メニュー  >  極右による「国家改造」の性格:耳栓・目隠しで「日本を取り戻す」(中) ――普遍的価値からの遮断装置としての自民党憲法草案/武藤一羊
極右による「国家改造」の性格:耳栓・目隠しで「日本を取り戻す」(中)
  ――普遍的価値からの遮断装置としての自民党憲法草案


武藤一羊

2012年12月14日記

 これまで「ジコチュウ」などというかなり前の流行語で安倍自民党の立ち位置を検討してきましたが、もう少し厳密に言うとすれば、それは自己都合に解消されない普遍的基準や価値からの遮断と言い換えることができます。2012年4月27日付で発表された自民党の「日本国憲法改正草案」(以下改憲草案)はこの遮断の意志の明明白白な宣言と読むことができますし、そう読むべきでしょう。ここでこの草案の逐条的な吟味ははぶきますが、普遍的規範から彼らの日本国を遮断しようとする意図が、草案の全体を貫いている様を駆け足で観察することにします。普遍的規範からの離脱は、日本国憲法の柱とされてきた主権在民、基本的人権、平和主義を根本から引き抜き、廃棄することを通じてなされています。では、どのようにしてでしょうか。

主権在民の否定の仕方

 普遍的な原理との切断への自民党の意志がもっともはっきり表れているのは日本国憲法の前文の削除でしょう。この前文は高らかに普遍主義を謳いあげた章句から成っていて、自民党的自己中世界観にとってはおそらくもっとも堪えがたい規定であるでしょう。ここに謳われている普遍主義は私はまるごとは支持できないものですが、日本国の今の状況で読み返してみると、ここからどこまで遠く来てしまったかという感慨とともに、やはりある興奮を覚えます。ここでは「人類普遍の原理」が「われら」=国民が主権者としてこの憲法を宣言し確定する拠り所とされています。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。


 自民党はこう始まる前文を(恐らく嫌悪感をもって)捨て去りました。前文は修正の対象ともならず、屑かご行きにされました。改憲草案はまったく新しい前文で始まります。私はこの前文によって主権在民が廃棄されたことに注意を喚起したいのです。(以下「国民主権」とは人民主権であるとして議論を進め、憲法制定過程で人民が「国民」に代わっていく問題性についてはこの稿では論じないことにします)。

 自民党は捨て去った前文を自前の前文で置き換えました。その改憲草案の前文はいきなり「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」であるという文言で始まります。ここで日本国が定義されていることが決定的に重要です。だが、誰が、いつ、いかなる権限をもって、このように天皇制込みで日本国を定義できるのでしょうか。国民主権があるなら、日本国を――天皇制を持つかもたぬか、も含めて――決定する権限は国民であるはずです。あらかじめ日本国の定義に天皇制を含めてしまえば、自民党憲法の下では、天皇制がなくなれば日本国でなくなる(定義の要件を欠くことになる)ので、日本国の国民は日本国の国民としては天皇制を存続させたり、廃止したりする権限を奪われることになります。主権在民の根本は人民が国家の形を決めることにあるのですから、この定義は主権在民の根本的否定にほかなりません。しかし自民党はこの憲法草案を国民投票にかけて(形の上では人民主権の発動を促して)決定したいというわけです。そしてその草案には人民主権の否定が含まれています。とすれば、いま自民党によってそそのかされているのは主権者としての人民の自殺行為であるというべきです。

 日本国についてのこの冒頭定義は、国民主権の否定を、国民主権を前提にして綴られている法文のなかに目立たぬよう持ちこみ、仕掛けておくという策略かもしれません。そうでなければ、天皇制込みで初めて日本だ、といった自民党の観念をただ宣言したに過ぎないかもしれません。それはどちらでもいいのです。ただこれが人民主権の否定であることは明確です。

 しかしボロも目立ちます。私は今日の文脈での改憲に反対しつつも、第一条に天皇制が置かれているような現行憲法の信奉者ではないのですが、その現行憲法も何とか主権在民の枠内で世襲天皇制を合理化しようと努力して、第一条で天皇の「地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」としているわけです。「日本国民の総意」なるものは問われたことがないし、問う手続きも存在しないので、この文言はごまかしにすぎませんが、一応理屈は通そうと苦労したわけです。自民党憲法草案は、天皇を元首とした以外は、日本国憲法の第一条をそのまま引き継いでいます。これは前文での日本国の定義のなかに天皇を入れた前文との間で自家撞着に陥っています。

 「国民主権」を正面から否定することは自民党にとってもやはりまずいのです。しかし国民主権はどこでも宣言されていないのです。前文でも、冒頭の日本国の定義に続いて、「国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」と「国民主権」に言及されてはいます。しかしこれは国家の性格でなく、政体についての規定です。この改憲草案では「国民主権」は枕詞として添えられているにすぎません。

