白紙委任の「決める政治」とむきだしの新自由主義
 ――「維新の会」の国家・社会像を批判する


白川真澄

2012年10月1日記

はじめに
 橋下徹が率いる「維新の会」が国政進出を決め、次の総選挙では台風の目になると言われている。一方で、領土ナショナリズムの旋風に乗って極右の安倍晋三が自民党総裁に返り咲き、自民党の支持率が上昇している。それもあって、「維新の会」の勢いに陰りが見られ、早くも「賞味期限切れ」ではないかとも囁かれている。安倍自民党と橋下「維新」の関係が今後どのように展開していくのかについては読めないところがある。しかし、やはり「維新」が日本の政治動向を左右するような役割を演じることはまちがいない。

 「維新の会」を押し上げてきたのは、既成政党、とくに民主党への大きな失望感を背景にした橋下個人の独特な政治的パフォーマンス、つまりポピュリズム的手法である。ポピュリズムは、「改革」を掲げて既得権をもつ勢力を攻撃することで民衆の高い支持を獲得し、独裁的な権力行使を行なう政治である。「白か黒か」の単純な二分法、攻撃する「敵」の設定といった「分かりやすさ」、リーダーシップの発揮と決断力(「決める政治」)、マスメディアへの派手な露出。

 こうしたポピュリズム政治を私たちはすでに小泉政権時代に味わったが、橋下はこれを大阪の地で、公務員を「敵」に定めて実行してきた。非正規雇用の拡大や自営業の苦境がいっそう進行している現在、人びとの不満や怨嗟の鉾先は、目に見えるより身近な存在に向けられる。安定した身分の正社員の象徴である公務員へのバッシングが効を奏し、橋下は高い支持を獲得した。

 橋下「改革」がいかにひどい人権蹂躙をやってきたかは、よく知られている。しかし、「維新」がどのような社会・国家像をもっているのかについては、あまり検討されていない。たしかに「維新八策」(最終案)なるものも、整理された文章ではなく、雑多なアイデアや政策提言が説明なしに並べられているだけである。目を引く提案も入っているが、そこには毒針や落とし穴が用意されている。

 「維新八策」が描く国家・社会像を批判的に読み解いてみたい。

「決定できる民主主義」――白紙委任を求める政治

 「維新八策」の国家・社会像のキーワードは、「決定できる民主主義」と「自立する個人」の2つである。「個人の自由な選択と多様な価値観を認め合う社会を前提に、自立する個人、自立する地域、自立する国家を実現する」、「多様な価値観を認めれば認めるほど、決定でき責任を負う民主主義、決定でき責任を負う統治機構を確立しなければなりません」。

 「決定できる民主主義」の実現へ向けての「統治機構の作り直し」が「維新」の看板政策である。そこで打ち出されているのが、首相公選制、衆議院の議員数(現行480人)を240人に削減、地方分権(道州制、地方交付税制度の廃止と消費税の地方税化)、憲法改正(憲法改正発議要件を3分の2から2分の1に)である。

 首相公選制は、自分たちの手で首相を選ぶのだから、人びとの政治参加の意欲を高めると言われる。だが、それは、首相に権力を集中し、国民に直接に選ばれたという正統性を武器にしてその権力の独裁的な行使を可能にする。いいかえると、強大な権力を握る首相への白紙委任を人びとに要求する。選ぶことまではできるが、選んだ後は任せるしかなく批判したりブレーキをかけることはできない。橋下は、「決定できる民主主義」とは、「有権者が選んだ人間に決定権を与える」(朝日新聞のインタビュー、2012年2月12日)ことだと言っている。「弁護士は委任契約書に書いてあることだけしかやってはいけないけれど、政治家はそうじゃない。……。選挙では国民に大きな方向性を示して訴える。ある種の白紙委任なんです」。

 首相(行政府)に権力を集中して「決められる政治」を行なうのであれば、議会の役割は当然にも低くなる。「八策」は、衆議院議員数を半減するとしている。「ねじれ」国会で重要法案が成立しなかったり民主・自民の野合で議会の討議がまったく空洞化している現状は、議員定数削減に多くの人が賛成する空気を作りだしている。しかし、日本の国会議員数は、多すぎるのだろうか。これを人口比で比べてみると、議員1人が代表する人口は、日本が16.4万人(衆参両院)である。選挙制度の問題を別にすれば、この数が少ないほど、民意が反映されやすい。たとえばイギリスは5.7万人、イタリアは6.0万人、フランスは6.6万人、ドイツは10.9万人である(人口の多い国、アメリカは52.6万人、ロシア23.2万人)。

