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オルタキャンパス「OPEN」
【連続講座】運動史から振り返る原発と原爆


<運動史から振り返る原発と原爆
   ――被爆国日本はなぜ原発大国になったのか>

【発言録】

第2回 82年「反核フィーバー」とは何であったのか
 発言者 菅孝行さん(評論家・劇作家)
 2012年3月17日

 菅と申します。

 いま天野さんからコメントを頂いているので、さっそく、今日のテーマである「反核フィーバー」というのは私たちにとって何だったのか、今からそれを見ると、どういうことが考えられるのか、考えるべきなのか、それから、現在直面している問題、と、だいたい三題噺のつもりで、お話したいと思います。

 レジメに書いておきましたけれど、反核文学者運動の実際の事務局長的な仕事をしていた黒古一夫さんの編著で『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ』という、論文集というかエッセイ集というか、そういう本が去年出ました。「そう簡単にはヒロシマ・ナガサキからフクシマに繋がらないよ」という原稿を私はその中に書いています。たしかに、繋がる面はあるけれども、いろいろ折れ曲がっていて、直結は出来ない、と考えています。これをお読みいただくと、もちろんほかの方も書いていらっしゃるし、ご参考にはして頂けるのではないかと思います。

 八二年の文学者反核運動というのは、呼びかけ文が資料に入っていますけれど、アメリカの核実験に対して、文学者が中心になって反対の声を上げた、それ自体は非常にタイムリーな運動でした。ですから、後で申し上げるように、いろいろ違和感はあるけれども、反核それに対しては賛成だったということが、まず前提にあります。
 
 この運動に対しては、『反核異論』を吉本隆明さんが書き、柄谷行人さんとか絓秀実君とか、亡くなった中上健二さんとか、こういう人たちが、これに対する異論を述べた。各人各説で全員一致ではないですが、その中の一つのポイントとして、「この運動はソ連を利する」という批判があった。それに対して私は、「日本を覆っているのはアメリカの核の傘なんだから、アメリカの核の傘に対する反対ということが基軸になるのは必然的だ、と考えました。「いま私たちが直面している核の傘というのは、どこの傘なんですか?」ということの方がずっと大事だと思った。だから、この点も賛成。ソ連がいい国だなんて言っているわけでは一つもないし、ソ連の核はいいなんて一つも思わないけれど、それは別の話でしょう、と。

 重大な異議というのは原発問題がないということです。今日の問題と裏返して深く結びつくことですが、「反原発を言ったら降りるぞ」とかという脅迫まがいのことを言いながら参加してきた人がたくさんいる。それはないだろうというのが、最大のポイントでした。原発技術礼賛、科学技術総体も礼賛、で、核兵器だけがいけない、そこに的を絞らないんだったら降りるぞ、という脅迫の中で運動が展開しているのは承服し難い、というふうに思いました。

 それからもう一つの問題は、戦争協力者が中心付近で旗を振っている、ということです。たしか天野さんがこの資料の座談会で、名指しで批判していますが、高橋健二さんが一番典型です。高橋健二と言うと、私程度の年配の方は、ヘルマンヘッセとかハンス・カロッサとかそういう人の翻訳をした独文学者として記憶されていると思います。でもこの人にはその前がある。大政翼賛会の文化部長になって、侵略戦争翼賛の旗振りをした。旗振りをしたから何時まで経っても許さないとは、そう簡単には言えないというところもあります。間違っちゃった、ということはいくらでもある。でも、30数年、何も反省しない。そのまんまで三〇年あとは反核運動か?ということには、かなり違和感があった。そういう「小異」は大事にしたい、と思いました。

 しかし総論は賛成。だから絓秀実とか中上健二とか柄谷行人とは別の流れで、中から批判しようというふうに思って、その上で公開質問状を出すことを考えました。公開質問状の経緯については、いささかいたずら心もあったかもしれないという思いもあります。さっき天野さんから説明があったようなことです。

 今から読み返してみますと、「おお、なかなかいいことも言っているじゃん」と思えるところと、「かったるいなぁ、恥ずかしいなぁ」というところと入り混じっています。関心のある方はぜひ緻密にお読みいただいて、ご批判・ご意見いただければと思います。

