのが賢明なのではないか。

 伊藤は国民投票を念頭に置いて語っている。そこでは、彼の本来の立場である戦後憲法の全面否定を持ち出せば、多数を取れない、と彼は見る。だから「思考の転換」が必要になる。とはいえ、それはかれらが現憲法を「無条件で肯定するという話ではない」と付け加える。「思考の転換」が必要なのは、もし自民党が現憲法が頭からダメだと主張すれば「、反対勢力としては感情的にも後には引けなくなり、改憲は世論を真っ二つにするイデオロギー的な正面対決となる他はない」からである。国民投票でのそのような正面対決は避けたい。そうなれば勝ち味は少ないと踏んでいるのである。ではどうするか。

ならば、この憲法の平和、人権、民主主義そのものには当面問題はないとし、その上でそれを一層確実にするためにも、憲法の足らざるところは補うという冷静な発想が必要ではないか、と問いかけるという話なのだ。(傍点引用者)

 それは、原理部分で一歩引いた上で「九条いじり」をするという提案である。「当面」は「憲法の平和、人権、民主主義そのものは認めるとしても」、と伊藤は続ける、「正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備える」という「国家としての大前提が(現行憲法には)欠けている」とする。微妙な言い方に注意する必要がある。伊藤自身は「憲法の平和、人権、民主主義」を認めない。しかし一応それを認めるという形をとりつつ、なお欠けている部分があると主張し、その部分を補うためにともかく武装力保持を合憲化するのだという筋道を立て、国民を説得する、というのが彼の戦略なのである。
 「こうすれば」と伊藤は言う「彼ら(護憲派)の反対の大義名分はあらかた失われるであろうし、その説得力も目に見えて落ちるのではなかろうか」。その上公明党との協議はすすみやすくなり、「護憲派から現実派を誘い出す」きっかけとなるかもしれぬと伊藤は述べる。(ここで「新九条派」を頭に浮かべても失礼には当たるまい)
 伊藤・安倍の九条加憲提案は、極右改憲勢力にとって、また彼らのイデオロギーと行動様式にとって、まったく気に入らないものである。憲法の平和主義、人権、国民主権こそが問題であり、削除すべしなどと主張してきた同志たちには裏切りと映るだろう。安倍は二〇一七年一二月一九日、東京都内で講演し、彼の五月の憲法改正提案について「停滞した議論を後押しするために一石を投じた。ただ、その石があまりにも大き過ぎ、その後が大変だった」と述べたと伝えられた。(『毎日新聞』二〇一七年一二月一九日)当然ながら自民党からは大きい反発が出て、憲法審査会に提出するのは九条二項存置と削除の両案併記になると伝えられている。
 この角度からの反発を予期し、それをなだめるために、伊藤はこれは「現在の国民世論の現実を踏まえた苦肉の提案」に過ぎないと念を押し、「国民世論はまだ憲法を正面から論じられる段階には至っていない。とすれば、今はこのレベルから「固い壁をこじ開けていくのが唯一残された道だ」、と弁じた。
 これはどこか昔の左翼理論に似ている。一気に社会主義にはいけないので、まず一段階としてブルジョア民主主義革命、それに続いて社会主義革命を実現するとする二段階革命論を想起させる。伊藤にとっても第一段階は第二段階へのステップにすぎない。「まずはかかる道で「普通の国家」になることをめざし、その上で、いつの日か、真の「日本」になっていくということだ」。

