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試論 戦後国家解体プロセスでの「象徴権力」の露出――安倍政権下の平成天皇制と「お気持」の位相

武藤一羊

(二〇一七年二月五日記)

第二部 平成天皇制と安倍政権―憲法をめぐるダイナミズム

 第一部で私は、明仁夫妻は護憲派である、と述べ、そして「これはまぎらわしい状況だ。天皇と手を組んで憲法をまもるべきなのか」と疑問を投げ、第二部でそれに答える議論を通じて、天皇と私たちの関係をいかほどか整理しようと意図していた。それは、天皇夫妻の過去数年の安倍改憲政治への批判的言動を通じて、少なからぬ安倍政権批判者、反改憲論者、とくに影響力ある知識人が、天皇に信頼を寄せ、天皇が頼りになる味方とみなす心境にあると見受けられたからである。しかし「お気持ち」表明後、安倍は即座に反応し、宮内庁長官を更迭し、腹心の部下を次長に送り込むという異例の人事異動を行って天皇の動きを封じた。以後天皇は、憲法がらみの発言はせず、2016年83歳の誕生日の記者会見はこの年の活動報告を延々と述べるにとどめ、2017年の年頭には恒例の新年の言葉も取り止めた。両者の暗闘は水面下に移ったのである。このなかで天皇を護憲の同盟者とみなすことは、難しくなったと、明仁支持者たちは感じているのではなかろうか。

 しかし護憲派天皇を頼りに改憲極右政権と対峙するという文脈は消えないであろう。過去にさかのぼれば1936年右翼青年将校は腐敗した元老・重臣・閣僚を殺し、財閥政府を倒し、天皇親政を実現しようクーデターを試みて失敗した。(226事件)彼らは天皇の支持を当てにして決起したが、その天皇が彼らを逆族とみなし、容赦なく彼らを鎮圧した。当時と今では状況はまるきり違う。今日の天皇は当時のような絶対権力を握る君主でなく、象徴天皇である。右と左も入れ替わっている。しかし、政治権力への対抗を象徴権力を押し立てて試みようとする点では共通している。そこには旧天皇制と戦後天皇制を貫いて働く何かがあるに違いない。だがその吟味はしばらく後まわしにして、平成天皇制に即して、政治権力との関係を見てみよう。

政治権力への依存と「条件闘争」

 第一部で見たように象徴権力は政治権力から分離して自分の足で立つことはできないという自明な事実がある。天皇の行動すべてが内閣の助言と承認によると憲法は定めている。権力の性格としてはそれは政治権力から相対的に自立しているが、権力の実体としては政治権力に完全に寄生している。天皇一家と皇族は、生活費のほか、その活動の一切を国家予算に依存して生活し活動している。ちなみに天皇の生活の中核部分には宮中祭祀と呼ばれる明々白々の神道儀礼が据えられているが、これも国家予算でまかなわれる。天皇の宗教活動は、皇室の私的経費をまかなうための「内廷費」という支出項目に含まれている。こうして天皇の祭祀は私的行為とみなされているらしい。しかし、この宗教活動は、天皇の天皇としての宗教活動ではないのか。それがどうして私的な行為でありえようか。なぜそれが国と国の機関の宗教活動を禁じる憲法20条に違反しないのか、法律にうとい私にはとうてい理解できない。だがそれは脇においておいて先へ進もう。

 天皇の象徴権力は政治権力に完全に寄生しているので、通常は、象徴権力は政治権力に溶け込み、独自の権力として可視化されにくい仕組みになっている。それが見えてくるのは、ある特殊な条件のもとで、象徴権力と政治権力の間に隙間が生じるときである。安倍政権の成立後に起こっているのはそのような事態であると私は見る。

 とはいえ構造的依存は絶対的であるので、象徴権力が護憲の立場で、改憲に突っ走る政治権力に対立するとしても、それが条件闘争にしかならないことは明らかであろう。象徴権力が用いることのできるのはその象徴力の動員しかない。すなわち基盤である「主権の存する国民」に呼びかけること、そして政治権力側にこの呼びかけに呼応するなにがしかの(望むらくは有力な)政治潮流の発生を誘発することであろう。明仁天皇が今回試みたのはこれであった。

 これは特殊な政治闘争である。一方において天皇は政治に関与してはならぬという憲法の制約下に置かれている。他方政権の方は、その立場からして、天皇への尊敬を欠いた言動や公然たる批判は禁じ手にせざるをえない。闘争は隠微な水面下の駆け引きで進行する。

 明仁は、自己主張を搦め手から、すなわち生前退位という暗号によって試みたのにたいして、安倍政権はすばやくそこをとらえて、問題を老齢天皇の「負担軽減」という矮小な文脈に引き込んだ。皇室典範には手を触れずに、いわば「明仁対策」として、明仁にだけ有効な特例立法で対処するという方針をとった。経団連名誉会長を座長として政府が設けた「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」は、「現在の公務を分類・整理し、一定の基準に基づいた縮小を提言する必要がある」として、「退位の是非と公務縮小の双方について、論点整理や提言」を行うことを決めたと報じられた。(2016・11・5「朝日新聞」)安倍推薦の札付き右翼知識人を含む有識者によって構成されたこの会議は以来、20人ほどの知識人や右翼イデオローグを招いて数回のヒアリングをおこなった。生前退位についても、特例法方式についても賛否両論があり、右翼からの論者には生前退位への反対論が多かった。この会議は皇室問題に一家言ある人々の「ガス抜き」の場として機能させられたと見てよいだろう。

