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	<title>PP-blog</title>
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	<description>babblings!</description>
	<language>ja</language>
	<copyright>Copyright 2008</copyright>
	<pubDate>Fri, 21 Nov 2008 05:55:02 +0000</pubDate>
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		<title>ＤＶＤ・ビデオも映画になった／天野恵一</title>
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		<pubDate>Mon,  3 Nov 2008 12:15:51 +0900</pubDate>
		<author>kanako &lt;hqn&amp;#48;&amp;#48;3&amp;#53;&amp;#50;&amp;#64;ni&amp;#102;&amp;#116;y&amp;#46;ne&amp;#46;jp&gt;</author>
		
	<category>運営委員</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=14</guid>
		<description>	　家の近くのわりと大きなビデオ＆ＤＶＤ屋が、このところ、ビデオ十個で百五円なるセールをはじめている。何回が足をはこんで、十個ずつ買ってきたが、もはや私にとっては買うべきものはゼロの状態。みなＤＶＤで、映画のビデオなど観る人は少なくなったため、売れなくなった商品の投げ売りなのだろうか、一個十円は安い。
　おかげで、ビデオを観るために、夜寝る時間を短縮することから始まって、できるだけ家にいてビデオを観つづける生活がはじまった（あたりまえの生活のリズムが崩壊しているということだが）。
　このところ、ＤＶＤ屋にも、一人の演出家の作品がまとめてそれなりにそろえられている事にあらためて気づき、連続的に借りるスタイルが定着しつつあったところへ、このビデオの氾濫である。事態はすさまじいことになっている（ついでだが、伊藤整原作の増村保造監督の映画「氾濫」〈1959年〉もＤＶＤでキチンと、つい最近観なおした。やはり経済成長［企業社会化］がもたらす人間の腐敗をリアルに抉った力作であった）。
　――「ああ、またこの現実か」。少年のころから映画館に一人でかよい続けた僕は、映画がハネて出てくる時、いつもそう思った。独り言で、そういう言葉をハッキリ口にして映画館の出入り口の階段を歩いたことは、ガキのころから少なくなかったと思う。映画館はまちがいなく、僕にとっては現実逃避の空間であった。
　このところ映画批評に少し手をそめて、以前の映画作品についても、あれこれ考え直してみることや、あらためて観なおしてみることがふえて気づかされたことがある。
　映画と映画館は僕にとっては単なる「逃避」の場所だったわけではなく、生きさせられているこの現実とは別のもう一つの生きられた現実だったのではなかったのか。
　だが僕は、これまで映画館という一人で暗い世界に映しだされたスクリーンに集中するしかない、孤独な非日常空間の中で観た映画だけが、“観た映画”であるという思いに固執してきた。家のテレビで観るビデオやＤＶＤなどでは映画を観たことにならないではないかと考え続けてきたのである。
　この観念が、このところ自分の中で崩壊しつつある。その理由は、劇場の新作は、映像技法の驚異的発展に支えられ、信じられないスペクタクルシーンの連続のドラマを量産し続けているが、それに対応して、人間（心理）のドラマをキチンと描くパワーは、いちじるしく衰退してしまっており、魅力的な「もう一つの世界」ではなくなりだしていることが第一（だから、また「この現実か」という思いを持って劇場から出てくることは、ひどく特別な作品の時のみの体験になってしまっている）。
　もう一つは、家で（あいかわらず一人で）観たＤＶＤ・ビデオの映画。これが大量に私の記憶の中に蓄積されてしまっているのだ。これは映画の記憶ではないと、言い続けるのは僕にとって不自然になってしまったからである。
　そしてあれは、まちがいなく「もう一つの世界」だったのだと、あらためて実感する（映画を観なおす）機会をつくってくれているＤＶＤやビデオ。これを何度も体験すると、その観念に固執することは不可能になるのだ。いいかえれば、僕にとって、映画のビデオが投げ棄てられる状況になっている今、ＤＶＤもビデオもやっと映画になってきたのだ。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>　家の近くのわりと大きなビデオ＆ＤＶＤ屋が、このところ、ビデオ十個で百五円なるセールをはじめている。何回が足をはこんで、十個ずつ買ってきたが、もはや私にとっては買うべきものはゼロの状態。みなＤＶＤで、映画のビデオなど観る人は少なくなったため、売れなくなった商品の投げ売りなのだろうか、一個十円は安い。<br />
　おかげで、ビデオを観るために、夜寝る時間を短縮することから始まって、できるだけ家にいてビデオを観つづける生活がはじまった（あたりまえの生活のリズムが崩壊しているということだが）。<br />
　このところ、ＤＶＤ屋にも、一人の演出家の作品がまとめてそれなりにそろえられている事にあらためて気づき、連続的に借りるスタイルが定着しつつあったところへ、このビデオの氾濫である。事態はすさまじいことになっている（ついでだが、伊藤整原作の増村保造監督の映画「氾濫」〈1959年〉もＤＶＤでキチンと、つい最近観なおした。やはり経済成長［企業社会化］がもたらす人間の腐敗をリアルに抉った力作であった）。<br />
　――「ああ、またこの現実か」。少年のころから映画館に一人でかよい続けた僕は、映画がハネて出てくる時、いつもそう思った。独り言で、そういう言葉をハッキリ口にして映画館の出入り口の階段を歩いたことは、ガキのころから少なくなかったと思う。映画館はまちがいなく、僕にとっては現実逃避の空間であった。<br />
　このところ映画批評に少し手をそめて、以前の映画作品についても、あれこれ考え直してみることや、あらためて観なおしてみることがふえて気づかされたことがある。<br />
　映画と映画館は僕にとっては単なる「逃避」の場所だったわけではなく、生きさせられているこの現実とは別のもう一つの生きられた現実だったのではなかったのか。<br />
　だが僕は、これまで映画館という一人で暗い世界に映しだされたスクリーンに集中するしかない、孤独な非日常空間の中で観た映画だけが、“観た映画”であるという思いに固執してきた。家のテレビで観るビデオやＤＶＤなどでは映画を観たことにならないではないかと考え続けてきたのである。<br />
　この観念が、このところ自分の中で崩壊しつつある。その理由は、劇場の新作は、映像技法の驚異的発展に支えられ、信じられないスペクタクルシーンの連続のドラマを量産し続けているが、それに対応して、人間（心理）のドラマをキチンと描くパワーは、いちじるしく衰退してしまっており、魅力的な「もう一つの世界」ではなくなりだしていることが第一（だから、また「この現実か」という思いを持って劇場から出てくることは、ひどく特別な作品の時のみの体験になってしまっている）。<br />
　もう一つは、家で（あいかわらず一人で）観たＤＶＤ・ビデオの映画。これが大量に私の記憶の中に蓄積されてしまっているのだ。これは映画の記憶ではないと、言い続けるのは僕にとって不自然になってしまったからである。<br />
　そしてあれは、まちがいなく「もう一つの世界」だったのだと、あらためて実感する（映画を観なおす）機会をつくってくれているＤＶＤやビデオ。これを何度も体験すると、その観念に固執することは不可能になるのだ。いいかえれば、僕にとって、映画のビデオが投げ棄てられる状況になっている今、ＤＶＤもビデオもやっと映画になってきたのだ。
</p>
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		<title>アクティブなミュージアム／小屋 亮</title>
		<link>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=13</link>
		<comments>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=13#comments</comments>
		<pubDate>Fri,  3 Oct 2008 01:43:41 +0900</pubDate>
		<author>kanako &lt;&amp;#104;&amp;#113;n&amp;#48;&amp;#48;&amp;#51;&amp;#53;&amp;#50;&amp;#64;n&amp;#105;ft&amp;#121;.ne.j&amp;#112;&gt;</author>
		
	<category>運営委員</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=13</guid>
		<description>	　私は早稲田奉仕園の中にあるアクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館（wam）」でデータ整理のアルバイトをしています。この資料館は故・松井やよりさんの意志によって建てられたもので、「慰安婦」・女性国際戦犯法廷についての展示がなされた平和資料館です。展示をする傍らで、次の企画展示や講座・リサーチのプロジェクトがいくつも行われている、文字通りとてもアクティブなミュージアムです。
	　今では慣れたとはいえ、初めて足を踏み入れる女性運動に戦々恐々でした。「男」という鼻持ちなら無い存在の私ですから、何気ない言動に差別意識が露骨に表れてしまうのではないかという危惧を抱いたからです。しかも性暴力の加害の側である「男」という存在が否応なしに問われてしまうことにも、非常に重苦しい思いをもっていました。そんな訳でアルバイトを受けるかどうか大変悩んで、面接会場の早稲田奉仕園の前をグルグルと足踏みをしていたほどです。この戦時性暴力というテーマについてはピープルズ・プラン研究所の会員さんは造詣が深いと思いますので、私から言うことは何もありません。その代わり「女たちの戦争と平和資料館（wam）」の様子をちょっとだけご紹介します。
	　wamは早稲田奉仕園内の「ＡＶＡＣＯビル」２階にあります。階段を上り、廊下を突き当たりまで進むと、間接照明に照らされた「wam」（aの文字が赤い）のロゴマークが薄暗い空間におぼろげに浮かび上がっています。そして周囲には壁いっぱい掲げられた「慰安婦」１５５人の顔写真が目に飛び込んできます。その独特な緊張感を胸に資料館の扉を開いて下さい。すると「カラーン」と澄んだ鐘の音が来館者の訪問を伝えます。右手には女性国際戦犯法廷の常設展が、左手には企画展（現在「中国展」）の展示があります。「おお、これは興味深い」と見始める前に、まずは受付で入館料を払ってください（一般：５００円）。
資料館の奥手にはライブラリーコーナーもあり、書籍だけでなくwamでしか見られない映像資料や貴重な証言集を視聴することも可能です（販売もしています）。視聴覚資料は内容の重要性もさることながら、映像のプロフェッショナルが制作に携わっているので見ごたえがあり飽きさせません。もちろん英語にも対応しています。
　このライブラリーの一角には「松井やよりコーナー」があります。長年愛用していた机とリクライニングチェアが置かれ、その上に松井さんの顔写真が掲げられています。机や椅子は今でも現役で使用されており、私もここで仕事をしています。さすがに松井さんに見られながらの仕事は緊張しますが･･･。
	　そんな真面目なミュージアムですが、毎日の昼食はとてもにぎやか。スタッフのみんなはいつも自作のお弁当を持ち寄ります。昼食は彩り鮮やかなお弁当とおしゃべりでなんだか華やかです。私も感化されて最近では毎日おにぎりを握っていくようになりました。これはうれしい誤算でした。
また果物やお菓子の差し入れが尽きることがないのもwamならでは！　パーティがあったりするとメンバーがおいしいワインやパン・ハムやチーズを持ち寄っておしゃれな宴になります。先日私もお相伴にあずかり、そのおいしさに思わず舌鼓をうってしまいました。　お返しとばかりに私も実家から送られてきた夏野菜のナスやきゅうり、秋の味覚の巨峰や桃、お土産の栗ようかんなどを差し入れると結構喜ばれます。食に対してのこだわりが深いのか、それともただの食いしん坊なのかわからないのですが（笑）。展示だけでなく、日常の「食」においてもアクティブ＆アグレッシブなのがwamの楽しいところです。
　以上wamの紹介でした。
	さてピープルズ・プラン研究所の会員さんは、松井やよりさんがお亡くなりになって足が遠のいた方もいらっしゃるのではないでしょうか？　まだいらしていない方はこの機会に足を運んで頂くことをお勧めします。もう訪れたことのある方は、今度は団体でいらしてみてはいかがでしょうか？　wamのスタッフによる生ガイドや映像資料の上映会も可能です（要予約）。ミュージアムでの勉強会というのも、一風変わっていて趣深いのではないでしょうか？
	　女たちの戦争と平和資料館
　http://www.wam-peace.org/main/index.php
　

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>　私は早稲田奉仕園の中にあるアクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館（wam）」でデータ整理のアルバイトをしています。この資料館は故・松井やよりさんの意志によって建てられたもので、「慰安婦」・女性国際戦犯法廷についての展示がなされた平和資料館です。展示をする傍らで、次の企画展示や講座・リサーチのプロジェクトがいくつも行われている、文字通りとてもアクティブなミュージアムです。</p>
