PP研へようこそ
研究活動
出版
その他
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録

2008年8月3日(日曜日)

若者たちの政治意識の変化/白川真澄

カテゴリー: - 事務局 @ 23時05分54秒

 連日のひどい暑さのなかで、河合塾の夏期講習会に出かけている。早起きが続いて疲れる毎日だが、高校三年生の若者が書いた小論文を通じて垣間見える彼ら/彼女らの意識に、ちょっとした変化が起こっているのではないかと感じている。

 その小論文は、小熊英二『日本という国』から取った文章を課題文として読んだ上で、「国際社会における日本の役割」というテーマで自分の考えを700字程度で述べるというものである。小熊の文章は、彼のものにしてはずいぶん読みやすいが、戦後の日本がアメリカに依存・従属する姿勢をとり続けてきたことが、アジア諸国との関係を冷え込ませたということを批判している。そして、アジアとの関係を悪化させた愚行の例として、保守政治家が「日本の誇りをとりもどす」といいながらやっている靖国参拝、歴史教科書の書き直し、憲法9条の改正による自衛隊の海外派兵の企てを挙げている。

 これを参考にして若者たちが「日本の役割」として書いた内容は、地域紛争を解決する調停や対話の仲介役を行う、東アジア共同体をつくる、環境技術を発展途上国に援助する、被爆体験と9条を生かして非核化を訴えるなど、さまざまであった。特徴的なのは、改憲による自衛隊の海外派兵については否定的であり、日本は対米協力を強め国際社会における軍事的な役割を積極的に果たすべきだというタカ派の意見が姿を消したことである。もちろん、小論文では課題文の筆者の立場に強く影響を受けるし、答案の数もそれほど多くなかったから割り引いて考えなければならないのだが、これまでは少数とはいえ必ず存在したタカ派の見解にまったくお目にかからなかった。正直なところ、ちょっと拍子抜けの感がした。

 もし、同じテーマを二年前(北朝鮮がミサイル発射実験を行っていた)に書いたならば、北朝鮮の脅威があるのだから日米安保が重要だとか、そのために改憲して自衛隊の海外派兵をすることも必要だとか、「国際社会」が結束して北朝鮮への制裁を強めるように日本が働きかけるべきだといった見解が続出したはずだ。実際、国際政治について論じる類似のテーマでは、そうした見解が少なからず見られた。こちらも、タカ派の見解への反論にかなり気合を入れ、論理を工夫し磨いたものである。
 
 やはり、この二年の間に起こった政治状況の劇的な変化が、若者たちの意識にも深く影響を与えているのだろう。米朝和解が進み、声高な制裁論が鳴りをひそめ、明文改憲の声がすっかり小さくなってしまっている。安倍政権の瓦解が象徴する右翼ナショナリズム潮流の挫折の意味の大きさをあらためて感じる。
 
 しかし、若者たちの政治意識の変化はどの程度のものであり、どこへ向かうのだろうかと考えると、とても測りきれず、楽観する気分にはなれない。小論文でハト派の見解を述べた彼ら/彼女らも、北京オリンピックが始まれば、きっとプチ・ナショナリストに転身するにちがいない。当然のように日本代表選手を応援し、「ニッポン!ニッポン!」の大合唱に違和感を感じず、表彰式で日の丸でも上がろうものならば感動してそのシーンを見るにちがいない。彼ら/彼女らに語りかける言葉を、よくよく考えないといけない。


2008年7月19日(土曜日)

「セクシュアリティの講義で」/青山薫

カテゴリー: - 事務局 @ 16時01分50秒

 怒涛の前期がほぼ終わり、これから学生さんのレポートを待って採点、というところ。「いろんな大学非常勤講師」になってから3回目の夏である。毎年、学部の数十人向け大教室の科目からさえ、記憶に残る学生や秀作のレポートが結構出てきて、社交辞令抜きで楽しみなところがある。「これでウケなかったら何でウケる!」とリキを入れた講義は必ず反応が良い。同じクラスでも、時間が無くて準備を手抜きすれば即寝ている人が増える。