 安倍政権側の対応は有識者会議などとは無関係に進んでいた。有識者会議がまだ進行中の1月11日、主要各紙は、政府が2018年12月31日か2019年元旦に退位、即位を行い、同実から新元号を適用することを検討中という記事を一斉にトップで報じた。「新元号、3029年元日から 退位は前年大みそかを想定」(『朝日』)、「皇位継承、19年元旦に 新元号 政府が検討着手」(『日経』)、「19年元旦に新元号 政府、天皇退位議論と合わせ検討」(『東京』)明らかに安倍政権が観測気球としてリークした情報であった。有識者会議は、1月23日に「論点整理」なる報告書を首相に提出したが、これは、形は両論併記だが、実質は現天皇一代限りの退位容認が望ましく、退位の恒久制度化は難点が多いとするもので、皇室典範はいじらず、特例法で明仁に限り退位を認めるという安倍政権の意向に沿うものであった。主導権ははっきりと安倍政権の側に移ったかに見えた。その上で政権は、明仁の退位、徳仁の天皇即位を、2020年オリンピックとともに、彼の国家改造プランの日程に都合よくはめ込んだ。安倍晋三は、自民党総裁任期の延長を前提に、2019−20年を面倒な過去の道義的・歴史的負債の最終的棚上げの年、憲法に代表される戦後の国家体制からの転換の画期としようと考えていることは明らかであった。新元号の制定とともに、「戦後」を「不可逆的に」葬り、改憲によって「世界の中心で輝く国」に飛躍するステップとして位置づけたのである。天皇代替わりと新元号の導入の祝賀ムードでこの画期を飾ることが政権の望みであり、方針であろう。しかし2月10日付けの『週刊朝日』は、この青写真は宮廷側の巻き返しによって「雲行きが怪しく」なってきたと伝えた。2019年元日即位という官邸方針のリークにたいして、安倍が「隠密」として宮内庁に送り込んだはずの西村次長が「元日の即位は困難」と突き返した。改憲政治日程に合わせて特例法方式でそそくさと片づけようとする官邸の方針に、皇室典範の改正によって、生前譲位やおそらくは女性天皇の制度化を含めて天皇制の永続の保証を望んでいるとみられる明仁が、かなり強い抵抗を示していることはほぼ間違いなかろう。暗闘は続いていると見るべきであろう。

 政治権力に寄生している天皇側は、この葛藤において、結局は力に押し切られて、安倍の目論見に完全に一体化し、政治権力の飾り物となることを、無条件で受け入れることになるだろうか。おそらくそうはいくまい。平成天皇制という新モデルを作り上げたと自負している明仁は護憲的発言を繰り返し、今回の「生前退位」攻勢を仕掛けるなど、これまでかなりしたたかに振る舞ってきた。象徴権力の政治権力との確執は、天皇側の条件闘争になるだろうと前に述べたが、それはどんな条件闘争であろうか。

 条件闘争とは交渉を通じて、最初掲げた目標より下の条件で手を打つことをあらかじめ読み込んでいる闘争である。だがそのような交渉でも交渉には足場が必要である。政治権力に寄生する象徴権力としての明仁天皇制は、果たして政治権力と交渉する足場を有しているのであろうか。

 明仁側の交渉の足場は、政治権力が統治するためにはすべての「国民」の「統合」が成立していることを絶対に必要としているのに、日本の政治権力は独力ではそれを調達できず、この作用を天皇制に頼っているということにある。戦後憲法のもとで、天皇が象徴作用によって囲い込む「国民」という大枠を与えてくれるおかげで政権は一党一派を越えた正統性を調達しうるのである。とはいえ、天皇側のこの足場からの交渉力行使は憲法によって封じ込められているので、公然たる政治交渉はできず、すべては水面下の駆け引きに委ねられざるをえない。だが、この条件の下で、唯一天皇側が公然と行使しうるカードがあった。それは退位というカードである。だがこれは禁じ手である。明仁は今回、この非常用禁じ手をあえて使って、彼の理解する象徴天皇制と彼の象徴テリトリーの防衛の意思を示したと見ることができる。

 明仁側の危機感は、第一部で述べたように、安倍路線による改憲・国家再編が、国・天皇制とつて危険であるという判断から生じたことは間違いなかろう。軍の暴走に引きずられ、それに一体化し、戦争を主導することで、「国体」の危機を招いたという父裕仁の軌跡についての解釈が明仁の中にネガティブな歴史的教訓として焼き付けられており、それに照らして、安倍政権の暴走は彼の中に強い警戒感を呼び起こしたことは疑いない。明仁夫妻のこれまでの言動からそこまでは明白であるとしてよかろう。

 ではこの姿勢は、安倍政権との交渉においてどんな役割を果たすだろうか。安倍改憲に天皇側は護憲のためにどのような抵抗を示せるだろうか。それを測るためには、天皇にとって憲法が何を意味しているかを調べてみることが必要だ。

天皇の憲法へのこだわり

 私は、天皇夫妻が個人として憲法の平和主義や人権、また(奇妙に逆立ちした形だが)主権在民に親近感をもつ人物であろうと思う。しかし天皇にとってそれらが死守すべき原理であろうと推測するのは、贔屓の引き倒しに類する。天皇としての彼が死守するべく運命づけられているのは、むろん、彼が継承した天皇家の存続とその支配的地位の永続化である。その立場からして安倍的な改憲政治は、危険をはらみ、同調しえないなのである。

