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敗戦70年を越えて:安倍極右政権を倒すとは何を意味するか、その先に何が開けるのか――国家の正統化原理の角度からの考察(3)


武藤一羊
(PP研運営委員)
2015年8月1日記


安保と憲法――二つの法体系


 私は一九八〇年代中ごろから、戦後日本国家というものを、国家の正統化原理に着目して捉えることで、その独特の性格を理解し、振る舞いを解明できることに気づき、その方法でかなりしつこく分析や提言を行ってきた。それは戦後日本国家というものを歴史的個性を持った構成物として対象化すること、それを通じて、この国家を相手にする社会変革の道筋を探ることを意味する。

 日本国家という存在が私の社会的関心の中核部分に位置するようになったのは、一つには私が日本帝国の植民地育ちで、子供ながらに帝国と内地間での一種のアイデンティティ分裂を経験したことが背景にあるかもしれない。これはここでは触れない。私の議論の直接の背景は、明治変革以来の日本国家の性格規定をめぐる共産主義運動のなかでの論争である。明治変革が、絶対主義を生み出したのか、それとも封建遺制を色濃く残すブルジョア国家を生み出したのか、前者なら革命の性格は民主主義革命、後者なら社会主義革命となるという革命の性格をめぐる一九三〇年代の路線論争だった。この論争自身にここでは立ち入らないが、その戦後バージョンとして、「自立・従属論争」として知られる共産党の綱領をめぐる分岐、論争があり、そこでは、単純化すれば、米軍の占領を経て再興した資本主義日本は、米国の従属国か、それとも帝国主義国として復活しているかが争われた。前者とすれば民族独立が、後者とすれば社会主義が革命の課題となる。一九五〇年代末から六〇年代初めにかけ、安保闘争を挟んで激しく闘わされたこの論争の渦中で私はこの「あれか、これか」の二分法に大きい違和を感じていた。従属国なら帝国主義ではない、独占資本主義が支配していれば帝国主義だといった抽象的な枠組み設定のなかで、戦後の具体的な米日関係の構造の認識が置き去りにされていると感じられたからである。

 しかし当時の論争が無益だったわけではない。そこには戦後国家をどう捉えるべきかについての探求があったからである。サンフランシスコ講和で一九五二年独立したことになっている戦後日本は独立国とはとうてい言い難い米国への従属を続けていることは歴然たる事実であった。サンフランシスコ講和は、「片面講和」と呼ばれたように、インド、ビルマ、ユーゴスラビアは招請に応じず、韓国は対日交戦国とはみなされず参加を拒否され、何より日本帝国の主要な対戦相手だった中国は招請されず、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは調印せずというなかで、日本は将来に禍根を残す国際社会復帰をはたしたのである。朝鮮戦争を背景に米国が設計し中ソを除外して推進されたこの「単独講和」は、占領後日本を冷戦において米国陣営に軍事的・政治的・経済的に結び付けるものとして、国内につよい反対を呼び起こしていた。その反対を押し切って条約は調印された。なによりこの講和条約によって沖縄は日本国から切り離され、海外最大の米軍基地の置かれる領土として米国の統治下に置かれた。この講和条約と抱き合わせで結ばれた安保条約によって米国は日本国内に特権的な軍事基地を維持し、その米軍は日本国内の内乱が起これば鎮圧のためにも出動できると定められていた。この講和を米国側で取り仕切ったジョン・フォスター・ダレスはこの講和で「望む数の兵力を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を確保」したと公言した。安保条約を実施する取り決めである行政協定は米軍基地の事実上の米国領土化、米軍要員への米国の一次的裁判権などを定めた不平等取決めで、それに基づく刑事特別法が国内法として制定された。一九五〇年マッカーサーの命令で朝鮮戦争を戦う米軍の後方を固める予備兵力として憲法を飛び越して作られた軍事力がそのまま保持され、やがて自衛隊として米軍戦略に組み込まれつつ強化、拡大された。占領の事実上の継続と見まがうサンフランシスコ講和後のこの日米関係はしばしばサンフランシスコ体制、もしくは安保体制と呼ばれていた。一体このサンフランシスコ体制と日本国憲法とはどういう関係に立つのか。

