『季刊ピープルズ・プラン』51号(2010年夏号)
【特 集】ジェンダー平等は日本でなぜ進まないのか

ジェンダー平等は日本でなぜ進まないのか――特集のねらいと概要

青山薫

ジェンダー平等「後進国」日本

 女性差別撤廃条約を日本政府が批准してから26年。日本社会が女性差別の撤廃から取り残されていることは内外に知られている。この特集では、それがどういうことか、なぜか、を検証する。

 たとえば、船橋邦子が指摘するとおり、国連のジェンダーエンパワメント指標(GEM)で測った日本の地位は、加盟194ヵ国中57位(2007年の数値)。平均余命の長さ、識字率、教育を受ける割合、一人あたりGDPで測ったいわゆる人間開発指数(HDI)では、オランダ、スウェーデン、フランス、スイスに次ぎ、デンマーク、米国、英国、ドイツなどを抑えて10位の日本が、GEMでは、アラブ首長国連邦、チェコ共和国、エチオピア、ポーランドなどに遠く離され、スリナムやフィリピンと肩を並べる「後進国」であることは興味深い。女性の上級公務員、衆院議員、会社経営者の割合がすべて10%前後と低いことと、女性の平均賃金が男性のたった45%であることが如実に響いているのだが、それはつまり、男女ともに教育水準が高く衣食住医へのアクセスが悪くないにもかかわらず、「ほかの何か」が女性の政策決定とフォーマルな経済への参加を阻んでいる、という日本社会の特徴を表しているからだ。

 女性差別は法制度のなかにまず現存する。この点では、民法によって女性だけに課せられたいわゆる再婚禁止期間や、婚外子差別、夫婦別姓選択制度がないこと、刑法に堕胎罪が存在し続けていることなどが女性の自己決定・自己定義権を阻害しているとして、国連女性差別撤廃委員会などが日本政府に勧告を行ってきている。

 ここで、国連の開発・エンパワメント指標や差別撤廃委員会、はては平等・人権概念そのものがバイアスをはらんでいることを指摘するのも重要だろう。「開発」の考え方は、女性をそこに参加させようとすればするほど、資本の権力が広げ続けている貧富の差を見えなくするし、再婚禁止期間の撤廃も夫婦別姓選択性の確立も、婚姻制度が維持し続けているヘテロセクシズムを問題にすることはない。貧富の差もヘテロセクシズムも、男女差を強調することはあっても軽減することはない、国境を越えた差別のシステムなのに。国家機関レベルの人権概念は、さまざまな少数者の挑戦を受け、人間の差別からの解放へ向かって変化し続けていることも確かなのだろうが、今のところ、資本制やそれを支える人間と労働の再生産自身のあり方を根本的に批判する様子はない、というわけだ。

 この点は、船橋が問題にする、男女共同参画政策が、とくに男女雇用機会均等法を通して女性の参画ではなく「動員」を結果したこと、および、鈴木ふみがグローバルにあぶりだす新自由主義とナショナリズムによる「女性の配置の利用」に、詳しく議論されている。また、鈴木の「リプロダクティブジャスティス」論は、(家父長制に言及しても)ヘテロセクシズムについては明示的に批判していないが、その可能性を備えている。

ジェンダー平等を阻害する「ほかの何か」

 しかし、女性自身が動員・利用されたとしても、女性の平均賃金が男性の45%であることが肯定できるわけではないし、どの男性の子どもであるかを法が認知するために設けられた再婚禁止に納得すべきでもない。これらの事実は、日本社会における女性差別を明らかにしつつ、それが男女差だけに回収されない要因と複雑に絡み合っていることを示している、と見るべきだろう。

 そもそも、「ジェンダー平等」の「ジェンダー」という概念からして、男女差だけを表しているのではない。翻訳語の「ジェンダー」は、性別・性差・性役割・性自認の総称である。と同時に、性交・性行動・性衝動などをふくむ日本語の「性」が、社会的につくられたものだということ――言葉を使う社会的人間がこれを認識し表現するかぎり、どんな「性」もその社会における規範や意味や力関係から逃れることはできず、「自然」ではありえないことを意味しているのだ。

 だから、「ジェンダー平等が日本で進まない」ということは、ほんらい、政治や経済における男女差別がなくならないというだけでなく、性別・性差・性役割・性自認、性交・性行動・性衝動などにおいて「人は二極化されるべき違いを備えている」とする社会意識がなくならない、そして「日本において」それはとくに根強い、ということなのである。特集タイトルとしたそれが「なぜか」は、制度としての政治や経済だけを分析しても把握することができない性質のことなのである。