 この比較からすれば、人びとの多様な意見を反映するという観点から、むしろ議員定数を増やすことが必要である(同時に、全国一律の比例代表制への選挙制度の改革も必要)。しかし、「八策」は「多様な価値観を認めあう」と謳いながら、議員数を半減すると言う。狙いは多様な価値観の反映ではなく、あくまでも迅速に「決定できる」仕組みに変えることにある。

 同じことは、憲法改正の発議要件を緩和し、いつでも改憲できるものに変えるという提案にも見られる。

道州制は、住民自治を窒息させる

 「八策」は、「中央集権型国家から地方分権型国家へ」の転換を謳っているが、その「最終形」が道州制である。道州制になれば、重要な政治的決定が道州ごとに異なる可能性も生まれ、民主主義は前進するのではないか。

 たしかに、道州がエネルギー政策の決定権、あるいは有事法制における国や在日米軍への協力の是非を決める権利などを握れば、国による上からの一元的な決定ではなく、多元的な決定が可能になる。しかし、道州制は、「内政は地方・都市の自立的経営に任せる」が、国家に「人的物的資源を集中させ外交・安全保障・マクロ経済政策など国家機能を強化する」(「八策」)という“役割分担”の論理に立っている。したがって、地方自治体が住民のいのちや生存権を守る責任を果たすために対米軍事協力を拒否する権利などは、奪われる危険性が大きい。

 道州制構想は、国がしゃにむに進めてきた大がかりな市町村合併(「平成の大合併」)の波の上に出てきている。1999年には3232あった市町村は、2008年には1793にまで減ってしまった。なかでも、人口1万人以下の小さな自治体の多くが姿を消した。市町村合併は行政サービスを向上させると吹聴されたが、職員数の削減や施設の統廃合によってサービスの低下を招いたケースも多い。何よりも、合併による人口規模の増大は、住民参加のハードルを高くし、住民自治を形骸化してしまう。
 
 そして、市町村合併の進行は、府県の機能の一部を担う大きな市(政令市、中核市など)を増やし、府県の機能を空洞化させてきた。そこで、府県を10程度の道州に統合するという構想が提唱されてきたわけである。府県に代わって強大な権限をもつ道州は、人口1000万人規模のミニ国家であり、住民から遠ざかった存在になる。基礎自治体も数十万人単位へと大きくなり、その上にミニ国家の道州が君臨するとき、住民の自己決定権の行使はひじょうに困難になり、住民自治は窒息させられるだろう。

 「八策」の中で、まじめに検討に値する提案は、「地方交付税制度の廃止、消費税の地方税化と地方間財政調整制度」である。地方交付税制度は、地方自治体間で必然的に生じる税収格差を是正し、財源保障を行なう財政調整制度である。これは、住民がどこの地域に住んでいても最低必要限の行政サービスを受けられることを保障する。しかし、現在の地方交付税制度は、資金の配分に当たって国(総務省)の裁量権がきわめて強く、国が地方を従わせる仕組みの1つとなっている。これを廃止し、地方自治体間で自主的に協議して資金を配分する水平的な財政調整制度に移ることは、望ましい改革である。

 しかし、橋下は、地方交付税制度が自助努力しなくても国から資金が入ることに甘えるモラルハザードを生んでいることを問題視する。そこで、自治体の行政改革(ムダ削減)と互いの競争を強めるべきだと主張し、そのために消費税をすべて地方税化することを提唱する(現在は消費税5%のうち1%、10%に引き上げた場合2.2%だけが地方に)。その狙いは、安定した財源を確保すること以上に、税率を自由に引き上げることにある。住民に対して、サービス向上の見返りに消費税率引き上げを受け入れるか、それとも税率をそのままにしてサービスの削減を受け入れるかの二者択一を迫ればよいというわけだ。