 だが安倍に対する明仁の最大の争点は、そこにはあるまい。明仁天皇について独特なことは、彼が即位以来全身全霊を傾けて(と言ってよいだろう)作り上げようとしてきた象徴天皇制の新モデルが、憲法の主権在民規定を基礎にしてうちたてられてきたところにあろう。第一部でのべたように象徴天皇は、国民に君臨するのではなく、「内在」すべきものだと明仁は考え、内在するための絶え間ない努力=象徴的活動によって内在を実現しようとする。私は憲法学については門外漢であるが、明仁のこの考えは象徴天皇制についての全く新しい考えではなく、初めに「あたらしい憲法のはなし」を引いて述べたたように、憲法制定当時のかなり有力な憲法観と通ずるものがあると思われる。しかし、その後戦後民主主義の定着とともに、この象徴天皇観は少数派となり、天皇の活動を厳格に国事行為に限定すべしとするいわば天皇封じ込めの理論が学会の主流になったと言えるだろう。先に引いた横田耕一のような左の側からの議論と、八木秀次のような右からの議論が期せずして「封じ込め」で一致しているのは興味深い。

 明仁天皇はこの封鎖を破って、自己の独自の象徴領土を作り上げ(たと信じ)、それを確実に、次代に引き渡したい。その保証を確立することが獲得すべき条件であろうと私は考える。明仁は、この象徴領土を、天皇の地位が「主権の存する国民の総意」に基づくとする憲法によって基礎づけているので、憲法はその意味で明仁にとって重要である。それは平成天皇制と有機的につながっている。明仁夫妻は憲法理念そのものについても愛着を持っているに違いないが、明仁のこの間の行動をそれによって説明するのはあまりにもナイーブであろう。明仁天皇の憲法への執着の基本的部分は、主権在民によって基礎づけられた天皇の象徴権力、彼の生涯を賭けた創作物、への執着にあると私は考える。

 進行中の二つの異種の権力間の交渉の帰結がどうなるかは予測しがたい。しかし上記から推測しうるバーターのありようは、天皇側の政権への歩み寄りと引き換えに、天皇側が「象徴行動」の自由の保証を得て、「平成象徴権力領」を確保し、手つかずで次代に譲る保証を得るというものであるだろう。このような手打ちは両者の完全な和解とは言えないだろう。政権が安倍路線で続くなら、両者間に、国家理念や歴史認識という異物が挟まった緊張関係が続くに違いない。

 さてここで、では私たちは実践の立場でこの状況をどうみるのか、このような天皇制にどう対処するかについて考察する順番のように見えるが、そこへ行くためには、明仁天皇の言動へのいくらかの観察を挟んで、戦後天皇制を戦後日本国家のなかにおおまかみでも関連付けて見ることが必要である。戦後天皇制と向き合うことは戦後国家全体と向き合うことを抜きにしてはありえないからだ。

憲法とアメリカ――明仁と私たち

 くどいようだが、ここで再び、先ほどとは違う視点から、日本国憲法は天皇によってどのように認識され、把握されているのか、と問うて見よう。

 第一部でも引いた2013年80歳の誕生日の天皇発言に別の角度から眺めてみる。彼はこう語っていた。これは安倍の〈占領憲法〉観へのアンチテーゼと取れる発言である。

戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。

 ここでは、戦後改革を肯定的に語る中で、憲法と米国があわせて語られている。「当時の知日派の米国人」の貢献への言及が目を引く。「知日派の米国人」とは誰たちを指すのだろうか。またその「協力」とは何を意味するのだろうか。これが裕仁天皇であれば、彼の最大の感謝の対象とは彼を戦犯として訴追せず、天皇のまま米国の日本支配に利用する方針を推進したマッカーサーと国務省の「知日派」たちだったに違いない。しかし明仁天皇はこの発言の中で米国を憲法の文脈で語っている。そのとき彼の脳裏には、GHQ草案を書き上げた若いニューディーラーたちがあったと見るべきだろう。美智子皇后は2013年、基本的人権や言論の自由などを謳った私擬憲法「五日市憲法」に触れたあとで「この1年も多くの親しい方たちが亡くなりまし」として、物故者の名を挙げた中に「日本における女性の人権の尊重を新憲法に反映させたベアテ・ゴードンさん」を挙げている。天皇夫妻の脳裏にはこれらの人びとがよきアメリカの代表・表象として留まっているのであろう。

 そのことに私はオヤと思う。ここにあるのは占領期、それもせいぜい1947年ごろまでのアメリカではないか。それは、日本帝国の武装解除・非武装化と民主化の時期、旧敵国が再びアメリカに歯向かわぬ保証をつくりあげる時期であると同時に、日本の民衆にとって、戦争と天皇と軍人の圧政から解放され、日本帝国イデオロギーの締め付けから自由を得た時期でもあった。

 この時期、日本は敗戦と占領によって完全にアメリカの覇権システムに組み込まれたが、その覇権は普遍主義の言語を語る覇権であった。新憲法は、その二重のいかがわしさ(占領軍起源と明治憲法の改正手続きにより裕仁によって公布された欽定憲法としての出自)にもかかわらず、それが依拠する普遍的原理によって解放と自由を代表する画期的な憲法として受け入れられ、歓迎された。明仁、美智子がアメリカを語るとき、そこに表象されているのは、つねにこの時期のこの文脈のアメリカであるように私には思える。そして憲法もその誕生時の姿に固定されて脳裏に置かれているように見えるのである。