	<p>　今では慣れたとはいえ、初めて足を踏み入れる女性運動に戦々恐々でした。「男」という鼻持ちなら無い存在の私ですから、何気ない言動に差別意識が露骨に表れてしまうのではないかという危惧を抱いたからです。しかも性暴力の加害の側である「男」という存在が否応なしに問われてしまうことにも、非常に重苦しい思いをもっていました。そんな訳でアルバイトを受けるかどうか大変悩んで、面接会場の早稲田奉仕園の前をグルグルと足踏みをしていたほどです。この戦時性暴力というテーマについてはピープルズ・プラン研究所の会員さんは造詣が深いと思いますので、私から言うことは何もありません。その代わり「女たちの戦争と平和資料館（wam）」の様子をちょっとだけご紹介します。</p>
	<p>　wamは早稲田奉仕園内の「ＡＶＡＣＯビル」２階にあります。階段を上り、廊下を突き当たりまで進むと、間接照明に照らされた「wam」（aの文字が赤い）のロゴマークが薄暗い空間におぼろげに浮かび上がっています。そして周囲には壁いっぱい掲げられた「慰安婦」１５５人の顔写真が目に飛び込んできます。その独特な緊張感を胸に資料館の扉を開いて下さい。すると「カラーン」と澄んだ鐘の音が来館者の訪問を伝えます。右手には女性国際戦犯法廷の常設展が、左手には企画展（現在「中国展」）の展示があります。「おお、これは興味深い」と見始める前に、まずは受付で入館料を払ってください（一般：５００円）。<br />
資料館の奥手にはライブラリーコーナーもあり、書籍だけでなくwamでしか見られない映像資料や貴重な証言集を視聴することも可能です（販売もしています）。視聴覚資料は内容の重要性もさることながら、映像のプロフェッショナルが制作に携わっているので見ごたえがあり飽きさせません。もちろん英語にも対応しています。<br />
　このライブラリーの一角には「松井やよりコーナー」があります。長年愛用していた机とリクライニングチェアが置かれ、その上に松井さんの顔写真が掲げられています。机や椅子は今でも現役で使用されており、私もここで仕事をしています。さすがに松井さんに見られながらの仕事は緊張しますが･･･。</p>
	<p>　そんな真面目なミュージアムですが、毎日の昼食はとてもにぎやか。スタッフのみんなはいつも自作のお弁当を持ち寄ります。昼食は彩り鮮やかなお弁当とおしゃべりでなんだか華やかです。私も感化されて最近では毎日おにぎりを握っていくようになりました。これはうれしい誤算でした。<br />
また果物やお菓子の差し入れが尽きることがないのもwamならでは！　パーティがあったりするとメンバーがおいしいワインやパン・ハムやチーズを持ち寄っておしゃれな宴になります。先日私もお相伴にあずかり、そのおいしさに思わず舌鼓をうってしまいました。　お返しとばかりに私も実家から送られてきた夏野菜のナスやきゅうり、秋の味覚の巨峰や桃、お土産の栗ようかんなどを差し入れると結構喜ばれます。食に対してのこだわりが深いのか、それともただの食いしん坊なのかわからないのですが（笑）。展示だけでなく、日常の「食」においてもアクティブ＆アグレッシブなのがwamの楽しいところです。<br />
　以上wamの紹介でした。</p>
	<p>さてピープルズ・プラン研究所の会員さんは、松井やよりさんがお亡くなりになって足が遠のいた方もいらっしゃるのではないでしょうか？　まだいらしていない方はこの機会に足を運んで頂くことをお勧めします。もう訪れたことのある方は、今度は団体でいらしてみてはいかがでしょうか？　wamのスタッフによる生ガイドや映像資料の上映会も可能です（要予約）。ミュージアムでの勉強会というのも、一風変わっていて趣深いのではないでしょうか？</p>
	<p>　女たちの戦争と平和資料館<br />
　http://www.wam-peace.org/main/index.php<br />
　
</p>
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	</item>
		<item>
		<title>9.11に観た「みなさん、さようなら」／小倉利丸</title>
		<link>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=12</link>
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		<pubDate>Mon, 15 Sep 2008 23:46:10 +0900</pubDate>
		<author>kanako &lt;&amp;#104;&amp;#113;&amp;#110;00&amp;#51;&amp;#53;&amp;#50;&amp;#64;&amp;#110;&amp;#105;&amp;#102;t&amp;#121;.ne&amp;#46;jp&gt;</author>
		
	<category>運営委員</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=12</guid>
		<description>	　２００１年９月１１日の「同時多発テロ」から７年目の今年の９月１１日にたまたま友人から勧められていた映画「みなさん、さようなら」（２００３年、ドゥニ・アルカン監督作品、カナダ・フランス合作）を観た。１９５０年生まれ（ぼくとは一つ違いでしかない）の田舎の大学で歴史の教師をしていた主人公が不治の病で入院し、家族や親しい愛すべき友（そのなかには愛人たちも含まれるのだが）に囲まれて死を迎える、わがままでマッチョな男の幸せな物語だ。このような幸せな死をぼくはついうらやましく感じてしまったことを告白しておくが、もちろん、こんな身も蓋もないあらすじ紹介は作品を的確に表現していない。以下の内容は「ネタバレ」の可能性があるので、もし作品を先に観たい方は読まないように。
	　この作品の原題は「蛮族の侵入」という。ドゥニ・アルカン監督はこの作品の脚本を書いているときに９・１１の出来事に遭遇し、このタイトルを思いついたという。しかし、この作品には、アルカイダもタリバンも登場しない。カナダのケベックの片田舎のうだつのあがらない大学教師のごく私的な死が、なぜ世界の大きな物語と関わるのか。彼の死と「蛮族の侵入」とはどのような関係にあるのか。たぶん、日本でこの映画を「みなさん、さようなら」というタイトルで観た人たちは、こうした疑問をもつことは少ないかもしれないが、原題を知っている人たちは当然のこととしてこのような疑問を抱かざるをえない。
	　主人公のレミは、女好きの社会主義者。たくさんの愛人がおり、病院で寝ている間にもなぜかやたらモテる。６０年代のインテリ左翼の典型みたいな男だ。妻や愛人も交えて、レミの友人達が死の直前に彼をおとずれ、短い日々を彼と過ごす。彼らの会話のなかに、６０年代を青春として過ごした男たちが共通して抱いてきた反体制の理想が登場する。サルトル、カミュ、ファノン、シチュアシオニスト、ゴダール経由の毛沢東主義、僕達の世代には懐かしい。しかし同時に歴史の教師でもあるレミは、繰り返し米先住民を虐殺してきた歴史やホロコーストに言及し、自分はケベックの分離独立主義者だともいう。こうした自分の歴史観を本にまとめなかったことを悔やむ。歴史家として、９・１１の犠牲を過剰に追悼する世の中へのささやかな抵抗だ。
	　レミにはセバスチャンという名前の息子がいる。セバスチャンはレミとは生き方も価値観も正反対。彼は証券会社のやり手のトレーダーであり、その妻は、美術品のディーラーだ。いずれもマネーゲームでレミよりもずっと金回りがいい。この親子は世界観が正反対で決してうまくはいっていないのだが、セバスチャンは死に直面する父のために、病院に個室をあてがい快適な死を迎えられるように手を尽くす。病院に見舞いにくる学生もセバスチャンが金を払って雇う。レミは、金がすべてといった息子のライフスタイルを嫌うが、結局は息子の金で他の人々よりも格段に快適な病院生活を送り、最後の日々を友人から借りた別荘（セバスチャンが手配したのだが）で過ごすことになる。レミは。セバスチャンが闇で入手したヘロインで苦痛を緩和して死を迎える。このヘロインを処方し購入するためにセバスチャンはジャンキーの娘まで雇う。もちろんこうした一連の金がなければできなかったことをレミは知らない。死の直前、親子は抱き合い涙を流す。感動的な親子和解のシーンなはずだが、舞台裏を知っている観客はどこまで感動できるのだろうか。息子の演出にまんまと騙されたバカで能天気な６０年代の親父（つまり僕自身）、とぼくはため息をつく。もちろん彼らの愛情に嘘はない。しかし愛情を演出する舞台は金なしにはありえなかったことも確かだ。
	　この映画は「みなさん、さようなら」というタイトルにごまかされて親子の愛情の再発見物語だという映画評をよく目にする。しかし、近代世界の愛がおしなべてそうであるように、この映画が示した親子の愛は、まさにそれこそが「蛮族に侵入」なのだということだ。この映画の主人公のような６０年代の男たち（あえて「男たち」というが）にとって、まさに蛮族とは、かれらの息子の世代、マネーゲームにうつつを抜かし、金で愛情を再建することすらやってのけてしまう世代のことだとこの映画は暗示している。歴史をさかのぼれば、蛮族とは、まさに先住民を虐殺してその土地をうばったヨーロッパ人にほかならない。９１１は、その５００年におよぶ「蛮族」とその末裔である６０年代の息子たちの世代への復讐である、と暗示しているようでもある。
	　６０年代の世代は、その息子たちの世代によって、早すぎる死に追いやられた。しかも、快適な死を迎えられるように、万全の準備までされたうえでの死だ。だが、映画冒頭のシーンで、廊下にまで高齢の病人で溢れかえる病院の劣悪な環境が執拗に描写されていたことを、忘れることができない。この意味でこの映画は６０年代世代の敗北を暗示している。しかし、セバスチャンのような生き方に共感できるものは何もないことも確かだ。６０年代は死んだが、しかし、それでもなおこの世代が希求した理想のなかに、その数々の過ちにもかかわらず、まだしも９１１へと至ることのない別の可能性があったのではないか、いまその可能性が早すぎる死を迎えた、多分６０年代世代の監督が言いたかったのはこのことではないかと思う。
	　この映画が描くことができなかったことがあるとすれば、それは、６０年代がその子どもたちの世代を「蛮族」としてしか生み出せなかったこの世代の責任だろう。敗北としての和解はあまりにも寂しい話だが、たぶん敗北の一端は、この映画がマッチョな男の物語としてしか描けていない（そのようにしか描きようがない）というところに原因があったのだろうと思う。
	「みなさん、さようなら」
Les Invasions Barbares
2003年アカデミー賞外国語映画賞受賞
2003年ナショナル　ボード・オブ・レビュー最優秀外国映画賞受賞
2003年カンヌ映画祭・最優秀脚本賞、最優秀女優賞受賞
2003年トロント映画祭最優秀作品賞受賞
2003年／カナダ・フランス合作／99分／
配給：コムストック
監督・脚本： ドゥニ・アルカン
プロデューサー： ドゥニーズ・ロベール、ダニエル・ルイ
共同プロデューサー： ファビエンヌ・ヴォニエ
撮影監督： ギィ・デュフォ
美術： フランソワ・セガン
編集： イザベル・ドゥディユ
衣裳デザイン： ドゥニ・スペルドゥクリ
音楽監督： ピエール・アヴィア
キャスティング： リュシー・ロビタイユ
提供：コムストック、テレビ東京、博報堂DYメディアパートナーズ　　　　
協力：カナダ大使館
配給：コムストック
キャスト
レミ・ジラール
ステファン・ルソー
マリー＝ジョゼ・クローズ
マリナ・ハンズ
ドロテ・ベリマン
ジョアンヌ＝マリー・トランブレイ
ピエール・キュルジ
イヴ・ジャック
他
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4562

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>　２００１年９月１１日の「同時多発テロ」から７年目の今年の９月１１日にたまたま友人から勧められていた映画「みなさん、さようなら」（２００３年、ドゥニ・アルカン監督作品、カナダ・フランス合作）を観た。１９５０年生まれ（ぼくとは一つ違いでしかない）の田舎の大学で歴史の教師をしていた主人公が不治の病で入院し、家族や親しい愛すべき友（そのなかには愛人たちも含まれるのだが）に囲まれて死を迎える、わがままでマッチョな男の幸せな物語だ。このような幸せな死をぼくはついうらやましく感じてしまったことを告白しておくが、もちろん、こんな身も蓋もないあらすじ紹介は作品を的確に表現していない。以下の内容は「ネタバレ」の可能性があるので、もし作品を先に観たい方は読まないように。</p>
	<p>　この作品の原題は「蛮族の侵入」という。ドゥニ・アルカン監督はこの作品の脚本を書いているときに９・１１の出来事に遭遇し、このタイトルを思いついたという。しかし、この作品には、アルカイダもタリバンも登場しない。カナダのケベックの片田舎のうだつのあがらない大学教師のごく私的な死が、なぜ世界の大きな物語と関わるのか。彼の死と「蛮族の侵入」とはどのような関係にあるのか。たぶん、日本でこの映画を「みなさん、さようなら」というタイトルで観た人たちは、こうした疑問をもつことは少ないかもしれないが、原題を知っている人たちは当然のこととしてこのような疑問を抱かざるをえない。</p>