 一九六〇年、岸信介政権の安保改定=新安保条約締結の賛否で日本社会が二分され、この条約に反対する戦後最大の政治闘争が起ったが、これは安保体制と憲法体制の亀裂を劇的に示す歴史的できごとだった。この年、進歩陣営に属する憲法学者長谷川正安は「安保闘争と憲法の諸問題」と題する論文を発表し、現体制は「矛盾する二つの法体系の併存をゆるしている支配体制」であると主張し、大きい反響を呼んだ。法体系の一つは「憲法を最高法規として、法律――命令とつづく憲法体系」であり、「他は、安保条約を最高法規として、行政協定――特別法とつづく安保体系である」とする。長谷川は二〇〇九年に没し、大部の追悼論文集が二〇一二年に出版されたが、そのなかで「「二つの法体系」論の今日的意義と課題」を論じた本秀紀は、長谷川説が一九六〇年には「平和運動、憲法運動の指導理論として急速に定着した」とする見解を肯定的に引き、それは二つの法体系を憲法体系に一元化することによって「日本の民主的要求を実現するという実践的課題と結びついていたため」だとした。

 確かに一九五〇年代から六〇年にいたる時期、日本本土の革新陣営の運動は、内灘から砂川にいたる激しい反米軍基地運動に示されたように戦後国家の平和主義標榜にも関わらず戦争の基地が残り、強化され、使われ続けていることへの抗議と抵抗をくりひろげていた。それは米国の軍事への従属と戦前回帰を拒否し、憲法の平和主義と民主主義への国の基準の一元化を求める運動であったと言ってよい。社会党・総評ブロックは「護憲」の旗印でそれを表現し、共産党系の運動は「独立」に重点を置いていたが、基本的な見方は共有されていた。長谷川の理論はむしろこの運動意識の法学的表現だったと見ることができる。

 「二つの法体系」論は、その後影を薄めていき、八〇年代には語られなくなっていく。本はその理由として「安保条約をも超えるグローバル安保」の展開と、「憲法体系下の法律でありながら実質的には安保体制に組み入れられた諸法」の出現によって「二つの法体系」が交錯・複雑化した事情に言及している。本は触れていないが、一九六〇年安保の後、米軍基地は急速に沖縄に移され、それによって本土政治から安保を見えなくする政策が日米の合意によって進められた。これは長谷川において「二つの法体系」という把握を生み出した日米の安保関係が、六〇年当時に比べて一層進行したことを示すのではないか。その展開のなかで、本が「法体系というネーミング」が「まずもって批判の対象」となりうると感じる状況が生じたのである。いやそこには最初から「法体系」を越えたネーミングを要求する審級が存在したのである。

正統化原理の次元

 それは正統化原理の審級である。さきに触れたように、私は戦後日本国家の問題、というより「日本戦後国家」という問題はその自己矛盾した正統化原理にあると論じてきた。すなわち、戦後日本国家は(1)米国の覇権原理、(2)憲法の平和主義・民主主義原理、(3)大日本帝国の継承原理という三本の相互に排除し合う原理を折衷的に統合する構成体として作られ、継続してきたと考えるのである。長谷川の「二つの法体系」は、このうち(1)と(2)の正統化原理の分裂の反映とみることができる。

 ここで言う国家の正統化原理が政治学的にどう位置づけられるか、私は詳らかにしないが、ここで取り出したいのは、形式的な正当性の根拠ではなく、歴史的な内容を備えた個々の国家の構成原理のことである。丸山真男の言う「政治権力の実質的な正統性(Legitimitaet)」、「政治的正義」、「政治的権力が奉仕する客観的な価値」がそれに近いのであろうか。(丸山、「政治の世界」、岩波文庫p257)日本固有の「国体」概念もそこに含まれる。アメリカ合衆国にとって独立宣言が、フランス共和国にとっては人間と権利の宣言が、国家理念と行動の参照基準となっていれば、それはその国家の正統化原理を与えるものであろうし、中華人民共和国憲法は「労働者階級の指導する労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁の社会主義国家である」(憲法第一条)と規定しているが、これはこの国家の正統化原理であろう。