 「イマドキの大学生」は、^娚阿砲舛磴鵑反佑力辰鯤垢い討い襦´∀辰瞭睛討世韻任覆、こっちのアドレナリンがどのくらい不足しているか、など、評判に違わずいわゆる「空気を読む」ことに長けている 8醜埖茵次お笑いブームの強すぎる影響を受けている ぁ紛軌なんかの言うことそんなに鵜呑みにするもんじゃない、とこっちがツッコミを入れなければならないほど)(表面上は)素直である イ靴燭って、エンターテイメント要素、またはテーマに対する話し手の思い入れ、または自分の側の強い関心、またはそのすべてが不足するとすぐ講義を見限る ことがわかる。

 しかし、リキ入れて「教えて」いることに嘘はないが、そもそも非常勤だから必修科目をもっていないこと、そのうえ出席を取らないので基本的に関心が全然ない人は出てこないこと、そして、「ジェンダー」や「セクシュアリティ」の関連科目を担当していることが、みんな寝ちゃうーーー、みたいな悲しい目に私が遇っていない原因だろうと思う。健康そうな18から22、3、4くらいの男女他の人びとを、朝眠い時間や昼眠い時間や夕方眠い時間に集め、ケータイ抜きで90分、じっと静かにさせておくのだから、起こしておくことができるのはほとんど「セックス」の一語だけというものだ――でなきゃこっちも飽きちゃうんだよね… 90分授業って長過ぎませんか?

 今学期のハイライトは、某TG大学で取り上げたLGBTIQQ問題だったかな。餅は餅屋。やっぱ「専門分野」は流暢に行くわね。「セクマイ」(とイマドキの若者は言う「セクシュアル・マイノリティ」 …こ、これにはついて行けない…)問題は「研究」なんてしたことないけど当事者だからガッツが違うもん――ちなみに、「LGBTIQQ」は、「レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(他人から見た性別と自己認識する性別が違うのでこれを一致させる方向または不一致のままいろいろ試みる人)、インターセックス(両性具有の人)、クィア(性別にこだわりたくない人)、クエスチョニング(考え中の人)」(ゼェ、ゼェ、ゼェ、)の略だそうです。アメリカ発。私は基本的にB。場合によってはQ1(でも「女性」に着目することが大切なフェミニストなので困ってしまう)。

 さてこの中で――エンタメ要素他力本願――録画してみんなで観たのがNHK教育テレビのトーク番組「ハートをつなごう」、「ゲイ・レズビアン特集第一弾」(http://www.nhk.or.jp/heart-net/hearttv/archives_2008.html)。NHKで初めて、そして当事者が語る実話としてはおそらく日本のテレビで初めて「ゲイレズビアンもの」が映るというので、当事者やジェンダー・セクシュアリティに関心のある私の周りでも放送前から話題になっていた。いざ放映された番組は、さすがNHK、「ラディカル」とか「先駆的」という評価はしにくいものの、その「ふつうさ」が良いんだよ、という意味自体において「画期的」なものだった。

 30分の枠の中に、司会者3人と当事者5人のスタジオでのトークショウ、そして、5人の中で一番若い20代前半のゲイ男性「朝原君」の、思春期以来の孤独、悩み、いわゆる「カミングアウト」(同性愛者であることを公言することとその過程)と、その後仲間に出会ってゲイ・コミュニティで活動し、アルバイトをしながらスクール・カウンセラーをめざす生活を中心としたドキュメンタリーが入っていた。他の4人はすでにこの業界の有名人、政治家の尾辻かな子さん、パフォーマーのイトウ・ターリさん、『ボクの彼氏はどこにいる?』の著者石川大我さん、そしてセクシュアリティ研究者の砂川秀樹さん。世代もジェンダーも職業も出身地もおそらく最終学歴もばらばらで、共通点といえばみんな「ふつうの」人だということくらい、あ、同性愛者だってことを除けばね、みたいにできていた。自分は何者かに悩み、恋愛をおおっぴらにできずに悩み、家族や友人からも孤立し、という一定普遍的なアイデンティティの危機問題と、とくに学校で教師からさえ差別あつかいされ、それが「異常な自分」という自己評価となって自殺まで考えた、などという少数者差別体験が「ほどよい」バランスで語られていたと思う。
 