	<p>　主人公のレミは、女好きの社会主義者。たくさんの愛人がおり、病院で寝ている間にもなぜかやたらモテる。６０年代のインテリ左翼の典型みたいな男だ。妻や愛人も交えて、レミの友人達が死の直前に彼をおとずれ、短い日々を彼と過ごす。彼らの会話のなかに、６０年代を青春として過ごした男たちが共通して抱いてきた反体制の理想が登場する。サルトル、カミュ、ファノン、シチュアシオニスト、ゴダール経由の毛沢東主義、僕達の世代には懐かしい。しかし同時に歴史の教師でもあるレミは、繰り返し米先住民を虐殺してきた歴史やホロコーストに言及し、自分はケベックの分離独立主義者だともいう。こうした自分の歴史観を本にまとめなかったことを悔やむ。歴史家として、９・１１の犠牲を過剰に追悼する世の中へのささやかな抵抗だ。</p>
	<p>　レミにはセバスチャンという名前の息子がいる。セバスチャンはレミとは生き方も価値観も正反対。彼は証券会社のやり手のトレーダーであり、その妻は、美術品のディーラーだ。いずれもマネーゲームでレミよりもずっと金回りがいい。この親子は世界観が正反対で決してうまくはいっていないのだが、セバスチャンは死に直面する父のために、病院に個室をあてがい快適な死を迎えられるように手を尽くす。病院に見舞いにくる学生もセバスチャンが金を払って雇う。レミは、金がすべてといった息子のライフスタイルを嫌うが、結局は息子の金で他の人々よりも格段に快適な病院生活を送り、最後の日々を友人から借りた別荘（セバスチャンが手配したのだが）で過ごすことになる。レミは。セバスチャンが闇で入手したヘロインで苦痛を緩和して死を迎える。このヘロインを処方し購入するためにセバスチャンはジャンキーの娘まで雇う。もちろんこうした一連の金がなければできなかったことをレミは知らない。死の直前、親子は抱き合い涙を流す。感動的な親子和解のシーンなはずだが、舞台裏を知っている観客はどこまで感動できるのだろうか。息子の演出にまんまと騙されたバカで能天気な６０年代の親父（つまり僕自身）、とぼくはため息をつく。もちろん彼らの愛情に嘘はない。しかし愛情を演出する舞台は金なしにはありえなかったことも確かだ。</p>
	<p>　この映画は「みなさん、さようなら」というタイトルにごまかされて親子の愛情の再発見物語だという映画評をよく目にする。しかし、近代世界の愛がおしなべてそうであるように、この映画が示した親子の愛は、まさにそれこそが「蛮族に侵入」なのだということだ。この映画の主人公のような６０年代の男たち（あえて「男たち」というが）にとって、まさに蛮族とは、かれらの息子の世代、マネーゲームにうつつを抜かし、金で愛情を再建することすらやってのけてしまう世代のことだとこの映画は暗示している。歴史をさかのぼれば、蛮族とは、まさに先住民を虐殺してその土地をうばったヨーロッパ人にほかならない。９１１は、その５００年におよぶ「蛮族」とその末裔である６０年代の息子たちの世代への復讐である、と暗示しているようでもある。</p>
	<p>　６０年代の世代は、その息子たちの世代によって、早すぎる死に追いやられた。しかも、快適な死を迎えられるように、万全の準備までされたうえでの死だ。だが、映画冒頭のシーンで、廊下にまで高齢の病人で溢れかえる病院の劣悪な環境が執拗に描写されていたことを、忘れることができない。この意味でこの映画は６０年代世代の敗北を暗示している。しかし、セバスチャンのような生き方に共感できるものは何もないことも確かだ。６０年代は死んだが、しかし、それでもなおこの世代が希求した理想のなかに、その数々の過ちにもかかわらず、まだしも９１１へと至ることのない別の可能性があったのではないか、いまその可能性が早すぎる死を迎えた、多分６０年代世代の監督が言いたかったのはこのことではないかと思う。</p>
	<p>　この映画が描くことができなかったことがあるとすれば、それは、６０年代がその子どもたちの世代を「蛮族」としてしか生み出せなかったこの世代の責任だろう。敗北としての和解はあまりにも寂しい話だが、たぶん敗北の一端は、この映画がマッチョな男の物語としてしか描けていない（そのようにしか描きようがない）というところに原因があったのだろうと思う。</p>
	<p>「みなさん、さようなら」<br />
Les Invasions Barbares<br />
2003年アカデミー賞外国語映画賞受賞<br />
2003年ナショナル　ボード・オブ・レビュー最優秀外国映画賞受賞<br />
2003年カンヌ映画祭・最優秀脚本賞、最優秀女優賞受賞<br />
2003年トロント映画祭最優秀作品賞受賞<br />
2003年／カナダ・フランス合作／99分／<br />
配給：コムストック<br />
監督・脚本： ドゥニ・アルカン<br />
プロデューサー： ドゥニーズ・ロベール、ダニエル・ルイ<br />
共同プロデューサー： ファビエンヌ・ヴォニエ<br />
撮影監督： ギィ・デュフォ<br />
美術： フランソワ・セガン<br />
編集： イザベル・ドゥディユ<br />
衣裳デザイン： ドゥニ・スペルドゥクリ<br />
音楽監督： ピエール・アヴィア<br />
キャスティング： リュシー・ロビタイユ<br />
提供：コムストック、テレビ東京、博報堂DYメディアパートナーズ　　　　<br />
協力：カナダ大使館<br />
配給：コムストック<br />
キャスト<br />
レミ・ジラール<br />
ステファン・ルソー<br />
マリー＝ジョゼ・クローズ<br />
マリナ・ハンズ<br />
ドロテ・ベリマン<br />
ジョアンヌ＝マリー・トランブレイ<br />
ピエール・キュルジ<br />
イヴ・ジャック<br />
他<br />
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4562
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>お仕着せ文化と「やかましい」消費者／山口響</title>
		<link>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=11</link>
		<comments>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=11#comments</comments>
		<pubDate>Thu,  4 Sep 2008 21:13:16 +0900</pubDate>
		<author>事務局 &lt;ppsg&amp;#64;&amp;#106;&amp;#99;a&amp;#46;apc.org&gt;</author>
		
	<category>運営委員</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=11</guid>
		<description>	　ノリ弁を買えば、「お弁当温めますか？」「お箸おつけしますか？」。ヨーグルトを買えば、「スプーンお付けしますか？」。本を買えば、「カバーおかけしますか？」。
	　こういう風なやり取りを店のレジ（とくにコンビニやスーパー）で体験することは少なくない。正直言って、この手のマニュアル的な対応に僕はへきえきする。
	　購入した商品が3、4品しかないなら、ビニール袋に袋詰めまでしてくれる。しかも、固いものは下、柔らかいものは上。「教育」が行き届いており、丁寧この上ない。「申し訳ありませんが、袋詰めはお客様の方でお願いできますでしょうか？」と聞いてくる店もある。その店の店員は、客がレジから立ち去る際には、両手をおへその辺りで軽く重ね合わせて（つまり、両肘をほぼ直角に保って）、斜め45度のお辞儀をしながら客を送る。それも毎回。一度も欠かさずにだ。言っておくがこれは老舗旅館の話ではない。そこら辺のドラッグストアの話だ。
	　もしビニール袋が必要ないなら、「レジ袋いりません」というカードを自分のかごの中に投げ入れておくようにと掲示している店もある。もちろん、ポイントカードをちゃんと持ってきたかどうかを毎度毎度客に聞くことも欠かさない。
	　僕はそれほど多くの国に行ったことはないけれど、日本のサービスは飛びぬけて過剰であり、「お仕着せ」度合いが高いと自信を持っていえる。たとえば、イギリスのレジでは、自分で商品をベルトコンベアの前方に載せ、レジ打ちが終わって流れてきた商品を後方で自ら袋詰めする。あたりまえのことだ。日本のように、いちいち世話を焼いてくれたりはしない。たいていの店員は、むしろやる気がないぐらいで、そちらの方が逆に正常に思える。
	　日本の場合、何がイヤかというと、こんな「お仕着せ」をやらされる従業員（それもたいていはバイト・パート）の心中を察してしまうからだ。彼／彼女らも、心の中では絶対にバカバカしいと思っているに違いない。でも、それが「お客様への誠意」だと思い込んでいる従業員も少なからずいるのだろう。
	　なぜ、日本の資本主義だけがこういう「お仕着せ」的な消費文化を生んでいるのかはよくわからない。あらゆるものが商品化され尽くしたので、そんなつまらない所作ひとつまでもが「商品の一部」となってしまったのだろうか。誰かそんな国際比較をやってみた研究者がいれば面白いのだが。
	　ところで、「お仕着せ」消費文化は、客からの「クレーム」の性格にも影響を与えているような気がしてならない。「クレーム」とは、初めから金品狙いの「たかり・ゆすり」的なものや、店を困らせることだけを目的とした愉快犯的なものを指すこともあるが、ここでは逆に、「消費者として全く正当だと本人が思い込んでいる苦情」のことを指すとしよう。
	　自分自身、そういうクレームの場面に出くわしたことがないので、ネットでいくつか事例を集めてみた。すると、「お釣りを10円少なく渡された」とか、「レンジで暖めてもらっていたハンバーガーを袋に入れ忘れられた」とか、「暖かいものと冷たいものを同じ袋に入れられた」とか、僕から言わせればどうでもいいものばかりだ。たんに自分がちょっと気をつけていればいいことなのに。
	　にもかかわらず、クレーマーたちは、「店の教育がなっていない」「こんな店はつぶれても当然」といった具合で、自分たちの（過剰）期待の正当性をみじんも疑っていない。たかが数百円の商品のために、あれこれ世話を焼かれて当然、というわけだ。
	　『中央公論』の2007年12月号は「一億総クレーマー社会」という特集を組んでいる。その中で、内田樹（うちだ・たつる）は、クレーマーが発生する原因を「共同体にコミットしているという当事者意識のなさ」や、90年代以降の「自己決定・自己責任」の風潮に求めている。要するに、「社会のことを考えない自分勝手なやつがクレーマー化する」というわけだ（ちなみに、内田は、暖かい地域社会の存在した「三丁目の夕日」の時代に立ち返れ、というコミュニタリアン的な解決策をここで持ち出してくる）。
	　しかし、この意見はどうもヘンだ。僕の考えでは、個々人が共同体から解き放たれているからではなく、「お仕着せ」消費文化というひとつの共同体にガチガチに結び付けられているからこそ、上のようなクレームが出てくるのではないか。言い換えれば、日本においては、「自由」や「放縦」ではなく、消費文化への過剰な期待や妄信的な帰依がクレームを生んでいるように思える（それだけですべてを説明はできないにしても）。
	　電車がたった3分遅れたぐらいで車掌がお詫びのアナウンスをするお国柄なのだから、事故で30分でも電車が止まろうものなら、顔を真っ赤にして、何の責任もない駅員に食って掛かるオッサンらが増殖するのもむべなるかな、というものだ。オッサンらの怒りは、彼らの「自由」ではなく、「不自由」を端的に現しているように思える。
	　太田とか言う大臣が「やかましい消費者」という言い方をしたが、彼とは全く違う観点から、私たちは、「やかましい消費者」であることをやめる必要があるのではないか。ひとりの人間は、あるときは消費者、また別のときは生産者（労働者）である。消費者として「やかましく」叫び続ければ、「お仕着せ」文化が強化され、回りまわって、労働者としての自分の首を絞めることにつながっていく。
	　まずは、お弁当を温めるかどうか聞くのを忘れた店員に対して、「弁当は温めて当然やろ！」と文句を言うのをやめることから始めてみよう。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>　ノリ弁を買えば、「お弁当温めますか？」「お箸おつけしますか？」。ヨーグルトを買えば、「スプーンお付けしますか？」。本を買えば、「カバーおかけしますか？」。</p>
	<p>　こういう風なやり取りを店のレジ（とくにコンビニやスーパー）で体験することは少なくない。正直言って、この手のマニュアル的な対応に僕はへきえきする。</p>
	<p>　購入した商品が3、4品しかないなら、ビニール袋に袋詰めまでしてくれる。しかも、固いものは下、柔らかいものは上。「教育」が行き届いており、丁寧この上ない。「申し訳ありませんが、袋詰めはお客様の方でお願いできますでしょうか？」と聞いてくる店もある。その店の店員は、客がレジから立ち去る際には、両手をおへその辺りで軽く重ね合わせて（つまり、両肘をほぼ直角に保って）、斜め45度のお辞儀をしながら客を送る。それも毎回。一度も欠かさずにだ。言っておくがこれは老舗旅館の話ではない。そこら辺のドラッグストアの話だ。</p>
	<p>　もしビニール袋が必要ないなら、「レジ袋いりません」というカードを自分のかごの中に投げ入れておくようにと掲示している店もある。もちろん、ポイントカードをちゃんと持ってきたかどうかを毎度毎度客に聞くことも欠かさない。</p>
	<p>　僕はそれほど多くの国に行ったことはないけれど、日本のサービスは飛びぬけて過剰であり、「お仕着せ」度合いが高いと自信を持っていえる。たとえば、イギリスのレジでは、自分で商品をベルトコンベアの前方に載せ、レジ打ちが終わって流れてきた商品を後方で自ら袋詰めする。あたりまえのことだ。日本のように、いちいち世話を焼いてくれたりはしない。たいていの店員は、むしろやる気がないぐらいで、そちらの方が逆に正常に思える。</p>
	<p>　日本の場合、何がイヤかというと、こんな「お仕着せ」をやらされる従業員（それもたいていはバイト・パート）の心中を察してしまうからだ。彼／彼女らも、心の中では絶対にバカバカしいと思っているに違いない。でも、それが「お客様への誠意」だと思い込んでいる従業員も少なからずいるのだろう。</p>
