『季刊ピープルズ・プラン』66号(2014年10月25日号)
【特集】集団的自衛権――論理的虚構の下で進行する危機

特集にあたって

 二〇一四年七月一日、安倍政権は、憲法第九条の下で集団的自衛権の行使が許容されるという憲法解釈を、閣議決定した。九条による制約をいとも簡単に取っ払い、他国(米国)を守るために戦争する自由を政府が手に入れる。権力者を縛る憲法を極限まで空洞化する重大な解釈変更を、民意の強い反対を無視し議会の議論も飛び越して、政府の一存で決めたのである。解釈改憲クーデターというほかない。
 この暴挙は、当然にも人びとの大きな不安と怒りを呼び起こした。その鉾先を逸らすために、安倍首相はまるで何ごともなかったかのように振る舞っている。九月二九日開会の臨時国会の所信表明演説では、「地方創生」や「女性が輝く社会」といった美辞麗句を並べ立て「『経済最優先』で政権運営に当たっていく」とぬけぬけと言った。集団的自衛権の行使については、「切れ目のない安全保障法制の整備に向けた準備を進めて」いくと一言触れただけだ。政治的な争点から外して、まともな論戦は、自衛隊法改正など二〇本近い関連法案が提出される来春統一地方選挙後の国会まで先送りしようというわけである。
 ところが、である。「経済最優先」と謳いながら、年内に予定される日米ガイドラインの改定に、集団的自衛権行使の内容をはやばやと盛り込もうとしている。すなわち、これまでは「周辺事態」(「日本周辺における日本の平和と安全に重要な影響を与える事態」)に限られていた米軍への支援を世界大に拡張するために、この「周辺事態」の規定を削除する(朝日新聞一〇月四日)。また、有事の前の「グレーゾーン事態」(尖閣諸島周辺での中国による挑発行為)に対処する米艦を自衛隊が防護する「アセット防護」を盛り込む(読売新聞一〇月六日)。

 私たちは、集団的自衛権行使容認の憲法解釈の論理的な虚構性(デタラメさ)とその下で実際に進行する現実の危機を同時に撃たねばならない。九条が集団的自衛権の行使を認めているというハチャメチャな憲法解釈に対する批判は、すでに数多く出されている。そのなかには、日本の安全を守るためには個別的自衛権の行使で対処できるのだから、集団的自衛権の行使まで持ち出すのはおかしい、という批判もある。自衛のための武力行使は認められるが、米国を守るための武力行使は違憲である、と。個別的自衛権(専守防衛)と集団的自衛権(米軍支援のための海外派兵)の間に主要な対抗線を引く。この批判の論理は、安倍流の何でもありの九条解釈とたたかう広い戦線を築くうえでは、それなりに有効な役割を演じるであろう。
 しかし、安倍(あるいはそのバックにある安保法制懇)の憲法解釈と根本的に対決するためには、個別的自衛権を含めて「国家の自衛権」(という観念)それ自体を批判する必要がある。なぜなら、安倍たちは、国家が自衛権(自衛のために戦争する権利)を持っているのは当然という常識的な論理を盾にして、「盗人にも三分の理」を振り回しているからだ。
 その一つは、「日本を守る」ための日米共同の軍事行動の際に、どこまでが個別的自衛権の行使であり、どこまでが集団的自衛権の行使なのかという厳密な線引きをすることは難しいという主張である。つまり、自衛権の概念の中には個別的も集団的も包括されているから、その区分は意味がない、と言う(この論理は、集団的自衛権という概念が登場してくる独自の歴史的経過を無視する乱暴なものだが)。
 もう一つは、政府による憲法解釈の変更は今回が初めてのことではない、という理屈である。いわく自衛隊創設時に吉田政権は、「自国を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」(一九五四年)と憲法解釈を大きく変えた。いわく最高裁判決は「自衛のための措置を採り得ることは国家固有の権利の行使として当然である」(一九五九年)と判断し、それにもとづく一九七二年の政府見解は「憲法は自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない」という解釈を示した、と(安保法制懇談の五月の報告書)。したがって、今回の憲法解釈の変更は、一九七二年の政府見解を引き継ぎ、安全保障環境の激変を踏まえて、自衛権行使の範囲を少し広げたにすぎないのだ、と。

 このように、安倍たちは、“憲法は国家の自衛権を認めている”という核心的命題を手に入れ、それを社会に受け入れさせてしまえば、後はどうにでもなると考えている。だからこそ、この命題への批判が必要不可欠なのである。
 主権国家に固有の権利(本来備わっている権利、自然権)としての自衛権という観念は、フィクションにすぎない。それは、自然人としての個人だけが生存のために有している抵抗権のひとつである緊急切迫時の正当防衛権を、法人(団体)としての国家の権利にそのまま横すべりさせた作り話である。そこでは、国家が擬人化されている。そして、あらゆる国家は自衛権を大義名分にして戦争する、つまり「自衛のための」戦争しか行なわないのだ。ガザの住民を虐殺するのも「イスラエルの自衛権の行使」であるし、シリア空爆も「米国への脅威に対する自衛権の行使」とされている。
 国家の自衛権、自衛のための武力行使ほど恐ろしいものはない。私たちは、これを否認する。憲法九条は、戦争と武力行使の放棄(第一項)だけではなく、交戦権を禁じている(第二項)。どのように解釈しても自衛のための戦争も禁じている、つまり自衛権を実質的に認めていない。市民に問われるのは、侵略に抵抗する権利を(国家の武力行使=自衛権の行使以外の)どのような形態で行使するのかである。紛争予防、領有権争いの棚上げ、民衆・住民の間の国境を越える交流、軍事力の縮小、非暴力の市民的不服従。集団的自衛権行使に反対する運動を通じて、個別的自衛権への限定を対置することを越えて、非武装・非軍事の平和主義のオルタナティブを彩り豊かに創造していきたい。

白川真澄(本誌編集長)

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