怒りをこめて企業の地球乗っ取りを拒否する
──直接民主主義と自己決定による広場占拠運動


ヴァンダナ・シヴァ


 二〇一一年五月一五日、若者たちがスペイン各地で都市の広場を占拠した。若者たちは「インディグナードス」、「怒れる人びと」であると自称していた。私は、ロドリゲス・サパテロ首相への科学問題諮問委員会に出席するため訪れたマドリッドでこの人びとに会った。「怒れる人びと」の宣言は述べている。「われわれは誰であるか? われわれは民衆である。われわれは自発的に自由にここに集まった。なぜここにいるのか? われわれは、経済的利益よりいのち・生活を優先させる新しい社会をもとめるので、ここにいるのだ」。

 米国でも「占拠運動」が進行しているが、この運動は「われらは99%」運動と呼ばれている。この民衆の抗議運動は、アラブの春に元気をもらいながら、富の不公平な分配に狙いを定めるものだった。ここで99%というのは「トップ1%と残りの市民の間の格差」を指す。

 一〇月一四日、占拠者たちがウォールストリートから排除されそうになったとき、世界中で支援行動が行われたという事実は、いたるところで人びとが今日の支配システムに「もうたくさん」と感じていることを示している。人びとは民主主義と民衆の権利の破壊に、我慢できなくなっているのだ。人びとは、民衆の生活と生計を絞り取って銀行を救済する措置に同意することを拒否している。対決は、「99%」という表現が語るように、民衆と大企業、民主主義と経済的独裁の間に存在しているのだ。

 全世界にひろがるさまざまな民衆運動の組織のスタイルは、もっとも深く、もっとも直接的な民主主義を土台にしている。これは自己組織化である。これこそが、生活と民主主義が作動する仕方なのだ。これがマハトマ・ガンディが「スワラジ」と呼んだものである。

 支配システム側の人びとは、位階秩序と支配になじんでいるので、この水平的組織を理解できず、この運動を「リーダーのいない」運動と呼んでいる。

 ガンディは言った。「生活とは、底辺に支えられる頂点ではなくなるだろう。そうではなくて、生活とは大海のような円環である。その中心はいつでも村のために滅びる用意のある個人であり、個々の村はまた、村々が構成する円環のために滅びる用意をもち、そしてその全体は、ついに一つの生活─傲慢に自己を主張せず、謙虚で、自己がその不可分の構成単位である大海のような円の尊厳を分有するたくさんの個人から成る生活─となるであろう。したがって、もっとも外側の円環は権力をふるってその内側の円環をつぶすことがなく、逆にその内部にあるすべての円環に力を与えるとともに、そこから自分の力をくみ出すだろう」。

 世界中の都市で開かれている民衆総会(general assemblies)は、この「絶えず広がり、けっして舞い上がらない」大海の円環の生きた模範だ。誰もが決定過程に加わらなければならないなら、全員一致(コンセンサス)が唯一のやり方になる。これは先住民の文化が歴史をつうじて実践してきた方法である。未来を担う世代は、真の自由を形づくるこの古い伝統に再結合しつつある。企業のルールが民主主義にとってかわり、民衆の代表者が企業の代表者に変身したからである。

 今日、世界全体で、代議制民主主義は民主主義としてのその限界に到達してしまった。「人民の、人民のための、人民による」ではなくて、「企業の、企業のための、企業による」になった。お金が選挙を動かし、お金が政府を運営する。

 ガンディは「近代文明」が自由の喪失の真の原因であるとした。「まず・文明・という言葉で描かれている実際の状況を考えてみよう。その真のテストは、その中に暮らす人びとが、身体的安楽を人生の目的としているという事実にあるのだ。……文明は身体的楽しみを増やそうとつとめながら、惨めにもそれを増やすことにも失敗している。……この文明には忍耐でつきあうしかない。それはやがて自壊するだろうから」。

 私が思うに、これがガンディの洞察の核心であった。資源への強い欲望と工業化による汚染の結果である環境の危機は、文明の自己破壊のもっとも重要な側面である。工業化は化石燃料に基礎を置いており、化石燃料文明は気象の撹乱をもたらし、気候の破局の見通しで私たちを脅かしている。それはまた私たちに失業をもたらした。

 ガンディはまた、「文明」の唯一の目標は身体的安楽であるが、この目標の達成にも惨めに失敗した、つまり自分の物差しで測っても失敗したという事実にふれている。

 未来の世代の新しい運動は、排除されたものたち、すべての権利─政治的、経済的、社会的権利─を奪われた人びとの運動である。すなわち、処分され、使い捨てにされる地位以外に失うものを持たない人びとの運動である。

 残酷な不正と排除の犠牲者であるにもかかわらず、非暴力がこれらの新しい運動の掟である。「占拠」とは事実、「共」(コモンズ)の回復である。公園はどの街にもある物理的なコモンズである。今日、公園は、ウォールストリートに向かって、銀行に向かって、政府に向かって、99%がその同意を取り消したこと、何百万人を家も仕事もない飢餓状態に突き落とした今日の無秩序への同意を取り消したことを、告げ知らせる場所なのである。

 われわれの時代の自由とは「自由市場民主主義」のことだ。「自由市場」とは、大企業が誰でも搾取したい人間を搾取し、したい放題のことをしたい放題の仕方でする自由なのだ。いたるところで民衆の自由の終わり、自然の終わりを意味するのだ。実際「自由市場民主主義」とは自己矛盾した表現である。大企業への規制撤廃がわれわれに自由を与えるものである、と信じさせるだましの言葉なのだ。

 成長幻想と金融についてのフィクションが、経済を不安定でどこへ行くか分からないものにしているように、法人としての大企業というフィクショが市民に取って代わり、社会を不安定で持続不能なものにしているのである。義務と権利をもつ地球市民としての人間たちは、地球にも社会にも何の義務も負わず、地球と民衆を際限なく搾取する権利だけを与えられた大企業に取って代わられた。法的人格と、利潤の最大化を前提とする企業権が与えられている大企業は、地球の権利と、地球の恩恵や資源への民衆の権利を消滅させつつある。

 新しい運動たちはこのことを理解している。だからこそ、怒っているのだ。だからこそ、企業と貪欲ではなく、民衆と地球を中心におく生きた民主主義を創造するために、政治と経済のスペースを占拠しているのだ。

Z-net “The Spirit of Resistance Lives”
[由良葦也訳]

※『季刊ピープルズ・プラン』56号(2011年12月)に掲載予定
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