「低成長」と経済成長至上主義

白川真澄

(2017年2月5日)


1 原 真人の「『経済成長』永遠なのか」という問いかけ
 脱・経済成長主義をめぐる面白い論争が起こっている。

 火を切ったのは、原 真人(朝日新聞編集委員)の「『経済成長』永遠なのか」と題した文章(「朝日新聞」17年1月4日)であった。原は、「この25年間の名目成長率はほぼゼロ」だが、「ゼロ成長はそれほど『悪』なのか」と問い、「成長の鈍化はむしろ経済活動の『正常化』を意味しているのかもしれない。少なくとも成長は『永遠』だと思わないほうがいい」と結んでいる。その通りである。

 原は、「失われた20年と言われたその間も、私たちの豊かさへの歩みが止まっていたわけではない」という事例を具体的に挙げて、「国内総生産(GDP)というモノサシで測ったとたんに」「見えなくなってしまう豊かさの向上を考慮せず、『どんな政策手段を使ってでもとにかくGDPを膨らませよ』というアベノミクス」に批判の鉾先を向けている。すなわち、GDPが毎年増え続けるという意味での経済成長(これが正確な定義だが)を至上目標とする考え方に強く異を唱えている。

 原は、ゼロ成長あるいは低成長が常態になる時代に入ったことを、いろいろな面から指摘している。例えば、1人当たりGDPが急速に伸びるようになり、成長が追い求められるようになったのは、1820年以降の200年間のことにすぎない。ローマクラブの『成長の限界』は「経済成長を謳歌する人類への警告だった」が、「いつしかその問題意識は薄れ、成長信仰だけがひとり歩きしはじめた」。だが、「リーマン・ショックでマイナス成長に陥った先進諸国は、危機から回復した後も以前のような成長軌道に戻れていない」。
 
 「『低成長を受け入れる成熟こそ、いまの私たちに求められているのではないでしょうか』。成長の意義も認めてきた猪木(武徳)氏が最近そう考えるのは、成長そのものの役割が[格差の縮小から拡大へと]変質してきたからだ」。「あらゆる経済理論が成長の持続を前提に組み立てられるようになった」が、「現実社会に変化の兆しが出てきた。例えば最近広がりつつある、買わずにモノを共有するシェアリングエコノミー」。「四半世紀にわたるゼロ成長期を過ごした日本人の意識に変化もうかがえる。……。石寺修三所長(博報堂生活総合研究所)は『人びとの意識が定常社会を前向きに受け止めつつある変化がはっきり示されている。いわば『常温』を楽しむ社会です』と語る」。

2 小峰隆夫による批判と「経済成長」の2つの意味
 私たちからすれば当然というべき原の問題提起に噛みついたのは、小峰隆夫(法政大学、日本経済論)である。

 小峰は、『日本経済論の罪と罰』(2013年、日経プレミアシリーズ)のなかで「脱経済成長論を疑え――許されない現実逃避」と、早くから「脱成長」論を批判していた。すなわち、経済成長こそが所得の増大、雇用機会の増大、社会的摩擦の減少、税収の増大といった「いいことずくめ」をもたらす。「低い成長によって日本はおおいに苦しんでいるわけだから、近年の状況は『脱成長をしたらどんなひどいことになるか』という見本を提供している」、「『脱成長』どころか、再び『成長至上主義』に戻れと言いたい」と。

 小峰は、「『低成長容認論』は正しいか」というコラム(『週刊東洋経済』17年1月21日号)で、原の見解を「低成長容認論」だと批判している。40年前から「『経済成長は必要ない(できない)』という議論が繰り返されてきたが、もし、それぞれの時代でこうした考え方を受け入れ、その後の成長をあきらめていたら、われわれの生活は現在よりもずっと悲惨なものになっていたはずだ」と。ここまでの主張は、持論の繰り返しである。

 その上で、小峰は、「経済成長には『狭い意味の成長』と『広い意味の成長』とがある」という議論を展開している。「狭い意味の成長とはGDPが拡大することだ」が、「しかし、GDPという指標には限界がある」。「経済学者が求めているのは、広い意味の成長」であり、「資源がより効率的に使用され国民生活がより豊かになれば、経済は成長したことになる。これが広い意味の成長だ」。「それは『成長』というより『前進』といったほうがいいのかもしれない」。

