【今月のお薦め/つるたまさひで】
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(内山節著)の読書メモ
山形県長井市でレインボープランを始めた菅野芳秀*さんが自らのブログでキツネに化かされる話を書いていた
http://lavo.jp/kakinotane/lavo.php?p=log&lid=168999
ので、前から気になっていたこの本を図書館で借りて読んだ。
*菅野さんとは誰か
プロフィールのようなものは
http://lavo.jp/kakinotane/lavo?p=list&ca=1
レインボープランとは
http://samidare.jp/rainbow/
*菅野さん、最近「玉子と土といのちと」という本を出版されたそう
http://lavo.jp/kakinotane/lavo?p=log&lid=195650
で、以下は、ときどき書いてる言い訳ですが、主観に満ちていて誤読も多いかもしれない自分用の読書メモです。ここに書いてあることで、わかった気になるのはあまりにも危険です。
このもとになるものは読書後、図書館に返す前にあわてて付箋を頼りにブログに書いたものです。かなり書き直したとはいうものの、いまでも記述の脈絡はあまりなく、転々としています。図書館の本は忘れないうちにメモを書こうという気にさせるという意味でいいのですが、読みながら、かなり大幅に書き直している、いま、手元にないのは不便です(この本は買っても良かったかも)。ともあれ、間違いなど指摘してもらえるとうれしいです。
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日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか(内山節著2007講談社現代新書)
ぼくが読んだ内山さんの本にしてはわかりにくい部分もある(最後のほうの他の人の思想を紹介しているところなど)。手軽そうなタイトルに騙されて読むと、なかなか手強い。
1965年を境にたくさんあったキツネにばかされる話が発生しなくなった、それも全国ほぼいっせいに、という。
これが、この本の書き出しのエピソードであり、なぜそうなのかがこの本の軸となる問い。
そして、、表紙には記載されていないが、内山さんはこの本を「歴史哲学序説」という副題のものとで書いたという。「歴史とは何か」というのが、この本の底流にある問題意識。この本が<「私たちの現在」を考える一助になれば幸い>と内山さんはまえがきに書いている。「キツネにばかされなくなった日本社会から見える歴史哲学とは何か」。読み終わって、そのあたりがおぼろげにつかめたような気にはなる。歴史学ではなく、歴史哲学というところがひとつのポイント。
以下、ぼくの記述はぼくの興味に従ってポンポン飛ぶ。
食事について、日本では伝統的な食事のマナーは楽しくではなく、静かに厳粛に。それは自分のために犠牲になる生命への感謝、日本では食事は神から与えられた糧ではなく、生命的世界・霊的世界から与えられた糧だった。だから、食事の祈りの対象は神ではなく、霊的世界。19p
こんな説明を内山さんはするのだが、こういう伝統的な食事観がどれくらい日本に残っているだろう。食事へのこんな感謝をこどもに伝えることに成功している家はもう少数派だろう。もちろん他人事ではない。
「無礼講」というコンヴィヴィアルな飲食の風景は例外なのだろうが、「神から与えられた糧ではなく、生命的世界・霊的世界から与えられた糧」だとしても、それを楽しくいただくということはあっていいと思う。食事におけるコンヴィヴィアリティとこの列島社会の伝統というのも、調べたら面白いかもしれない。
ぼくは楽しい食事が好き。生命的世界から与えられた糧として、いただくときに、楽しむべきじゃないかとさえ思う。宴はいうまでもないが、日々の食事も、そんなに浮かれる必要はないのだけれども楽しみたい。別に毎日何か特別なものが必要というわけじゃない。例えば、玄米と漬物と味噌汁を感謝しながら楽しく食べるというようなことがあるはず。(ぼくは肉も好きだけど)
で、この本の本体部分の1965年を境にした日本社会の変化の話は飛ばして、次へ。
以下に少し抜書き
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日本の人々がキツネにだまされていた時代とは何か。その時代に人々はどのような精神構造をもち、どのように自然とコミュニケーションをとりながら、暮らしていたのか。そのような問いをたてるとき、ここにはかなり深い考察課題があることに気づく。現代の私たちの精神世界で「キツネにだまされた」という言葉を用いれば、それはあやしげな話にすぎない。しかし現代の私たちとは大きく異なる精神世界で生きてきた人々にとっては、キツネはどのようなものとして私たちの横に存在してきたのか。今日の私たちの精神では到達できないものがそこにあったことを、私たちは確認しておいたほうがいい。107p
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内山さんは、「キツネにだまされた」人が多数いた時代が持っていた精神世界を考察する。その時代の精神世界を抽出することが歴史哲学につながっていくのだろう。「キツネにだまされた」人が多数いる社会の精神世界をどのようなものとして叙述できるだろう。また、その精神世界を私たちは失ってしまっているというのだが、なんらかの形で再生させることが必要なのではないか。だとすれば、その精神世界のどの部分を再生させるのか。それはどのように可能になるのか。
