メニュー  >  安倍集団による国家乗っ取りの現段階――「自衛権至上主義」であらゆる武力行使を解禁する仕掛け/武藤一羊
安倍集団による国家乗っ取りの現段階
  ――「自衛権至上主義」であらゆる武力行使を解禁する仕掛け


武藤一羊
(ピープルズ・プラン研究所運営委員)
2014年8月11日記

 安倍政権は昨年の秘密法の強行に続いて、「集団的自衛権」で麻生副総裁の「ヒトラーの手口」にならういま一つの中央突破を企てた。解釈改憲と言うより憲法を愚弄するこの企ては、民衆の強い抗議と抵抗、世論の警戒を呼び起こし、そのなかから安倍政権打倒の声が挙げられ始めた。「戦争する国家つくり」は「閣議決定」だけではできないので、関連法案を葬る本格的な闘いはこれから本番を迎える。いまはその序の口にさしかかったばかりだ。だがそれに備えて「閣議決定」の性格とその弱点を検討しておくことが必要だ。その角度から、以下に関連するいくつかの問題点を考えてみたい。
 問題の7月1日閣議決定は「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」と題されている。「国の存立」とか「国民を守る」など大時代だが、行政府が憲法解釈をひっくり返すというそれ自身違憲の行為を正当化するためには、これなしには国は亡びるとなどと国民を脅迫してみせることが必要だったのであろう。

 さて、ではこの決定の核心はどこにあるのか。まずそれを検討してみよう。この文書は、「平和の党」を標榜する連立与党、公明党を恫喝で抱き込むプロセスを反映してか、全体のトーンが弁解的で、受け身に見えるのである。与党として決定作成に加わった公明党の山口那津男代表は、閣議決定直後の記者会見で、「外国の防衛を目的とするいわゆる集団的自衛権は今後も認めない」と語ったと伝えられている。一体どうなっているのか。
 閣議決定が一読、弁明調で書かれなければならなかった理由は、これが安倍政権の本来の綱領的目標である改憲が、正面突破の形では容易でないと判明したなかで、迂回路として選択された「手口」だからである。すなわち、当面、改憲が容易でない以上、今回の新方針は現行憲法と両立するという口実を用意しなければならなかったからである。ところが「集団的自衛権」については、1972年に憲法の下ではその行使は許されないと明示的に結論づけた政府決定「集団自衛権と憲法との関係」が存在する。安倍は「閣議決定」によってこれを逆の「許される」に変更したわけである。多くのメディアは、この手続きを、1972年決定の論理自体を逆手にとったアクロバット的手法として論じているが、果たしてそうかどうか、念のためもう一度おさらいしてみよう。

 1972年の政府決定はまずこう述べていた。

 憲法は、第9条において戦争を放棄し、戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、国政の上で最大の尊重を必要とする」旨を定めることからも、わが国が自らの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかで、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。

 これが当時の政府決定の前段である。ここではすでに解釈改憲の入り口が開かれていることを抑えて置こう。戦力の保持を禁じる憲法9条にもかかわらず、国家には自衛権はあるので、自衛隊を保持することは憲法に違反しないと弁じられている。注目すべきはここで憲法前文と13条(ハト)が自衛隊とその武力行使(タカ)を合憲とする根拠として引き合いに出されていることだ。しかしこうした上で、1972年政府見解はそれに制限をかけた。

 しかし、平和主義を基本原則とする憲法が、自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまでも国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民の権利を守るためのやむを得ない措置として、はじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。

 そしてこう結論する。

 わが憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されないと言わざるを得ない。

 これが集団的自衛権行使禁止の条項であった。個別自衛権と集団的自衛権の間に一線を引いて解釈改憲をそこまで、としたのである。

 さてここから今回の安倍「閣議決定」に飛ぼう。こう述べている。ここがこの「決定」のカナメの部分である。

 …現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
 

 1972年決定の前段の理屈を使って、集団的自衛権は不可という結論を取消したのである。自国にたいする攻撃だけでなく、他国にたいする攻撃があっても、武力行使が条件付きで合憲だとしたのである。それには新しい論拠を持ち出す必要はなく、1972年決定にある個別的と集団的の間の一線を取り払うだけでよかった。憲法は自衛権まで否定はしていない、という1972年決定の文脈をそのままに、個別も集団も自衛権の行使であることにかわりはない、と弁じたのである。

