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[『季刊ピープルズ・プラン』54号・研究会/プロジェクト報告]

戦後研究会

 前回報告したとおり、年明けからようやく構造改革派/論について検討するシリーズが始まった。二月の佐藤昇『現代帝国主義と構造改革』をうけて、三月はその佐藤を含めた鼎談、佐藤昇・梅本克己・丸山真男『現代日本の革新思想』(河出書房、後に『戦後日本の革新思想』として現代の理論社より増補)をとりあげた。

 同書は、六〇年安保直後くらいまでの左翼的な思想・運動の整理として、便利にまとまっており、学習会のテキストとしてもよく読まれたという。ただし、六〇年前後の運動現場の感覚としては、たとえば労働運動について十分論じられていないなど、やや「高尚」だという印象もあったようだ。

 鼎談の論点は多岐にわたるが、丸山真男を含め、マルクス主義や前衛党を前提としすぎており、また「経済発展」のビジョンも古いという問題点が指摘された。これらの点は、構造改革論につきまとう難点であるように思われる。

 その点は、四月に読んだ石堂清倫・佐藤昇編『構造改革とはどういうものか』(青木新書)も同様で、二重構造論の問題提起など、現在の非正規雇用増大の格差問題と響き合う指摘もあるが、結局「労働者階級によるヨリ合理的な経済成長」というビジョンが主旋律(産業国有化の主張もその文脈上にある)。たとえば同書にある、原発も「国有化すべきだった」という主張にこのタイミングで出会うと、その楽観性・一面性は際立つ。

 ちなみに同書の石堂論文は、レーニンをいわば構造改革論側に位置づけ直そうと試みている。同書全体の現代経済分析中心の議論とはやや毛色が異なっていた。

 ところで、「国家独占資本主義」の概念は構造改革論に欠かすことができない。にもかかわらず、この概念はその後いったいどう総括されたのか。文献を読み進めるうちにそんな疑問が出され、五月は論争史を読んでみることにした。

 とりあげた高内俊一『現代日本資本主義論争』(三一書房)は、日帝自立論を軸にした構造改革論争史の、明晰な整理となっている(ただし著者自身の考察は明確ではない)。同書から浮かび上がる構造改革論全体の特徴(問題点)としては、ソ連等「社会主義国家体制」の存在を強調し、資本主義・帝国主義との「体制間矛盾」を政治戦略の前提にしていること。さらに基本的には経済決定論となっていること(なおこの点に関しては、当時の上田耕一郎の立場が「中間派」ゆえに、案外妥当性を持っていたのではないかという感想も出された)。

 こうしたソ連と経済成長を前提とする理論が、六〇年代後半以降説得力を失っていくのもある意味当然であっただろう。とくに経済面で言えば、高度成長によって経済成長のお株が奪われる一方で、公害問題の発生など、近代的・合理的発展観自体に深刻な疑義が生じたのがこの時代だった。たとえば反原発運動も、七〇年前後のこうした価値転換を端緒としているだろう。

 そうした問題意識もあり、六月はいったん構造改革派/論のシリーズを離れて、高草木光一編『1960年代 未来へつづく思想』(岩波書店)を読むことになった。もちろん、構造改革派/論のシリーズが終了したわけではないので、新たに読むべき文献を絞り、七月以降にあらためて議論していく予定。新規の参加者も引き続き募集している。
(松井隆志)
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