で、少し別の話に移る。
「個体としての生命と全体としての生命」
「それぞれに固有の生命があり、全体的世界を個体の生命の集合体としてとらえる」というようなとらえかたは近代の産物だったのではないかと内山さんは書く。一面ではもちろんそうなのだが、伝統的精神世界のなかで生きた人々にとってはそれはすべてではなかったというのだ。「もうひとつ、生命とは全体の結びつきのなかで、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった」「個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないか」
これを木と森を例に説明する。
そして、人間もまた結び合った生命世界で、それと切り離すことのできない個体であり、伝統的な共同体の生命とはそういうものだったと内山さんは書く。
しかし、人間は「自我」や「私」をもっているので、共同体的生命世界からはずれた精神や行動もとる。
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だからこそ共同体の世界は、地域文化が、つまり地域の人々が共有する文化が必要であった、それが通過儀礼であり、年中行事であり、それをとおして人々は、自然とも、自然の神々とも、死者とも、村の人々とも結ばれることによって自分の個体の生命もあることを、再生産してきた。
このような生命世界の中で人がキツネにだまされてきたのだとしたら、キツネにだまされる人間の能力とは、単なる個体的能力ではなく、共有された生命世界の能力であった。112p
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この「共有された生命世界」というのがひとつのキー概念になるのだろう。そこでいくつかの問いが生まれる。
・共有された生命世界の回復は必要なのか、そしてそれは可能なのか。
・可能だとすれば、どのように可能になるのか。
・しかし、それは本当に失われたと云えるのか。
65年を境にきつねにだまされる人はいなくなったと内山さんはいう。それをこの「共有された生命世界」の喪失につなげる。しかし、それは本当に失われたと云えるのだろうか。テレビの普及や高度経済成長に伴う都市への急激な人口移動の進展は地域のコミュニティの姿を相当に変えたとは思うのだが、「共有された生命世界」がほぼ全国いっせいに失われたという説にはにわかに首肯しにくい感じは残る。
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『古事記』も『日本書紀』も古代王朝という「中央」が成立することによって書かれた歴史。それは古代王朝に限らず、どの時代も中央の「正史」はあった。それは「正史」としての「私史」。その「私史」が「日本史」になり「国民の歴史」とされていった。そのように「国民の歴史」が書かれるようになると共通するひとつの性格が付与される。それは「現在を過去の発展したかたちで描く」という性格。
そのようにして見れば、過去は必ず克服された「遅れた社会」。
それは現在の価値基準からはとらえられないものを、みえないものにしていく。たとえば、自然との結びつきのなかに歴史が展開するというような歴史は「みえない歴史」に変わる。そして、キツネにだまされながら形成されてきた歴史も、過去の人々の微笑ましい物語にしかならない。
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・・・『発展』というイデオロギーこそが、人々を「国民」として統合し、・・・その「国民」は「中央の歴史」を共有しているという擬制を成立させるために必要だったからである。「国民」としての達成感が、この歴史の基底になければならなかった。 133p
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四章に入って、この133pまでの論理の展開にぼくは強く同意し、すごく面白かったのだけれども以下の記述で少し躓く。
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実際には、歴史がそのすべてにおいて進歩・発展していくことなどありえない。何かの進歩は、必ず別の何かの後退を招くと考えたほうが妥当。
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ここでの進歩・発展への疑義はもちろん、ぼくも同意するところで、言いたいことはわからないわけではない。しかし、ここで「進歩・発展」とか「後退」とかいう言葉が指しているのは何なのか。
そして、環境問題は自然環境という視点からみれば歴史の『後退』としてあった、と書く。たぶん内山さんは進歩史観に対抗して、あえて『後退』という言葉を使うのだが、あえて使っているにしても、『前進』とか『後退』とかいう見方自体が捉え返さなければならないというのが、彼の主張でもあったと思う。何が前進で何が後退なのだろう。