 最大の問題は、三月一一日に深く関わりますけれども、科学技術を、反核運動をやる時にどう考えるのかということだったと思うんです。それに関して、「反原発がない」というところで、ワッと天野君とか私とかが反応したのは、ちょっとその前に、廣重徹さんの本を読んでいたというプロセスがあって、それが参照項になった。廣重さんは科学技術がよくわかった専門家として科学者の世界の中から批判した、おそらく科学技術批判思想史の中では一番系統的で一番早く作業をなさった方だと思いますが、早死にで、この時はもう亡くなってしまった。『戦後日本の科学者運動』とか、『科学と歴史』とか、『科学の社会史』とか『近代科学再考』とか、七〇年代までにすでに出ていて、そんなのを読んでいたということがあって、「核兵器だけ反対というのはまずいんじゃないか」と、反射的に考えたということがありました。

 科学と技術というのは本質的に違う。科学は俗論的には真理探究、勿論科学は説明原理だという考えもあって、たしかに真実をわしづかみには出来ないんですけど、いずれにしても、現実の生産過程に適応されて何かの技術になるということとは別のカテゴリーではあります。技術の本質は、財を生産して社会や暮らしの便宜に供することですから、これは別のことです。科学が発達するまでは、技術は必ずしも科学に則していたわけではありません。経験則です。職人さんの技術って別に科学とは直接何も関係ないわけです。それが、科学が高度化するとともに一体化して来た。科学技術という四字熟語が、人口に膾炙するようになるのは、二〇世紀半ばくらいからのことです。

 技術は割と批判しやすいんですね。国家や企業の成長戦略と一体に展開しますから、それが環境を汚染したり、生命を侵したり、格差を拡大したり、階級的利害の分岐点を作ったりということになり、批判しやすい。それから少なくとも技術については、戦争が発展させたという歴史過程もある。

 しかし、実は科学も中立とは言えないのではないか。これが広重パラダイムの要諦です。科学自体もまた、その発達は政治的なものなのだ。その後の問題で考えればはっきりしますが、心臓移植が合法化される過程で、蘇生の研究は抑え込まれたですからね。そうだとすると科学技術を刺し貫いて、その全体に対する態度というのをはっきりさせないといけない。その上で、核兵器反対運動が展開されなければいけない。だとすれば核兵器はバツで原発はマルということは、絶対あり得ないだろうと、そこのところはスムーズに論理的に展開出来たという気がします。

 政府とか独占資本とか支配階級だけではなく、左翼の側もかなり根深い進歩主義に囚われています。マルクスが全面的にそうだとは言えないかもしれませんけれど、やっぱり『資本論』なんかを読むと、あの人資本主義大好きですよね(笑)、一面では。左翼の人は、そういう系統発生的な理論系譜を背負って左翼をやってるわけですから、どうしても進歩主義がある。左翼は新旧ともに、帝国主義の科学技術はいけないが、科学技術一般は肯定して、生産関係を変えればいいと。「権力を取って全部引っくり返せば、革命政権の下で科学技術を発展させ、生産力を飛躍的に伸ばせばいい」っていうことが前提になっている。このことに対しても、反問したい、という思いもありました。
 
 ただ、それほど、私もイノセントではない訳で、50年前ですが、一九六一年にソ連の核実験が行われて、核実験反対運動がありました。ご承知のように原水協と原水禁の分裂につながっていくところですが、良い核兵器と悪い核兵器があるのかないのかという問題にその時に直面したわけです。ソ連の核は良い、共産主義の核は良い、資本主義の核はいけないと。ただ、それ程すっきり全部反対というふうにいかなかった。「全部反対、絶対いけない」と言ったのは反スタの革共同だけでした。わたしは再建したばかりの社学同に触っていたんですが、ソ連を名指して、ソ連大使館にデモをかけるということはしなっかった。 

 文学者反核署名は八二年ですから、そこは卒業しています(笑)ので、もしもソ連の核実験があっても迷うということはない。でも、ソ連の核に反対なのも、ソ連の政治に反対だからそれを投射しているだけ、という要素が新左翼の中になかったかとはいえません。だから中国の核実験に歓呼の声を上げるという人々はいました。それには同じ難いという感覚を持った記憶があります。

 ところで一体、日本の戦後左翼の核科学技術礼賛の起源はどこだったのか。共産主義者としての自覚を持っている科学者で、そのことを理論的に展開したのは、武谷三男さんだと思います。『武谷三男著作集』を読んでいて、びっくりするようなエッセーに出会ったことがあります。「原爆でも投下しなければ日本軍国主義を打ち砕くことはできなかった。だから原爆は素晴らしい」という意味のことを彼は書いています。死んだのは抽象としての軍国主義ではなくて、生身の20万人です。「軍国主義と個別の人間を一緒にするなよ。」と思った覚えがあります。武谷三男さんの影響は、新旧左翼貫通的にあって、これが核科学技術肯定論の起源としてかなり強靭なバックボーンになっていたということは打ち消しがたいでしょう。