 なぜ私はそこに違和を感じるのか。憲法とアメリカについての明仁夫妻の語りには、いや認識には、何か一連のものが系統的に欠けていると思われるからだ。それらはすべて決定的に大事な歴史的要素である。すなわち、天皇家の語りには、原爆がなく、沖縄がなく、朝鮮戦争がなく、米軍基地がなく、核実験がなく、冷戦がなく、再軍備がなく、安保条約がないのである。直接の言及を期待しているわけではない。ただそれらへのヒントすら見つからないのである。すなわち、それらの出来事に代表されるアメリカ像がまるきり欠けているのである。そしてそのアメリカとの対決において初めて姿を現す抵抗原理としての憲法像が欠けているのである。天皇夫妻の語りではそれらを欠いたアメリカ観と憲法観が親和的な対として提示される。そこにあるのは憲法平和主義を擁護しつつ、同時に親米でいられるアメリカ観、逆に親米を堅持しつつ無傷でいられる憲法平和主義である。

 むろん天皇が民衆運動と同じ米国観、憲法観をもつことなどありえない。そのようなことを期待しているわけではない。私がいぶかるのは,天皇の意識の中に、彼が直接経験した同時代の歴史がどのように刻み込まれているか、いやそもそも刻み込まれているか、についてである。明仁と美智子は1959年、華やかな結婚パレードで日本社会を沸かせた。しかしその翌年、1960年は、華やかさと対極的な険しい対決の年、安保闘争の年であった。岸政権と新安保条約に反対して数十万の民衆が東京都心を埋め尽くし、「安保反対、岸を倒せ!」という叫びをあげた年であった。新安保条約の成立を祝うため訪日の途上にあったアメリカ大統領は、沖縄の嘉手納基地まで来ながら、東京に立ち寄ることができずソウルに直行した。首都圏の警察は、大統領をデモ隊からまもる自信がないと岸首相に告げ、岸は招待を取り消さざるをえなかったからである。安保条約は成立したが、岸政権は倒れた。数か月にわたる民衆と政権のこの激突は、父裕仁の居城を囲む一帯から彼自身の住む赤坂まで含んだ東京都心部で激しく展開していたのである。

 明仁のアメリカ観と憲法観に、この民衆―彼の国民―の立ち上がりは、何らかの痕跡を残しているのだろうか。私の知る限り彼の発言にその痕跡を見ることはできない。

 私はいぶかる。明仁天皇においては、憲法もアメリカも、戦後日本のその後の歴史的経験をくぐることない抽象的理念としてしか存在しないのではないかと。沖縄とヤマト日本を基地として朝鮮戦争、ベトナム戦争を戦った現実のアメリカは、抽象理念としての彼のアメリカ像に影響を与えることはなかったのではないかと。彼の言動を精査したわけではないので見落としがあるのかもしれない。そして当然、憲法上の制約を考慮して政治的発言は避けられているであろう。しかし明仁夫妻は、その制約の下でも、1931−45年の歴史については、かなりのことを語ってきたのである。

 明仁は父裕仁とは違って内向的、内省的人物ではないかという印象を受ける。戦後の裕仁は、意識は依然として君主のままで、共産主義対策や日米外交など、裏から国政に口を出しつづけていた。それに比べて明仁はもっぱら天皇が国民統合の中心でいられるかどうかという内向きの関心が優越する人物ではないかと推測される。憲法もアメリカもその関心から理解されるので、抽象に固定され、歴史的経験に媒介されることがないのではないか、というのが私の推理である。

 さて私たちにとって憲法平和主義は、憲法に書き込まれた文言であるだけでなく、具体的な歴史的経験を通して獲得された原理である。憲法平和主義が戦後日本に曲がりなりにも原理の資格で定着するのは、憲法制定時ではなく、米国の戦争に安保関係で繋がれている状況への民衆の抵抗の経験を通じてなのである。それも一度きりの経験としてではなく、40年代の労働運動、50年代の朝鮮戦争、反戦反基地闘争、原水爆禁止運動から60年安保闘争、そして60年代後半からのベトナム反戦運動、水俣、反公害、全共闘、リブ、反差別、反原発、反天皇制などなど、そして最近の脱原発運動と安倍政権の安保法制へのたたかいにいたる抵抗という実践的プロセスを潜ることで、平和主義と平和的生存権が原理として獲得され、定着してくるプロセスがあったのである。憲法は原理としては闘いと運動によって歴史的に獲得されてきたのである。

 とはいえ、その原理化が未熟、限定的であったことも明白である。日本の国内植民地支配と結合した米国の軍事支配下に置かれている沖縄では、人びとはむしろ「平和憲法」の裏側に出会い、ヤマトとは区別される平和主義と自己決定の原理を抵抗の中で発展させてきた。戦後ヤマト日本における主流的憲法平和主義は、憲法9条が沖縄の基地化および日米安保に背中合わせに結合している構造を意識化できないという重大な視野の欠落を抱えていた。憲法9条が下の戦後日本は、日米安保関係を通じて朝鮮戦争からベトナム戦争にいたる血生臭い戦争の不可欠の出撃・補給基地であり続けた。この入れ子構造全体が解体すべき対象として視野に入るのはようやく1960年代後半の新しいラディカルな運動の出現を待たなければならなかった。