 続けて言う。「低成長容認論は、こうした意味での前進を否定している。だから、私は支持できないのだ」。「働く人が能力を十分に発揮できているとはいえないし、所得がもっと増えてしかるべき人々も多い。また、技術革新によるさらなる効率化の可能性は大きいし、医療・介護など充実させてほしいサービスも多い。成長は限界だなどとんでもない話で、成長の余地にあふれている」。

 そして、「経済成長を追求するということは、経済規模をとにかく大きくしようということではなく、われわれが直面している経済的諸問題をできるだけ解決し、国民の福祉のレベルを少しでも高めようとすることである」と明言する。

 このように、小峰は経済成長を、GDPの持続的増大という本来の意味(「狭い意味の成長」)ではなく、「資源がより効率的に使用され国民生活がより豊かにな」るという意味に再定義している。つまり「広い意味の成長」論を強調し、「経済規模をとにかく大きくしようという」という発想、ひたすらGDPの拡大を追求する発想に否定的である。経済成長至上主義とは、経済規模の拡大=GDPの増大を最優先する考え方にほかならない。だから、小峰は、経済成長至上主義から脱け出していると言える。これは、歓迎すべきことだ。

 ところが、小峰は最後に、「こう考えてくると、依然としてわれわれは『成長至上主義』を掲げ続けるべきだ」と結んでいる。

3 経済成長至上主義と「豊かさ」の増大とは別のこと
 しかし、一方で経済成長至上主義(経済規模の拡大=GDPの増大を至上目的にする)を否定しながら、他方で「成長至上主義」を掲げ続けよと言うのでは、論理的に矛盾していて、読み手をひどく混乱させる。「資源がより効率的に使用され国民生活がより豊かにな」るのは、経済成長とは明確に区別されて「豊かさ」の増大と言うべきだろう。豊かさの増大は、GDPの拡大として現れることもあれば、そうでない場合もあるからだ。小峰自身もこのことに気づいているから、「『成長』というよりも『前進』といったほうがいいのかもしれない」とさえ述べているのである。

 原は、小峰の批判に対して「低成長論争 いま問われていること」(朝日新聞1月31日「波聞風問」)で、次のように応答している。「私は積極的に低成長を奨励しているわけでも……ない」。「批判論者の中にはこの記事を『成長否定論』と決めつける向きもあるが誤りだ。経済成長の効用は私も知っている。税収が増え、社会保障の未来が描きやすくなる。企業収益が増えて給料が上がるかもしれない。成長はあらゆるものを癒す」。

 ここで「経済成長の効用」論を原が持ち出したことには首をかしげてしまう。「経済成長の効用」が発揮された時代は終わり、成長はむしろ巨大格差を生み落してきた。「成長はあらゆるものを癒す」というのは、神話・幻想にすぎなくなっているからだ。

 もちろん、原の力点は、「経済成長の効用」を認め「高成長を望んだとしても、現実にはなかなか難しくなってきた」という現状認識のほうにある。急激な人口減少社会のもとでゼロ成長あるいは低成長(1%成長)は、避けられない。望むと望まざるとにかかわりなく、「脱成長」は所与の条件あるいは前提として受け入れざるをえないのである。「そこで『とにかく成長を』と無理な政策に走れば、かえって経済にゆがみが生じかねない」。この指摘は、まったく正しい。

 原はジャーナリストらしく、批判者の小峰を訪ねて議論し、小峰が「私も名目GDP600兆円目標には意味がないと考えている。豊かさを広げる努力をしていく結果、広い意味でGDPが大きくなればいい」と確言したことを紹介している(豊かさを追求する活動が結果としてGDPを増やしても、これを否定する必要はないと私も考える)。そして「大事なのは成長率ではなく豊かさが増すことだという点で、私は小峰さんの考えにそれほど違いはないと感じた」と述べている。

