山尾志桜里の「立憲的改憲論」のどこが問題か


                         2018年6月23日   白川真澄


 


 山尾志桜里の「立憲的改憲論」は、憲法9条に個別的自衛権への限定を明記して歯止めにしようという「新9条論」の1つであり、目新しい議論がされているわけではない。ただし、山尾は立憲民主党の憲法議論をリードする立場にいて、枝野代表も「ほぼ憲法論は、山尾さんが言うことと私の言うことは、一緒だ。私は立憲的改憲論だ」(5月3日、朝日新聞6月4日)と明言している。政治的には見過ごすことができない議論である。


〈引用文献〉


 〇拡「立憲的憲法改正のスタートラインとは」(WEBRONZA、17年12月26日)


∋拡「自衛権に歯止めをかける改憲を」(日経ビジネスオンライン、17年11月22日)


 N憲民主党「憲法に関する当面の考え方」(17年12月7日)


 


機〇拡の基本的立場


1 「立憲的(立憲主義的)改憲という立場/国家権力を統制・制限する方向への改憲を積極的に進める。


*「権力者による権力拡大方向の改憲には断固反対だが、国民の側から国家権力を統制する方向の改憲、すなわち立憲的改憲議論は積極的にすべきだ」( 法


*「不幸は、権力を拡大する『改憲』提案しかほとんど経験しておらず、権力者をしばる本来の『改憲』提案がされてこなかったことにある」( 


*「憲法改正を通じて、国民の意思により、国家権力に対する統制力を高めることは可能である」( 


*「私の考える憲法議論は、立憲主義を貫徹し、その価値を強化する『立憲的改憲論』です」(◆法


→ 立憲民主党は「立憲的改憲論」とまでは明言せず、「『立憲的憲法論議』を基本スタンスとする」としている。「日本国憲法を一切改定しないという立場は採らない。立憲主義に基づき権力を制約し、国民の権利拡大に寄与するとの観点から、憲法に限らず関連法も含め、国民にとって真に必要な改定があるならば、積極的に議論、検討する」()。


2 「個別的自衛権の行使への限定」を9条に追加・明記する。


*「憲法9条の2、あるいは憲法9条3項を新設し、自衛権の範囲を限定する条項とする。具体的には、『旧3要件』をも書き込んで、『この要件下での個別的自衛権の行使に限る』と自衛権の範囲を明文化して歯止めにする」( 法


*「大切なのは、憲法に『自衛隊』の3文字を明記することではなく、国民意思で『自衛権』に歯止めをかけることです。……武力行使の旧3要件に基づいて、自衛権の範囲を個別的自衛権に制限することを、憲法上明記すべきだ」(◆法


 


供,覆次⇔憲主義的改憲が必要なのか


1 現行憲法の規範力(国家権力を縛る力)が失われてしまっている、という認識。


*「憲法9条は安保法制を阻止できなかった」( 法


*「立てるべき問いは、『現代において、現行憲法は、国家の権力を統制し、国民の権利を保障するという役割を十分に果たしているか』ということである。この役割を果たしていれば変える必要はないし、果たしていなければ変える必要がある。……。〃法9条があるにもかかわらず、集団的自衛権の一部を認める安保法制が成立した。」( 


→ 山尾は、これ以外に大義なき解散の頻発、臨時国会開催招集要求の無視、LGBT   の権利保障が不十分、国家が保有する情報へのアクセスが十分に保障されていない、共謀罪の成立といった現象を挙げて、憲法がその役割を果たしていないと言う。


2 現行憲法は「規律密度」が低い/書かれていないこと(行間)が多く、政府による恣意的な解釈を許す余地がある。


*「そもそも、上記のような現象にいたる原因の共通項はなにか。ひとつ目は、日本国憲法の『規律密度』が相対的に低いため、その行間を埋めてきた憲法解釈を尊重せずに、むしろ行間を逆手にとってその解釈を恣意的に歪曲するタイプの政権に対して、その統制力が弱いことである。ふたつ目は、そのような政権の恣意的憲法解釈を正す現実的手段を予定しないことである」( 法


*「日本は自衛権を、憲法に明文化されていない様々な解釈・不文律・規範を通じて統制してきました。私たちは、そのスキを安倍政権に突かれてしまった」(◆法山尾は、自衛権をコントロールしてきた要素として、専守防衛に徹し集団的自衛権は行使できないという解釈、内閣法制局の人事への政府への不干渉という不文律などを挙げている。


 → 「[安倍政権の]一連の動きによって、明文化されていない歯止め、統制の手段は外されてしまった」(◆法


 