 そしてその後に、閣議決定はきわめて興味ある、もしくは不思議な以下の段落に続く。これが今回の閣議決定の眼目、〈集団的自衛権〉というコトバが出現する本文中唯一の場所である。

 我が国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然であるが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、憲法上は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。
 

 ここでは集団的自衛権それ自身は検討の対象として扱われず、いわばなりゆきで出現する。集団的自衛権という用語で何が指されているのかもわからない。直接に軍事同盟である「日米同盟」を根拠とするのかどうかもわからない。無頓着、というよりむしろ集団的自衛権を論じないことの確認である。その上で、とにかく「我が国」は自衛のためなら武力を行使する。それはあくまで合憲だ。自衛のためだからだ。個別的自衛権の行使か、集団的自衛権の行使か、集団的安保への参加か、それはどうでもよい。自衛であるからにはみな合憲である。国際法上の根拠は後からついてくる。そういう立場表明である。
 
 文中に「集団的自衛権」が出現する仕方には絶句するほかない。そこには安倍政権、そして日本右翼に特徴的な自己中心主義が生のまま露出しているように見えるからである。「集団的自衛権」を語るならどこかに他者がいそうなものだが、それがいないのである。どこが「集団」なのだ。相手は誰だ。奇異なのは、本来なら日米同盟で結ばれた米国は、もっぱら自己都合だけで行動する存在なので、日本のジコチュウの外にあるはずであるのに、その米国さえもここでは日本自衛権に合体されて現れる、いや現れもしない。すなわちこの自衛権観はおよそ自己相対化の契機を欠いているのである。帝国の生命線、満蒙を守れ、と眼を血走らせた1930年代の日本陸軍から、ホルムズ湾からの石油が滞れば「わが国の存立が脅かされ」るから、さあ武力行使を、と唱える2014年の安倍晋三まで、ジコチュウ度は少しも変わらなかった。それを貫くのは自己都合による世界認識、むしろ世界ねつ造、ここでは自衛権至上主義とでも言うべきものである。

 今回の「閣議決定」は、2007年、第一次安倍政権が私的諮問集団としてお仲間を任命してつくったいわゆる「安保法制懇」が、第二次安倍政権の下で作業を再開して書き上げ、2014年5月15日に安倍に提出した報告書の中身を元に作り上げられたので、法制懇報告書はいわば種本である。その種本を読んで見ると、どうも憲法九条はとっくに廃止されているのではないかと思えてくる。いわば廃帝扱いだ。日本国憲法は、「自衛」のために誰にたいしてであれ武力を行使することも、他国が攻撃されたとき「集団的自衛権」を発動して武力を行使することも、国連の集団安全保障措置としての多国籍軍に加わることも、なんら禁止していない、ということになっている。その要点は「憲法9条の規定は、我が国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇又は武力の行使を行うことを禁止したものと解すべきであり、自衛のための武力行使は禁じられていないと解すべき」(法制懇、「報告書のポイント」)ということにつきる。「閣議決定」には直接盛り込むことのできなかったこのポイントが「閣議決定」の背後の思想であり、安倍自身の個人的立場でもあることは自明であろう。この報告書では、憲法9条は、事実上、何も禁じておらず、何も規制しておらず、ほぼ無いと同じに見えてくる。セミの抜け殻である。9条で禁止している武力行使を「我が国が・当事国である・国際・紛争・の解決」のためのものとブツブツと区切ったあとで、この区切りの一つでも当てはまらない場合は、武力行使は禁止されていないとする。禁止されていないので自衛の名目さえ立てば武力行使に訴えることができるとする。「国際紛争を解決する手段としては」という9条のいわゆる芦田修正を利用して、自衛は国際紛争を解決する手段ではない、したがって自衛のためと言いさえすればどんな武力の行使でも合憲となる。そのように強引に憲法を読んでしまうのだ。(だからこそ尖閣をめぐる中国との対決は「国際紛争」であってはならないのだ。尖閣は「日本固有の領土」だから、そこには中国などの理不尽な一方的領土要求があるだけ、だから武力行使は自衛だけのためと言い続けなければならない。したがって解決できない)。

