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 国際連帯運動の歴史をテーマとした「『私』と戦後日本の社会運動第蕎蓮廚琉豌麑椶蕨察伺代後半〜七〇年代が対象。話し手は加地永都子さんと武藤一羊さん。武藤さんは、六〇年代のベ平連の動きを中心に、それ以前のおもに政党を中心とした国際連帯とは違う、個々の人がつながり合う国際連帯の回路が拓かれてきた話をした。ハワード・ジンなどが日本に持ち込んだ「民主主義を掲げながらベトナム戦争をしている米国」批判は、「『民主主義』はいいものだ、と思っていた僕らには仰天する話だった」、と武藤さん。七〇年代には、日本企業のアジア進出問題などを通じてアジアとの関係についても意識が生まれてきたという。英文『AMPO』については、海外で流される日本の運動のニュースにおける「主体」の歪みを正しく伝えるオルタナティブなチャンネルづくりが主眼にあったようだ。六〇年代の米国留学で公民権運動、人種闘争、ベトナム反戦、そしてリブに出会った加地さんは、帰国後、ベ平連の活動に参加。いつも「縁の下の力持ち」だったと(謙遜も含めて)話す彼女が紹介してくれた、米国のリブ活動家がベ平連事務所のそこらじゅうに「お前らは男性優越主義者」と書かれた紙を貼り付けたというエピソードは、当時の社会運動の一端への批判的分析を喚起し、興味深かった。
 一九八〇年代を対象とした第二回で話をしてくれた大橋成子さんは、話題といえば合コン・結婚・就職という学生生活に鬱々としていた頃、タイで開かれた学生会議に参加し、民主的スペースが急速に広がっていた七〇年半ばのタイで、同じ年の学生が政治や国家を語る姿を目の当たりにする。日本で社会運動といえばウチゲバといった暗い話しか聞いていなかった彼女がアジアで社会運動に出会っていること、また、アジアとの出会いも「貧しくて助けが必要なアジア」ではなかったことは興味深い。今はフィリピンのネグロス島を足場にする成子さんは、八九年のPP21を振り返りながら今日に目を向け、かつてのように「南の人たち」と「北の私たち」で切れないような問いがたくさんでてきているなかで、民衆の間で交わされる言葉のなかから新たな思想や価値観が生まれてくればいいと思っている、と話した。
 一九九〇年から現在までの運動について話をしてくれた村井敬吉さん(第三回)は、まず、自身とインドネシアとの関わりを振り返り、アジア地域を「研究対象」とする日本の研究者たちに見られる市民意識の欠如を指摘した。自身も長く関わったアジア太平洋資料センター(PARC)がスリランカのプロジェクトで「日の丸つきシールと帽子」を配布したことについては、この出来事以前にPARCが果たした役割については評価をしながら、また、PARC内部での政府資金をめぐる議論や自衛隊によるものとは異なる支援を提示する必要性をめぐる議論、PARCの財政との苦闘の歴史などを紹介しながらも、「財政によって思想が転ぶ」という言い方の評価を示した。細川・村山政権あたりが、NGOや社会団体が「お金で転ぶ」時代の始まりだったのではないかと思っており、もっと大きなところで問題を見ていく必要もあるのではないかと考えている、とも話した。
 私はつねに、「国際連帯」という言葉をどう理解すべきか苦しむ。成子さんはPARCを辞めたときの心境を「国際連帯とか媒介者という言い方をしながら私自身はどこに足場をもっているのか、と感じた」と話したが、私も似たような心境だ。「私」を切り口にした講座のあとは、少しこのあたりも議論したいものだ。
(笠原 光)
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