 国家がその正統化原理にもとづいておこなった行為は正統で正当なものとなる。正統化原理は建前であるから、国家の実際の行動の実態は建前から外れることは珍しくない(むしろ状態化している)が、通常、正統性原理に裏付けられている国家の行為は、正統で正当だと見なされる。また正統化原理はその国家が形成される主として内部の社会的・政治的・文化的力関係を反映して形成されるので歴史的・個別的であるが、国家間システムにおける近代国家の要件を満たす必要によって条件付けられてもいる。

 戦前日本帝国は、大日本帝国憲法、第一条「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第三條「天皇ハ?聖ニシテ侵スヘカラス」、第四條「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」第十一條 「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第十三條「天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及?般ノ條約ヲ締結ス」、第十四條「天皇ハ戒嚴ヲ宣告ス」とあるように、議会制度は導入さていたとはいえ、天皇主権がその正統化原理の根幹であった。そしてその原理に基づいて行われた行為――天皇の命令、認可による国家の行為――はすべて正統で正当なものでなければならなかった。こうして、明治変革以後のアイヌモシリ侵略、琉球処分、日清、日露戦争による領土拡張、韓国併合と植民地支配、「対支二一か条」、「満州事変」以来の中国侵略、「大東亜戦争」、一九四五年八月までは、日本国にとって、それらはすべて正統であり正当な行為でなければならなかった。

アメリカ覇権と戦後日本――自由と反共

 さて、では戦後日本国家にとって正統化原理は何であったのか。それが戦後日本問題の秘密の核心である。

 一九四五年八月、日本帝国のポツダム宣言受諾による連合国への降伏によって、日本帝国の正統性原理は効力を失った。日本国はその政府と共に存続したが、統治の正統性は日本帝国から失われ、ポツダム宣言にもとづく連合国、実際は米国の占領権力に移った。それを通じてアメリカ合衆国はその正統化原理によって日本国家を作り変えようとし、事実作り変えた。占領終結後も、アメリカ国家は戦後日本国家に独特の仕方で内在することとなった。

 足かけ七年にわたる占領軍統治をここで駆け足でも概観する余裕はない。ここでは戦後日本国家というものが、敗戦と占領をつうじて、国家の構成原理、正統化原理に関連してどのように成立していったかにしぼって検討してみることにする。

 戦後日本はアメリカ合衆国が第二次大戦後の世界で覇権国として出現し、自己形成するプロセスの内部に、そのプロセスの一部として組織された。すなわちパックス・アメリカーナの構成部分に組み込まれた。占領はこの組み込みの装置であった。戦前大日本帝国が壊滅したあと、戦後日本国家の原型は米国の占領下で、アメリカの覇権システムのサブシステムとして形成されたと言ってもよい。ではそのアメリカ覇権はどのような性格のものだったか。

 パックス・アメリカーナはそれ自身の強力な正統化原理を備えていた。第二次大戦後、名実ともに比肩するもののない覇権国家として出現したアメリカ合衆国は、もはや植民地帝国としての帝国主義ではなく、全世界を一つの支配領域――アメリカの商品、資本にとって広大で出入り自由の市場――と変えることを欲する帝国として出現した。米国の帝国としての地位はドルを基軸通貨とするブレトンウッズ・システムによって担保された。しかし真のグローバル帝国たらんとするアメリカの望みはソ連帝国の存在によって阻まれ、世界は二つの帝国に分割され、その間に五〇年近い「冷戦」が継続した。「冷戦」とは米ソ世界戦争がなかっただけで、朝鮮、ベトナムという血塗られた本格戦争が戦われ、内乱・内戦とそれへのほとんど間断ない軍事介入に彩られた時代であった。