 多少極論すれば、安倍極右政権にとって、この自己中心的自衛権至上主義の足場を政治の中枢に確保することが今回の彼らの「集団的自衛権」作戦における最大の獲得目標であったと言えるだろう。そして安倍自身はそれに成功したと、満足を感じていると見える。
 彼らの狙いがそこにあると見て初めて、安倍の説明が驚くほど薄っぺらで、見え透いたものだった理由がわかる。彼にとって、具体的な現実は実はどうでもいいことであり、かれの観念の中にある何か核心的命題が実現されることだけがかれの関心事だったのである。それはオリンピック誘致で用いたあの常習的手法である。あのときはオリンピック招致が中心命題であったので、それにどぎつく役立つ「放射能漏れは完全にコントロールされている」という大見えを切った。それに何のためらいもなかった。それは端的な虚言であった。ところで彼はのちに嘘を訂正したであろうか。考えもしなかったであろう。同じ性質の嘘が閣議決定のなかでも平気でつかれている。集団的自衛権を発動し海外で多国籍軍を支援する自衛隊は、「現に戦闘行為を行っている現場ではない場所」で補給、輸送などをやるという。だから武力行使と一体化はしないのだという。補給、輸送はそれ自身が戦闘の一環であるから、誰が考えても、それを叩き潰すために敵は戦闘を仕掛けてくるだろう。すなわちそこが戦闘の現場になる。その「場合は、直ちにそこで実施している支援活動を休止または中断する」のだと安倍は答える。だが中断すれば、敵は攻撃を止めるだろか。ありえない。ここぞと攻撃するのがふつうであろう。それに応戦しなければ部隊は殲滅され、応戦すれば、そこがただちに「現に戦闘を行っている現場」になるだろう。2日間の国会質疑で安倍は「武力行使を目的として戦闘に参加することは決してありません」という質問者を愚弄するかの意味不明の答弁を繰り返していた。このようなありえない想定―嘘―を安倍とその仲間は平気で閣議決定に書き込むのである。
 安倍政権にとってこの手の嘘は平気なのである。自衛権至上という核心的命題を受け入れさせさえすれば、目的は達せられるのだから。
 安倍の頭では、「日本の存立が脅かされ」ていると唱えさえすれば、集団的自衛権は無関係でも、いかようにも海外での武力行使を合理化できるようになっている。7月14日の衆院予算委員会で、安倍は岡田克也議員の質問に答えて、ホルムズ海峡に機雷が敷設され、封鎖されば「経済に相当な打撃となる。武力行使にあたる機雷掃海をすることはありうる」と述べたと報じられた。(『東京新聞』7・15)自衛のためとして武力行使に訴えることのできる「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」なるもののなかには、日本が経済的打撃を受けるケースも含まれるとまで安倍は言ってしまったのだ。

 「自衛のため」なら武力行使は世界のどこででも可能、合憲としよう。だが国の交戦権についてはどうだろう。憲法九条2項は「国の交戦権はこれを認めない」と述べている。したがって日本軍には交戦権がない。これは「法制懇」の議論の泣き所である。手持ちの六法には、交戦権とは「交戦国が国家として持つ権利で、敵の兵力を殺傷、破壊したり、都市を攻撃したり、占領地に軍政を敷いたり、中立国に対しても一定の条件の下に船舶を臨検、拿捕し、又その貨物を没収したりする権利の総称」とある。この権利を日本国は持たない。ダグラス・ラミスは、交戦権なしに敵兵を殺せば殺人罪が適用されなければならぬはず、と繰り返し指摘してきた。安倍首相の「閣議決定」直後の記者会見では、私の知る限り、交戦権という言葉での記者からの質問は出されなかった。だが武力行使のなかで自衛隊の側に死者がでるであろうこと、それを政府はどう扱うか、といった質問は耳にした。それにたいして安倍はまったく解答せず、無関係なテーマを喋り捲ることで切り抜けた。再質問はなされなかった。武力行使は相手側の人間を殺し、傷つけることになるが、これは殺人、傷害が罪とならないのか、ならないとすればその法的根拠は何か、という質問もなされなかった。

