『季刊ピープルズ・プラン』44号(2008年秋号)
<特集>何のための司法「改革」?

特集にあたって
山口響


 行政や立法に比べて、司法の問題は人びとの注目を集めることが比較的少ない。本誌でも、この問題を特別に取り上げたことはこれまでなかった。しかし、来年5月の裁判員制度開始を控えて、司法への関心がにわかに高まっている。そこで本誌でも、現在進行中の司法「改革」・刑事制度「改革」がどんな性格のものなのかを明らかにするために、特集を組むことにした。
 前提として、日本国憲法下にあっても、司法がきわめて非民主的な性格を持ち続けてきたことを指摘しておかねばならない。本特集の西川論文は、最高裁判所の事務総局を頂点とした司法官僚のシステムが、民心から遊離した司法制度を形作ってきたことを明らかにしている。また、水島論文も、ジェンダー分析という別の視点から、日本の警察や司法関係者が性犯罪の被害者である女性に対して偏見を持っている事実を明らかにしている。
 このような非民主的な司法に「市民の声」を反映させるという名目の下でこのところ進められているのが、一連の司法「改革」だ。1999年に政府が司法制度改革審議会を設置したことに端を発している。2001年には政府に司法制度改革推進本部が設置され、2004年には裁判員法が成立した(特集には、資料として「司法制度・刑事法『改革』年表」を付けたので、ぜひ活用してほしい)。
 また、同時に、刑事政策の分野においても、さまざまな「改革」が進められている。宮本論文は、これらの「改革」の背景にあるものを総論的に示している。簡単にまとめるならば、新自由主義遂行の妨げになるリスク要因除去のための内外における重武装化であり、危機管理国家の登場ということになろう。また、山下論文は、刑事訴訟法「改正」は冤罪の温床となる「人質司法」の構造に手をつけるものではないと主張し、新倉論文は、司法「改革」には市民参加を進める側面があるとして評価する一方で、現在の被害者対策が「治安対策としか位置づけていないように見える」ことがあると指摘している。本特集を通じて、司法「改革」がいったいどんな内容の、誰のための改革なのかを読み取ってほしい(なお、民事裁判や法曹育成などにおいても「改革」が推し進められているが、これについては本特集で取り扱うことができなかった)。
 また、本特集では、「改革」の問題点を指摘し、日本の司法の非民主性を嘆くだけではなく、そのような状態にあってもなお、積極的に司法の場に介入し、成果をあげようとする民衆の側の試みについても多く取り上げることにした。本人訴訟の取り組みについて3本、さまざまな裁判体験記を4本収録した。どれもこれもけっして当事者にとっては簡単な話ではないが、読者に少しでも裁判を身近なものに感じてもらい、裁判にチャレンジしようとの意欲を喚起できたなら幸いである。さらに、国内法だけではなく国際法もまた利用する価値のある規範である。座談会「国際法を私たちの手に」でもそのことが明らかにされているだろう。