 この限界をもちつつも、民衆の運動は、ともかく、憲法平和主義を米日軍事結託への批判と対決の根拠として使うことで、それに原理としての性格を与えてきた。それは「アメリカ製憲法」をアメリカ批判の武器としてアメリカに差し向けるプロセスであり、この憲法を自分のものとして再獲得していくプロセスであった。それはアメリカが普遍的解放の使徒などではなくて、戦争と抑圧の帝国の姿で把握されるプロセスでもあった。

 明仁天皇の憲法認識、アメリカ認識はどうか。彼の憲法やアメリカについての発言には、私たちのこの歴史的プロセスに見合う天皇としての彼の立場からの、憲法を歴史に噛み合わせるプロセスが欠落しているかに見える。同じ憲法を語っても、明仁にとって憲法平和主義は抽象物のままであると私には見える。抽象物は捨てても身は痛まない。具体的なもの、実践をくぐらせたもの、歴史的に獲得されたものはそうはいかないのだ。

明仁天皇の反省的歴史総括

 さてここで、平成天皇制の心臓部に位置するはずの問題を検討しよう。明仁天皇において、父裕仁の行動を含めて大日本帝国の所業はどのように総括されているだろうか、という問題である。それは天皇と私たちの関係にとって、そして憲法平和主義を語る明仁天皇にとって決定的に重要なテーマであるに違いない。

 帝国の過去と明仁天皇の立ち位置の関係を測るためには、安倍政権の代表する政治・思想潮流への明仁の姿勢を点検することが手っ取り早い。安倍政権の改憲による国家再編プランが帝国の過去を栄光で包む歴史修正主義に導かれているからである。明仁天皇はこの企てにどのような立場を取るのか。

 明仁天皇夫妻が、日本帝国の過去を美化する歴史修正主義の潮流にたいして警戒的であることは確かであろう。旧聞に属するが、よく引かれるのが2004年10月28日秋の園遊会での京都教育委員会委員で棋士の米長邦男とのやり取りである。

明仁天皇:教育委員会としては、本当にご苦労様です。
米長邦雄氏:はい、一生懸命頑張っております。
明仁天皇:どうですか。
米長邦雄氏:日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます。
明仁天皇:ああそうですか。
米長邦雄氏:今頑張っております。
明仁天皇:やはりあの・・・、その、強制になるということでないことがね
米長邦雄氏:ああ、もう、もちろんそうです。
明仁天皇:望ましいと。

 おそらく咄嗟のやりとりであろうから、普段から頭にあることが口に出たのであろう。そう察して、彼に心を寄せる声も多かったと記憶する。これは小泉政権の時代であるが、すでに大日本帝国の所業を合理化しようとする右翼の歴史修正主義の攻勢は教科書や軍「慰安婦」問題などの分野で激しくなっており、「日の丸」、「君が代」は彼らにとって踏み絵の意味があった。そして東京都教育委員会はそれを強制する根城の一つであった。米長は、おそらく明仁を喜ばせるつもりで件の言葉を吐いたのであろう。それにたいし明仁はかなりはっきりと、台頭しつつあったこの極右傾向に異議を表したのである。これは明仁のそれまでの政治的発言のなかで、最も明白な政策批判、したがって憲法違反と言っていいであろう。だがその逸脱が左にではなく右を打つものであったことが特徴的であった。

 では明仁は歴史修正主義にどう向き合い、明治、大正、昭和3代にわたる大日本帝国の過去をどう位置付けているのか。

 そこでは彼の父の行った戦争が彼の主要な関心であることは明らかだ。彼は美智子とともに、多くの戦跡への「慰霊の旅」を行っている。そして、過去について、とくに戦争についてしばしば語る。これらの語りは慎重に発せられている。したがって慎重に読み解くことが必要である。

 即位20年目、2009年の記者会見で、彼は「次第に過去の歴史が忘れられていく」ことが心配だとして、こう語っている。

昭和の時代は、非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和3年、1928年、昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが張作霖爆殺事件でしたし、3年後には満州事変が起こり、先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。第一次大戦のベルダンの古戦場を訪れ、戦場の悲惨な光景に接して平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。昭和の六十有余年は、私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って、未来に備えることが大切と思います。

 この発言は、他の類似の発言と共に、帝国の過去についての明仁の批判と反省を表したものと受け取られている。確かにそれが全体としてのトーンであり、おそらく彼の中に裕仁時代の帝国の行為への反省があることは確かであろう。明仁夫妻の戦跡めぐりは贖罪の旅の雰囲気に包まれている。しかし雰囲気に流されず、テキストを慎重に読んでみれば、この短い発言が担うもう一つの文脈が浮き上がってくる。

 一体、この話はなぜ張作霖爆殺事件から始まるのか。張作霖爆殺は、中国東北部(満州)の単独支配をもくろむ日本陸軍(関東軍)が政府に断りもなく暴走し、実行した国家謀略であった。軍は一度裕仁に真実を報告したあと、前言を翻して、もみ消しかかり、事実を否定し、川本大佐ら犯人を不問に付した。裕仁はこの軍の二枚舌に立腹し、ついに田中義一内閣を総辞職させるにいたる。