最初の暴走―一段階改憲のつまずきと「もぐり改憲」

 再登攀した安倍にとって「二段階革命」が当初の戦略でなかったことは明らかだ。二〇一二年末に権力を握った安倍は、当初はレジーム・チェンジの一段階戦略を夢見ていたと見られる。野にある時期、自民党は極右政党への脱皮・変態をとげ、二〇一二年四月二八日の日付でその思想に立つ改正憲法草案を発表していた。憲法草案発表のこの日付は、六〇年前サンフランシスコ講和発効の日、占領の終わった日、すなわち彼らにとって「脱却」すべき戦後=占領レジームを覆す闘いが始まった日である。そこを出発点に「真の日本」への巻き返しを図るという安倍極右自民党の意気込みが示されていた。
 政権についた安倍は直ちにそのため最初から暴走を開始した。二〇一三年四月、副総理を含む閣僚と議員の大量靖国参拝、侵略には定義がないとして事実上「村山談話」を否定する国会答弁、それへの中国、韓国の抗議には「いかなる圧力にも屈しない」と開き直った。私の言う「大日本帝国継承原理」を新レジーム作りの心棒に立てて、まっすぐ彼の改憲に進みたかったのであろう。その出発点として彼は件の四月二八日を「主権回復の日」として国民の祝日にすることを提唱した。安倍にとって「主権回復」の意味は「アメリカ製憲法」を廃棄して、主権を国民から国家に「回復」するための「自主憲法」をつくれるようになった、というものであったことを、当時私は指摘した。しかしそれは惨めに失敗した。沖縄にとってそれは無期限の米国の軍事占領に委ねられた日であり、本土民衆にとっては安保条約による米軍基地・軍隊のプレゼンスの無期限継続、右翼にとっては東京裁判の受け入れを意味したので、どの側にとっても、到底祝うべき日付ではなかった。記念集会は開かれ、天皇夫妻も出席したが、まったく盛り上がりはなく、退席する天皇の背後から式次第にない天皇陛下万歳が叫ばれたが、それはうつろに響いた。安倍の暴走が、戦後レジームへの一体化を試みてきた天皇夫妻に脅威を感じさせ、両者の不和が目立ち始めるのもこの頃からである。
 「戦後レジームからの脱却」を前面に掲げた一段階改憲戦略はこの時挫折を味わったと見るべきであろう。一気に正面突破はできそうもない。それ以来、安倍は改憲を容易にするために憲法九六条の改憲発議要件を両院議員の三分の二から過半数に減らすという改憲を提案して「裏口入学」との批判を浴びて引っ込めたり、緊急事態条項だけを入れたいと言ってみたり、改憲の入口探しを試みたが、どれもものにならなかった。
 さらに重大な齟齬は米国との間に顕在化した。安倍は、戦後国家を否定して戦前帝国の正統性を復活し、軍事的にも列強としての大国化(「世界の中心で輝く国」)を果たしたいのだが、それをアメリカへの忠誠を強め、アメリカの支持によって実現するつもりであった。しかしアジア太平洋戦争を自衛戦そしてアジア解放戦争とする帝国継承原理の公然たる貫徹にたいしては、オバマ政権の米国が強い反発と警戒感を表した。とくにそれが米国の意に反して日中関係を破壊しかねないことに懸念を抱いた。安倍にとって何より大事な対米関係は悪化し、ここでも一段階戦略は壁にぶつかった。皮肉なことに、安倍の歴史修正主義は、逆にアメリカの利害へのいままでより一層卑屈な従属、アメリカ軍事戦略への完全な一体化を結果したのである。
こうして安倍政権は、基本的に二段階戦略に移行することを余儀なくされていた。そしてしばらくは戦後主流の言葉遣いに妥協することにした。二〇一五年、戦後七〇年の声明では、安倍は自らの言葉として語ることを避けつつ、「先の大戦における行い」に「痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してき」た「歴代内閣」の立場は「今後も、揺るぎないもの」であるとした。彼の中核的支持勢力は快く思わなかった。
 本音を隠し、憲法体制の言語との妥協を余儀なくされるなかで、安倍たちが考案した概念装置は「未来志向」というものであった。「未来志向」への同意を取り付けることで、過去を片づける、都合の悪い過去に蓋をし、地中に埋めて、なかったことにする。この過去埋葬の方式は、二〇一五年一二月の日本軍慰安婦問題についての日韓両国政府による合意といわれるもののなかで露骨に貫かれた。当事者である元慰安婦の頭越しに結ばれたこの「合意」によって、日本政府は一〇億円を手切れ金のように支払い、これをもって、慰安婦問題は「最終かつ不可逆的に解決」されたとした。以後日本政府は、慰安婦をかたどったとされる少女像の撤去を高飛車に要求し、国連機関での追及にもこの問題は「最終的、不可逆的」に解決済みとして開き直り続けている。韓国民衆の巨大な民衆デモの力で誕生した文在寅大統領の政権は「合意」の事実上の見直しを決めたが、菅義偉官房長官は一月四日のBSフジ番組で、慰安婦問題をめぐる日韓合意について「一ミリたりとも動かさないのが日本の姿勢だ」と強調した。韓国の文在寅大統領が指示した「後続措置」についても「乗らない」と突き放した。(『時事』二〇一八・一・四)抗議のため安倍首相は平昌オリンピックへの出席をボイコットすると報じられた。