	<p>　なぜ、日本の資本主義だけがこういう「お仕着せ」的な消費文化を生んでいるのかはよくわからない。あらゆるものが商品化され尽くしたので、そんなつまらない所作ひとつまでもが「商品の一部」となってしまったのだろうか。誰かそんな国際比較をやってみた研究者がいれば面白いのだが。</p>
	<p>　ところで、「お仕着せ」消費文化は、客からの「クレーム」の性格にも影響を与えているような気がしてならない。「クレーム」とは、初めから金品狙いの「たかり・ゆすり」的なものや、店を困らせることだけを目的とした愉快犯的なものを指すこともあるが、ここでは逆に、「消費者として全く正当だと本人が思い込んでいる苦情」のことを指すとしよう。</p>
	<p>　自分自身、そういうクレームの場面に出くわしたことがないので、ネットでいくつか事例を集めてみた。すると、「お釣りを10円少なく渡された」とか、「レンジで暖めてもらっていたハンバーガーを袋に入れ忘れられた」とか、「暖かいものと冷たいものを同じ袋に入れられた」とか、僕から言わせればどうでもいいものばかりだ。たんに自分がちょっと気をつけていればいいことなのに。</p>
	<p>　にもかかわらず、クレーマーたちは、「店の教育がなっていない」「こんな店はつぶれても当然」といった具合で、自分たちの（過剰）期待の正当性をみじんも疑っていない。たかが数百円の商品のために、あれこれ世話を焼かれて当然、というわけだ。</p>
	<p>　『中央公論』の2007年12月号は「一億総クレーマー社会」という特集を組んでいる。その中で、内田樹（うちだ・たつる）は、クレーマーが発生する原因を「共同体にコミットしているという当事者意識のなさ」や、90年代以降の「自己決定・自己責任」の風潮に求めている。要するに、「社会のことを考えない自分勝手なやつがクレーマー化する」というわけだ（ちなみに、内田は、暖かい地域社会の存在した「三丁目の夕日」の時代に立ち返れ、というコミュニタリアン的な解決策をここで持ち出してくる）。</p>
	<p>　しかし、この意見はどうもヘンだ。僕の考えでは、個々人が共同体から解き放たれているからではなく、「お仕着せ」消費文化というひとつの共同体にガチガチに結び付けられているからこそ、上のようなクレームが出てくるのではないか。言い換えれば、日本においては、「自由」や「放縦」ではなく、消費文化への過剰な期待や妄信的な帰依がクレームを生んでいるように思える（それだけですべてを説明はできないにしても）。</p>
	<p>　電車がたった3分遅れたぐらいで車掌がお詫びのアナウンスをするお国柄なのだから、事故で30分でも電車が止まろうものなら、顔を真っ赤にして、何の責任もない駅員に食って掛かるオッサンらが増殖するのもむべなるかな、というものだ。オッサンらの怒りは、彼らの「自由」ではなく、「不自由」を端的に現しているように思える。</p>
	<p>　太田とか言う大臣が「やかましい消費者」という言い方をしたが、彼とは全く違う観点から、私たちは、「やかましい消費者」であることをやめる必要があるのではないか。ひとりの人間は、あるときは消費者、また別のときは生産者（労働者）である。消費者として「やかましく」叫び続ければ、「お仕着せ」文化が強化され、回りまわって、労働者としての自分の首を絞めることにつながっていく。</p>
	<p>　まずは、お弁当を温めるかどうか聞くのを忘れた店員に対して、「弁当は温めて当然やろ！」と文句を言うのをやめることから始めてみよう。
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		<item>
		<title>若者たちの政治意識の変化／白川真澄</title>
		<link>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=10</link>
		<comments>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=10#comments</comments>
		<pubDate>Sun,  3 Aug 2008 23:05:54 +0900</pubDate>
		<author>事務局 &lt;p&amp;#112;sg&amp;#64;jc&amp;#97;&amp;#46;apc.&amp;#111;&amp;#114;g&gt;</author>
		
	<category>運営委員</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=10</guid>
		<description>	　連日のひどい暑さのなかで、河合塾の夏期講習会に出かけている。早起きが続いて疲れる毎日だが、高校三年生の若者が書いた小論文を通じて垣間見える彼ら／彼女らの意識に、ちょっとした変化が起こっているのではないかと感じている。
	　その小論文は、小熊英二『日本という国』から取った文章を課題文として読んだ上で、「国際社会における日本の役割」というテーマで自分の考えを７００字程度で述べるというものである。小熊の文章は、彼のものにしてはずいぶん読みやすいが、戦後の日本がアメリカに依存・従属する姿勢をとり続けてきたことが、アジア諸国との関係を冷え込ませたということを批判している。そして、アジアとの関係を悪化させた愚行の例として、保守政治家が「日本の誇りをとりもどす」といいながらやっている靖国参拝、歴史教科書の書き直し、憲法９条の改正による自衛隊の海外派兵の企てを挙げている。
	　これを参考にして若者たちが「日本の役割」として書いた内容は、地域紛争を解決する調停や対話の仲介役を行う、東アジア共同体をつくる、環境技術を発展途上国に援助する、被爆体験と９条を生かして非核化を訴えるなど、さまざまであった。特徴的なのは、改憲による自衛隊の海外派兵については否定的であり、日本は対米協力を強め国際社会における軍事的な役割を積極的に果たすべきだというタカ派の意見が姿を消したことである。もちろん、小論文では課題文の筆者の立場に強く影響を受けるし、答案の数もそれほど多くなかったから割り引いて考えなければならないのだが、これまでは少数とはいえ必ず存在したタカ派の見解にまったくお目にかからなかった。正直なところ、ちょっと拍子抜けの感がした。
	　もし、同じテーマを二年前（北朝鮮がミサイル発射実験を行っていた）に書いたならば、北朝鮮の脅威があるのだから日米安保が重要だとか、そのために改憲して自衛隊の海外派兵をすることも必要だとか、「国際社会」が結束して北朝鮮への制裁を強めるように日本が働きかけるべきだといった見解が続出したはずだ。実際、国際政治について論じる類似のテーマでは、そうした見解が少なからず見られた。こちらも、タカ派の見解への反論にかなり気合を入れ、論理を工夫し磨いたものである。
　
　やはり、この二年の間に起こった政治状況の劇的な変化が、若者たちの意識にも深く影響を与えているのだろう。米朝和解が進み、声高な制裁論が鳴りをひそめ、明文改憲の声がすっかり小さくなってしまっている。安倍政権の瓦解が象徴する右翼ナショナリズム潮流の挫折の意味の大きさをあらためて感じる。
　
　しかし、若者たちの政治意識の変化はどの程度のものであり、どこへ向かうのだろうかと考えると、とても測りきれず、楽観する気分にはなれない。小論文でハト派の見解を述べた彼ら／彼女らも、北京オリンピックが始まれば、きっとプチ・ナショナリストに転身するにちがいない。当然のように日本代表選手を応援し、「ニッポン！ニッポン！」の大合唱に違和感を感じず、表彰式で日の丸でも上がろうものならば感動してそのシーンを見るにちがいない。彼ら／彼女らに語りかける言葉を、よくよく考えないといけない。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>　連日のひどい暑さのなかで、河合塾の夏期講習会に出かけている。早起きが続いて疲れる毎日だが、高校三年生の若者が書いた小論文を通じて垣間見える彼ら／彼女らの意識に、ちょっとした変化が起こっているのではないかと感じている。</p>
	<p>　その小論文は、小熊英二『日本という国』から取った文章を課題文として読んだ上で、「国際社会における日本の役割」というテーマで自分の考えを７００字程度で述べるというものである。小熊の文章は、彼のものにしてはずいぶん読みやすいが、戦後の日本がアメリカに依存・従属する姿勢をとり続けてきたことが、アジア諸国との関係を冷え込ませたということを批判している。そして、アジアとの関係を悪化させた愚行の例として、保守政治家が「日本の誇りをとりもどす」といいながらやっている靖国参拝、歴史教科書の書き直し、憲法９条の改正による自衛隊の海外派兵の企てを挙げている。</p>
	<p>　これを参考にして若者たちが「日本の役割」として書いた内容は、地域紛争を解決する調停や対話の仲介役を行う、東アジア共同体をつくる、環境技術を発展途上国に援助する、被爆体験と９条を生かして非核化を訴えるなど、さまざまであった。特徴的なのは、改憲による自衛隊の海外派兵については否定的であり、日本は対米協力を強め国際社会における軍事的な役割を積極的に果たすべきだというタカ派の意見が姿を消したことである。もちろん、小論文では課題文の筆者の立場に強く影響を受けるし、答案の数もそれほど多くなかったから割り引いて考えなければならないのだが、これまでは少数とはいえ必ず存在したタカ派の見解にまったくお目にかからなかった。正直なところ、ちょっと拍子抜けの感がした。</p>
	<p>　もし、同じテーマを二年前（北朝鮮がミサイル発射実験を行っていた）に書いたならば、北朝鮮の脅威があるのだから日米安保が重要だとか、そのために改憲して自衛隊の海外派兵をすることも必要だとか、「国際社会」が結束して北朝鮮への制裁を強めるように日本が働きかけるべきだといった見解が続出したはずだ。実際、国際政治について論じる類似のテーマでは、そうした見解が少なからず見られた。こちらも、タカ派の見解への反論にかなり気合を入れ、論理を工夫し磨いたものである。<br />
　<br />
　やはり、この二年の間に起こった政治状況の劇的な変化が、若者たちの意識にも深く影響を与えているのだろう。米朝和解が進み、声高な制裁論が鳴りをひそめ、明文改憲の声がすっかり小さくなってしまっている。安倍政権の瓦解が象徴する右翼ナショナリズム潮流の挫折の意味の大きさをあらためて感じる。<br />
　<br />
　しかし、若者たちの政治意識の変化はどの程度のものであり、どこへ向かうのだろうかと考えると、とても測りきれず、楽観する気分にはなれない。小論文でハト派の見解を述べた彼ら／彼女らも、北京オリンピックが始まれば、きっとプチ・ナショナリストに転身するにちがいない。当然のように日本代表選手を応援し、「ニッポン！ニッポン！」の大合唱に違和感を感じず、表彰式で日の丸でも上がろうものならば感動してそのシーンを見るにちがいない。彼ら／彼女らに語りかける言葉を、よくよく考えないといけない。
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	</item>
		<item>
		<title>「セクシュアリティの講義で」／青山薫</title>
		<link>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=9</link>
		<comments>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=9#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 19 Jul 2008 16:01:50 +0900</pubDate>
		<author>事務局 &lt;&amp;#112;&amp;#112;sg&amp;#64;jc&amp;#97;.apc&amp;#46;&amp;#111;rg&gt;</author>
		
	<category>運営委員</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=9</guid>
		<description>	　怒涛の前期がほぼ終わり、これから学生さんのレポートを待って採点、というところ。「いろんな大学非常勤講師」になってから3回目の夏である。毎年、学部の数十人向け大教室の科目からさえ、記憶に残る学生や秀作のレポートが結構出てきて、社交辞令抜きで楽しみなところがある。｢これでウケなかったら何でウケる！｣とリキを入れた講義は必ず反応が良い。同じクラスでも、時間が無くて準備を手抜きすれば即寝ている人が増える。
	　「イマドキの大学生」は、①意外にちゃんと人の話を聞いている　②話の内容だけでなく、こっちのアドレナリンがどのくらい不足しているか、など、評判に違わずいわゆる「空気を読む」ことに長けている　③現行第＊次お笑いブームの強すぎる影響を受けている　④（教員なんかの言うことそんなに鵜呑みにするもんじゃない、とこっちがツッコミを入れなければならないほど）（表面上は）素直である　⑤したがって、エンターテイメント要素、またはテーマに対する話し手の思い入れ、または自分の側の強い関心、またはそのすべてが不足するとすぐ講義を見限る　ことがわかる。
	　しかし、リキ入れて「教えて」いることに嘘はないが、そもそも非常勤だから必修科目をもっていないこと、そのうえ出席を取らないので基本的に関心が全然ない人は出てこないこと、そして、「ジェンダー」や「セクシュアリティ」の関連科目を担当していることが、みんな寝ちゃうーーー、みたいな悲しい目に私が遇っていない原因だろうと思う。健康そうな18から22、3、4くらいの男女他の人びとを、朝眠い時間や昼眠い時間や夕方眠い時間に集め、ケータイ抜きで90分、じっと静かにさせておくのだから、起こしておくことができるのはほとんど「セックス」の一語だけというものだ――でなきゃこっちも飽きちゃうんだよね…　90分授業って長過ぎませんか？