 この事件から入ることで、裕仁は軍の暴走に立腹し、歯止めをかけた人物として提示される。昭和はこうして始まったというわけである。さらに裕仁はベルダンの古戦場を訪れて平和主義者になったらしく、この平和主義者にとって、それに続く凄惨な戦争の年月はだた「不本意な歴史」であったと描かれる。ふざけている。対米戦争に導く満州事変という関東軍の独断による満州占領では、裕仁は英米を刺激することは恐れながらも、間もなく勅語を発して軍の行動の成功を称賛し、承認した。これが明仁の言うように「先の大戦に至る道のり」の始まりであった。この戦争は大元帥天皇裕仁の名において、彼の戦争指導のもとに行われ、千万の単位の隣国、自国の民衆の死と破壊を結果した。明仁のこの叙述は、戦争責任から裕仁を外し、戦争はすべて陸軍のせいだった、という史観、平和主義者裕仁は意に反して戦争に引きずり込まれたとする昭和史解釈を、さりげなく吹き込むものだ。過去を忘れないとは、この解釈による過去解釈を受け入れ、忘れないことを意味している。この文脈はしかし平和主義の主文脈のなかに目立たぬように重ね合わされている。

 特徴的なのは、明仁の戦争についての語りは多く1931年、満州事変を起点しているということだ。例えば2015年、敗戦70年には、こういう談話を出している。

本年は終戦から七十年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を十分に考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。

 これは何を意味するのか。第一に、満州事変以前の大日本帝国の近隣への侵略・植民地化を不問に付することである。第二に、それによって東京裁判の判決並びにアメリカの「太平洋戦争」史観と平仄を合わせ、天皇家の史観をアメリカの覇権原理に連結させ、親米天皇制を基礎づけるのである。満州事変以前の歴史は「十分に学ぶ」べき対象としては切り捨てられる。第三に、「亡くなったひとの数はまことに多い」などと死は天災によるもののように語られる。日本側の死者だけをとっても、裕仁は米軍のフィリピン上陸の後和平工作を提案した近衛に「もう一撃加えてから」と主張して戦争を継続し、本土決戦への時間稼ぎのために沖縄を「捨て石」として全住民を地上戦に巻き込んで夥しい死を招来した。その上「国体護持」を最優先にポツダム宣言受諾を引き伸ばして広島、長崎への原爆投下を招き、ここでも夥しい人びとに難死を強いた。「多くのひと」は「亡くなった」のではなく、殺されたのである。それに直接の責任を負うのは裕仁天皇である。彼の責任を抜きにして「十分に学ぶ」ことなどありえようか。

 「満州事変」に言及したからには、中国については反省を語らぬわけにはいかない。右翼からの激しい反発を招きつつ1992年に行われた明仁夫妻の訪中では、明仁は、遣隋使以来の中国との長い交流の歴史を振り返った後、こう述べた。

しかし,この両国の関係の永きにわたる歴史において,我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時,我が国民は,このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたち,平和国家としての道を歩むことを固く決意して,国の再建に取り組みました。爾来,我が国民は,世界の諸国との新たな友好関係を築くことに努力してまいりましたが,貴国との間においては,両国の先人たちを始めとする多くの人々の情熱と努力によって,将来にわたる末長い平和友好を誓い合う関係が生まれ,広範な分野での交流が深まりつつあります。私はこのような両国民間の関係の進展を心から喜ばしく思うとともに,この良き関係がさらに不動のものとなることを望んでやみません。

 一見、まっとう歴史認識ではないか。そう思いそうになる。だが「不幸な一時期」とはいつからの「一時期」か。そこは意図的にぼやかされており、不明である。日清戦争からか、北清事変からか、「対支21か条」からか、近代日本の歴史を振り返れば、日本帝国の中国侵略が1931年に始まったわけでないことは明らかだろう。また敗戦後の日本は過去を反省し、平和国家となったと言うが、その平和国家はアメリカによる中華人民共和国の軍事的・経済的封じ込めに加担してきたのではないか。

 1931年で歴史を区切るという手法には、大日本帝国形成のカナメとなった行為を棚上げし、隠ぺいする戦略が畳み込まれている。その中心は朝鮮半島の征服と植民地化について口を拭うことである。私の見る限り、明仁天皇の歴史総括の発言には、日本帝国の歴史との関連での朝鮮への言及が極めて少ない。

 探してみると1998年10月8日、宮中晩餐会での金大中大統領歓迎のあいさつで明仁は「一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に、私の記憶にとどめられております」と述べていることが記録されている。しかしこれは、1984年韓国の全斗煥大統領の訪日の際、韓国側が天皇からの明確な植民地化への謝罪を求めたのにたいして、両国政府の外交折衝によって合意された文言を裕仁天皇が晩餐会で読み上げたテキストの一字一句違えない反復であった。そこには、他の発言にまして、明仁固有の意思と見られる表現はまったく認められない。

 大日本帝国が行った日清・日露戦争は端的に言えば朝鮮半島の支配をめぐる戦争であった。朝鮮半島は日本帝国が当初から狙いをつけていた対外膨張の対象であったが、日本はこの二つの戦争を米英の支持と資金に依存して初めて戦うことができた。1905年日露戦争のさなか、日本と米国は米国のフィリピン植民地支配を日本が認めることと交換に日本の朝鮮半島支配を認めるタフト・桂密約を交わしている。東京裁判は1928年に始まる日本指導部の侵略戦争の共同謀議に基づく侵略戦争を主たる訴因とし、それ以前の行為とくに日本の朝鮮の植民地支配を対象としなかった。そうすることは欧米帝国主義のアジア侵略・支配の犯罪性に跳ね返ってくるからである。東京裁判の判決を受け入れた戦後日本国家は、こうして、いまだに日韓併合条約が合法だと主張することができている。