 「閣議決定」は交戦権について一言も触れていない。「報告書」の方は、一か所で言及している。こうである。

 「交戦権」については、自衛のための武力の行使は憲法の禁ずる交戦権とは「別の観念のもの」であるとの答弁がなされてきた。国策遂行手段としての戦争が国際連合憲章によりjus ad bellum(戦争に訴えること自体を規律する規範)の問題として一般的に禁止されている状況の中で、個別的及び集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障措置等のように国際連合憲章を含む国際法に合致し、かつ、憲法の許容する武力の行使は、憲法第9条の禁止する交戦権の行使とは「別の観念のもの」と引き続き観念すべきものである。
 

 何を言っているのか、誰か、わかる人がいるだろうか。法律家たちはそれをどう説明しているのだろうか。「報告書」の「引き続き観念」の下りは、その注記によれば、森清衆議院議員の1985年9月27日提出の質問書にたいする政府答弁書の以下の部分に依拠している。

 わが国は国際法上自衛権を有しており、我が国を防衛するため必要最小限の実力を行使することが当然認められているのであって、その行使として相手国兵力の殺傷及び破壊を行うことは、交戦権の行使として相手国兵力の殺傷及び破壊を行うこととは別の概念のものである。
 

 これ自身が相当苦しい議論であるし、「別の概念」とはどういう概念かも示されていないので何の説得力もないが、それでもこれが日本の国土上に侵入した外国軍への抵抗を念頭に置いて作文しえたものであろうとは察することはできる。だが、国土防衛の話ではなく、「集団的自衛権」を論じる「報告書」の議論だと、交戦権というのは戦争が合法であった時代の概念で、1928年のパリ不戦条約から1945年の国連憲章にいたる国際的な戦争違法化の流れのなかでは、個別的・集団的自衛権の行使や国連の安全保障措置しかなくなったのでそもそも交戦権というものがなくなったと説いているかに聞こえる。相手の兵力の殺傷、破壊を行ったとしても、それは交戦権の行使ではないと主張しているかのようである。交戦権に出場所はないことになる。しかし日本国憲法はパリ条約はもとより、国連憲章の後にできたのである。憲法は最初から9条に死文を掲げたのか。
 交戦権などなくてもいい。あるのは自衛権のみ。「報告書」はこれを、集団自衛権を発動して他国の戦争に加担する行為や、国連決議による多国籍軍に参加して外国で作戦の一翼を担う行為にまで拡大する。それはすべて「自衛」のためだから、合法、合憲であり、交戦権などなくても「別の概念」による正当化の下、殺傷、破壊を行える、「引き続き」そう「観念」できるし、すべきだと主張しているのである。
 交戦権を持たぬ国のあってはならぬ武装組織としての自衛隊は最初からこの問題を抱え込んでいた。自衛隊法によれば、自衛隊の治安出動の場合、また防衛出動時の公共の秩序の維持のためには、武器使用は刑法36条(正当防衛)か37条(緊急避難)によってのみ正当化されることになっている。だが外国武装力との戦闘はどうか。「外部からの武力攻撃」があった場合、総理大臣は自衛隊に防衛出動を命じることができるが(76条)、そのさい出動を命じられた自衛隊は、「わが国を防衛するため、必要な武力を行使することができる(88条)とあるだけである。
 今回の閣議決定に沿って、日本自衛隊が外国で武力行使―殺人、破壊―を行うとすれば、それは国の交戦権の行使とは違う何か「別の観念」によるものなのだろうか。「別の観念のもの」でありさえすれば、殺人、傷害、器物の破壊などの行為の犯罪性は阻却されるのだろうか。私たちは、安倍集団とともにそんな都合のいい(恐ろしい)観念を導入したいのだろうか。

安倍政権は袋のなかに首を突っ込んで地球儀の夢を見ている。
2014・8・11記
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