	　今学期のハイライトは、某TG大学で取り上げたLGBTIQQ問題だったかな。餅は餅屋。やっぱ「専門分野」は流暢に行くわね。「セクマイ」（とイマドキの若者は言う「セクシュアル・マイノリティ」　…こ、これにはついて行けない…）問題は「研究」なんてしたことないけど当事者だからガッツが違うもん――ちなみに、「LGBTIQQ」は、「レズビアン（女性同性愛者）、ゲイ（男性同性愛者）、バイセクシュアル（両性愛者）、トランスジェンダー（他人から見た性別と自己認識する性別が違うのでこれを一致させる方向または不一致のままいろいろ試みる人）、インターセックス（両性具有の人）、クィア（性別にこだわりたくない人）、クエスチョニング（考え中の人）」（ゼェ、ゼェ、ゼェ、）の略だそうです。アメリカ発。私は基本的にB。場合によってはQ1（でも「女性」に着目することが大切なフェミニストなので困ってしまう）。
	　さてこの中で――エンタメ要素他力本願――録画してみんなで観たのがNHK教育テレビのトーク番組「ハートをつなごう」、「ゲイ・レズビアン特集第一弾」（http://www.nhk.or.jp/heart-net/hearttv/archives_2008.html）。NHKで初めて、そして当事者が語る実話としてはおそらく日本のテレビで初めて「ゲイレズビアンもの」が映るというので、当事者やジェンダー・セクシュアリティに関心のある私の周りでも放送前から話題になっていた。いざ放映された番組は、さすがNHK、「ラディカル」とか「先駆的」という評価はしにくいものの、その｢ふつうさ｣が良いんだよ、という意味自体において「画期的」なものだった。
	　30分の枠の中に、司会者3人と当事者5人のスタジオでのトークショウ、そして、5人の中で一番若い20代前半のゲイ男性「朝原君」の、思春期以来の孤独、悩み、いわゆる「カミングアウト」（同性愛者であることを公言することとその過程）と、その後仲間に出会ってゲイ・コミュニティで活動し、アルバイトをしながらスクール・カウンセラーをめざす生活を中心としたドキュメンタリーが入っていた。他の4人はすでにこの業界の有名人、政治家の尾辻かな子さん、パフォーマーのイトウ・ターリさん、『ボクの彼氏はどこにいる？』の著者石川大我さん、そしてセクシュアリティ研究者の砂川秀樹さん。世代もジェンダーも職業も出身地もおそらく最終学歴もばらばらで、共通点といえばみんな「ふつうの」人だということくらい、あ、同性愛者だってことを除けばね、みたいにできていた。自分は何者かに悩み、恋愛をおおっぴらにできずに悩み、家族や友人からも孤立し、という一定普遍的なアイデンティティの危機問題と、とくに学校で教師からさえ差別あつかいされ、それが「異常な自分」という自己評価となって自殺まで考えた、などという少数者差別体験が「ほどよい」バランスで語られていたと思う。
　
　上のリンクにも出てくるけれど、番組の感想には「すばらしかった」というものと「今頃こんな初歩的な番組作らなきゃならないなんて、日本は遅れてる」というものと、私の知り合いの中でも両論だった。それから同性愛問題につきものの「バイセクシュアル無視」問題も確かに気になる。でも、日本社会は、こと普遍的な人権の達成にかかわる問題についてはセクシュアリティに限らず、ジェンダーに限らず、あらゆる分野で、すべて、たいへんに、実際、遅れてるのだ。それは一昼夜で変わることのない事実なのだ。そんな日本の「みなさまのNHK」としては、ここから出発して、あまり「ついてけなーい…」と思うストレート（異性愛者）の人や、「公共の電波で同性愛を称揚するとはケシカラン！」と言うかもしれない保守派のバックラッシュを招くより、「なーんだ…　ゲイやレズって変態じゃないのね。ふつうなのね」ということで共感を呼ぶ方策をとったのだろう。それは正解だ。よし。受信料を払おう（ずっと払ってるけど）、とどんなテーマでも過激派であったことのない私は思った次第。
	　それでも、この番組を学生さんたちに見せたかったのは、ただマイノリティの「ふつうさ」アピールのためだけに、ではない。明治生まれでプロレスと森進一が好きだったおばあちゃんに育てられたおかげで（？）人に言えない浪花節気質（これはバイセクシュアルである、と言うより恥ずかしい…）のある私は、「朝原君」の最後の決め台詞に落涙。以来何度この録画を観てもここで泣いてしまう。それで、これは私がバイだからか、浪花節だからなのか、あるいはもう少し広い文脈のなかで解釈できるのか、前の授業の感想カードからしておそらく9割がストレートのこのクラスの人びとの反応を見て知りたかった、というのも理由だ。そのときばかりはスクリーンを背にして観察した結果、3割くらいが泣いているか泣きそうだった。寝ているヤツや観てないヤツはいなかった。もちろん感涙で終われば良い番組、などとナイーヴなことを言っているのではない。そういう批評性のなさならば、この社会の「ふつうでない」人の無理解と排除を生む可能性も大だろう。
だけど、画面がスタジオにもどって、番組を締める桜井洋子アナウンサーが「最後に見ている人たちに言いたいことはない？」と話を振ったとき、アップの「朝原君」は言ったのだ。しばらく考えて。一言だけ。「だいじょうぶ」って。
	――これは、効くでしょ？
	　かならず理解者はいる。多数派の中にもね。同世代の3割（くらい）が泣いてたように。だから、「だいじょうぶ」。それに少数派は、多数派の中に理解者を広げてこそ生きやすくなる。だから、生き延びよう。
	　後日、番組に出ていた人に聞いたのだが、このスタジオ収録、台本はまったくなかったのだそうだ。多数派代表司会者、桜井さんと作家の石田依良さん、歌手のソニンさん、まずしっかり影響されていたよう。また後日、「自分もマイノリティなんで…」ってレポートのテーマを相談に来てくれた学生さんもいた。たった1コマ2単位のために、性的アイデンティティについて周囲でアンケート調査をして、これを分析してレポートにしたいのだという――楽しみだなぁ。「朝原君」、効いたよ。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>　怒涛の前期がほぼ終わり、これから学生さんのレポートを待って採点、というところ。「いろんな大学非常勤講師」になってから3回目の夏である。毎年、学部の数十人向け大教室の科目からさえ、記憶に残る学生や秀作のレポートが結構出てきて、社交辞令抜きで楽しみなところがある。｢これでウケなかったら何でウケる！｣とリキを入れた講義は必ず反応が良い。同じクラスでも、時間が無くて準備を手抜きすれば即寝ている人が増える。</p>
	<p>　「イマドキの大学生」は、①意外にちゃんと人の話を聞いている　②話の内容だけでなく、こっちのアドレナリンがどのくらい不足しているか、など、評判に違わずいわゆる「空気を読む」ことに長けている　③現行第＊次お笑いブームの強すぎる影響を受けている　④（教員なんかの言うことそんなに鵜呑みにするもんじゃない、とこっちがツッコミを入れなければならないほど）（表面上は）素直である　⑤したがって、エンターテイメント要素、またはテーマに対する話し手の思い入れ、または自分の側の強い関心、またはそのすべてが不足するとすぐ講義を見限る　ことがわかる。</p>
	<p>　しかし、リキ入れて「教えて」いることに嘘はないが、そもそも非常勤だから必修科目をもっていないこと、そのうえ出席を取らないので基本的に関心が全然ない人は出てこないこと、そして、「ジェンダー」や「セクシュアリティ」の関連科目を担当していることが、みんな寝ちゃうーーー、みたいな悲しい目に私が遇っていない原因だろうと思う。健康そうな18から22、3、4くらいの男女他の人びとを、朝眠い時間や昼眠い時間や夕方眠い時間に集め、ケータイ抜きで90分、じっと静かにさせておくのだから、起こしておくことができるのはほとんど「セックス」の一語だけというものだ――でなきゃこっちも飽きちゃうんだよね…　90分授業って長過ぎませんか？</p>
	<p>　今学期のハイライトは、某TG大学で取り上げたLGBTIQQ問題だったかな。餅は餅屋。やっぱ「専門分野」は流暢に行くわね。「セクマイ」（とイマドキの若者は言う「セクシュアル・マイノリティ」　…こ、これにはついて行けない…）問題は「研究」なんてしたことないけど当事者だからガッツが違うもん――ちなみに、「LGBTIQQ」は、「レズビアン（女性同性愛者）、ゲイ（男性同性愛者）、バイセクシュアル（両性愛者）、トランスジェンダー（他人から見た性別と自己認識する性別が違うのでこれを一致させる方向または不一致のままいろいろ試みる人）、インターセックス（両性具有の人）、クィア（性別にこだわりたくない人）、クエスチョニング（考え中の人）」（ゼェ、ゼェ、ゼェ、）の略だそうです。アメリカ発。私は基本的にB。場合によってはQ1（でも「女性」に着目することが大切なフェミニストなので困ってしまう）。</p>
	<p>　さてこの中で――エンタメ要素他力本願――録画してみんなで観たのがNHK教育テレビのトーク番組「ハートをつなごう」、「ゲイ・レズビアン特集第一弾」（http://www.nhk.or.jp/heart-net/hearttv/archives_2008.html）。NHKで初めて、そして当事者が語る実話としてはおそらく日本のテレビで初めて「ゲイレズビアンもの」が映るというので、当事者やジェンダー・セクシュアリティに関心のある私の周りでも放送前から話題になっていた。いざ放映された番組は、さすがNHK、「ラディカル」とか「先駆的」という評価はしにくいものの、その｢ふつうさ｣が良いんだよ、という意味自体において「画期的」なものだった。</p>
	<p>　30分の枠の中に、司会者3人と当事者5人のスタジオでのトークショウ、そして、5人の中で一番若い20代前半のゲイ男性「朝原君」の、思春期以来の孤独、悩み、いわゆる「カミングアウト」（同性愛者であることを公言することとその過程）と、その後仲間に出会ってゲイ・コミュニティで活動し、アルバイトをしながらスクール・カウンセラーをめざす生活を中心としたドキュメンタリーが入っていた。他の4人はすでにこの業界の有名人、政治家の尾辻かな子さん、パフォーマーのイトウ・ターリさん、『ボクの彼氏はどこにいる？』の著者石川大我さん、そしてセクシュアリティ研究者の砂川秀樹さん。世代もジェンダーも職業も出身地もおそらく最終学歴もばらばらで、共通点といえばみんな「ふつうの」人だということくらい、あ、同性愛者だってことを除けばね、みたいにできていた。自分は何者かに悩み、恋愛をおおっぴらにできずに悩み、家族や友人からも孤立し、という一定普遍的なアイデンティティの危機問題と、とくに学校で教師からさえ差別あつかいされ、それが「異常な自分」という自己評価となって自殺まで考えた、などという少数者差別体験が「ほどよい」バランスで語られていたと思う。<br />
　<br />
　上のリンクにも出てくるけれど、番組の感想には「すばらしかった」というものと「今頃こんな初歩的な番組作らなきゃならないなんて、日本は遅れてる」というものと、私の知り合いの中でも両論だった。それから同性愛問題につきものの「バイセクシュアル無視」問題も確かに気になる。でも、日本社会は、こと普遍的な人権の達成にかかわる問題についてはセクシュアリティに限らず、ジェンダーに限らず、あらゆる分野で、すべて、たいへんに、実際、遅れてるのだ。それは一昼夜で変わることのない事実なのだ。そんな日本の「みなさまのNHK」としては、ここから出発して、あまり「ついてけなーい…」と思うストレート（異性愛者）の人や、「公共の電波で同性愛を称揚するとはケシカラン！」と言うかもしれない保守派のバックラッシュを招くより、「なーんだ…　ゲイやレズって変態じゃないのね。ふつうなのね」ということで共感を呼ぶ方策をとったのだろう。それは正解だ。よし。受信料を払おう（ずっと払ってるけど）、とどんなテーマでも過激派であったことのない私は思った次第。</p>
	<p>　それでも、この番組を学生さんたちに見せたかったのは、ただマイノリティの「ふつうさ」アピールのためだけに、ではない。明治生まれでプロレスと森進一が好きだったおばあちゃんに育てられたおかげで（？）人に言えない浪花節気質（これはバイセクシュアルである、と言うより恥ずかしい…）のある私は、「朝原君」の最後の決め台詞に落涙。以来何度この録画を観てもここで泣いてしまう。それで、これは私がバイだからか、浪花節だからなのか、あるいはもう少し広い文脈のなかで解釈できるのか、前の授業の感想カードからしておそらく9割がストレートのこのクラスの人びとの反応を見て知りたかった、というのも理由だ。そのときばかりはスクリーンを背にして観察した結果、3割くらいが泣いているか泣きそうだった。寝ているヤツや観てないヤツはいなかった。もちろん感涙で終われば良い番組、などとナイーヴなことを言っているのではない。そういう批評性のなさならば、この社会の「ふつうでない」人の無理解と排除を生む可能性も大だろう。<br />
だけど、画面がスタジオにもどって、番組を締める桜井洋子アナウンサーが「最後に見ている人たちに言いたいことはない？」と話を振ったとき、アップの「朝原君」は言ったのだ。しばらく考えて。一言だけ。「だいじょうぶ」って。</p>
	<p>――これは、効くでしょ？</p>
	<p>　かならず理解者はいる。多数派の中にもね。同世代の3割（くらい）が泣いてたように。だから、「だいじょうぶ」。それに少数派は、多数派の中に理解者を広げてこそ生きやすくなる。だから、生き延びよう。</p>
	<p>　後日、番組に出ていた人に聞いたのだが、このスタジオ収録、台本はまったくなかったのだそうだ。多数派代表司会者、桜井さんと作家の石田依良さん、歌手のソニンさん、まずしっかり影響されていたよう。また後日、「自分もマイノリティなんで…」ってレポートのテーマを相談に来てくれた学生さんもいた。たった1コマ2単位のために、性的アイデンティティについて周囲でアンケート調査をして、これを分析してレポートにしたいのだという――楽しみだなぁ。「朝原君」、効いたよ。
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>記憶の不思議 by　武藤一羊</title>