 一段階改憲「革命」構想の挫折のあと、安倍政権が手を染めたのは、改憲なしの改憲ともいうべきものであった。
すなわち、本来は改憲後に初めて実施しうるはずの制度と実体にわたる改変を明文改憲を待たずに実施し、実績として積みあげてしまうことを選んだのである。副大臣麻生太郎の悪名高い「ナチスの手口に学べ」発言が飛び出したのは、「主権回復の日」のあと、二〇一三年七月である。麻生は首相の靖国参拝について「静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって」としたあと、「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して…」と述べ、それが広く報道された。これを麻生の放言癖と片づけるわけにいかないことは、その後の安倍政権の歩みがはっきり示すところだ。麻生の放言は、しばしば権力の本心を暴露する。
これを「改憲に先行する改憲」方式、あるいは「もぐり改憲」方式と呼ぶこともできよう。これ以後の四年強で安倍権力によって推進されたのがまさにこの路線だった。「安倍一強」支配の下、秘密法、集団自衛権閣議決定、それに基づく安保立法、共謀罪法と主要な違憲立法が強行された。安倍とその閣僚、官僚たちは、議会の多数を頼んで、詭弁と虚言とはぐらかしで、答責を果たさず、「国権の最高機関」としての国会を愚弄し続けた。閣議決定で自衛権をめぐる歴代内閣の憲法解釈を根本から変え、集団自衛権の行使は可能という明白な違憲立法を強行した。「もぐり改憲」はそもそも違憲であるので、議会における野党議員の質問に、首相、閣僚、官僚たちは、整合的、論理的に、問題法案の合憲を弁じることは不可能であった。その結果、政府答弁は支離滅裂、論点そらし、子供だまし、事実上無答弁など、聞くに耐えない水準に落ち込み、「閣議決定」と議席数の力が裸のまままかり通る事態が常態化した。安保法制の強行でそれは頂点に達していた。
 この暴挙は、大きいダイナミックな反対運動を呼び起こした。戦後日本社会に蓄積されてきた平和主義・民主主義の幾層かの運動の潜在力が一気に活性化され、国会周囲の連日の行動となって噴出し、安倍の企てを脅かした。危機感を感じた知識人の多数は安倍批判にまわり、有力マスコミの一部も世論を反映しつつ批判的立場をとった。安保法反対世論はこの「戦争立法」に国会審議の過程で、自民党が参考人として招いた自民党寄りの憲法学者たちが、公聴会で安保立法は違憲と公言し、自民党に衝撃を与えた。このなかで、運動側は「立憲主義」を旗印に掲げて、抵抗と共闘の幅を広げた。
 自民党側の「追い込められた」という意識は二〇一五年のこの状況を反映している。ここで安倍政権がぶつかったのは戦後国家の三つの相互矛盾する構成原理の一つである憲法平和主義そのものであった。九〇代半ばから本格化した日本戦後国家の解体・再編プロセスにおいて、安倍集団が追求したのは、かれらの大日本帝国継承原理によって、憲法平和主義原理を解体、駆逐して、かれらの手でかれらの「真の日本」を作りだすことであった。前述のように、それを一段階で完成することは困難であることをかれらは認めざるをえず、「二段階革命」に路線を切り替えたのである。かれらがぶつかったのは、かなり劣化したとはいえ歴史の重みをもって存在する戦後平和主義の壁であった。
 この壁はどこまで堅固であろうか。かれらはそれを乗り越えられるであろうか。(二〇一八年一月一五日記)(続く)

【むとう いちよう:PP研運営委員】

続稿予定
Iの続き(安倍権力の憲法平和主義掘り崩し戦略)
?朝鮮戦争・講和・安保の憲法への構造的繰り込み-九条実行の射程
?前文と九条-変動する世界の中で非武装・非覇権国家を実現するプロセス

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