 つまり、ジェンダー不平等が解消されていない状態とは、おそらく、ほかの不平等も乗り越えられていない状態のこと。したがって、鈴木の言葉を借りれば、「経済分野での成長による『トリックルダウン』を批判するオルタナティブを求める社会運動」ならば、「社会改革が進めば他の課題も改善するはずとして女性の課題や要求を後回しにすることにも、批判を向けなければな」らない。

社会運動は何をしてきたか

 そこでこの特集では、フェミニスト/リブを自称してはばからない、あるいは「人の平等と多様性を同時に保障するために資源を社会的に再分配すべき」と信じる意味で「左翼」といえるかもしれない、編者千田有紀と青山薫それぞれの意向で、まず両方の分野の先達の運動を、建設的に批判・検証することにした。愛と敬意と意地悪と、少しの自省を込めて。千田による田中美津さんへのインタビュー、秋山洋子による「関西リブ連絡会議の初期からのメンバー」北村三津子さん追悼のオマージュ、白川真澄・天野恵一・北野誉による「赤ひも」座談会がその表現だ。ほかではありえない企画。とにかく通読してほしい。1960年代から40年にわたって、フェミニズムやリブやいわゆる社会運動と深くつきあってきたみなさんの証言は、好きなところだけつまみ食いしても全体の味がわからない類の総合的なものだから。

 そこには、男性(あるいは「男性的」文化)中心主義という大きな限界が、社会運動の側がジェンダー平等を進めることを決定的に阻んだ要因としてふくまれている。そして、これに挑んだリブの、肉体的な言葉で語られたゆえの魅力と、それと裏腹の、性差を越え、世代を越え、感覚的な文化・階級格差を越えるための経験の引継ぎが困難であることも。

 これらの経験は、今、ユーモアや皮肉に包まれて提出されているが、楽天的な響きをもっていない。田中は、女性運動が「より社会運動化し」、「ナマナマしくない」「男にとっても受け入れやすい」ものになり、「底辺はグンと広が」ったものの、一人一人が「切実な自分のぐるりから問題を考えていくという道筋は失われていった」と総括する。「赤ひも座談会」を司会した私は、あながち冗談でなく「社会運動自身がジェンダー平等をめざすためには」、「『男性的』リーダーが、年取って、病気になって、弱くなって」、「権力分散型、リーダーシップ分散型をめざすべき」と結ばさせてもらっている――いつになることやら、と嘆息も出る。対抗する相手が広範・強健・強権であり続けるかぎり、こちらが底辺を広げることなく「弱く」なってしまったら向こうの思うツボなのでは、と思わせる二項対立の罠も口を開けている。

フェミニズムは何をしてきたのか

 男性的運動の批判だけしてすめばこんな楽なことはない。しかし、それですむ問題ではもちろんない――では肝心のフェミニズムは何をしてきたのか、考えないわけにはいかない。

 秋山は、江原由美子さんの日本女性学会シンポジウムでの発言、「むこうがこちらの要求を入れるときは、必ずむこうにもメリットがある」、「女性学・フェミニズムの側が、そういう力学に対してナイーブすぎたのが、現在の困難をもたらしたのではなかったか」を引いている。「現在の困難」とは、リブとフェミニズムが女を縛る象徴として批判した「化粧とハイヒール」が、消費社会において多数の女性を魅了する力をもち、男女共同参画社会基本法ができたと思えば激しいバックラッシュが大衆化し、冒頭のとおりいまだジェンダー平等は遠い、という困難である。フェミニズムこそが、田中の言うように、女性運動を体制に受け入れやすくした代わり、一人一人の女が感じる個人的で政治的な問題をすくいあげ、克服する道筋を失ってきた、のだろうか。

 この点にもっとも厳しく迫っているのが、栗田隆子だ。「労働が怖い」、「『キャリア』という言葉がわからない」と言う栗田は警告する。労働を通じた自己実現をしなければ「生きていけない」あつかいを受けること、月10万円に満たない労働に従事させられる女性が多い現状に対する政策が、「キャリア教育」の充実であること、フェミニスト学者たちはそれに追従し、女性に対する暴力や資本の暴力を問題化せずにいることが、「おかしい」と。「だって、自分は『一抜け』できたとしても、その自分が担っていた単純労働を結局は誰かが担わされるのだとしたら、全然社会的には解決されていないのだから」と。

 私自身は、栗田が批判するとくに大沢真理さんの仕事については、まったく違った見解をもっている。が、それにしても、「京大幼稚園」(栗田稿参照のこと!)ヒヨコ組女子の一員として、心穏やかではいられない。

