あまりにくだらな過ぎる広島・長崎のオリンピック招致

山口響
2009年10月11日

 広島・長崎の両市が、2020年のオリンピック開催地として立候補を検討しているというニュースが流れた。

 正直耳を疑った。

 広島の秋葉市長も長崎の田上市長も、停滞を打ち破って颯爽と登場し、就任わずか10ヶ月ほどでノーベル平和賞までかっさらったオバマ大統領が先導している世界の「核廃絶気運」という熱に浮かされているとしか思えない。

 そもそも、東京が2016年の招致に失敗したことの検証すら、主流のメディアにおいてはほとんどなされていない段階で、なぜ招致の意図を明らかにする必要があったのだろう。

 ひとつにはカネの問題だ。東京都議会の福士敬子議員によれば、招致活動費は200億円を超えるだろうという。広島・長崎のような、東京に比べれば吹いて飛ばされるような弱小な自治体が、いったいどうやってこれだけの費用を捻出するというのか。

 オリンピックがいかにカネに汚いものであるかは、アンドリュー・ジェニングス著『オリンピックの汚れた貴族』を1冊読むだけで十分だ。100人近いIOC(国際オリンピック委員会)の委員たちは、招致活動を繰り広げる世界の各都市によって接待漬けになる。ファーストクラスでの旅行や豪華なディナー、スウィートルームは当然で、その大部分が男である委員たちは、招致側の用意した女性を買うこともあるという。それもこれも、招致のために必要なことだとして、招致費用の中から捻出されるのだ。

 東京招致が失敗したあと、石原都知事は、リオの選出に関して「目に見えない政治的な動きがある」と述べたが、なんのことはない、石原はちょっと正直すぎただけなのだ。東京はIOC委員の歓心を買うような接待ができなかった――東京落選の原因は、大部分それなのである。

 広島や長崎は、「核廃絶を目指す」という美名のもと、そのような汚い招致活動にのめり込む覚悟はあるのか。そんな招致にかけるカネがあるのなら、高齢化の進む被爆者援護にでも出資したらよいのではないか。

 もうひとつの問題は、広島・長崎が、「オリンピックは『平和の祭典』であり、世界で唯一の被爆地である広島・長崎はこれにふさわしい」という趣旨の主張をしていることだ。

 言っておくが、ナチスがドイツの国威発揚のために大いに利用した1936年のベルリン・オリンピックの例を出すまでもなく、オリンピックが「平和の祭典」であったことなど、過去一度もないといってよいだろう。

 1968年のメキシコ・オリンピックでは、オリンピックの開催に反対する学生約300人が、メキシコ軍によって虐殺された。この事件は、メキシコシティのトラテロルコ地区で起こったため、「トラテロルコ虐殺」と呼ばれている。核問題に関心のある方ならピンと来るだろうが、このトラテロルコは、ラテンアメリカ非核兵器地帯を設置する条約が調印された場所でもある(1967年)。

 また、ソウル・オリンピックの開催が決定されたのは、1980年の光州虐殺の記憶もまだ生々しい1981年9月のことであった。

 そこまで極端な例を出す必要はないかもしれない。オリンピックのスタジアム建設などに巨額の資金が投入される一方で、競技場近くに住んでいるホームレスが「目障りだ」という理由で排除されることがこれまで何度繰り返されてきた、という一事をもってしても、「平和の祭典」という看板はずいぶんと色あせてしまうことだろう。

 長崎出身の私は、広島・長崎がそのような空虚な試みに無謀にも乗り出すことを黙ってみていられない。IOC委員にとってみれば、現地の市民がオリンピック開催を支持していない都市は選びづらい、とのことだ。広島・長崎の市民たちに、「核兵器なき平和を本当に目指すなら、オリンピック招致よりももっと他にやることがあるだろう」という声を大いにあげ、なんとしても招致活動を「失敗」に導いてほしい。