 アメリカ合衆国の覇権の正統化原理をかりに「自由世界」主義と呼んでおくが、それは強い普遍主義の響きをもつものだった。それは、米国独自の国家原理を源流としつつ、二つの世界大戦を経てアメリカの実力を裏付けとして歴史的に形成された。それは、アメリカ合衆国独立宣言に発する「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」という米国固有の価値観を出発点としながら、第一次大戦後の国際連盟のウイルソン主義の提唱によって国際秩序のモデルに拡張された。だが一九三九年、ヒトラー・ドイツのポーランド侵攻によって第二次大戦の火ぶたが切られ、イギリス本土が脅かされるなかで、一九四一年一月、ローズベルトとチャーチルが艦上で会談、大西洋憲章に合意し、ファシズム打倒後の世界秩序の原則を宣言した。そこには、合衆国と英国の領土拡大意図の否定、領土変更における関係国の人民の意思の尊重、政府形態を選択する人民の権利、自由貿易の拡大、恐怖と欠乏からの自由、安全保障の仕組みの構築などがもりこまれた。四一年一月、ローズベルト大統領は、年頭演説で、ナチスドイツと闘うイギリスへの全面的支援を誓い、米国民だけでなく万人の権利である普遍的な「四つの自由」、(1) 表現の自由,(2) 信仰の自由,(3) 欠乏からの自由、(4) 恐怖からの自由を闘い取ると謳い上げた。その年一二月八日、日本は米英に宣戦布告し、アジア太平洋戦争が始まる。そして一九四二年一月、ソ連を含む連合国二六カ国が共同宣言に署名し、独日伊ファシズム枢軸の打倒のために結集した。日本の敗戦直後、この連合国(United Nations)がそのまま横滑りして国際連合(United Nations)になった。

 ここで国家のレベルで宣言された普遍主義は、世界の民衆にとって本当に自由や解放をもたらすものであったかどうか、欧米中心主義の価値観の世界化ではないか、植民地主義へ自己批判的視点を備えていたかなどが、きびしく批判的に点検されるべきものである。一方において、ファシズム枢軸の抑圧と征服に対して自由と人権が旗印として掲げられたことには下からの民衆の立ち上がりが反映されていたことは疑いない。またそのコアの部分に普遍的人権レジームとして展開しうる種が仕込まれていたと見ることもできよう。それは後に一九四八年の国連総会による世界人権宣言、すべての人民とすべての国が達成すべき基本的人権についての宣言、一九六六年に採択された国際人権規約(A規約、B規約)などに展開されていく土台となった。

 だが他方において、連合国を構成するヨーロッパの植民地保有国は、戦後、枢軸国の敗北後植民地を回復することを当然のこととして求めていた。さらに、普遍を主張するこの「自由世界」原理は、アメリカ国家を尺度とする原理なので、アメリカ自身の行動の正邪を測るのには用いることができなかった。すなわち自国の犯した戦争犯罪を裁くことはできなかった。原爆で大都市を住民ともどもまるごと破壊、殺戮しても、東京大空襲で一晩に一〇万人の住民を焼き殺しても、それは重大な戦争犯罪、ジェノサイドではなく、日本の降伏を早めることで数十万の命を救った行為――人道的とすらある行為――とみなされた。

自由と反共

 戦後国際秩序は、アメリカ合衆国を特権的中核として成立した。しかしアメリカ合衆国は同時に同盟国の一国に過ぎない。この二重資格を備えるアメリカ国家の正統化原理は、一国の原理でありながら、同時に国際的な原理に横滑りした。それはちょうどブレトンウッズ体制下では、ドルは米国の国内通貨でありながら同時に国際通貨(基軸通貨)として通用することになったことに見合っていた。アメリカ価値はそのまま普遍価値であり、一国通貨はそのまま世界通貨である。この普遍性と一国性の合体のなかに第二次大戦後のアメリカ覇権の特徴があり、それは米国覇権システムのサブシステムとしてつくられた戦後日本国家の深部に規定的作用を及ぼしたのである。

 普遍を主張するこの「自由世界」原理は、現実世界においては、自由の反対物に転化する。それは戦後まもなく「反共」の別名になり、膨張圧力を強めるスターリンのソ連帝国と版図を争うアメリカ帝国のイデオロギー、そしてその実態としての冷戦――核兵器と世界的な軍事同盟と軍事基地の展開――であった。「自由世界」を率いるアメリカは、核抑止力によってソ連帝国と軍事的に対峙するとともに、主として第三世界における下からの抵抗、民衆蜂起、革命を鎮圧するため「反共」の名による軍事介入と戦争が恒常化された。