 上のリンクにも出てくるけれど、番組の感想には「すばらしかった」というものと「今頃こんな初歩的な番組作らなきゃならないなんて、日本は遅れてる」というものと、私の知り合いの中でも両論だった。それから同性愛問題につきものの「バイセクシュアル無視」問題も確かに気になる。でも、日本社会は、こと普遍的な人権の達成にかかわる問題についてはセクシュアリティに限らず、ジェンダーに限らず、あらゆる分野で、すべて、たいへんに、実際、遅れてるのだ。それは一昼夜で変わることのない事実なのだ。そんな日本の「みなさまのNHK」としては、ここから出発して、あまり「ついてけなーい…」と思うストレート(異性愛者)の人や、「公共の電波で同性愛を称揚するとはケシカラン!」と言うかもしれない保守派のバックラッシュを招くより、「なーんだ… ゲイやレズって変態じゃないのね。ふつうなのね」ということで共感を呼ぶ方策をとったのだろう。それは正解だ。よし。受信料を払おう(ずっと払ってるけど)、とどんなテーマでも過激派であったことのない私は思った次第。

 それでも、この番組を学生さんたちに見せたかったのは、ただマイノリティの「ふつうさ」アピールのためだけに、ではない。明治生まれでプロレスと森進一が好きだったおばあちゃんに育てられたおかげで(?)人に言えない浪花節気質(これはバイセクシュアルである、と言うより恥ずかしい…)のある私は、「朝原君」の最後の決め台詞に落涙。以来何度この録画を観てもここで泣いてしまう。それで、これは私がバイだからか、浪花節だからなのか、あるいはもう少し広い文脈のなかで解釈できるのか、前の授業の感想カードからしておそらく9割がストレートのこのクラスの人びとの反応を見て知りたかった、というのも理由だ。そのときばかりはスクリーンを背にして観察した結果、3割くらいが泣いているか泣きそうだった。寝ているヤツや観てないヤツはいなかった。もちろん感涙で終われば良い番組、などとナイーヴなことを言っているのではない。そういう批評性のなさならば、この社会の「ふつうでない」人の無理解と排除を生む可能性も大だろう。
だけど、画面がスタジオにもどって、番組を締める桜井洋子アナウンサーが「最後に見ている人たちに言いたいことはない?」と話を振ったとき、アップの「朝原君」は言ったのだ。しばらく考えて。一言だけ。「だいじょうぶ」って。

――これは、効くでしょ?

 かならず理解者はいる。多数派の中にもね。同世代の3割(くらい)が泣いてたように。だから、「だいじょうぶ」。それに少数派は、多数派の中に理解者を広げてこそ生きやすくなる。だから、生き延びよう。

 後日、番組に出ていた人に聞いたのだが、このスタジオ収録、台本はまったくなかったのだそうだ。多数派代表司会者、桜井さんと作家の石田依良さん、歌手のソニンさん、まずしっかり影響されていたよう。また後日、「自分もマイノリティなんで…」ってレポートのテーマを相談に来てくれた学生さんもいた。たった1コマ2単位のために、性的アイデンティティについて周囲でアンケート調査をして、これを分析してレポートにしたいのだという――楽しみだなぁ。「朝原君」、効いたよ。


2008年6月25日(水曜日)

記憶の不思議 by 武藤一羊

カテゴリー: - 事務局 @ 17時12分28秒

 後期高齢者になってすることがひとつ増えた。きびしい尋問にさらされ、それに答えることだ。お前はこれまで何をやってきたか、つつみかくさず生涯を語れ。相対的に若いなかまのこのような促しが強まり、このところ、ダイジェスト版から「選集」版まで、立て続けに自分の物語を語るハメになっている。自伝を書いたり、昔の日記を公開する人もいるので、人間いろいろと思うが、私はこういうことは苦手なのだ。といっても、聞き取りの意味はわかるし、被害者的にいじけているわけではない。(私が言い出して始めた初期原水爆禁止運動の聞き取りもあるのだ)。時代の最先端をゆく「オーラル・ヒストリー」の対象に出世と思えば、少しは晴れがましい気持ちになるべきか。