「進歩・発展」とは、流通する物質や情報の量やスピードの拡大を指していわれるのだろうか。科学技術が進展し、普及し、いろいろ便利になっていくこことを指すのか。進歩や発展とは何か、後退とは何かという価値軸が明確にされる必要があるはず。違う価値軸を提起すると同時に、従来の価値軸とは何で、それのどこに問題があったのか、それは本書の主題的テーマともいえる。「進歩・発展」とか「前進・後退」とは何かということが、もう少し明確に提起されてもいいと思う。ぼくが読み落としているだけかもしれないけど。
第五章は「歴史哲学とキツネの物語」というタイトルがつけられているが、ここでの生命についての記述が興味深い。
以下のようにショーペンハウエルが引用される。
「死とともに意識はたしかに消滅してしまうのである。これに反して、それまで意識を生み出してきていたところのそのものは決して消滅することはない」
ショーペンハウエルはこの「意識を生みだすもの」に仮託するかたちで、人間の根源的な生命のあり様を語らせている、と内山さんは書く。
また、ベルグソンの引用もある。
「直観は精神そのものだ、ある意味で生命そのものだ。知性は物質を生みだした過程にまねた過程がそこに切りだしたものにすぎないのだ。…知性からはけっして直観に移されないであろう」
そして、ここでは「直観」に仮託されるかたちで生命のあり方を語らせている、という。
続けて、「根源的なものとしての生命は、つねに何かに仮託することによってしか語ることができないものなのである」とし、鈴木大拙はそれを「霊性」という言葉に仮託した、と書く。 153-154p
このように「仮託してしか語ることのできない生命」を含めて、知性では見えないものの存在がここでのテーマ。
知性によってつまみとられた現象としての自分の存在と、全体としての自分の存在の乖離。
「この乖離こそが今日の私たちの状況をつくりだしているような気がする」と内山さんはいう。
近代の思想は基本的に知性への信頼を基本にしている。そのことが歴史を発達として描かせた大きな要素だったのではないかという指摘もある。
以下のように書かれている。
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知性は現在の問題意識に依りながら、歴史はどのように形成されてきたのかを知ろうとする。どのような原因があり、どのようなプロセスを経てその時代は形成されたのかを合理的に知ろうとするのである。発生史的な、あるいは発達史的な歴史の把握の誕生である。156p
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自分を省みて、ぼくも「現在の問題意識に依りながら、歴史はどのように形成されてきたのかを知ろうとする。どのような原因があり、どのようなプロセスを経てその時代は形成されたのかを合理的に知ろうと」してきた。しかし、ここまではそんなに問題ないと思う。
そのことと「発達史的な歴史の把握」が直線的につながっているかどうか。
さまざまなことが過去に起因していて、その連続性の中に歴史はあると思う。内山さんは知性に過度に依拠した「発達史的な歴史の把握」を批判していると思うのだが、歴史を流れとしてみるとき、過去に原因を求めるしかないと思う。そして、その見方は必ずしも直線的な「発達史的な歴史の把握」だけではなく、循環として社会を見るときにも有効なのではないか。
知性による把握と直感的でスピリチュアルな把握、このバランスをどうとっていくのかということが問題なのではないか。
そのあたりの複雑な話がこの直後にある。
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「物質的な豊かさから心の豊かさへ」などという人がいるけれど、問題はそんなに簡単ではない。なぜなら発達史的な歴史のなかで実現されたものは、けっして「物質的な豊かさ」にとどまらないのである。
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その例として、自由な旅行、情報収集、言論・出版、思想の自由など。
それらはこの歴史の中で実現されたものだ。
にもかかわらず乏しい充足感。
身体の充足感、生命の充足感、が例示される。157p
次にあげられる充足感が興味深い。
<現在の問題意識から切断されているがゆえに「みえなくなった知性」の充足感>
この「」の位置がよくわからない。これで正しいのだろうか。<みえなくなった「知性の充足感」>ならわかるような気がするが。
ここまでに「みえなくなった知性」のことが書かれていたのかもしれない。しかし、ぼくはそれに気づいていない。
次に「みえない歴史」をどうつかむか、という話(これが「みえなくなった知性」と対応してるのだろうか)
それは非知性の領域においてしかつかむことができない。合理的な説明はできないけれども「わかる」こと、「納得できる」こと、「諒解できる」こと。知性ではなく、身体の記憶や生命の記憶に照らしたとき、それはよく「わかる」ものとして現れる、という。
再び引用(まとめるのに疲れてきた)
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…、知性による歴史の認識は歴史に合理性を求める。何らかの因果関係によって歴史は形成されてきた、その意味で歴史は発展してきたととらえさせる。時間に発展を要求するといってよい。つねに時間は直線的に過ぎ去っていって、その過ぎ去る時間のなかに合理的な因果関係が内蔵されているという感覚。それは知性の自己錯覚とうまく結びつく。なぜなら知性は、自分自身をたえず過去から現在、未来へと動く合理性のなかでとらえさせるからである。そのような錯覚された世界のなかに自らを置くことによって、知性は現在の知性自身を肯定する。なぜなら現在の知性は、合理的な発展のうえに成立したと錯覚されるからである。