 敗戦後の日本はこのアメリカの覇権システムにまるごと編入され、アメリカ側からすればその一部になった。それは〈米国の国益=普遍的世界編成原理〉という等式を成り立たせるよう仕組まれた世界への編入であった。だがこの等式では左辺が独立変数であった。すなわちここでの普遍は米国国益の関数でなければならない。しかるに右辺は「普遍」であるので変更や差し替えはできない。そこでこの等式は破綻の宿命を負うことになる。

 旧植民地帝国主義は植民地人民に本国人と平等な人権の存在を認めず、せいぜい「文明化」の対象とあつかうだけであった、すなわち普遍を自称しなかったので、このような不都合は生じなかった。植民地帝国主義とは区別される戦後アメリカ帝国の普遍主義覇権は、このような不都合を内包していた。 ホーチミンが起草したヴェトナム民主共和国の独立宣言にアメリカ独立宣言が引用されていることは広く知られている。そのベトナムにアメリカは自由=反共の名の下に破滅的な全面戦争を仕掛けたのである。二重の文脈に読み込まれうるアメリカ覇権の特殊性はここにあった。この特殊性は戦後日本国家の歩みに深く掘り込まれたのである。

 ごく乱暴に図式化すれば、米国の日本占領統治は初期(一九四五?七年)には、自由世界原理の普遍主義=民主化・非軍事化を中心に組み立てられ、後期、冷戦の激化と朝鮮戦争の時期には反共主義=「逆コース」を中心に再編された。初期を代表するのは、東京裁判と四七年憲法であり、後期を代表するのは再軍備と講和・安保両条約だったと言えよう。この両期を区分するのは中国内戦における共産党の勝利と中華人民共和国の誕生(一九四九年)と朝鮮戦争(一九五〇?五三年)であった。

 一九四五年八月の敗戦をどう受け止めたかは、人により、立場により大きい違いがある。だが戦争の終了と息苦しい軍事体制の崩壊が、多数の日本人に解放感をもたらしたことは否定できないであろう。外国による占領が解放感をもたらしえたのは、占領者米国が普遍主義的原理を適用したからであるが、その普遍主義は前述のように米国の個別原理、国益の表現でもあり、占領の両局面を貫いていたのは覇者としてのアメリカ合衆国の国益であった。憲法については、天皇主権はそのままに帝国憲法の部分的修正で切り抜けようと考えた日本政府草案(松本蒸治委員会案)が占領軍によって一蹴され、日本政府にとっては驚天動地の「マッカーサー案」が示されたとき、アメリカの国益はおおむね普遍主義の姿をとって表されていたのである。普遍主義ということでは、そこには人民主権、基本的人権、平和主義、男女同権など、明治憲法の基本をすべて覆す規定が盛られていた。だがそれが起草された文脈は、米国の国益に規定される政治の空間であったので、出現したのは共和制憲法ではなく、国家、国民の象徴という資格で天皇制を保持する憲法であった。

 米国は占領統治を円滑に進めるため天皇裕仁と天皇制を絶対に必要とした。一九四六年初頭、マッカーサーは、極東委員会の第一回会合が迫るなかで、連合国として日本占領政策を決定する権限をもつこの機関が東京裁判に裕仁を戦犯として起訴するのを封じるために、超特急で、総司令部の憲法草案を仕上げた。古関彰一は「そのためには、戦争放棄条項が盛り込まれたこの草案要綱を、東京裁判被告人選定の段階で、直接天皇の言葉である勅語を付して発表する必要があったのである。戦争放棄条項は、天皇を戦犯から除外するための戦略として憲法に盛り込まれた」と指摘した。(古関彰一「日本国憲法の誕生」岩波書店、2009、pp206?7)マッカーサーは、処罰を求める国内世論やオーストラリアなど他の連合国に対して、天皇制と天皇裕仁の強力な擁護者として現れた。米国政府は、対日戦争の早期から勝利後の対日政策の策定を進めており、そのなかで天皇を米国の「かいらい」として利用することは既定の方針となっていたのだが、マッカーサーはこの一般方針を上回って天皇の利用に熱心であった。他方、天皇裕仁は自己の保身と天皇家の存続のため、進んで、積極的に、米国の道具となることを志願した。彼は、一一回に及ぶマッカーサーとの会談を通じて、共産主義の進出阻止のため米国による沖縄の恒久保持の進言など、新しい役割を忠実に果たした。だが戦後天皇制についてはここでとめて、後に立ち返ることにしよう。