 しかし、廣重徹は七〇年代に書き、読まれ、そして陸続たる科学技術批判とが起こって来ます。高木仁三郎さんとか梅林宏道さんとか佐藤進さんとか湯浅欽史さんとか、いろんな方の著作を読みました。科学技術を発達させるとしても、科学技術批判の契機抜きに科学技術を礼賛するというわけにはいかないということは、80年代初めには考え始めていました。だから、反核署名の呼び掛けに、先ほど申したような反応をした、という側面と、反核運動にこういうスタンスを取ったから勉強しようといた要素が絡まり合っています。因果関係は螺旋的にぐるぐる渦巻いているだろうと思います。

 同時に「科学はいかん」というのは、「これはまずいな」と思いました。柴谷篤弘さんという方がいらっしゃって『反科学論』という本が出た。「科学丸ごと人間が否定出来るのかなあ」、それと科学の政治をどうするかとか、科学技術批判の科学をどうつくるか、ということと、反科学は違うだろう、そう考えないといけないだろうと、その頃から思っていました。

 左翼よりは、唐木順三さんのようないわば保守的な知識人の方が、科学技術に対する批判を核の問題と結びつけて考えておられたということには注意を払う必要があります。八二年に出たのは、確か唐木順三氏の遺稿ですけれども、かなり明確な批判の視点があります。

 勿論、唐木さんは緑ではありえても赤ではない。そう簡単にいかない。でも亡くなったいいだももさんは、この時代の直後でしたか、「赤と緑の大合流」ということを言われた。環境問題とか原発とかに対する反対運動を取組んでいる人たちと、左翼の社会主義を大合流させようということを提起された。おそらくいいださんの心づもりとしては、科学技術礼賛論を克服しながら、同時に環境問題とか反原発都取り組んでいる人たちに、左翼性に目覚めて欲しいということだっただろうと思います。

 原発反対運動といえば高木仁三郎さんを忘れることは出来ません。世間一般常識からすれば高木さん自身“アカ”に分類されるんでしょうけれども、高木さんのスタンスは、「赤と緑の大交流」ではなかったと思います。というか、赤と緑が統一戦線を組んでやっていくということに関しては、楽天的ではなかった。すごく警戒的だった。お付き合いはありませんでしたが、会議とかではよくみかけました。あの方の発言を傍で見ていると、そういうふうに思えました。それは警戒するのが当たり前だなぁということと、あの人に警戒されちゃうとそう簡単には第合流しないなあ(笑)ということと、両方を感じた記憶があります。
 
 その中で、しかし運動の方は何となく“赤”と“緑”が合流しながら高揚していくかのように見えた側面があって、この高揚感を煽り立てたのは良かれ悪しかれ、広瀬隆さんだった。「東京に原発を!」というスローガンはなかなか見事で、すごく本質をついているわけですよね。「安全なら東京に作れよ。国会議事堂の隣に作ればいいじゃあないか」と。オスプレイが安全なら日比谷公園に配備しろというのと似てますよ。そういう意味ではすごかった。しかしその終末論的高揚感の中にはちょっと怪しいところもあって(笑)そう簡単には乗り切れないというところもありましたが、アジテーションとしては素晴らしかったという記憶がございます。

 一方ではある程度合流しつつ、しかしアポリアがある。もう一方ではやっぱり乖離していく要素は覆いがたい。乖離することによって反原発運動が高揚したのがニューウェーブだったんじゃないかなと僕は思う。伊方の出力調整拒否闘争の時など、日の丸の鉢巻きを締めた人がたくさん出て来た。今でも高円寺とか渋谷とかで似たようなところがあるようで、アルタ前の集会でトラブったと聞きますが、そう簡単に反原発運動総体は左翼の運動にはならない。これは、文学者の反核署名のころもそうでしたが、その後のプロセスの中でも感じることです。