 税収が増える地方と税収が少ない地方との間で資金配分を行なう場合、橋下の発想では、税収が少なく財源不足に陥る地方は自助努力の不足だと決めつけることになりかねない。つまりは、サービス削減も税率引き上げもしない地方に資金を回す必要はないと言い張るだろう。そうなれば、せっかくの地方間の水平的な財政調整も暗礁に乗り上げてしまう。

トコトン新自由主義――「自立した個人」と社会保障の削減

 「維新八策」のもう1つのキーワードは、「自立する個人」である。橋下によれば、「自立する個人」とは、努力し能力を自由に発揮して競争に勝つ個人である。
 
 「日本人がラグジュアリーな生活を享受しようとするなら『国民総努力』が必要です。競争で勝たないと無理です」。「とことん能力を発揮してもらう。そこには規制はかぶせない。いったんは格差が生じるかもしれません。でも、所得の再分配もしっかりやります。……。僕のやり方は事後調整型の格差是正です」(前掲、朝日新聞インタビュー)。小泉改革の「知恵を出し努力した者が報われる社会」という社会像と瓜二つである。

 だが、社会的な連帯や助け合いなしに、個人の自立はありえないはずだ。自助努力・自己責任を強調する「八策」は、社会保障制度のあり方をどのように描いているのか。

 「自助・共助・共助の役割分担を明確化」し、「社会保障給付費の合理化・効率化」を行なう、と。これは、公的な社会保障サービスをできるだけ削減し、個人の自助努力に委ねるということである。いいかえると「真の弱者を徹底的に支援」するが、「個人のチャレンジを促進し、切磋琢磨をサポートする社会保障」、「自立する個人を増やすことにより支える側を増やす」。

 この考えが端的に現われているのが、生活保護の見直し策である。生活保護受給者のうち高齢者・障害者と現役世代を区分けし、「支給基準の見直し」を行ない、「現役世代は就労支援を含む自立支援策の実践の義務化」、「有期制(一定期間で再審査)」の導入をめざす。現役世代は就労支援による自立促進に力を入れ、給付を削減する。つまり、就労のための職業訓練や求職活動を義務づけ、その努力をしない人間は給付を打ち切る。自民党と一緒に、生活保護バッシングの片棒を担ごうというわけだ。

 また、医療の分野では、「公的保険の範囲を見直し混合診療を完全解禁」し、「公的医療保険給付の重症患者への重点化(軽症患者の自己負担増)」を図るとしている。公的な医療保険がカバーする範囲を限定し、風邪など軽い病気は自己負担で受診する。分かりやすく言うと、窓口でお金を支払えない低所得世帯の子どもたちは、風邪を引いても医者にかかれなくなるが、それでよいということである。

 さらに、混合診療の解禁は、医療機関が高額の医療を自由に供給することを可能にする。これと符節を合わせて、「八策」は、「供給サイドの税投入よりも受益サイドへの直接の税投入を重視(社会保障のバウチャー化)」すると主張している。これは、医療報酬や介護報酬や保育士の賃金の支払いを支える税投入をやめて、サービスを受ける側の人びとにバウチャー(利用券)を渡して、サービス提供側の事業者を選ばせる。それによって、事業者間の競争を促進しようという構想である。橋下は、「僕が一番重視しているのは、行政サービスをユーザーの選択にさらすことです」。医療も教育も介護も「ユーザーが選択しないものは(行政が)基本的にやっちゃいけないんです。今の行政はユーザーの選択に関係なく、とにかくお金を突っ込んで供給する」(前掲)と言う。

 医療・介護・子育てなどのサービスは、公共サービスとして提供されなければならない。つまり、民間の事業者やNPOが供給する場合でも、行政はその質(安全性)や価格についての責任を負う。「八策」の提案は、政府や自治体の公共的責任を放棄し、公共性のあるサービスの供給を市場に委ねてしまう。

 年金制度の「積み立て方式」への移行という提案も、自助努力への転換という考えが現われている。これは、個人年金や貯金と同じく自己責任で保険料を積み立てる方式で、支払った金額に応じて年金を受け取る。現行の賦課方式から積み立て方式への移行の難しさを脇に置くとしても、積立方式の場合、保険料を僅かしか払えない低所得者は、生活できるだけの年金を受け取れないという問題が発生する。しかし、「八策」では、「高齢者はフローの所得と資産でまずは生活(自助)」とあるのみで、税による最低保障年金といった構想はまったくない。