憲法がアメリカを裏切る

 この憲法を勝者による「押しつけ憲法」とする根強い、そして近年ますます高まる批判は、思想的には憲法の普遍主義に向けられている。これら改憲論者にとって、押しつけの行為だけが非難の対象なのではなく、九条の非武装主義だけがターゲットではないのである。それは二〇一二年の自民党改憲草案とその解説(Q&A)を読めば明らかで、そこでは歴史的反省を含む憲法前文がそっくり取り換えられ、人民[国民]主権が宣言されず、普遍的人権が西欧の天賦人権概念であると退けられ、表現の自由は勝手に停止できる条件がつけられている。それらは改憲問題にかけられているのが原理次元の問題――普遍主義からの切断――であることを明瞭に示している。

 一九四七年、この憲法が公布されたとき圧倒的多数の支持が集まったのは平和主義を含めてその普遍主義的性格のゆえであったと言えるであろう。帝国憲法との根本的違いは歴然としていた。それは重苦しい抑圧から解放への移行と受け取られた。長年日本国憲法について論じてきた政治学者で平和活動家であるダグラス・C・ラミスは、「押しつけ」を言うなら、すべての憲法は押しつけで成立したと指摘する。(C・ダグラス・ラミス「憲法は、政府に対する命令である」[増補]、平凡社、2013)自己の権力を自ら制限しようとする政府はほとんどないので、「もっともいい憲法の場合は民衆が立ち上がって、その政府の絶対権力を奪取し、それを制度化するために憲法を制定する」という過程でできたもので、それは一二一五年大憲章(マグナカルタ)がジョン国王に押し付けられて以来ずっとそうだと言う。「したがって、問題は押しつけ憲法か、そうでないか、なのではない。誰が誰に何を押し付けたのかということである」。そしてその場合「政府と民衆を区別」しなければならない、という。

 日本政府は天皇主権は留めたまま明治憲法を多少手直ししただけの草案を作っていた。それが新聞に漏れ、非難と批判が沸き起こった。マッカーサー司令部がこれを見て、激怒し、急きょモデル草案を起草し、日本政府に突き付けた経緯についてはよく知られている。ラミスはこう書いている。

 総司令部の憲法案を日本帝国政府に渡したとき(これが「押しつけ」の瞬間である)、コートニー・ホイットニー准将は、政府がすぐにその案を日本の民衆に公開しなければ、総司令部が公開する、と脅した。つまり、総司令部には、日本の民衆は必ずその草案を支持するだろうという自信があった。そしてその予測は当たった。
したがって、その憲法の高い支持率は民衆が新憲法に「同意した」ことを意味するのではなく、民衆が大日本帝国への新憲法の押しつけに参加した、という意味でもある。(ラミス、pp73―73)

 日本国憲法の成立史については、膨大な研究が積み重ねられ、マッカーサーの天皇制擁護の強い姿勢や、背後の国際政治的思惑や関係について詳細に知ることができる。しかしここで最も大事なのはラミス一流の寓話風の描写が浮き彫りにした基本的関係である。すなわち日本民衆の側に、松本草案のようなものを拒否し、総司令部案のようなものを歓迎する大きい力が存在していたこと、現実の日本国憲法はその力に支えられて成立したという点である。「ようなもの」と言ったのは、二つの草案の具体的細部ではなく、それらが代表する大きい傾向だけが問題であるような次元での議論だからである。その次元において、戦後日本の民衆は大日本帝国を拒否したのである。その民衆の多くが天皇の地方「巡幸」に感涙を流しつつであったとしてもである。「押しつけ憲法」論者は、国家の正統化原理における民衆の存在を見ないし、認めたくない。逆に、私たちは、そこに正統性の原点を据える。これは独立した原点である。
原点をそこに据えることは大きい意味がある。アメリカ覇権と憲法は戦後日本においては分離していくからである。ラミスは言う。「このように米総司令部が日本の民衆を同盟者として見ていた時期は、かなり短かった」。