 たしかに、GDPの増大(2020年に600兆円の実現)を追い求めるアベノミクスの発想を否定し、「豊かさを広げる努力」をめざそうとすれば、それは経済成長至上主義からの脱却である。だとすれば、小峰は「成長至上主義」を掲げ続けることをやめるべきだろう。

 小峰が「『低成長容認論』は正しいか」のなかで最後に「成長至上主義」に固執したことについて、「フィナンシャルポインター」編集部が「経済学者の禅問答」と題するコラム(17年1月16日)で、次のように皮肉っている。「資源がより効率的に使用され国民生活がより豊かになれば、経済は成長したことになる」という考えは、「普通《経済成長》とは言わない。小峰教授は、いわば《修正成長主義》ともいうべきであ」る、と。

4 経済成長なき時代の豊かさ
 経済成長至上主義は、経済成長(GDPの持続的な増大)なしには、雇用の拡大も所得の向上も、また税収増による社会保障の拡充もありえない、と考える。この考え方は、小峰が『日本経済論の罪と罰』のなかで明快に論じているものだ。小峰は、GDP増大=経済成長至上主義から「豊かさ」重視の発想にシフトしているが、経済成長なしには雇用・所得・社会保障の向上はないという発想からも脱け出しているのだろうか。私には、そうは思えない。この問題を簡単に検討してみよう。

 たしかに、非正規雇用で働く人びとに代表されるように「所得がもっと増えてしかるべき人々も多い」(小峰「『低成長容認論』は正しいか」)。非正規労働者の賃金は、正規労働者とのひどい格差をなくし生活できるだけの水準にまで引き上げられなければならない。だが、そのことは、必ずしも経済成長がなくても可能である。ここ数年、日本経済は低成長(12〜15年度でGDP実質成長率は年平均0.7%)に足踏みしてきたにもかかわらず、企業の利益は大幅に伸びて、内部留保が巨額に膨らんだ。企業の利益を少しだけ減らして、非正規労働者の大幅な賃上げに回せばよいのである。ゼロ成長あるいは1%成長であっても、企業が利益を上げられないわけではない。労使間で公正な分配をすれば、労働者の所得も向上する。面白いことに、経済成長を困難にする生産年齢人口の急減(2014年の4074万人から30年には3544〜3783万人)は、逆に労働力不足による雇用の改善と賃金の上昇を招くのである。
 
 「資源がより効率的に使用され」る(同上)という点では、豊かな地域資源を活用したエネルギーと食の地域自給をもっと進めることができる。また、急増している空き家や空き室を共同で利用したり、クルマのシェアリングを普及させることは、資源の効率的な利用に貢献する(GDPを増大させたければ、高層ビルを新しく建てたり新車を購入するほうが貢献度は大きくなるが)。

 「医療・介護など充実させてほしいサービス」(同上)は、これからの中心的な産業分野になる。人手をかけた丁寧なコミュニケーションは、ケアを豊かにする。同時に、AI導入や優れたモノづくり技術の応用による介護器具の開発は、介護労働の過重さを軽減する。あるいは、販売や飲食店などの対人サービスの仕事でも、マニュアルの型を越え時間をかけた対話を取り戻し、人間関係を豊かにする。こうした対人サービスの豊富化は、必ずしもGDPの増大につながらないとしても、人間の生を豊かにする。

 経済成長主義からの脱却とは、経済成長なしには雇用拡大や所得向上もケアやサービスの充実もない、という固定観念から脱け出すことだ。いいかえると、経済成長を前提にしないで、労働や生活や社会保障を充実させ豊かさを手に入れる仕組みを探求する。つまり、ゼロ成長や低成長を想定して、雇用の質の改善や仕事の創出、生活できるだけの所得保障、エネルギーや食の確保、医療・介護・子育てのサービスの拡充をどのようにして実現するのかをデザインすることである。

 その点で、原は、大事なことを指摘している。「今の政権の方が成長率引き上げにこだわり続けることで、低成長時代に必要な社会制度の再設計から目をそむけ、逃げている」(「いま問われているのは」)と。

 小峰がこの問いかけにどう応えるのか、注目したい。

以上