 伊方原発の出力調整拒否闘争というのは八八年で、バブルの真っ最中です。九二年に泊の運動というのがあり、この時がぎりぎりバブルの崩壊期と大体重なる。もちろんそれまでだってあの五四基の原発がどこに建ったのかということを考えれば、札束で頬っぺた引っ叩かれたわけです。引っ叩かれた時に選択肢がない、オールタナティブの生き方の選択肢がない、原発の金で食う以外ないように追い詰められたところに原発は建っているんだけれども、少なくとも幻想としては、バブルが壊れるまでは自分たちにはオールタナティブがあると、政府の言いなりにはならない、電力会社の言いなりにはならないということが、現地の闘争の中でも考えることが可能だったんだろうと思うんです。九二年辺りを境に、経済だけでなくて、社会心理的にも選択肢を奪われていく。その後の空白の二十年、それでも闘おうとした原発運動は孤立した、都市の運動は現地を孤立させてしまった。

 バブルが崩壊して、ホントに選択肢が無くなって、現地の闘争がものすごく苦しくなっているのを、都市側の運動は見ているわけですよ、そして「ああ、ダメだな」というふうに分かっちゃうんですね。反原発をプロパーでやっている方はそんなことはないけれども、周りを取り巻いていた私どもは、「ああダメだな」と思った。放置したらどうなるか、理屈では分かっていながらところで、そこで、目を離した。わかっていながら、声をあげなくなったということには、忸怩たるものがあります。例外的に闘い続けてきた当事者以外の運動全体がそうだった、それが、三月一一日でバレちゃったとんだと私は思っています。

 バブル崩壊で反原発大衆運動が終わったという言い方をすると経済決定論だと言われることかもしれませんが、反原発運動の大衆的運動の大きな輪が解かれた、という意味での運動の終焉と、バブルの崩壊というのは、重なっていると思うんですよ。これをどう考えるかというのは、今日の問題としてすごく重要です。開沼博さんの『フクシマ論』というのは名著ですけれども、あれを読んでいると、原発立地された地域に反原発運動の持続は不可能なんだという、凄いペシミズムに襲われます。都市の市民が粋がってやっても駄目よ、と言われているような気がする。佐藤栄佐久知事が、反対に舵を切ろうとすると指されて罪に落とされるわけでしょう。自民党の知事がやられるわけです。これは、長いスパンで考えたら、社会構造をこのままにして、原発だけ危険だと言って止めるのは無理だな、とにかくまず止めて、その上で、社会構想全体を一からやり直すしかない、ということではないでしょうか。 

 さて、そこで、もう一回話しを戻しますと、今日の視野から八二年の「フィーバー」について総括というか自己評価をして置きたいと思います。「フィーバー」本体については、この集会でも「フィーバー」と名づけられているように、批判というか批評の対象なんでしょうが、確かに浮いたところのある都市文系インテリの祭だった、そこに私も参画した、というにすぎません。でも、その枠の中での話ですが、異論を起てて運動の中で議論を起こしてよかったと私は思っています。ただ、中身はすごく不十分だった。軍事と原発の完全な一体性というのは、技術のルーツが同じだという以上には、それほど十分には認識は出来ていなかった。また、原発立地の地域の悲劇性、つまり原発が建つということが何を意味していて、いま勘定すれば五四基になってしまう、その地域の経済構造と日本近代化の歴史過程との結びつきを、トータルに分析出来ていなかった。ですから、まあ、概して、知恵は後から、間に合わなくなってから出るものですから仕方がないけど、私は「反原発を入れろ」と言ったけれども、広がりも深まりも作れなかったのは、こっちもやっぱりぬるかったところがあるなと言わざるを得ない。

 それと八二年の反核運動と現在の対比で考えますと、八二年は、反核兵器ばかりで反原発がなかった。今度は反原発ばかりで、反核兵器、反安保のことは全く無い、沖縄では基地移転、反安保でやっているのに、それと全然結びつかない。完全に逆転している。すごいなあと、感心してもいけないんですけれども、これは大変なことだと思います。

 原発と核というのは当初から一体だったということは、山本義隆さんの『福島の原発事故をめぐって』にも繰り返し出てきますし、武藤さんの『潜在的核保有と戦後国家』でも何度も指摘されています。でも、これってそんなにたくさんの人が今まで注目してこなかった気がしていて、核の問題、原発の問題を考える時には、そこから出発しないといけないなということを改めて感じています。高木さんは「原発は核ですから」と言われていて、当然一体のものとして考えておられたんでしょうが、そういう形で運動は展開してこなかった。