 憲法のなかで「主権在民」を宣言する必要があるのでしょうか。あります。「長い歴史と固有の文化を持つ」日本国がいつ成立したとされているのかはわかりませんが、そのような日本国があるとして、それが歴史の大部分「主権在民」などとは無縁のものであったことは明らかです。いや明治憲法下の日本国では主権は天皇にあり、それに天皇は元首・大元帥で、「国民統合の象徴」などというやわなものではありませんでした。ですから、日本国を長い連続性で捉えるという立場に立てば立つほど、日本国憲法のように「主権は国民に存する」と宣言することは国家の根本的性格の規定として絶対に必要な筈です。現行憲法のこのカナメの文言を削除したのは、どう見ても、「主権は国民に存する」ことを事実上否定したい、もしくは骨抜きにしたいからと察するほかありません。「国民主権」とは国家が、至高のものである人民の意志によって打ち立てられ、その意志によっては変更されうるという意味であるはずなのに、冒頭に日本国家の定義がポンと勝手に与えられ、人民の意志とは無関係に決定されてしまえば、それだけで国民は至高の決定者の地位を奪われます。

 主権在民が否定されたとすれば、それでは「民」はどのように位置づけられるのでしょうか。おそらく自民党憲法の下では被統治者という資格に位置づけられているでしょう。統治するのは国家、ということになるでしょう。そして憲法はその国家が国民に遵守を要求する規則と理解されることでしょう。人民主権においては、憲法は人民が国家権力に与える命令であり、人民が権力の逸脱を防止する手段と理解されるのにたいして、人民主権を原理的に認めない自民党憲法草案の哲学ではそれが逆転しています。日本国憲法第九十九章の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という権力側の憲法遵守義務規定を「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」という国民への説教で置き換えてしまいました。

 自民党草案では、どうみても主権者は国家なのです。日本国憲法にある「公共の福祉」はことごとく「公益と公の秩序」で置き換えられていますが、この場合の「公」が国家であることはあきらかです。

 ここにおいて、日本国憲法の「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」という人民主権原理からの離脱は完結します。

 このような国家を民主主義とは呼ぶことはとうていできないでしょう。選挙制度付きの権威主義国家とでも呼ぶほかはないでしょう。

基本的人権の否認

 人民主権の取り消しとともに、自民党憲法草案が、あっさりとやってのけたのは普遍的権利としての基本的人権についての規定をバッサリ抹殺したことで、このことは、すでに多くの批判者によって指摘されています。これは日本国・日本社会の普遍的価値からの遮断が、重大な事態を引き起こすもっとも身近な領域でしょう。「憲法の三つの柱」のカナメになる基本的人権は、現行第十章第九七条の削除によって、普遍的な権利としての地位を拒否されたのです。抹殺されたのは以下の条文です。

第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


 その代わりに何が挿入されたのか。何もありません。基本的人権についての規定は自民党草案ではスッポリ抜け落ちているのです。日本国憲法では、この人権規定は普遍的人権―侵すことのできない永久の権利―として、憲法が国の最高法規であることの直前に置かれ、憲法を基礎づけています。自民党草案では、いきなり憲法が最高法規であることが述べられ、その後に国民がこの最高法規を尊重せよという前述の文言が続くのです。憲法は普遍的人権から切り離され、普遍的根拠を示されないただの最高法規となったのです。

 なぜそうなったのか。この憲法草案起草委員である片山さつきが、ツイッターで口にした人権論が、その動機を明かしてくれます。彼女のつぶやき(二〇一二年一二月六日)はこうです。

国民が権利は天から賦与される、義務は果たさなくいいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!


 語るに落ちる、と言ってしまえばおしまいですが、多少注釈を加えると、片山は人権を権利一般にすり替え、義務を果たすことと相即的な権利にしてしまいます。義務なくして権利なし。そうすると義務を果たさない人間に人権はない、となり、さらに義務とは「国を維持するために」自分が為すべきこととなります。つまり国に尽くさない人間に人権はないということです。このような考えを貫くためには人権の普遍性からきっぱり手を切る必要が生じます。侵すことのできない永久の権利などという考えはもってのほか。天賦人権ではなくて、「過去幾多の試錬に堪へ」てきた「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」などであればなおさら日本国家の維持とは無関係になる。そうした人権など国家としては認めるわけにはいかない。そういう理屈の運びになります。国家に発し、国家に帰る、むろんそれは日本国家なのですが、そういう永久循環の中に人権ははめ込まれてしまいます。このような人権概念の軽薄さ古臭さにはただあきれるほかありません。一九四七年の日本国憲法制定時の人権概念さえ拒否したとき、下からの民衆の力で厚みと深さを増し、国際的に定着し、それによってグローバルな普遍性を獲得してきた今日の人権概念は、自民党憲法下の日本国家にはまったく理解不能になるでしょう。そのような日本国家は人権レジームから弾き飛ばされてしまうでしょう。自民党を乗っ取った極右勢力はそれを知った上であえてその道を選択したのでしょうか。

 自民党憲法草案の描く右翼日本国家の普遍性からの遮断を主権在民と人権について見てきました。つぎは平和主義となる順序ですが、これは日米関係における日本国家という政治的仕組みに立ち入る必要がある主題なので、次回に検討することにします。(2012・12・14記)(続く)
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