掘 嵶憲的改憲」とは、どのようなことか


1 憲法の規範力(国家権力を制約する力)、すなわち自衛権に対する統制力を回復するために、明文化されていない歯止めや統制の手段を憲法に明文化する必要がある。


*「前者[規律密度の相対的な低さ]に対しては、日本国憲法の規律密度を高める、すなわち行間を埋めてきた適切な解釈を明文化することなどによって、恣意性の余地を極力減らすことで対応すべきだ」( 法


*「こうした事態[歯止めや統制の手段が外されること]を避けるため、自衛権とそれを統制する手段を明文化する必要があります。そのために憲法を改正する必要がある」(◆法


*「自衛権は今、透明人間のような存在で実態がない。これに実態を与え明文化することでコントロールが可能になる」(◆法


2 9条に個別的自衛権の行使への限定を明記することから始まり、自衛権の国会によるコントロール、財政によるコントロール、司法によるコントロールも条文化する


*「個別的自衛権に限って行使できることを明記し、それを実行する限定的な『戦力』として自衛隊を認める」(◆法


*「自衛権を統制する手法は、その範囲を歯止めとするにとどまらず、国会・内閣・司法、さらには財政面からなどのコントロール、も検討すべきであり、9条のみならず憲法全体を見通した深い議論が必須となる」( 法


*「コントロールすべきは『自衛隊』ではなく『自衛権』だ……。そのための改正は9条にとどまりません。例えば、国会が自衛権をコントロールするための条文が必要になるでしょう。同様に、司法によるコントロール、財政によるコントロールを定める規定、憲法裁判所を設置する規定が考えられます」(◆法


 → 「自衛権の行使にあたっては、まず国会による事前の承認を義務づける」ことを、(自衛隊法のレベルから)憲法に明記する。憲法裁判所が安保法制のような法案を違憲として判断する。「予算の審議を通じて財政面からも実質的に軍をコントロールする」ドイツの事例を研究する(◆法△箸い辰燭海箸提案されている。


 


検“稟宗複院法宗宗嵶憲的改憲」で安保法制をなくせるという錯誤


1 山尾の議論の要点は、「立憲的改憲」(「個別的自衛権の行使への限定」を9条に明文化する)によって、憲法の規範力(国家権力を縛る規範としての力)が回復し、安保法制(集団的自衛権行使の法制化や行政措置)をなくせる、というものである。


2 「立憲的改憲」をしなくても、安保法制はなくせる


 *日米安保体制(日米の軍事的一体化)の正当性や必要性を疑う意識や声が再び高まり、民衆運動の力が強まって政治的力関係(国会を含む)が変わるならば、安保法制をなくす(廃案にする)ことができる。


  ※米朝首脳会談を転機とする東アジアの政治情勢の大転換が始まっている(1950年の朝鮮戦争開始以来の米朝の敵対関係の終結、朝鮮半島の非核化への交渉、米韓合同軍事演習の中止)。在韓米軍の縮小・撤退の可能性、在日米軍の駐留や基地の見直し、日米安保それ自体を問いなおす声の高まりは不可避。


*安保法制をなくす正当性の根拠となる規範は、現行憲法で十分である/2015年の運動のなかで安保法制の違憲性は明証された。


3 「立憲的改憲」を実現すれば、安保法制は違憲立法として存立できなくなる、いう論理は幻想


 *現行憲法9条の自衛権に関する規範力は、法的文言としてはひじょうに強い/素直に読めば、自衛権の行使はいっさい禁じられている(とくに2項の交戦権の禁止によって)。これは憲法学の圧倒的多数説。


*個別的自衛権は憲法で認められているという1972年政府見解(「憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、……集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」)は、憲法学では例外・少数の見解であり、自衛隊の存在を正当化するための政府による強引な解釈である。


*安倍政権が9条を平然と無視して安保法制を作ったのは、憲法の規定に弱点があった(山尾の言う「憲法9条は安保法制を阻止できなかった」、「日本国憲法の『規律密度』が相対的に低い」)からではない。安倍政権は、憲法の規定のいかんにかかわらず、憲法というルールに従って政治を行うという立憲主義そのものを蹂躙する政権である。


*したがって、仮に個別的自衛権への限定を9条に明記しても、それに従って安倍政権が安保法制の違憲性を認めて廃案にすることは、ありえない。


 → 山尾は、憲法の法的文言の変更で現実が変わるという幻想に囚われている


ただし、山尾は、自民党に対して「9条に……『集団的自衛権を行使できる自衛隊』と記」すことを求め、自らの「個別的自衛権の行使への限定」案との間で論争を行なえば、「安全保障法制についての議論もよみがえる」(◆砲抜待している。