 ところで、当初の岸の思惑、中曽根の思惑は外れた。どういう思惑だったかというと、原発を作れば核兵器が作れる。核兵器が作れればアメリカから自立出来る、というのが自民党の右派の思惑だったわけです。だから東電の木川田などの猛反対を押し切って原発を導入した。ところがどんどんどんどん原発を作ったけれども、日本は軍事的核技術において自立出来ず、日米軍事同盟の深化を通して、アメリカへの一体化をどんどん深めてしまった。そこは岸が考えていたことと全く違った展開になった。これは皮肉な結果です。

 ただ軍事と発電は核の技術としては一体と考えていたという意味においては、当時も一体、今も一体、これは一つも変わらない。一体だったことの結果はまるっきり逆さを向いちゃった。要するに右派の日帝自立論をやるためには核兵器が必要だというその路線は、現実味を全く失ってしまったということです。

 だから右も、初心にかえって、ということはアメリカにやられっぱなしにはなるまいという意味ですが、安全保障とか、軍事同盟とか、ゼロから考えるべきなんだと思います。中国の覇権主義や領土的野望がキモイとか、そういうこととは別の次元で、麻生みたいにアメリカ好き、中国嫌いなんていっていないで、小国の知恵の糾合でどうやって超大国の欲望を制御するか、日本はもう小国だという自己規定をして考えないといけないんだと思うのですが、皆様いかがでしょうか。

 そういう観点からいたしますと、七〇年以降に西山太吉さんの事件があって、大々的に問題になりますけれども、やっぱり六〇年安保が密約元年であったんだなというふうに改めて思います。西山さんのスクープが、情報入手の不当性ということだけで裁かれて、あの秘密情報の価値を全部隠蔽したという国家犯罪は、決して過去の問題ではない。『運命の人』なんて、三角関係のことばっかりやっていて、「国家犯罪の方をやれよ!」とテレビを見ながら苛立ってもしかたがないんですけれども(笑)、やはり腹は立ちますね。今やもう日米軍事同盟は病膏肓、凄まじいことになり、基地は自由使用、核の持ち込みは自由。湯水のごとく思いやり予算は膨張し、九九年の新ガイドライン関連法で動員体制まで出来ている。即時の撤去など不能という状況を作ってしまった。この問題と原発の問題がセットだというのはわりと具体的に言えることなので、そこを情宣出来ないかという思いがあります。知ると怖くて引けるかもしれませんが、一度はそれを潜らないと、反原発も反核も反基地もヘゲモニーは取り戻せない。

 再処理技術の問題を考えると、確かに原発市場を守らなくちゃならないですから、IAEAもアメリカも日本に危険な原発は作らせたくない。しかし日本が脱原発になって、再処理も放棄するというのは困るわけですよ。再処理技術をやらせたい。アメリカはそれを買って核兵器を作れるようにしたいわけでしょう。日米同盟が不滅なら、その限りでは、年季の明けない廓の奉公、死ぬまでやめられないタコ部屋なんです。日本はそのトラの穴の中に入っちゃってるわけなんで、それをはっきりさせないと、トラの穴から出られない。つまり再処理技術は日米安保の裏同盟で、この軍事的一体化がある限りにおいては電力会社は安泰です。そこを切り離せなければ、東電の傲慢、担当経産省の役人どものすさまじい傲慢ぶりは止まない、彼らがぬけぬけとしているのは、彼らの存在が国策に根拠を置いているからだと私は思います。

 軍事と原発が技術的には一体なのは常識だよというのが、『チャイナ・シンドローム』という有名な映画の前提です。福田誠之郎さんがやっている映画会がで『チャイナ・シンドローム』を観た時に軍事評論家の前田哲夫さんが来ておられて、あの殺される主任技師の主人公、ジャック・レモンの前の仕事はおそらく原潜の技術者だろう、アメリカではあの映画作った方も常識だろうし、軍の側も当然常識だということをおっしゃっていました。きっとアメリカの観客もそう思って見ていたということですよね。まあ、そんなわけで現代の原発批判の要諦は、原発を軍事と切り離してみるな、反原発は軍事同盟の現状をどうするかということ抜きに完全には実現しない。ということだと思っています。

 それでも、五四基全基停止しても明かりがついているという状態は原子力村には怖いでしょう。全部ゼロから考えようよ、といえる訳で、そういう対等の攻防戦に入れた、と考えています。
原発があることが自明になっていますが、放射性元素の性質からして、原発の安全性は絶対証明出来ない。半減期を考えただけで判ることです。被害の規模も、拡散の範囲も確定出来ない。コントロール出来ないんですからね。