 そのおかげで記憶の不思議に行き当たっている。記憶の世界はナゾだらけだ。確かなようで、頼りない、やわらかいと思うと棘がいっぱいみたいな独特の構造を備えているようだ。変なことをよく覚えているかと思えば、確かと信じ込んでいることがウソであることが判明する。忘れるはずのない人生の時期について、具体的記憶がまるきり欠けている場合もある。だいたい、記憶をたどってする物語はやはり自分に都合のいいものに落ち着いていく。尋問者たちはそこを突いてくるが、みな心優しいうえ、黙秘権のカベは破れない。
 
 ともかく、しかし、すべてにもかかわらず、記憶たちは、語られることで、過去を空間化し、立体的世界をつくりだしてくれる。聞き手にとってより、むしろ語り手にとって。しかしそれは一筋縄ではいかないのだ。

●象か牛か
数年前、小泉首相の靖国参拝問題が浮上したころ、サンフランシスコ講和条約調印直前の1951年に社会党系の平和団体が靖国神社で、単独講和反対の集会とデモをやったことを天野恵一さんと話していた。靖国神社の境内でこんな集会がやれるなど、今からは考えられないねという話しであったが、ついでに、このデモはインドから贈られた象が先導していたねと言った。あの「インディラ」だ!天野さんはこの話を吉川勇一さんにもしたところ、あの博覧強記で知られる吉川さんも、そうだ象が先頭だったと言ったという。ところが、後で吉川さんが、彼が当時属していた日本平和委員会の「平和新聞」に当たってみたら、デモの先頭にいたのは象ではなく、牛だったことが分かったときいた。二人とも牛を象と思い込んでいた。吉川さんでさえ記憶違いがある、とぼくは少し溜飲を下げたが、それはどうでもいい。

 牛だったときいてもう一度思い返してみる。ぼくはこのデモには行っていない。新聞で読んだ記憶がある。その新聞は一般紙でも「平和新聞」でもなくて、「社会タイムス」だった。「社会タイムス」とは、当時の左派社会党の後ろ盾で出されていた日刊紙で、共産党の「アカハタ」が占領軍によって発禁になっているなか、公然と入手できる唯一のオルタ情報源としてかなり人気の高かったメディアである。どうもこの新聞で靖国デモについて読んだ、しかも渋谷駅の新宿方面行き山手線のホームの売店で買った「社会タイムス」でこの記事を読んだように思えるのである。それは写真入の記事であった。その写真に写っていた動物は何か。象か牛か。ふむ。象は大きく背が高い。写真はしかし横長で、デモ隊は平べったく広がっていて、大きい塊みたいな部分は印象に残っていない。うん、ならば、そうだ牛だった。象であるはずはない。

 これらが確かな記憶なのかどうか、定かではない。渋谷駅の光景まで出てくるとますますウソくさい。このお話は、煙みたいに、掴もうとすると指の間から抜けていく。しかし静かにしていると煙は再びモヤモヤと集まってきて脳中に同じ形をつくりあげる。しつこいぞ!だが何かがあるのだ。オバケかもしれないが、このオバケは存在する!

 このデモは記録されている。大原社研の「日本労働年鑑」第25集によると、「平和推進国民会議は、9月1日、平和国民大会を開いたが、これには産別傘下の金属や印刷出版もストライキで参加し、3万をこえるデモは単独講和調印に反対の意思表示をおこない、平和をめざす統一行動の第一歩をふみだした」。靖国神社も牛もでてこないが、このデモに違いない。
だがそれにしても、なぜ象が出てくるのか。それは比較的説明しやすい。まぼろしのデモ先導動物は、象でなければならなかった。このお話は伝説化している。1949年にネルー首相が、日本のこどもたちの願いにこたえて、上野動物園に、娘のインディラの名をつけた象を贈ってくれたという戦後美談の一つである。この象の「インディラ」は長生きして1983年に死ぬが、そのときインディラ・ガンジーさんはインドの首相で、「インディラ」の代わりに二頭の象を上野動物園に贈ってくれたのである。象の「インディラ」と首相のインディラはここで交差する。首相のほうはその後まもなく暗殺される。
 