 それは冷戦が開始され、「総司令部は日本の民衆を共産主義勢力(あるいはそうなりやすい人たち)として、敵意と恐怖で見始めた」(ラミス)からである。いわゆる「逆コース」――労働運動への弾圧、追放解除、レッドパージ、そして一九五〇年六月朝鮮戦争とマッカーサー命令による「警察予備隊」の名による日本再軍備など――が荒れ狂う。アメリカ帝国の普遍主義は米国国益としての「反共」に等置されることとなった。ここでは、「反共」とはすなわち民主主義の破壊に他ならなかった。そこでは日本は朝鮮戦争の前線基地として動員され、憲法に反して再軍備が開始され、アジアにおける反共冷戦戦略のとりでと位置付けられる。そのために革命に傾くアジアにおける資本主義のショウ・ケースとしての日本経済復興を促進し、そのため「失われた」東北アジアに代わって、東南アジアを日本に開放する。そうした戦略の仕上げとして、ソ連圏を除いた対日講和(単独講和)が準備され、一九五一年、サンフランシスコで調印され、翌年四月二八日に発効、占領は終わり、日本は独立を回復する。この講和条約は、沖縄を日本から切り離して米国の軍事支配にゆだねる恥ずべき取決めであった。そして講和条約と抱き合わせで調印された安保条約によって米軍は独立したはずの日本から去ることなく、基地を維持、拡大しつづけ、砂川、内灘など、民衆の激しい抵抗運動がおこる。

 普遍的解放の旗手としてのアメリカは失われ、戦争と反共と謀略のアメリカが全面的に出現する。「アメリカ製」憲法はこの経過のなかで、アメリカを裏切る。すなわち「平和憲法」は、「アメリカ製」のまま、立ち位置を変じてアメリカの覇権軍事に敵対する側につくことになる。あるいはアメリカ製憲法は逆にアメリカに対して差し向けられたとも言えよう。差し向けたのは、反基地運動、原水禁運動、平和運動、労働運動、女性運動など、社会・政治運動を通じて「革新勢力」として形成された戦後日本の民衆であった。
これが戦後日本の国家状況を特徴づける独特の関係であった。多くの場合、独裁的支配に差し向けられるアメリカの「自由」は、独裁が倒れると民衆を「反共」の側に繋ぎ止め、アメリカとアメリカ資本の側に動員する手段となる。最近の例では、旧社会主義国を下から崩壊させた一連のカラー革命はほぼすべてこの道をたどり、親米ネオリベ体制に滑り込んでいった。戦後初期の日本ではそうはならず、憲法、とくに九条はアメリカから自立して、アメリカ覇権に対抗する武器となっていった。

 他方皮肉なことに、「アメリカ製憲法」を嫌って自主憲法制定を言い立てる政治勢力は、現実にはアメリカの反共・冷戦の軍事の日本における受託者となり、「保守勢力」として自己形成し、一九五五年保守合同による自民党結成以後は、ほぼ作り付けの政権党となっていく。いわゆる五五年体制と保革対抗秩序が定着する。この政権は日本国の政権であるとともに、アメリカの反共冷戦体制の日本における執行者として、冷戦におけるアメリカの要求に従って、憲法違反の自衛隊の増強を推進する。しかし自民党は、政権党であるから憲法の下で、憲法に拠って統治しなければならない。こうして、「アメリカ製憲法」論者=改憲論者たちが、憲法に違反する行為を、アメリカのために、彼らが好まぬ憲法に拠って、一貫して遂行するというむちゃくちゃな矛盾を戦後日本国家はその核心に抱えていたのである。これは政策的な矛盾ではなく、国家の構成原理上の矛盾である。

                          (続く)

※次回アップロードは、8月26日(水)を予定しています。
※なお、本論説は、武藤さんが準備中の論文集の書下ろし原稿の一部になります(8月8日追記)。
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