 総じて明仁の歴史的視野には、沖縄処分もアイヌモシリの征服も、いや明治以後の近代日本の戦争と植民地化による対外膨張の歴史総体が、反省の対象として像を映じることはないようである。しかしこの視野の欠落は、明仁だけでなく、戦後日本そのものにも当てはまるのではないか。

戦後国家の相互矛盾した三原理と天皇制

 明らかにここにある問題点はもはや明仁天皇固有のものではない。戦後日本国家というものが、憲法において平和国家を謳いながら、その構造の深部において戦前日本帝国の行いと思想を合理化し正当化する原理を廃棄せず、保持し続けてきたことが天皇発言の枠を設定している、と見るのが順当であろう。私は戦後日本国家というものの個性と言うべきものを相互に矛盾し相容れないはずの三つの国家正統化原理の折衷的総合として捉えてきた。その三原理とは、戦後世界における米国の覇権原理、憲法平和主義原理、そして戦前日本帝国の継承原理である。これらの相互関係、またその関係の70年にわたる期間での展開については、私は近著(「戦後国家と憲法平和主義―帝国継承の柱を倒せ」、れんが書房新社、以下「柱を倒せ」と略記)で主題的に論じたので、詳しくは同書に譲る。ここでは、戦後国家の矛盾的3原理構成が、そのまま戦後天皇制の内部に移されていること、そしてそれゆえ、戦後天皇制が、新憲法による象徴天皇制として自身は戦前帝国の継承性の明示的な受け皿でなくなったにもかかわらず、その天皇の座に戦争の最高責任者・指導者裕仁が当然のように横滑りしたことによって、帝国の総括―戦争責任の追及と処理―を阻む装置として働き、それによって帝国継承原理の国家への保存、保持を保証したことを指摘しておこう。

 戦後日本国家の矛盾した正統化原理の謎的な三位一体が戦後天皇制を支配した結果、戦後天皇制は原理的に自己分裂を抱えることとなり、それは明仁天皇制に引き継がれている。明仁天皇は、憲法を擁護し、平和を唱える。しかし彼は憲法平和原理に依拠して、アメリカの戦争を批判する立場に立ちえない。親米は戦後天皇制にとって選択の余地ない前提だからである。彼は、憲法平和主義にしたがって戦争の過去を忘れるなと説くが、他方、裕仁の戦争責任は封印し、隠ぺいすることで、帝国を批判と断罪から遮断する。かと言って、大日本帝国の栄光を継ぐ立場に立つことは、戦後天皇制が戦争の過去を反省する憲法によって成立している以上できないし、したくない。1989年、裕仁は、彼を「聖断」によって戦争を終わらせた「平和の人」と讃える歴史偽造の国を挙げてのキャンペーンの中で死んだ。直ちに明仁が即位し、最初の国事行為である「朝見の儀」で、総理、閣僚たちに向かってこう述べた。

顧みれば,大行天皇(昭和天皇)には,御在位六〇有余年,ひたすら世界の平和と国の幸福を祈念され,激動の時代にあって,常に国民とともに幾多の苦難を乗り越えられ,今日,我が国は国民生活の安定と繁栄を実現し,平和国家として国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました。ここに,皇位を継承するに当たり,大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし,いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ,皆さんとともに日本国憲法を守り,これに従って責務を果たすことを誓い,国運の一層の進展と世界の平和,人類福祉の増進を切に希望してやみません。

 明仁は、こうして、父裕仁天皇を「平和の人」としてその「遺徳」を継ぐことを誓うことで、彼の象徴天皇としての生涯を出発させた。この発言は、「皆さんとともに日本国憲法を守り」の部分が明仁の護憲の決意表明としてよく引用されるが、全体としては「昭和天皇を平和の人として讃える歴史の偽造・歪曲の辞である」と私は「柱を倒せ」で述べ、「これによって、血生臭い昭和は蓋をされ、それと共に千万単位の人命を奪い、広大な国土を破壊した責任は覆い隠された。そのことによって、明仁は父裕仁の戦争責任とその責任の隠蔽責任を相続した」と書いた。

 この関係はよじれている。明仁は、裕仁を持ち上げ、彼の「御心を心としつつ」と述べながら、戦前日本帝国の戦争指導者としての裕仁をカーテンの裏に隠す。裕仁に始まる戦後天皇制は、天皇制としては、その本性からして帝国の過去をすべて引き継いでいる。だが戦後天皇制としては、「帝国の栄光」の受け皿、帝国継承原理の明示的な擁護者の役割を引き受けず、むしろそれに否と言う「平和」側の存在として振る舞う。