 1951年、インドはアメリカが召集したサンフランシスコ講和会議に出席を拒否した。米軍が日本から引き上げなければ参加しないという姿勢であった。単独講和・安保条約反対運動にとって強い味方だった。だから単独講和反対のシンボルとしてインドからの動物がデモの先頭に置かれるのは不思議ではなかった。ならばその動物は?何か動物がいたとすれば、それは象に違いない。「インディラ」がそこにするっと入り込んでくるのだ。調べてはいないが、記憶から追放された牛の方もいわく因縁のある牛、インドからもたらされた聖なる牛であったに違いない。しかし知名度ではかなわなかった。
 
 象は誤りで牛が正しい。しかし象を組み込んだストーリーは十分に成立するのだ。神話はこうして生成するのだろう。

●夢と記憶
聞き取りの質問者たちは、「満州」育ちである私の生い立ちにたいそう関心があるようであり、子供時代に突っ込んでくる。3歳から12歳までのことで、記憶といっても、いくつかの輪郭のはっきりしたスナップショットを除けば不確かなものだ。

 話は飛ぶが、私には、繰り返し見る夢が三つあった。この10年ほどはあまり見ないけれど、それまでは一年に何回かは見ていた。お察しのように、あまり気持ちのいい夢ではない。一つは戦争末期、アメリカのP51戦闘機に追っかけられ、機銃掃射にあう夢。もう一つは大学で、試験場の教室が見つけられなであせりまくる夢。三番目が、高いレンガの壁の夢である。これの壁はどこまでも続く監獄の塀なのである。

 この夢の舞台は、子供時代を過ごした「満州国」の「新京」(いまの長春)の自宅付近に違いない。私の一家は、日系官吏が固まって住んでいた新市街でなく、城内と呼ばれる旧市街に住んでいたが、そのすぐ近所に「宮内府」と呼ばれる「皇帝」溥儀の住まいがあった。夢にはこの「宮内府」が必ず出てくるのである。私はそ「宮内府」の脇の小路を通って裏手に出ると、小高い丘の上で、そこから狭い小路が走るゴミゴミした「満人街」が見渡せる。その中に入って歩いていく。すると思いがけなく、あの壁の前に出るのだ。壁はおそろしく高い。ふつうの赤レンガでなく、羊羹色の硬いレンガが積まれた特別の壁だ。これはただの壁であるけれど、なぜかこれは監獄の壁と夢の中の私は知っている。そして夢の中の子供の徘徊は、この監獄の壁の上縁を見上げ、壁を左手に見てどこまでも歩いていくところで終わりになる。この夢にはいくつかのヴァリエーションがあるが、「宮内府」、「満人街」の小路、「監獄」という基本的な要素は変わらない。悪夢というほどではない。いくらかの郷愁も誘う夢である。

 実は私は、この監獄の壁を見た記憶はまったくないのである。この夢が子供のころの自宅の近辺についてのものであることは、「宮内府」が出てくることから明らかだ。だが私は「宮内府」の横手から裏へ抜ける小路を歩いた記憶もないし、そんな道があったとは思えず、そこを一人で歩いている筈もない。私の監獄の壁との出会いはもっぱらこの夢の中の出来事なのである。

 聞き取りの前、念のためにgoogleでを検索してみた。すると航空写真の上に日本語で書き込みのある画面が現れた。航空写真そこに「新京監獄」という表示があるではないか。厳しい壁に囲まれた一角が示されている。さらに同じ航空写真に「三笠小学校」という表示もある。三笠小学校は私が入学し、5年1学期まで通った小学校(後に在満国民学校)である。「日本橋公園」とか「警察署」の表記もある。この写真は私の一家が暮らしていた界隈を写したものに間違いない。Googleの航空写真は現在の長春のものである。そこに誰かー「満州ノスタルジア」に駆られた人物だろうーが書き込みを入れたに違いない。書き込みはおそらく正確である。だとすると監獄は存在し、私はいつかそれを見ているのだ。しかし、私はそれを夢の中に出てくる監獄の壁としてしか記憶していないのだ。