 この点と関連して、「八策」の提案のなかで目を引くのが「ベーシック・インカム(最低生活保障)」の導入である。しかし、橋下の場合、ベーシック・インカムは、生存権保障のための普遍主義的な最低生活保障というよりも、行政のコスト削減・効率化にこそ狙いがある。失業手当も生活保護も年金制度もなくしてベーシック・インカム一本に置き換えれば、行政コストは安上がりで済む。そして、人びとに現金だけ渡して、医療・介護・子育のサービスは市場から買わせればよい。これが橋下流の新自由主義的なベーシック・インカム構想である。これに対して、私たちは、最低限の生活ができるだけの水準の現金給付と公共機関の責任での現物サービスの拡充を結びつけるという構想を対置して争う必要がある。

脱原発は本気? バリバリの経済成長主義では脱原発は無理

 橋下は一時期、脱原発の旗手として振る舞い話題を呼んだ。だが、大飯原発の再稼動を容認したことで化けの皮が剥がれた。「八策」でも「脱原発」は、「先進国をリードする脱原発依存体制の構築」と一言書かれているだけの扱いである。

 脱原発の姿勢の腰砕けは、関西の経済界からの「電力が不足すれば経済がもたない」という脅しによるものであった。経済成長優先主義に固執するかぎり、この脅しと真っ向から対決することは難しい。だが、「八策」は、経済成長を追い求める提言(その中身は具体性がないが)で溢れている。「実経済政策は競争力強化」、「競争力を重視する自由経済」、「TPP参加、FTA拡大」、「国民利益のために既得権益と闘う成長戦略(成長を阻害する要因を徹底して取り除く)」などなど。

 そして、経済成長を後押しする税制として、「成長のための税制、消費、投資を促す税制」、「超簡素な税制=フラットタックス化」が掲げられている。フラットタックスは、消費税に見られる単一税率を想起すればよいが、これを所得税にまで拡大適用すれば累進税率をやめてしまうことになる。高額所得者になるほど税負担が大きく低下するという不公正がいっそう進み、税による所得再分配機能は失われる。

 税についての「八策」の基本的な考え方は、「フローを制約しない税制(官がお金を集めて使うより民間でお金を回す仕組み)」ということである。つまり、沢山稼いだ人間から税を取ることは勤労へのインセンティブを阻害する、また政府が税でサービスを提供することには必ず非効率性が伴う。したがって、減税政策をとり、高い所得を得た人間が自由にお金を使えるようにすれば、経済は成長する。おなじみの新自由主義の経済学である。

 これほどバリバリの経済成長優先主義は、脱原発からの撤退に行き着かざるをえない。

安倍自民党のウルトラ保守主義の補完役

安倍自民党は、「領土・領海を断固として守る」、そのために日米同盟を強化し「集団的自衛権を行使する」といった路線を明確に掲げてスタートした。「維新八策」も、「日本の主権と領土を自力で守る防衛力と政策の整備」、「日米同盟を基軸とし、自由と民主主義を守る国々との連携を強化」と謳っている。そして、橋下は集団的自衛権について「基本的には行使を認めるべきだ」と発言している(2012年9月13日)。

このように、安倍と橋下が認めあうように、両者の間には強い共鳴関係がある。だが、総選挙を睨んだ政治力学上、安倍と橋下の間に、共振・連携の関係よりも差異化・競合の関係が強まることも予想される。脱原発を真っ向から否定する安倍に対して、橋下は脱原発を掲げ続けるかもしれない。

しかし、領土ナショナリズムと日米同盟強化の基本路線で両者は合致している。加えて、安倍は新自由主義の色彩は控えめだが、金融緩和によるデフレ脱却と経済成長を優先することを主張している。つまるところ、維新の会は、新自由主義をむきだしにしながら、安倍自民党のウルトラ保守主義と経済成長優先主義を補完する役割を演じることになるだろう。そのことは、日本の政治と社会を最悪の方向に押しやる役割を果たすということにほかならない。