鳩山由紀夫さん、男同士の友愛、大事ですか?
青山薫

2009年9月


 鳩山由紀夫さんの政治方針の根幹、民主党の立党宣言では「社会の根底に据えたいと」謳われている「『友愛』の精神」。英訳がfraternityだと聞いて「そりゃあないだろ…?」と検索してみた。

 ほんとうだった。

 鳩山さんのウェブサイトを見ると、PHP研究所が政策などを提言するために発行している月刊誌『Voice』の8月号に寄稿した、「私の政治哲学」という文章が載っている。その最初の段落に、「友愛」は「フランス革命のスローガン『自由・平等・博愛』の博愛=フラタナティ(fraternite)のことを指す」と書いてある。出典は、祖父で首相だった鳩山一郎氏が汎ヨーロッパ主義を唱えたクーデンホフ・カレルギーの『Totalitarian State against Man』(人間に敵対する全体主義)を翻訳したとき、英語のfreedom, equality, fraternityを「自由・平等・博愛」でなく「友愛」としたものだそうだ。

 Fraternityは、その辺のウェブ辞書でも出てくるが、兄弟愛、男同士の絆、シスターフッドに対するブラザーフッドを意味する。ラテン語のfrater=兄弟が語源。内部でメンバーの自由と平等を保証し、コミュニティを形づくるための強い絆なのだが、これがフランス革命のスローガンとなり、「人権宣言」をつくり、近代市民社会の基礎理念としていわゆる「市民権」につながっていった。

 のだが、フランス人権宣言の「人」はl'homme=英語のManだった。読んで字のごとく、女にはこの権利はなく、それに基づいてつくられた市民社会のオリジナル・メンバーでもなかった。だから「自由」も「平等」も女にはなかなか保障されず、参政権一つとっても、革命のお膝元フランスでさえ200年弱の紆余曲折を経てはじめて実現した。

 「人権」、「市民社会」、「市民権」の概念は歴史的なもので、日々広がり、重要事項が変わり、する人の立場によって解釈も変わり、新たな要素が加えられつづけている。たとえば、市民権の内容として考えられてきたのは長らく法的・政治的・社会的権利3点セットだったが、ここ半世紀ほどで、これに親密な関係に関する権利、プライバシーの権利、環境権などなどが加わってきている。

 そして、少なくとも英語圏(フランス語圏も?)のフェミニストとその支持者のあいだには、市民社会は成立の経緯からして原理的に女性の公的な分野への進出を阻むものをもっており、これを変えていかなければ女性差別は無くならない、というおおむねの合意がある。あるいは、「人権宣言」をすぐさま批判して「女性の権利宣言」を著すなどしてきた先達に対する敬意から出発し、その限界を問い、市民社会のメンバーから外されるのは女だけではないことに、いま注目することができている。日本語圏でも「市民社会」や「市民権」、「人権」概念そのものが西洋起源だということへの批判から、日本社会ではどう事情が違うのか、という考察もふくめて(だからたぶんより繊細な形で)、この歴史はシェアされている。

 その延長線上にいると、次期首相の「友愛=fraternity」論には、ほんと、ガックシきてしまう。

 でも、生まれてはじめて経験する本格的な政権交代。それだけで何かいいことありそうな気がする。いまこの瞬間にも貧困対策、ジェンダー平等、子どもの権利、反基地・反戦・反安保について具体的に政策に反映させようと、頑張ってロビィングしている人たちの足を引っ張るアームチェア評論家にはなりたくない。

 だいいち、鳩山さんのこの文章だけ見れば、だいたい大筋のことしか書いていない文章だが、大筋においては、そんなに悪い方へ向いているとも思わない。

――「戦後保守政党の底流に脈々として生きつづけ」た一郎氏の理念が、労使協調政策に結びつき、ひいては「日本の高度経済成長を支える基礎となった」と言われると、その労使協調路線がとうとう派遣切りにまで行きついちゃったんじゃないの? 「従来のIMF、世界銀行体制の単なる補強だけではなく」、アジアの集団的安全保障と共通通貨でもって将来の経済や軍事危機に対応しよう、と言われれば、IMFと世銀を補強してたらアジアの庶民は浮かばれないでしょ? 経済社会開発で翻弄して出稼ぎに押し出してきた張本人(?)たちなんだから。だいたいそこにくっついた安全保障では人びとは守られない、って国連さえ言い始めて15年だよね? とやっぱりツッコミたくはなるけれど――

 それから、英語の言葉についての批判を日本語でするのもどうかとも思った。

 でも鳩山さんのこの文章、英訳が、8月28日付New York Timesに社外論説として載っているし、Financial Timesにも載っている

 Fraternity、「コミュニティ成員の絆」くらいの意味で使っちゃう人もいるし、大学なんかの「***愛好会」、さまざまな社交の会を意味するときは、女子禁制のところばかりでもないらしいけれど、少なくとも、古臭い男子校文化を自慢げに語るなんて、この人ズレてる、と思われる――んじゃないかな(「日本人はやはり古風である」ってウケちゃうか?)。

 とくにフェミニスト批評が盛んだった1990年代いらい、この言葉の英語の語感がネガティブであることは確かだと思う。そしてそれは取るに足らないことではない。

 たとえば、Peggy Sandayの書名もズバリ『Fraternity Gang Rape: Sex, Brotherhood, and Privilege on Campus』(男同士の絆による集団強かん――セックス・兄弟愛・キャンパスの特権)は、Fraternityそのものが、(80年代のアメリカの大学で)集団強かん文化の元凶になっている、という文化人類学的研究だった。この本はいまでも女性に対する男性の性暴力に関する文献でよく引用されるし、身近で記憶に新しい京都教育大学の学生による集団準強かん事件なども、同様の説明ができてしまう…。

 問題にならなかったらそれこそガックシだな。

 男同士の絆としての「友愛」、やはりいただけません。鳩山さん、何か別の言葉に代えられませんか? 女のあいだの差異にこだわった後の現代的な解釈抜きには私も使いませんけれども、たとえば「連帯」とかどうですか? お爺さんの、「戦後日本に吹き荒れるマルクス主義勢力(社会、共産両党や労働運動)の攻勢に抗し、健全な議会制民主主義を作り上げる上で、最も共感できる理論体系」を受け継ぐ立場では、難しいですか?

 それとも、フェミニストの思想は、公に、インターネット上で、世界的に、無視しても痛手がない程度の影響力しかもっていない――「重箱の隅をつつくな!」で終わるだろう――と鳩山さんはすでに判断されたのですか?

 そうだったら、さらに、ほんと、ガックシです。