		<link>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=8</link>
		<comments>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=8#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 25 Jun 2008 17:12:28 +0900</pubDate>
		<author>事務局 &lt;p&amp;#112;s&amp;#103;&amp;#64;&amp;#106;ca&amp;#46;ap&amp;#99;&amp;#46;o&amp;#114;g&gt;</author>
		
	<category>運営委員</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=8</guid>
		<description>	　後期高齢者になってすることがひとつ増えた。きびしい尋問にさらされ、それに答えることだ。お前はこれまで何をやってきたか、つつみかくさず生涯を語れ。相対的に若いなかまのこのような促しが強まり、このところ、ダイジェスト版から「選集」版まで、立て続けに自分の物語を語るハメになっている。自伝を書いたり、昔の日記を公開する人もいるので、人間いろいろと思うが、私はこういうことは苦手なのだ。といっても、聞き取りの意味はわかるし、被害者的にいじけているわけではない。（私が言い出して始めた初期原水爆禁止運動の聞き取りもあるのだ）。時代の最先端をゆく「オーラル・ヒストリー」の対象に出世と思えば、少しは晴れがましい気持ちになるべきか。
	　そのおかげで記憶の不思議に行き当たっている。記憶の世界はナゾだらけだ。確かなようで、頼りない、やわらかいと思うと棘がいっぱいみたいな独特の構造を備えているようだ。変なことをよく覚えているかと思えば、確かと信じ込んでいることがウソであることが判明する。忘れるはずのない人生の時期について、具体的記憶がまるきり欠けている場合もある。だいたい、記憶をたどってする物語はやはり自分に都合のいいものに落ち着いていく。尋問者たちはそこを突いてくるが、みな心優しいうえ、黙秘権のカベは破れない。
　
　ともかく、しかし、すべてにもかかわらず、記憶たちは、語られることで、過去を空間化し、立体的世界をつくりだしてくれる。聞き手にとってより、むしろ語り手にとって。しかしそれは一筋縄ではいかないのだ。
	●象か牛か
数年前、小泉首相の靖国参拝問題が浮上したころ、サンフランシスコ講和条約調印直前の１９５１年に社会党系の平和団体が靖国神社で、単独講和反対の集会とデモをやったことを天野恵一さんと話していた。靖国神社の境内でこんな集会がやれるなど、今からは考えられないねという話しであったが、ついでに、このデモはインドから贈られた象が先導していたねと言った。あの「インディラ」だ！天野さんはこの話を吉川勇一さんにもしたところ、あの博覧強記で知られる吉川さんも、そうだ象が先頭だったと言ったという。ところが、後で吉川さんが、彼が当時属していた日本平和委員会の「平和新聞」に当たってみたら、デモの先頭にいたのは象ではなく、牛だったことが分かったときいた。二人とも牛を象と思い込んでいた。吉川さんでさえ記憶違いがある、とぼくは少し溜飲を下げたが、それはどうでもいい。
	　牛だったときいてもう一度思い返してみる。ぼくはこのデモには行っていない。新聞で読んだ記憶がある。その新聞は一般紙でも「平和新聞」でもなくて、「社会タイムス」だった。「社会タイムス」とは、当時の左派社会党の後ろ盾で出されていた日刊紙で、共産党の「アカハタ」が占領軍によって発禁になっているなか、公然と入手できる唯一のオルタ情報源としてかなり人気の高かったメディアである。どうもこの新聞で靖国デモについて読んだ、しかも渋谷駅の新宿方面行き山手線のホームの売店で買った「社会タイムス」でこの記事を読んだように思えるのである。それは写真入の記事であった。その写真に写っていた動物は何か。象か牛か。ふむ。象は大きく背が高い。写真はしかし横長で、デモ隊は平べったく広がっていて、大きい塊みたいな部分は印象に残っていない。うん、ならば、そうだ牛だった。象であるはずはない。
	　これらが確かな記憶なのかどうか、定かではない。渋谷駅の光景まで出てくるとますますウソくさい。このお話は、煙みたいに、掴もうとすると指の間から抜けていく。しかし静かにしていると煙は再びモヤモヤと集まってきて脳中に同じ形をつくりあげる。しつこいぞ！だが何かがあるのだ。オバケかもしれないが、このオバケは存在する！
	　このデモは記録されている。大原社研の「日本労働年鑑」第２５集によると、「平和推進国民会議は、９月1日、平和国民大会を開いたが、これには産別傘下の金属や印刷出版もストライキで参加し、3万をこえるデモは単独講和調印に反対の意思表示をおこない、平和をめざす統一行動の第一歩をふみだした」。靖国神社も牛もでてこないが、このデモに違いない。
だがそれにしても、なぜ象が出てくるのか。それは比較的説明しやすい。まぼろしのデモ先導動物は、象でなければならなかった。このお話は伝説化している。1949年にネルー首相が、日本のこどもたちの願いにこたえて、上野動物園に、娘のインディラの名をつけた象を贈ってくれたという戦後美談の一つである。この象の「インディラ」は長生きして1983年に死ぬが、そのときインディラ・ガンジーさんはインドの首相で、「インディラ」の代わりに二頭の象を上野動物園に贈ってくれたのである。象の「インディラ」と首相のインディラはここで交差する。首相のほうはその後まもなく暗殺される。
　
　1951年、インドはアメリカが召集したサンフランシスコ講和会議に出席を拒否した。米軍が日本から引き上げなければ参加しないという姿勢であった。単独講和・安保条約反対運動にとって強い味方だった。だから単独講和反対のシンボルとしてインドからの動物がデモの先頭に置かれるのは不思議ではなかった。ならばその動物は？何か動物がいたとすれば、それは象に違いない。「インディラ」がそこにするっと入り込んでくるのだ。調べてはいないが、記憶から追放された牛の方もいわく因縁のある牛、インドからもたらされた聖なる牛であったに違いない。しかし知名度ではかなわなかった。
　
　象は誤りで牛が正しい。しかし象を組み込んだストーリーは十分に成立するのだ。神話はこうして生成するのだろう。
	●夢と記憶
聞き取りの質問者たちは、「満州」育ちである私の生い立ちにたいそう関心があるようであり、子供時代に突っ込んでくる。3歳から12歳までのことで、記憶といっても、いくつかの輪郭のはっきりしたスナップショットを除けば不確かなものだ。
	　話は飛ぶが、私には、繰り返し見る夢が三つあった。この10年ほどはあまり見ないけれど、それまでは一年に何回かは見ていた。お察しのように、あまり気持ちのいい夢ではない。一つは戦争末期、アメリカのP５１戦闘機に追っかけられ、機銃掃射にあう夢。もう一つは大学で、試験場の教室が見つけられなであせりまくる夢。三番目が、高いレンガの壁の夢である。これの壁はどこまでも続く監獄の塀なのである。
	　この夢の舞台は、子供時代を過ごした「満州国」の「新京」（いまの長春）の自宅付近に違いない。私の一家は、日系官吏が固まって住んでいた新市街でなく、城内と呼ばれる旧市街に住んでいたが、そのすぐ近所に「宮内府」と呼ばれる「皇帝」溥儀の住まいがあった。夢にはこの「宮内府」が必ず出てくるのである。私はそ「宮内府」の脇の小路を通って裏手に出ると、小高い丘の上で、そこから狭い小路が走るゴミゴミした「満人街」が見渡せる。その中に入って歩いていく。すると思いがけなく、あの壁の前に出るのだ。壁はおそろしく高い。ふつうの赤レンガでなく、羊羹色の硬いレンガが積まれた特別の壁だ。これはただの壁であるけれど、なぜかこれは監獄の壁と夢の中の私は知っている。そして夢の中の子供の徘徊は、この監獄の壁の上縁を見上げ、壁を左手に見てどこまでも歩いていくところで終わりになる。この夢にはいくつかのヴァリエーションがあるが、「宮内府」、「満人街」の小路、「監獄」という基本的な要素は変わらない。悪夢というほどではない。いくらかの郷愁も誘う夢である。
	　実は私は、この監獄の壁を見た記憶はまったくないのである。この夢が子供のころの自宅の近辺についてのものであることは、「宮内府」が出てくることから明らかだ。だが私は「宮内府」の横手から裏へ抜ける小路を歩いた記憶もないし、そんな道があったとは思えず、そこを一人で歩いている筈もない。私の監獄の壁との出会いはもっぱらこの夢の中の出来事なのである。
	　聞き取りの前、念のためにgoogleでを検索してみた。すると航空写真の上に日本語で書き込みのある画面が現れた。そこに「新京監獄」という表示があるではないか。厳しい壁に囲まれた一角が示されている。さらに同じ航空写真に「三笠小学校」という表示もある。三笠小学校は私が入学し、5年１学期まで通った小学校（後に在満国民学校）である。「日本橋公園」とか「警察署」の表記もある。この写真は私の一家が暮らしていた界隈を写したものに間違いない。Googleの航空写真は現在の長春のものである。そこに誰かー「満州ノスタルジア」に駆られた人物だろうーが書き込みを入れたに違いない。書き込みはおそらく正確である。だとすると監獄は存在し、私はいつかそれを見ているのだ。しかし、私はそれを夢の中に出てくる監獄の壁としてしか記憶していないのだ。
	　ウソから出たまマコトというが、これはユメから出た現実である。
夢から現実が生まれることも、だから、あるのである。心強いことだ。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>　後期高齢者になってすることがひとつ増えた。きびしい尋問にさらされ、それに答えることだ。お前はこれまで何をやってきたか、つつみかくさず生涯を語れ。相対的に若いなかまのこのような促しが強まり、このところ、ダイジェスト版から「選集」版まで、立て続けに自分の物語を語るハメになっている。自伝を書いたり、昔の日記を公開する人もいるので、人間いろいろと思うが、私はこういうことは苦手なのだ。といっても、聞き取りの意味はわかるし、被害者的にいじけているわけではない。（私が言い出して始めた初期原水爆禁止運動の聞き取りもあるのだ）。時代の最先端をゆく「オーラル・ヒストリー」の対象に出世と思えば、少しは晴れがましい気持ちになるべきか。</p>
	<p>　そのおかげで記憶の不思議に行き当たっている。記憶の世界はナゾだらけだ。確かなようで、頼りない、やわらかいと思うと棘がいっぱいみたいな独特の構造を備えているようだ。変なことをよく覚えているかと思えば、確かと信じ込んでいることがウソであることが判明する。忘れるはずのない人生の時期について、具体的記憶がまるきり欠けている場合もある。だいたい、記憶をたどってする物語はやはり自分に都合のいいものに落ち着いていく。尋問者たちはそこを突いてくるが、みな心優しいうえ、黙秘権のカベは破れない。<br />
　<br />
　ともかく、しかし、すべてにもかかわらず、記憶たちは、語られることで、過去を空間化し、立体的世界をつくりだしてくれる。聞き手にとってより、むしろ語り手にとって。しかしそれは一筋縄ではいかないのだ。</p>
	<p>●象か牛か<br />
数年前、小泉首相の靖国参拝問題が浮上したころ、サンフランシスコ講和条約調印直前の１９５１年に社会党系の平和団体が靖国神社で、単独講和反対の集会とデモをやったことを天野恵一さんと話していた。靖国神社の境内でこんな集会がやれるなど、今からは考えられないねという話しであったが、ついでに、このデモはインドから贈られた象が先導していたねと言った。あの「インディラ」だ！天野さんはこの話を吉川勇一さんにもしたところ、あの博覧強記で知られる吉川さんも、そうだ象が先頭だったと言ったという。ところが、後で吉川さんが、彼が当時属していた日本平和委員会の「平和新聞」に当たってみたら、デモの先頭にいたのは象ではなく、牛だったことが分かったときいた。二人とも牛を象と思い込んでいた。吉川さんでさえ記憶違いがある、とぼくは少し溜飲を下げたが、それはどうでもいい。</p>
	<p>　牛だったときいてもう一度思い返してみる。ぼくはこのデモには行っていない。新聞で読んだ記憶がある。その新聞は一般紙でも「平和新聞」でもなくて、「社会タイムス」だった。「社会タイムス」とは、当時の左派社会党の後ろ盾で出されていた日刊紙で、共産党の「アカハタ」が占領軍によって発禁になっているなか、公然と入手できる唯一のオルタ情報源としてかなり人気の高かったメディアである。どうもこの新聞で靖国デモについて読んだ、しかも渋谷駅の新宿方面行き山手線のホームの売店で買った「社会タイムス」でこの記事を読んだように思えるのである。それは写真入の記事であった。その写真に写っていた動物は何か。象か牛か。ふむ。象は大きく背が高い。写真はしかし横長で、デモ隊は平べったく広がっていて、大きい塊みたいな部分は印象に残っていない。うん、ならば、そうだ牛だった。象であるはずはない。</p>
	<p>　これらが確かな記憶なのかどうか、定かではない。渋谷駅の光景まで出てくるとますますウソくさい。このお話は、煙みたいに、掴もうとすると指の間から抜けていく。しかし静かにしていると煙は再びモヤモヤと集まってきて脳中に同じ形をつくりあげる。しつこいぞ！だが何かがあるのだ。オバケかもしれないが、このオバケは存在する！</p>
	<p>　このデモは記録されている。大原社研の「日本労働年鑑」第２５集によると、「平和推進国民会議は、９月1日、平和国民大会を開いたが、これには産別傘下の金属や印刷出版もストライキで参加し、3万をこえるデモは単独講和調印に反対の意思表示をおこない、平和をめざす統一行動の第一歩をふみだした」。靖国神社も牛もでてこないが、このデモに違いない。<br />