◎裁判員制度のどこが問題か

 本特集では裁判員制度の問題を単独で取り上げていないため、ここで、この制度にどんな問題があるのかを説明しておこう。結論から言えば、プロの裁判官と素人の裁判員が協力して行う裁判は、けっして日本の司法の「民主化」をもたらしはしない、というのが私の意見だ(もっとも、本特集の西川論文のように、裁判員制度に司法の「民主化」の可能性を見る意見や、裁判員制度を是とするわけではないにせよ、制度が始まってしまう以上は、そこへ介入して専門家支配を変革していくきっかけにしていくべきだとする水島論文のような立場もある)。
 私の考える裁判員制度の問題は、第1に、私たち一般市民が、加害者を裁く立場としてのみの偏った「市民参加」を強いられるという点だ。しかし、市民参加の形は、裁判員としての参加に限られない。裁判を傍聴したり、裁判官や検事などと意見交流して市民の意見を伝えたり、メディアを通じて裁判批判をしたりと、さまざまな形の関与の仕方が考えられる。ところが、現在の司法「改革」では、私たちは裁きを与える者としてのみ、選択的に「参加」を認められるに過ぎない。宮本論文は「敵」を殲滅するという論理と心理が社会を覆いつつあると主張している。私たちは、社会の「異物」を除去するためにのみ、「参加」を許されるのだ。除去される「異物」=被告人の立場は、ここではまったく顧みられていない。
 第2に、素人の裁判員は、一時的にであれプロの裁判官に近い権限を与えられているにもかかわらず、事後的に責任を取る必要がない。裁判員には、「プライバシー保護」などを理由として、自らの関与した裁判に関する秘密を一生守る義務が課せられる。メディアもその他の市民も、(元)裁判員に接触して裁判員裁判の実態を聞くことが制約されてしまう。ようするに、裁判員は、かりに誤って被告人を処刑台に送ったとしても、そうした権力行使について他者から反省を迫られることがないのだ。このように、権力行使に対する市民の監視の目を遮断しておいて、なぜそれが市民「参加」を促進することになるのだろうか。
 第3に、裁判員裁判が、裁判の迅速化・簡素化というトレンドと結び付けられている点だ。本特集の山下論文が詳細に述べているように、裁判員裁判において必ず行わねばならない「公判前整理手続」は、「素人の裁判員にもわかりやすい審理を」という名目の下に、公判が始まる前からあらかじめ審理の争点を絞り込ませる機能を持っている。また、忙しい裁判員に対応するために、連日開廷する努力義務もある。
 日本の場合、いったん起訴されれば有罪率は99・9%。要するに、刑事司法の運用は弁護側にとって不利である。その上に、「迅速」で「簡素」な裁判を目指すとすれば、後から弁護側に有利な争点や証拠が出てきてもそれが裁判官によって取り上げられないことが多いだろうし、そもそも弁護側がじっくりと反撃の準備をする時間も与えられないということになる。つまり、「刑事裁判の迅速化・簡素化」は、被告人に圧倒的に不利な方向に機能する。
 裁判員制度の第4の問題点は、それが被害者参加制度と結び付けられている点だ。「被害者」が相対すべきなのは、本来、「加害者=真犯人」のはずである。しかし、「有罪判決が確定するその瞬間まで被告人は無罪であるとみなす」という「無罪推定」の大原則が刑事訴訟にあるかぎり、法廷において被害者の目の前に座っているのは、あくまで「被疑者」に過ぎない(被告人本人の自白があったとしても、なお無罪と推定されねばならない)。しかし、刑事訴訟については素人の「被害者」の中には、「加害者」に対して意見を言っていると勘違いする者も出てくるであろうし、同じく素人である裁判員の中にも、「被害者があれだけ言っているのだから、刑罰をもっと重くせねば」と考える者が出てきても不思議はないだろう。こうして、「無罪推定の原則」は、「一般人の感覚」を前にして、脆くも崩れ去ることになるのではないか。
 戦後日本の刑事司法は、被疑者の身柄を長い期間にわたって拘束し自白を引き出すことに重きを置いた「人質司法」だと批判されてきた。また、こうして密室の中で警察・検察がとった被疑者の供述が「調書」となり、裁判における証拠として採用されてきた。要するに、警察・検察の強大な権力を前提にし、裁判官がそれを追認する「有罪推定の原則」がまかり通ってきたのが、日本の刑事司法だといえよう。裁判員制度は、この基本構造にまったく手をつけていない。この上に、「裁判員制度+裁判の迅速化・簡素化+被害者参加」の三位一体の仕組みが折り重なってくれば、刑事裁判は、被告人にとってますます不利なものに変わっていくだろう。
 こうして、裁判は、被告人をただ断罪するだけの場になり、彼/彼女が真犯人であった場合には、なぜ罪を犯すに到ったのかを語らせ、その告白から私たちが学ぶ場ではなくなってしまう。「人はなぜ罪を犯すのか」という根源的な問いに向き合う機会をまたひとつ奪われる私たちにとって、「市民参加の促進」という見た目とはうらはらに、犯罪という現象はますます理解不能なものになってしまうだろう。これは、犯罪者でない者にとっても、不幸なことだ。
 本特集はこのような問題意識の下に編まれた。裁判員制度が始まる前に、読者ひとりひとりがこの問題にじっくりと向き合うことを願う。
(やまぐちひびき/本誌編集委員)


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