*立憲主義(憲法というルールに従う政治)それ自体を破壊する政治を変えるためには、そういう政権を倒す以外に方法はない。憲法をあからさまに無視する政権は長続きできない、という政治的真理(教訓)を政治エリートに「学習」させる必要がある。


4 現行憲法の規範力は、それなりに生きている


 *山尾を含めて「新9条論」は、憲法9条の規範力がまったく失われている、という現状認識から出発している。例えば「9条は集団的自衛権行使の歯止めになれず、したがって自衛隊をコントロールすることができず、いわば亡骸同然になった」(想田和宏「『新9条』を創る」、『社会運動』17年1月)。「既に瀕死状態の9条を生き返らせることは難しい」(今井 一「国民投票は9条を蘇らせる」、同)


  → そこから、「新9条」を創ろうという議論にいきなり飛躍する。


 *9条の規範力は、日本の民衆の政治意識・歴史意識として蓄積され繰り返し発現してきた平和主義を基盤にして、政権や自衛隊を縛る力として生きてきた。例えば、集団的自衛権行使を限定的なものにとどめざるをえないこと、安倍改憲案が9条2項を否定せず3項を追加するという姿になっていること。


 *9条の規範力とは、すぐれて政治的な力なのである/条文の文言の厳格さだけでではなく、それを受け入れている民衆の意識や理解、民衆運動の力、政権の権力の強さ、国際的な環境といった要素から成る政治的力関係や攻防によって規定される


 


后“稟宗2)――個別的自衛権の行使容認を憲法の原理にしてはならない


1 山尾をふくめて「新9条論」の最大の問題は、個別的自衛権の行使容認を憲法の原理にまで高めようとしていることにある。


*「憲法典には、揺るがせにできない原理原則を書き込む。……。行使できる自衛権を個別的自衛権に限定することは、私は原理原則として憲法典に書き込むべき」(山尾◆法


*「9条は、平和主義の理念に基づき、個別的自衛権の行使を容認する一方、日本が攻撃されていない場合の集団的自衛権行使は認めていない」、「専守防衛を旨とした平和主義という日本国憲法の基本原理」(立憲民主党)。


2 集団的自衛権の行使を合憲とする安倍政権に対して、1972年政府見解を論拠の1つにして対抗することは、政治的(多数派を形成する)には有効である。しかし、これをいつの間にか憲法の原理にまで祭り上げることは、本末転倒である。


3 個別的自衛権の行使の容認(政府見解)を憲法の原理として明文化すべきという主張の最大の論拠は、集団的自衛権行使には反対するが自衛隊や自衛権の存在を認める人が多数派である、という現状に尽きる。


 *「戦後70年間を通じて、専守防衛に徹し、集団的自衛権は行使できないという憲法9条の解釈を国家も国民も共有していました」(山尾◆法


 *「徹底した非暴力・非武装を貫く覚悟のある人は、残念ながら極めて少数派だと思う……。『新9条』を創るなら、日本の主権者の過半数が納得し、賛成できるような内容にするべきだ」(想田、前掲)。


 → 今井 一は、「新9条」提案は「立憲主義と国民主権を取り戻すための具体的な行動の1つ」(
前掲
)と位置づけている。しかし、国民的多数派の意見に従って「個別的自衛権の行使への限定」を9条に明記することは、国民主権を取り返すことになっても、立憲主義の甦生にはならない。立憲主義は、その時々の国民的多数派の意見や判断によって左右されてはならない普遍的な原理を定め貫くからである。


4 「個別的自衛権」という規定ほど、恣意的な解釈を許す融通無碍な概念はない。また、個人の権利から類推して国家に固有の権利(自然権)と見なした一種の擬制である。


*「個別的自衛権」の行使の範囲は、融通無碍である。敵対国のミサイル基地を先制攻撃することも、「個別的自衛権」の行使に入る。米国によるタリバン政権への軍事行動も、自衛権の行使という名目で行われた。自国の安全や存立に脅威を及ぼす事態と認定すれば、自衛権の名の下にいかなる軍事行動も許容される。


*自衛権は主権国家の固有の権利である、と当然のように語られる。しかし、国家の自衛権は、個人の権利(生存を守るための正当防衛権)を国家の擬人化によって国家の自然権に横すべりさせたフィクションである。


 *山尾たち「新9条論」は、個別的自衛権を自明視し、自衛権という考え方自体を原理レベルから、また現在の国際情勢の流動化の只中で批判的に検討する発想が欠けている