だがそれにしても、なぜ象が出てくるのか。それは比較的説明しやすい。まぼろしのデモ先導動物は、象でなければならなかった。このお話は伝説化している。1949年にネルー首相が、日本のこどもたちの願いにこたえて、上野動物園に、娘のインディラの名をつけた象を贈ってくれたという戦後美談の一つである。この象の「インディラ」は長生きして1983年に死ぬが、そのときインディラ・ガンジーさんはインドの首相で、「インディラ」の代わりに二頭の象を上野動物園に贈ってくれたのである。象の「インディラ」と首相のインディラはここで交差する。首相のほうはその後まもなく暗殺される。<br />
　<br />
　1951年、インドはアメリカが召集したサンフランシスコ講和会議に出席を拒否した。米軍が日本から引き上げなければ参加しないという姿勢であった。単独講和・安保条約反対運動にとって強い味方だった。だから単独講和反対のシンボルとしてインドからの動物がデモの先頭に置かれるのは不思議ではなかった。ならばその動物は？何か動物がいたとすれば、それは象に違いない。「インディラ」がそこにするっと入り込んでくるのだ。調べてはいないが、記憶から追放された牛の方もいわく因縁のある牛、インドからもたらされた聖なる牛であったに違いない。しかし知名度ではかなわなかった。<br />
　<br />
　象は誤りで牛が正しい。しかし象を組み込んだストーリーは十分に成立するのだ。神話はこうして生成するのだろう。</p>
	<p>●夢と記憶<br />
聞き取りの質問者たちは、「満州」育ちである私の生い立ちにたいそう関心があるようであり、子供時代に突っ込んでくる。3歳から12歳までのことで、記憶といっても、いくつかの輪郭のはっきりしたスナップショットを除けば不確かなものだ。</p>
	<p>　話は飛ぶが、私には、繰り返し見る夢が三つあった。この10年ほどはあまり見ないけれど、それまでは一年に何回かは見ていた。お察しのように、あまり気持ちのいい夢ではない。一つは戦争末期、アメリカのP５１戦闘機に追っかけられ、機銃掃射にあう夢。もう一つは大学で、試験場の教室が見つけられなであせりまくる夢。三番目が、高いレンガの壁の夢である。これの壁はどこまでも続く監獄の塀なのである。</p>
	<p>　この夢の舞台は、子供時代を過ごした「満州国」の「新京」（いまの長春）の自宅付近に違いない。私の一家は、日系官吏が固まって住んでいた新市街でなく、城内と呼ばれる旧市街に住んでいたが、そのすぐ近所に「宮内府」と呼ばれる「皇帝」溥儀の住まいがあった。夢にはこの「宮内府」が必ず出てくるのである。私はそ「宮内府」の脇の小路を通って裏手に出ると、小高い丘の上で、そこから狭い小路が走るゴミゴミした「満人街」が見渡せる。その中に入って歩いていく。すると思いがけなく、あの壁の前に出るのだ。壁はおそろしく高い。ふつうの赤レンガでなく、羊羹色の硬いレンガが積まれた特別の壁だ。これはただの壁であるけれど、なぜかこれは監獄の壁と夢の中の私は知っている。そして夢の中の子供の徘徊は、この監獄の壁の上縁を見上げ、壁を左手に見てどこまでも歩いていくところで終わりになる。この夢にはいくつかのヴァリエーションがあるが、「宮内府」、「満人街」の小路、「監獄」という基本的な要素は変わらない。悪夢というほどではない。いくらかの郷愁も誘う夢である。</p>
	<p>　実は私は、この監獄の壁を見た記憶はまったくないのである。この夢が子供のころの自宅の近辺についてのものであることは、「宮内府」が出てくることから明らかだ。だが私は「宮内府」の横手から裏へ抜ける小路を歩いた記憶もないし、そんな道があったとは思えず、そこを一人で歩いている筈もない。私の監獄の壁との出会いはもっぱらこの夢の中の出来事なのである。</p>
	<p>　聞き取りの前、念のためにgoogleでを検索してみた。すると航空写真の上に日本語で書き込みのある画面が現れた。<img src ="http://peoples-plan.org/jp/uploads/shinkyo-mikasa-shogakkou.jpg" alt="航空写真" />そこに「新京監獄」という表示があるではないか。厳しい壁に囲まれた一角が示されている。さらに同じ航空写真に「三笠小学校」という表示もある。三笠小学校は私が入学し、5年１学期まで通った小学校（後に在満国民学校）である。「日本橋公園」とか「警察署」の表記もある。この写真は私の一家が暮らしていた界隈を写したものに間違いない。Googleの航空写真は現在の長春のものである。そこに誰かー「満州ノスタルジア」に駆られた人物だろうーが書き込みを入れたに違いない。書き込みはおそらく正確である。だとすると監獄は存在し、私はいつかそれを見ているのだ。しかし、私はそれを夢の中に出てくる監獄の壁としてしか記憶していないのだ。</p>
	<p>　ウソから出たまマコトというが、これはユメから出た現実である。<br />
夢から現実が生まれることも、だから、あるのである。心強いことだ。
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>あるイラク出身者の話 by 山口響</title>
		<link>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=7</link>
		<comments>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=7#comments</comments>
		<pubDate>Sun,  1 Jun 2008 12:49:35 +0900</pubDate>
		<author>事務局 &lt;&amp;#112;p&amp;#115;g&amp;#64;&amp;#106;c&amp;#97;.&amp;#97;&amp;#112;&amp;#99;&amp;#46;&amp;#111;r&amp;#103;&gt;</author>
		
	<category>運営委員</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=7</guid>
		<description>	◎クルド人Ａさんとの出会い
	　人権問題に関するワークショップに参加するために出かけていった韓国・光州で、いまは韓国に住んでいるイラク出身の人物と出会った（正確にはクルド民族。いちおうＡさんとしておこう）。
　どういうきっかけだったかは忘れたが、Ａさんとはじめて話をしたときに、「ブッシュ大統領はクルド人の『友人』だと思うか？」という、失礼かつ意地悪な質問をしてみた。米国のイラク侵攻をきっかけとしてクルド人がバース党の独裁から結果として脱することができたことは間違いないからだ。
　それに対して彼は「『友人』ではない。しかし、『チャンス』ではある」と答えた。イラクへの侵略・占領は、それがいかに血塗られたものではあっても、彼らにとって「解放」へのまたとない機会を提供するものだったのである。
　その日の夜、私は彼に誘われて、マッコリを片手に居酒屋で一晩中話をすることになった。とくに打ち合わせるわけでもなく、自然と話題はサダム治世下のイラク人の生活へと向かった。
	　あるイラク人がいったん戦争から帰ってきたが、ふたたび戦地へ行かされることになった。しかし、兵営に戻ることを拒んだその男性は、弟の手によって自宅の階上に匿われる。彼の父親は、息子がふたたび戦地へ向かったものだとばかり思っていた。
　兵営に現れないその兵士を探して、当然にも軍隊から調査の人間が送られてきた。実は階上に息子がいることを知らない父親は「息子は戦地へ行ったはずだ」と答える。しかし、ある日、父親は階上の息子の存在に気づいてしまう。そして父親は、反国家的な息子のそのような行いを難じて、自らの息子に向けて銃の引き金を引いた――。
　驚くべきはサダム政権がその父親を英雄と称して連日メディアで取り上げたことだ。イラクの民衆は、そのような息の詰まる空間で日々生きながらえていたのである。
	◎「『非暴力抵抗』は不可能だった」
	　光州で人権についての国際ワークショップが開かれていたのは、言うまでもなく、1980年5月の光州蜂起の経験があってのことだ。当時の韓国も、イラクと同じように軍事独裁下にあった。イラクとの違いは、人びとが、目に見える形で、というよりも歴史として明確に記憶されるような形で、独裁に対して立ち向かったことであった。イラクにおいても、記録されていない小規模な抵抗はあったかもしれない。しかし、イラクの大部分の人びとは、バース党政権の鋼のような圧制に楔を打ち込むことができないまま、2003年3月20日の侵攻開始の日を迎えることになる。
　Ａさんは、「非暴力抵抗」がワークショップで話題に上ったとき、「それは確かにすばらしい。しかし、イラクにおいては不可能だった。抵抗のための他の戦略が必要だったのではないか」と語った。居酒屋で彼は「自爆テロは抵抗の手段だと思うか？」と私に聞いてきた。私は、「イラクの人たちの苦境は本当によくわかる。しかし、自爆テロが答えだとは思わない」と答えた。彼もうなずいた。
　「では、あなたの言っていた『他の戦略』ってどういうこと？」
　「わからないよ」
　彼は首を横に振りながらそう答えた。世界の誰にとっても、それはそう簡単に解ける問いではない。そのことを承知でこの問いを発した非礼を心の中で彼に詫びた。
	◎圧制とその「外がわ」
	　しかしながら、「圧制への抵抗、そのための手段とは何か」という問いがすべての人びとにとって同じ意味合いを持っているわけではない。イラクやかつての韓国にいた人びとと、日本に住む私たちとでは、身の処し方はおのずから異なってくる。
　Ａさんはこんな話をしてくれた――湾岸戦争のとき、世界中の人びとが米国によるイラク攻撃に反対して行動を起こした。それは言うまでもなく、イラクの民衆のことを慮った行動であった。しかしサダムは、街頭に繰り出す群衆の映像をイラク国内で流して、「世界の人びとは我々と共にある！」と民衆を鼓舞し自らのクウェート侵攻を正当化したのである。Ａさんはそのときこう思ったという。「なぜ世界の人びとは湾岸戦争反対だけを言うのか。なぜ、『サダム政権ノー』と同時に言わない！」
　世界の「善意」がサダム政権の延命に一役買ってしまったわけである。圧制の「外がわ」にいてその実情を知らない私たちは、しばしばこのような過ちを犯す。つまり、独裁政権とその下にある民衆とを同一視してしまうという過ちだ。私たちが本来見なければならなかったのは、圧制とその「外がわ」の社会とのつながり、もっと直截にいえば両者の共謀関係ということだっただろう。Ａさんの話を聞きながら、そんなことをあらためて考えた。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>◎クルド人Ａさんとの出会い</p>
	<p>　人権問題に関するワークショップに参加するために出かけていった韓国・光州で、いまは韓国に住んでいるイラク出身の人物と出会った（正確にはクルド民族。いちおうＡさんとしておこう）。<br />
　どういうきっかけだったかは忘れたが、Ａさんとはじめて話をしたときに、「ブッシュ大統領はクルド人の『友人』だと思うか？」という、失礼かつ意地悪な質問をしてみた。米国のイラク侵攻をきっかけとしてクルド人がバース党の独裁から結果として脱することができたことは間違いないからだ。<br />
　それに対して彼は「『友人』ではない。しかし、『チャンス』ではある」と答えた。イラクへの侵略・占領は、それがいかに血塗られたものではあっても、彼らにとって「解放」へのまたとない機会を提供するものだったのである。<br />
　その日の夜、私は彼に誘われて、マッコリを片手に居酒屋で一晩中話をすることになった。とくに打ち合わせるわけでもなく、自然と話題はサダム治世下のイラク人の生活へと向かった。</p>
	<p>　あるイラク人がいったん戦争から帰ってきたが、ふたたび戦地へ行かされることになった。しかし、兵営に戻ることを拒んだその男性は、弟の手によって自宅の階上に匿われる。彼の父親は、息子がふたたび戦地へ向かったものだとばかり思っていた。<br />
　兵営に現れないその兵士を探して、当然にも軍隊から調査の人間が送られてきた。実は階上に息子がいることを知らない父親は「息子は戦地へ行ったはずだ」と答える。しかし、ある日、父親は階上の息子の存在に気づいてしまう。そして父親は、反国家的な息子のそのような行いを難じて、自らの息子に向けて銃の引き金を引いた――。<br />
　驚くべきはサダム政権がその父親を英雄と称して連日メディアで取り上げたことだ。イラクの民衆は、そのような息の詰まる空間で日々生きながらえていたのである。</p>
	<p>◎「『非暴力抵抗』は不可能だった」</p>
	<p>　光州で人権についての国際ワークショップが開かれていたのは、言うまでもなく、1980年5月の光州蜂起の経験があってのことだ。当時の韓国も、イラクと同じように軍事独裁下にあった。イラクとの違いは、人びとが、目に見える形で、というよりも歴史として明確に記憶されるような形で、独裁に対して立ち向かったことであった。イラクにおいても、記録されていない小規模な抵抗はあったかもしれない。しかし、イラクの大部分の人びとは、バース党政権の鋼のような圧制に楔を打ち込むことができないまま、2003年3月20日の侵攻開始の日を迎えることになる。<br />
　Ａさんは、「非暴力抵抗」がワークショップで話題に上ったとき、「それは確かにすばらしい。しかし、イラクにおいては不可能だった。抵抗のための他の戦略が必要だったのではないか」と語った。居酒屋で彼は「自爆テロは抵抗の手段だと思うか？」と私に聞いてきた。私は、「イラクの人たちの苦境は本当によくわかる。しかし、自爆テロが答えだとは思わない」と答えた。彼もうなずいた。<br />
　「では、あなたの言っていた『他の戦略』ってどういうこと？」<br />
　「わからないよ」<br />
　彼は首を横に振りながらそう答えた。世界の誰にとっても、それはそう簡単に解ける問いではない。そのことを承知でこの問いを発した非礼を心の中で彼に詫びた。</p>
	<p>◎圧制とその「外がわ」</p>
	<p>　しかしながら、「圧制への抵抗、そのための手段とは何か」という問いがすべての人びとにとって同じ意味合いを持っているわけではない。イラクやかつての韓国にいた人びとと、日本に住む私たちとでは、身の処し方はおのずから異なってくる。<br />