ところが身体や生命の世界はそういうものではない。身体や生命もさまざまな記憶を蓄積していくけれど、その記憶はたえず受け継いでくれる人々を探す。その受け継ぎは「発展」という形式ではなく、むしろひとつの循環である。
「発展していく歴史」は知性が歴史に合理性を求めた求めたことによって、そのようなものとしてみえてきた歴史であって、それだけでは身体や生命を介した歴史はつかむことができないのである。
現代の私たちは、知性によってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった。人間がキツネにだまされた物語が生まれなくなっていくという変化も、このことのなかで生じてきたのである。
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以上が5章の結語になる。
さっきも書いたのだけど、「因果関係≒発展」というところに落とし穴があるように思う。因果関係で連続しているが、全体としては循環しているというようなこともありえるのではないだろうか。
知性にあまりにも偏った現在をなんとかしていかなければならないという問題意識は理解できるが、それを捨てたらいいというわけではないはず。繰り返しになるが、問題はそのバランスをどこでとっていくかということじゃないかなぁ。
そして終章、第6章の結語を引用しよう。
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この生命性の歴史が感じとられ、納得され、諒解されていた時代に、人々はキツネにだまされていたという物語である。しかしそれは創作された話ではない。自然と人間の生命の歴史のなかでみいだされていたものが語られた。
それは生命性の歴史を衰弱させた私たちには、もはやみえなくなった歴史である。
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時代が直線的に進むわけではない、ということはその通りだと思う。循環型の社会がいろんな意味で必要になっている。他方で、知性によってものごとを見ていくことの重要性もまた忘れられてはならないようにも感じる。非知性だけに頼るのは危ない。何を知性の歴史で認識し、何を生命性の歴史でとらえるのか、そこのところが問われているように思う。
しかし、生命性の歴史を衰弱させ、もはやみえなくなった歴史としてのキツネにだまされる物語、この物語をぼくたちは回復することができないのだろうか。あるいは回復させることは必要なのだろうか。必要だとしたら、それはなぜ。そして、どのように回復させることができるのか。
この本に触発され、浮かび上がってくる疑問は少なくない。その疑問の提出の仕方が間違っていなければ、見えてくるものはいろいろあると思う。
最後に菅野さんのブログへのコメントを少しだけいぢって掲載
「あとがき」の内山さんはこんな風に書く。
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書き終わってみると、なおさら私は日本の近代化とは何だったのだろうという気持ちになってくる。それが良かったのか、悪かったのかという価値判断は、まだ後の課題にしておいてもよい。それ以前のこととして、日本の近代化によって生じた変化がまだ明らかになっていない。そんな気持ちである。
本書のテーマであるキツネと人間の物語にしてもそうである。なぜ人はキツネにだまされなくなったのか。ここには人間たちの自然観の変化も、信仰観や死生観の変化も、そして当の人間観の変化もある。私たちを私たちたらしめている要素のすべてが変わったといってもよい。
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こんな風に書かれていますが、この本では近代化がもたらした変化にかなりていねいにせまっていると思います。もちろん、それは否定的なことばかりではありません。近代化による喪失と、それがもたらした利便性や桎梏からの自由をどのように秤にかけるべきなのかということは、内山さんが書いているように、まだ後の課題でいいのかもしれません。でも、ここは現代のオルタナティブを考えるときの大きなテーマでもあります。そんなに先ではなく、この問題への答えを探すことも求められているのだと思います。
蛇足だけど、図書館の本には利点がある。返さなければいけないので、それまでにメモを書こうという義務が生まれるし、本棚の場所もふさがない。自分で手に入れた本の読書メモはいつでも書けると思って、そのままになったり途中で終わることが多いし。とはいうものの、後でメモしたところ以外を参照できないのはつらい。この本を購入して、手元に置くかどうか悩ましい。
蛇足の蛇足
という蛇足を書いた後に、冒頭に同じことを書いていたのを読み返して発見。そんなに高くない本なのに買うべきかどうかで悩んでる貧乏くささが同じことを何度もかかせるのか、とも思ったが、うまく書けていない言い訳を繰り返さずにはいられないいじましさ、のほうが強いのかもしれない。