 ウソから出たまマコトというが、これはユメから出た現実である。
夢から現実が生まれることも、だから、あるのである。心強いことだ。


2008年6月1日(日曜日)

あるイラク出身者の話 by 山口響

カテゴリー: - 事務局 @ 12時49分35秒

◎クルド人Aさんとの出会い

 人権問題に関するワークショップに参加するために出かけていった韓国・光州で、いまは韓国に住んでいるイラク出身の人物と出会った(正確にはクルド民族。いちおうAさんとしておこう)。
 どういうきっかけだったかは忘れたが、Aさんとはじめて話をしたときに、「ブッシュ大統領はクルド人の『友人』だと思うか?」という、失礼かつ意地悪な質問をしてみた。米国のイラク侵攻をきっかけとしてクルド人がバース党の独裁から結果として脱することができたことは間違いないからだ。
 それに対して彼は「『友人』ではない。しかし、『チャンス』ではある」と答えた。イラクへの侵略・占領は、それがいかに血塗られたものではあっても、彼らにとって「解放」へのまたとない機会を提供するものだったのである。
 その日の夜、私は彼に誘われて、マッコリを片手に居酒屋で一晩中話をすることになった。とくに打ち合わせるわけでもなく、自然と話題はサダム治世下のイラク人の生活へと向かった。

 あるイラク人がいったん戦争から帰ってきたが、ふたたび戦地へ行かされることになった。しかし、兵営に戻ることを拒んだその男性は、弟の手によって自宅の階上に匿われる。彼の父親は、息子がふたたび戦地へ向かったものだとばかり思っていた。
 兵営に現れないその兵士を探して、当然にも軍隊から調査の人間が送られてきた。実は階上に息子がいることを知らない父親は「息子は戦地へ行ったはずだ」と答える。しかし、ある日、父親は階上の息子の存在に気づいてしまう。そして父親は、反国家的な息子のそのような行いを難じて、自らの息子に向けて銃の引き金を引いた――。
 驚くべきはサダム政権がその父親を英雄と称して連日メディアで取り上げたことだ。イラクの民衆は、そのような息の詰まる空間で日々生きながらえていたのである。

◎「『非暴力抵抗』は不可能だった」

 光州で人権についての国際ワークショップが開かれていたのは、言うまでもなく、1980年5月の光州蜂起の経験があってのことだ。当時の韓国も、イラクと同じように軍事独裁下にあった。イラクとの違いは、人びとが、目に見える形で、というよりも歴史として明確に記憶されるような形で、独裁に対して立ち向かったことであった。イラクにおいても、記録されていない小規模な抵抗はあったかもしれない。しかし、イラクの大部分の人びとは、バース党政権の鋼のような圧制に楔を打ち込むことができないまま、2003年3月20日の侵攻開始の日を迎えることになる。
 Aさんは、「非暴力抵抗」がワークショップで話題に上ったとき、「それは確かにすばらしい。しかし、イラクにおいては不可能だった。抵抗のための他の戦略が必要だったのではないか」と語った。居酒屋で彼は「自爆テロは抵抗の手段だと思うか?」と私に聞いてきた。私は、「イラクの人たちの苦境は本当によくわかる。しかし、自爆テロが答えだとは思わない」と答えた。彼もうなずいた。
 「では、あなたの言っていた『他の戦略』ってどういうこと?」
 「わからないよ」
 彼は首を横に振りながらそう答えた。世界の誰にとっても、それはそう簡単に解ける問いではない。そのことを承知でこの問いを発した非礼を心の中で彼に詫びた。