 戦後日本国家―その政治権力と象徴権力―は内部化された米国原理をふくめた3元的矛盾を深く構造的に抱え込んでいた。安倍政権が「戦後レジーム」と呼ぶのがそれである。この構造はいま歴史的崩壊のさなかにある。安倍政権は、数十年間公然と掲げることができなかった「帝国継承原理」によって憲法平和主義の柱を倒し、戦後レジームを解体して、戦前の「栄光」を継ぐ世界の「列強」になる、中国と対抗しうる軍事・経済・政治大国に変えるという目標を掲げて(むしろ妄想に導かれて)暴走の最中である。しかしそれは容易ではない。そのためには、歴史修正主義を受け入れない米国に一層おもねる必要があるし、憲法が存在し、憲法平和主義を奉じる国内勢力が無視できぬ存在であるなかでは、平和主義的レトリックも便法として必要である。2017年初め、安倍政権は、派手な外交的パフォーマンスと強引なメディア支配、野党勢力の弱体ぶりによって、依然、世論調査で過半数の支持を得ているが、その基本政策・戦略の空想性、支離滅裂と粗雑さ、反民衆性によって、2020年の夢がかなう確率はそれほど高いとは思われない。ただし、この政権は、戦後レジームの破壊という点ではかなりの効果を上げていて、戦後国家はすでに半ば以上破壊されたと見なければなるまい。

 戦後国家の崩壊過程はずっと以前に始まっていた。2009年政権交代で民主党が政権を握ったとき、日本国土中心の資本蓄積様式に支えられていた戦後国家体制はすでに維持困難になっていたのである。(これについても「柱を倒せ」で詳しく論じている)。私は、国家正統化原理の自己矛盾的三位一体構造をもつ戦後日本国家は、20世紀後半のアメリカ覇権と冷戦下の戦後世界のなかで育まれた歴史的な存在と考えているので、それを守る、もしくは三元構造のまま回復することはできないし、無益であるとずっと考えてきた。いまできること、すべきことは、したがって、この戦後国家を、私たちは、何によってどのようにこちらから解体し、そのなかから何を取り出し、引き継ぎ、新しいつくっていくか、ということだと考えている。安倍とは反対の壊し方、安倍とは反対の作り替えが必要である。それは、平和的生存権の上に立つ憲法平和主義という原理による作り替えである。安倍はそれとは逆に、戦後国家を破壊し、(途上、他原理への妥協を含む迂回を強いられようとも)、理想としては帝国正統化原理一本による新日本帝国をつくることを目指しているのである。

 明仁天皇制は、この帝国正統化原理一本化ドライブに引きずられることを好まない。すでにみたように、明仁天皇制は戦後国家の矛盾的三元的構成を有機的に内部化しているからである。上に見た明仁天皇の帝国の過去についての玉虫色の発言にそのことははっきり表現されている。そして何よりも、明仁の「象徴行為」による象徴権力のテリトリーはこの三元構成を前提にしたものであった。明仁天皇制は、こうして、安倍政治権力から戦後国家を、なかでも自らが内に抱え込んでいるその三元構成をさながら守ろうとする立場を表している。それが彼のテリトリーの防衛であるからである。

 憲法平和主義を根本的原則として、戦後国家を乗り越えるという方向は、観念的な、理想主義を表しているものではない。それは戦後期全体をつうじて展開され、持続されてきた民衆の運動、闘いのなかで育まれ、保持されてきたある一貫性を突き詰めて表現したものである。ただしそれは、前にもふれたように、大きい方向性、価値観の共有として重層的に沈着した広い社会的意識を基盤とするもので、その基盤の存在は、他国との比較によって初めて触知されるほどの拡散した平和意識である。戦後日本自衛隊が戦闘で一人の外国人を殺したこともない、そのことをいいことと思う、といった平均的意識は、例えばアメリカ社会には通用しないだろう。今日まで、運動はこのような広く薄い社会意識の土壌の上に展開されてきたし、2015年の戦争法反対の運動もそれを源泉としていたと言えるだろう。ただしそこには顕著な世代的断絶があり、この社会意識を共有するのは年配者世代である。だが2015年の安保法制への反対運動に登場した若い世代の人びとが発した抗議の言葉が、先行世代の平和意識と基盤を共有していたことも注目されるべきであろう。戦後日本社会に堆積した9条平和主義・平和的生存権の社会意識は、戦後国家をこちらから乗り越える基盤として存在すると確認しておくことが必要であろう。

 とはいえ、ほかならぬ以上の状況からして、憲法平和主義を原理として戦後国家を作り直すというテーマは直ちに運動の意識とはなりにくい。安倍政権が次から次に仕掛けてくる攻勢に運動者は個別の応戦に暇ないというのが現状であろう。そしてそれらの応戦を全体としてくくるものとして、安倍の破壊から戦後国家を守るという意識が生みだされるのは避けがたい。そこからは容易に象徴天皇制を守るというスタンス、安倍政権にいじめられている明仁天皇を守る、さらには天皇を味方につけて安倍政権とたたかう、といった立場が導かれる。

 三原理の矛盾を抱えたままの戦後国家、その不可分の一部としておなじ矛盾を内部化した戦後天皇制、それを擁護し、救うことが果たしてできるだろうか。いやそれが将来にわたっていささかでも希望をもたらすものであろうか。私はそう思わない。その代わりに、私たちは戦後70年の民衆の実践とそのなかで獲得された憲法平和主義・平和的生存権という原理を基礎して日本列島社会を組織しなおす展望を開くことができる。それは戦後国家をこちら側から換骨奪胎するプロセスであろう。

 では、それは象徴天皇制にどう対処することを意味するのか。「主権の存する」人民はどのように主権を行使しうるか。それを次に検討しよう。
(第三部に続く)
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