 そこで、やはり「フェミニスト学者」にあたるだろう海妻径子の稿を読む。小倉利丸の『抵抗の主体とその思想』に触発された、穿ったかたちのフェミニズム主体論である海妻稿は、一方で、「女性の問題」を「〈運動〉の新たな地平を切り拓く視座のひとつに数え」る「男性アクティビストや男性研究者」の「敬意」を、過去の伝説化と自らの正当化でしかない、字面だけのもの=現実の、目の前にいる女との連帯への回路を閉じるもの、と批判する。これは、秋山が、樺美智子が亡くなった当時すでに抱いていた樺「聖少女化」に対する苛立ちと重なる。そして、「〈運動〉主体」は、「異なる集団間での連帯の実践を通じてたちあがってくるものとしてはじめて、社会を動かしうる歴史的主体になる」と言う。しかし、他方で海妻も、フェミニズムが「社会を動かす主体」を獲得するためには、多数の女性たちこそが「フェミニズムよりもコンシューマリズムに手ごたえを感じているように思える」(栗田の問題意識からすれば、「一抜け」たい女ばかりを増やしてしまった)現状の困難を変えていく課題を認識している。

 このような両義的な認識が、この40年のフェミニズムの成果だ、と私は考える。秋山が「リブとどこかでつながっている」とする、栗田など若い世代の女性の運動も、千田が田中インタビューでしつこく追及する、「美しすぎ」ず「欺瞞」的でない、「被害と加害の重層性」を問うような社会運動の方法論と実践も、この辺りにつながっていると思う。そして、そこにこれからの、ジェンダー平等だけでない平等をめざすフェミニズムの可能性がある、と思う。

「周辺」からの苦言・提言に乗って

 「周辺」は、不遜に映るかもしれないが意識的に選択した表現だ。右の両義性・重層性にフェミニズムがたどり着くには、女性運動の主体あるいはフェミニスト自身が、ジェンダー不平等によって「周辺」に置かれた者、摘発する権利を行使する者であることから、課題によっては逆の、「中心」に在る、摘発される者にも変わりうることに、性差別は複合差別の一部であることに、気づく過程が必要だった。それは、障がい者から、在日の人びとから、セクシュアルマイノリティから、そして「貧困女性」からの直接的な挑戦があってはじめて可能であった(栗田は「まだ気づいてないだろ、おまえ!」と怒るかもしれないが)。

 その「中心」と「周辺」とが交錯し、逆転することを小難しい理屈抜きに把握する方法として考えたのが、この特集のアンケートだ。編者二人が勝手に「これ」と思った先輩・友人・知人・そのまた知人に参加をお願いした、「フェミニズムの困難兼ジェンダー不平等がなくならないわけ日常感覚展覧会」である。多くの回答者が、リブだけでなくフェミニズムからも、パン以外の生きる糧を得てきたことがわかる。「男のエゴ」や「メンツ」にあたるものがジェンダー平等を妨げているという複数の回答にも、納得と拍子抜けの苦笑が広がる。一方、男性中心の組織、運動だけでなく、女性運動、セクシュアルマイノリティ運動のなかでも、「厄介者」あつかいされた経験の吐露がある。胸が痛いことも、反論したいことも、両方描かれている。前書きに書いたとおり、「多様な・多元的なフェミニズム」の一端を、具体的に、お楽しみいただけるのではないだろうか。

 さて、最後にすべてを「周辺」の代表者にお任せするのはフェアでないかも知れないが、やはり具体的な希望をこの二本にこめたい。

 小金井市議の漢人明子は、非婚で出産しシングルマザーでもある自身の立場から、男性稼ぎ手と扶養される妻子で構成される「『モデル世帯』から外れると貧困まっしぐらという日本の世帯単位の諸制度」を批判する。批判するばかりでなく「シングル単位」の社会保障で「個人に属する生存権」を護り、そして実体化する政策が、多様な生を認めるだけでなく「可能にする」制度をつくる、と展開する。レズビアンを公言して政治活動をしてきた尾辻かな子は、「世帯単位から個人単位」へ移行してすべてが平等になるという考えについて、現在制度的な差別を受けている者には現実的に有効でない点があるとして保留。同性間「パートナーシップ」などの保障が必要なことをあえて強調する。そのことで、そもそも二律背反しない世帯単位と個人単位のメリットの両方を、すべての人が適切に享受することに結びつく「少数者の権利」を主張している。

 漢人と尾辻の提言が実現すれば、私はおもいっきりの受益者になる。そのことをさておく必要もないが、異なる者を異なる者として認め、かつ、「周辺」に置かれた者の側へ連帯しようとすることで変化に対して開かれる、そのような制度を求めたい。運動と女性自身をふくむこの社会の多勢を占める男性中心ヘテロセクシズムと、フェミニズムがまだ資本や「開発」を上回って人をつなぐ実践になっていないことが、ジェンダー平等を阻んでいる――という自覚をもったフェミニズムの可能性を経て。

 そんなに簡単にはいかないって、わかっているけれど。

(あおやま かおる/特集編集責任者)

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