　Ａさんはこんな話をしてくれた――湾岸戦争のとき、世界中の人びとが米国によるイラク攻撃に反対して行動を起こした。それは言うまでもなく、イラクの民衆のことを慮った行動であった。しかしサダムは、街頭に繰り出す群衆の映像をイラク国内で流して、「世界の人びとは我々と共にある！」と民衆を鼓舞し自らのクウェート侵攻を正当化したのである。Ａさんはそのときこう思ったという。「なぜ世界の人びとは湾岸戦争反対だけを言うのか。なぜ、『サダム政権ノー』と同時に言わない！」<br />
　世界の「善意」がサダム政権の延命に一役買ってしまったわけである。圧制の「外がわ」にいてその実情を知らない私たちは、しばしばこのような過ちを犯す。つまり、独裁政権とその下にある民衆とを同一視してしまうという過ちだ。私たちが本来見なければならなかったのは、圧制とその「外がわ」の社会とのつながり、もっと直截にいえば両者の共謀関係ということだっただろう。Ａさんの話を聞きながら、そんなことをあらためて考えた。
</p>
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	</item>
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		<title>ほんとのホンネは「関係ネェー」じゃないだろう　by天野恵一</title>
		<link>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=6</link>
		<comments>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=6#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 15 May 2008 23:54:09 +0900</pubDate>
		<author>事務局 &lt;pp&amp;#115;&amp;#103;&amp;#64;&amp;#106;c&amp;#97;&amp;#46;&amp;#97;&amp;#112;c.o&amp;#114;g&gt;</author>
		
	<category>運営委員</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=6</guid>
		<description>	　今日5月15日、中野で持たれた「『復帰』３６年を問う　沖縄の基地強化を許さない東京集会」（主催：沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック）に参加。ひさしぶりに有銘政夫さんの元気な話を聞いた。「サイパン島」に移民していた有銘さんの家族は、「集団自決」を強いられ、愛国少年だった有銘さんは、生きて闘おうとし、ギリギリのところで「自決」にまきこまれずに生き残った（父親は自殺している）という体験を淡々と語ることから、彼の話は始まった。
	　沖縄県教組（中部支部）のメンバーとして、長く沖縄の反基地・平和運動を担い続けている有銘さんの、それが強烈な反戦の意思をかたちづくった〈体験〉なのだろうことを、あらためて実感させた。
	　その集会場で、「新しい安保行動をつくる実行委」のメンバーとして、長く共に活動している国富建治から、たのんでいたコピーを手渡された。４月３０日の『しんぶん赤旗』である。それは１９５９年の砂川一審判決直後、この在日米軍の駐留（日米安保条約）を憲法違反とした伊達判決に対し、当時の米駐日大使が最高裁判事と会い圧力をかけた事実（判決はひっくりかえされた）が「米政府解禁文書」で明らかになった件に関する記事である。私は「東京新聞」でこの件は読んでいたが、よりこまかく『赤旗』に書かれていると知らされ、コピーをお願いしていたのだ（「毎日」にも大きく扱われており、そのコピーも、一緒に渡してくれた）。私は有銘さんの話を聞きながら、この新聞記事に眼を通した。
	　有銘さんは１９５２年４月２８日、沖縄をアメリカに売り渡しての日本の独立。米軍基地は、その後さらに沖縄に集中し、それにまったく手をつけず１９７２年５月１５日に沖縄「返還」が実現した歴史。〈４・２９〉と〈５・１５〉に示される自体が今日まで続いていることを力説していた。
	　アメリカのいいなり。〈占領〉がうめこまれたままの「独立」という戦後日本国家の実態は、〈沖縄〉の方からみていると、よく見えるのだろうと、あらためて感じた。
	　しかし、「愛国心」だの「民族の誇り」だのとわめき続けている日本の権力者の〈売国＝ポチ・ナショナリズム〉は、どこまで続くのか。
	　名古屋高裁のイラク派兵違憲判決など「関係ネェー」と彼らはうそぶいているが、彼らが関心を持っているのは米国（米軍）の支配者がどう考えているが、だけなのだろう。だとすると、あの判決は「関係ネェー」ではなくて、「アメリカさんにおこられる、どうしよう、こまった」がホンネなのだろうな。

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		<content:encoded><![CDATA[	<p>　今日5月15日、中野で持たれた「『復帰』３６年を問う　沖縄の基地強化を許さない東京集会」（主催：沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック）に参加。ひさしぶりに有銘政夫さんの元気な話を聞いた。「サイパン島」に移民していた有銘さんの家族は、「集団自決」を強いられ、愛国少年だった有銘さんは、生きて闘おうとし、ギリギリのところで「自決」にまきこまれずに生き残った（父親は自殺している）という体験を淡々と語ることから、彼の話は始まった。</p>
	<p>　沖縄県教組（中部支部）のメンバーとして、長く沖縄の反基地・平和運動を担い続けている有銘さんの、それが強烈な反戦の意思をかたちづくった〈体験〉なのだろうことを、あらためて実感させた。</p>
	<p>　その集会場で、「新しい安保行動をつくる実行委」のメンバーとして、長く共に活動している国富建治から、たのんでいたコピーを手渡された。４月３０日の『しんぶん赤旗』である。それは１９５９年の砂川一審判決直後、この在日米軍の駐留（日米安保条約）を憲法違反とした伊達判決に対し、当時の米駐日大使が最高裁判事と会い圧力をかけた事実（判決はひっくりかえされた）が「米政府解禁文書」で明らかになった件に関する記事である。私は「東京新聞」でこの件は読んでいたが、よりこまかく『赤旗』に書かれていると知らされ、コピーをお願いしていたのだ（「毎日」にも大きく扱われており、そのコピーも、一緒に渡してくれた）。私は有銘さんの話を聞きながら、この新聞記事に眼を通した。</p>
	<p>　有銘さんは１９５２年４月２８日、沖縄をアメリカに売り渡しての日本の独立。米軍基地は、その後さらに沖縄に集中し、それにまったく手をつけず１９７２年５月１５日に沖縄「返還」が実現した歴史。〈４・２９〉と〈５・１５〉に示される自体が今日まで続いていることを力説していた。</p>
	<p>　アメリカのいいなり。〈占領〉がうめこまれたままの「独立」という戦後日本国家の実態は、〈沖縄〉の方からみていると、よく見えるのだろうと、あらためて感じた。</p>
	<p>　しかし、「愛国心」だの「民族の誇り」だのとわめき続けている日本の権力者の〈売国＝ポチ・ナショナリズム〉は、どこまで続くのか。</p>
	<p>　名古屋高裁のイラク派兵違憲判決など「関係ネェー」と彼らはうそぶいているが、彼らが関心を持っているのは米国（米軍）の支配者がどう考えているが、だけなのだろう。だとすると、あの判決は「関係ネェー」ではなくて、「アメリカさんにおこられる、どうしよう、こまった」がホンネなのだろうな。
</p>
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	</item>
		<item>
		<title>「表現の自由」と新自由主義的な検閲 by 小倉利丸</title>
		<link>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=5</link>
		<comments>http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=5#comments</comments>
		<pubDate>Thu,  1 May 2008 23:52:12 +0900</pubDate>
		<author>事務局 &lt;&amp;#112;ps&amp;#103;&amp;#64;jc&amp;#97;.&amp;#97;pc&amp;#46;o&amp;#114;&amp;#103;&gt;</author>
		
	<category>運営委員</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.peoples-plan.org/jp/modules/wordpress/index.php?p=5</guid>
		<description>	◎富山で起きた出来事
	　かれこれ１０年以上も前のことになるが、私が住んでいる富山の県立近代美術館で起きた美術作品の検閲問題の教訓を思い出さずにいられない出来事を身近に感じるようになった。この事件は、公立美術館が県民の税金で公的な機関が購入した作品であるということから、議会や右翼が問題視し、問題となった作品は１０点あったが、そのうち作者寄贈分を作者に無理やり返却し、残りの購入分を非公開とし、さらに図録も販売中止にした。波紋は図書館やその他公共施設にも拡がり、図録は図書館でも閲覧禁止となった。長い裁判では公開を要求する主張は退けられた。美術館は作品を匿名の個人に売り払い、図録残部をすべて焼却した。美術館が外部の圧力に屈して作品を売ったり図録を焼き捨てるなど、戦後の美術史のなかでも前例のない大きな事件となり、禍根を残した。裁判に勝てなかった私たちもまた大きな負債を背負ったことになる。
	◎映画『靖国』へのクレーム
	　この問題をたびたび思い出すのは、ドキュメンタリー映画『靖国』への自民党右派や右翼の攻撃の論理と重なる部分が多々あるからだ。映画はこの連休中に東京で観るつもりなので、作品そのものについてはまだ何もいうべきことはない。作品の内容とは別にわたしが大きな関心をもったのは、この映画への批判が、文化庁所管の独立行政法人「日本芸術文化振興会」の助成金を受け取っていたことに対して自民党議員などから異論が出された点だ。自民党議員などがクレームをつけた理由は、公的な助成金によって制作された映画だという点と関わる。公的な助成金によって反靖国的な内容の映画が制作されるとすれば、それは助成金の趣旨に反すると言いたいのだろう。「国民」の税金が保守派や右翼からみて靖国批判と解釈可能な作品に利用されることを許容しないという非寛容の態度は、かつて私が富山県立近代美術館で経験した地元の政治家や行政の対応とほとんど変わるところがない。
	◎公的資金で助成すべきものとは？
	　この問題は、次のように一般化できる。前提として、限られた公的資金をめぐってそれを受け取る側が相互に繰り広げる資金獲得競争は、資金獲得者の選別の公正性を担保するという考え方をとる。その上で、公的資金を表現活動などに助成するばあい、助成対象となる作品の選定の基準はどのようであるべきか、について助成する側の判断基準が問われることになる。こうした競争的資金の採択の基準について、「納税者民主主義」のような発想にたてば、多数の納税者の支持を得られない作品への助成は妥当ではないとか、民主的に選挙で選ばれた政府の政策に反対する作品を選定することは好ましくないという理屈もありえる。こうした考え方は、実は公的機関や政治家たちには根強い。わたしはこうした理屈には異論がある。むしろ公的な資金が助成すべきなのは、多くの人々には支持されがたく、したがって商業ベースにものることができないが、多様な価値観を保障するうえで必要な表現であるべきだと思う。
	◎助成システムは検閲につながっている
	　いかなる場合でも、公的資金の配分を決定するのは、助成側のなんらかの意思決定プロセスに関わる人たちであり、彼らは常に納税者や有権者の意思を代弁すると称する政治家や暴力も含めたさまざまな圧力にさらされる。官僚であれ学識経験者であれこうした圧力を回避したいと考えるから、結局は無難な作品が助成されやすくなる。『靖国』のようなケースが目立つことじたいにこの助成システムがもっているそもそもの問題が露出している。税金を原資とする競争的資金のアーティストへの配分問題は８０年代に米国でも大きな検閲問題として議論になり、「文化戦争」とまで言われた。公的資金がゲイやレズビアンのアーティストに助成されていることに、レーガン政権の発足もあって、キリスト教原理主義の政治家たちが猛烈に反発し始めたからだ。こうした「文化戦争」は実は日本でも繰り返し起きている。多くの場合、それは歴史認識や天皇制の領域で引き起こされてきた。
	◎表現の自由はどこに？
	　現在のように、市場と国家が表現の場を独占している世界では、少数者にしかうけいれられない表現は市場では相手にされないだけではなく、公的な助成も得られないとなれば、もはや表現の自由の余地は残されないことになる。アーティストが長年闘ってきた課題は、この商品化と国益という二つの罠を逃れ、なおかつ自由に表現しつつ生きることの可能性への模索だった。市場と国家に対して第三の空間ともいえるような自由な空間は、この世界では極めて限られている。
	◎かくも「自由」を食い尽くす新「自由」主義的からくり
	　さて、上に述べたことは実はアーティストだけの問題ではない。大学の研究者たちもまたいま同じ問題に直面している。（NGOもNPOも同様だが）文部科学省などが国策もからめて公的な競争的資金を研究者に提示して競争させる傾向が年々強まっている。研究者相互の資金獲得競争のプロセスを通じて、資金獲得ができるような研究テーマを優秀なもの