◎圧制とその「外がわ」

 しかしながら、「圧制への抵抗、そのための手段とは何か」という問いがすべての人びとにとって同じ意味合いを持っているわけではない。イラクやかつての韓国にいた人びとと、日本に住む私たちとでは、身の処し方はおのずから異なってくる。
 Aさんはこんな話をしてくれた――湾岸戦争のとき、世界中の人びとが米国によるイラク攻撃に反対して行動を起こした。それは言うまでもなく、イラクの民衆のことを慮った行動であった。しかしサダムは、街頭に繰り出す群衆の映像をイラク国内で流して、「世界の人びとは我々と共にある!」と民衆を鼓舞し自らのクウェート侵攻を正当化したのである。Aさんはそのときこう思ったという。「なぜ世界の人びとは湾岸戦争反対だけを言うのか。なぜ、『サダム政権ノー』と同時に言わない!」
 世界の「善意」がサダム政権の延命に一役買ってしまったわけである。圧制の「外がわ」にいてその実情を知らない私たちは、しばしばこのような過ちを犯す。つまり、独裁政権とその下にある民衆とを同一視してしまうという過ちだ。私たちが本来見なければならなかったのは、圧制とその「外がわ」の社会とのつながり、もっと直截にいえば両者の共謀関係ということだっただろう。Aさんの話を聞きながら、そんなことをあらためて考えた。


2008年5月15日(木曜日)

ほんとのホンネは「関係ネェー」じゃないだろう by天野恵一

カテゴリー: - 事務局 @ 23時54分09秒

 今日5月15日、中野で持たれた「『復帰』36年を問う 沖縄の基地強化を許さない東京集会」(主催:沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)に参加。ひさしぶりに有銘政夫さんの元気な話を聞いた。「サイパン島」に移民していた有銘さんの家族は、「集団自決」を強いられ、愛国少年だった有銘さんは、生きて闘おうとし、ギリギリのところで「自決」にまきこまれずに生き残った(父親は自殺している)という体験を淡々と語ることから、彼の話は始まった。

 沖縄県教組(中部支部)のメンバーとして、長く沖縄の反基地・平和運動を担い続けている有銘さんの、それが強烈な反戦の意思をかたちづくった〈体験〉なのだろうことを、あらためて実感させた。

 その集会場で、「新しい安保行動をつくる実行委」のメンバーとして、長く共に活動している国富建治から、たのんでいたコピーを手渡された。4月30日の『しんぶん赤旗』である。それは1959年の砂川一審判決直後、この在日米軍の駐留(日米安保条約)を憲法違反とした伊達判決に対し、当時の米駐日大使が最高裁判事と会い圧力をかけた事実(判決はひっくりかえされた)が「米政府解禁文書」で明らかになった件に関する記事である。私は「東京新聞」でこの件は読んでいたが、よりこまかく『赤旗』に書かれていると知らされ、コピーをお願いしていたのだ(「毎日」にも大きく扱われており、そのコピーも、一緒に渡してくれた)。私は有銘さんの話を聞きながら、この新聞記事に眼を通した。

 有銘さんは1952年4月28日、沖縄をアメリカに売り渡しての日本の独立。米軍基地は、その後さらに沖縄に集中し、それにまったく手をつけず1972年5月15日に沖縄「返還」が実現した歴史。〈4・29〉と〈5・15〉に示される自体が今日まで続いていることを力説していた。

 アメリカのいいなり。〈占領〉がうめこまれたままの「独立」という戦後日本国家の実態は、〈沖縄〉の方からみていると、よく見えるのだろうと、あらためて感じた。

 しかし、「愛国心」だの「民族の誇り」だのとわめき続けている日本の権力者の〈売国=ポチ・ナショナリズム〉は、どこまで続くのか。

 名古屋高裁のイラク派兵違憲判決など「関係ネェー」と彼らはうそぶいているが、彼らが関心を持っているのは米国(米軍)の支配者がどう考えているが、だけなのだろう。だとすると、あの判決は「関係ネェー」ではなくて、「アメリカさんにおこられる、どうしよう、こまった」がホンネなのだろうな。


18 queries. 0.339 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress

検索