 一番端的な違いは、普通の電機器具は、どんなにトラブっていてもソケットを抜くと終わりですよね。原発は、比喩的に言うとソケットを抜いたら臨界になるわけでしょう? こんなものよく導入しましたよね。

 実はもっと重要かもしれないのは、事故が万が一起きなかったとしても、使用済み核燃料の最終処理技術は不在なわけで、中間貯蔵だなんて言っていますが、これは人知の限界に係わりますけど、中間貯蔵地になったらそのまま百万年置いておかれるかもしれないということですよね。それからもう一つは、事故がなくても原発労働者の被曝は日常的に続いているということ。これは昔からわかっていて、『原発ジプシー』なんて本もありましたけれども、これも放ったらかしのままです。

 政府の事故対応は被災当事者置き去りで、ことに弱者から順番に置き去りという感じです。子供連れや妊婦の人で逃げちゃっている人とか、それはそれで賢明ですけれど、みんあが出来るわけではない。現地で赤ちゃん抱えている人はどうなっちゃうんだろうと思いますが、ところが、私なんかよりご存知の方がたくさんいらっしゃると思うのですが、うっかり避難という言うと、袋叩きにあう。避難を政策に掲げて地方自治体の選挙に立った候補者は、浮いて落選です。除染しか言ってはいけない。しかも、その除染がどうなっているかというと、何十億単位金がゼネコンに流れる一方、市民団体の除染には、十万円とか、そんなものです。しかも除染活動をやっている間に被曝したらどうなるんでしょう。

 本当は住宅・就労・就学を含めた大規模な避難計画をたてるべきだったのに放置されている。勿論「絶対私は被曝してもここで生きるんだ」という人に対してはそれに寄り添うべきですが、政府は両方やらなければいけないのに、どっちもやっていない。あまつさえ、原子力協定を結んでヨルダンと韓国とベトナムとロシア、インドにも輸出するそうです。

 これからは、節電脅迫と原発再稼働攻勢がかかるでしょう。電力が不足するというんですが、電気需要は電力会社が出すわけですね。あれ、第三者機関が試算できないんですかね。東電や関電が計算したら自分たちに都合のいい数字出すに決まっているわけでしょう?正確に計算したら、若干の節電とピーク時調整だけで、再稼働なんて全く必要がないのじゃないか。それこそそういうところを抵抗の科学でやれないかなぁ、電力会社の聖域に踏み込めないかなあ、そういうことが出来るか出来ないかが試金石だろうな、と思います。それがやれれば、社会原理転換運動ですね。エネルギー問題プロパーでいえば、右とか左とかではなくて、縮小均衡覚悟、ゼロ成長社会をどうつくるかでしょう。

 3・11以後の指針を考えるに際して考えることが幾つかあります。国が旗を振る「“命”と“絆”と“共同体”は気持ちが悪い」とつくづく思います。「 “絆”壊した奴が、“絆”“絆”言うなよ、」と切実に感じます。やっと瓦礫の受け入れとかいろんなことが始まりましたので、やっと一年経って動き出したかとは思いますが、首長が瓦礫受け入れに動くと、住民は反対するでしょう。放射能の危険のある瓦礫ならまだビビる気持ちは判るけど、そうでない瓦礫でも拒否するのが多数派の住民意識ですよね。絆どころの話ではない。“絆”はこれから作らるものだ。

 “字・大字”からの出発とかいうことを言う人もいるけれど、“字・大字”は既存の絆で、その空間は諸悪の根源でしょう?ムラの天皇制はそこから立ちあがった。そこは見間違わない方がいい。
また、「三月一一日で“命”に目覚めた」ということを言う方もいらっしゃるんですけれど、「うーん、そうかな」と思います。戦後六〇数年のダメさ加減が3・11でバレただけではないか。三月一一日にバレたというのは確かだと思うし、それはいいことだと思うけれども、そこで何か新しい発見があって、そこから新しい社会が始まるんだとかは、ちょっと考えにくいです。

 もっと重要なのが沖縄基地との関係の問題です。沖縄基地に普段は「核はない」と言いますけれど、いくらでも持って来られるわけです。そういう軍事同盟の性格の問題と原発という技術の問題を結びつけて、それに対する包囲網を作れるかどうか、そこのところが大きな課題です。これが出来た時に初めてこの国が変わるとか、この国が無くなるとか、この社会が変わるとか言えるのではないでしょうか。そうでないと、『フクシマ論』が示唆している「絶望」を越えられない。暗い話ですみませんが、これで私の話しの一区切りです。

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