試論 戦後国家解体プロセスでの「象徴権力」の露出――安倍政権下の平成天皇制と「お気持」の位相

武藤一羊

(二〇一六年一〇月一九日)

第一部 安倍改憲と平成天皇制―「象徴権力」の解明

象徴的行為

 NHKによる七月一三日の天皇明仁の「生前退位」意向の「スクープ」という異例の形で口火を切られ、続く八月八日の明仁天皇の国民向けビデオメッセージで後戻りできぬ現実となった天皇家と天皇制をめぐる新展開は、安倍政権の手による戦後日本国家の破壊・解体・再編プロセスにおいて、新手の戦略的政治要素の浮上を表している、と私は考えている。

 結論を先に言えば、明仁の「お気持ち」声明は、安倍の支配する政治権力にたいする明仁夫妻の象徴権力ともいうべきものの挑戦的自己防衛の試み、そしてそれを通じて、進行する国家レジーム再編過程において、天皇家=皇室の独自の民衆支配力を守り、維持するための大胆な試み、と読むべきものである。この文書で最も注目すべきことはそれが「国民の理解を得られることを切に願っています」と国民への訴えで締めくくられている点であろう。天皇の象徴としての地位は「主権を有する国民の総意」に基づいていると憲法は定めている。天皇のこの文書は安倍政権に宛てられていない。政権の頭越しに、象徴の地位を最終的に決定するこの主権者への呼びかけとしてだされている。

 この明仁ステートメントに宣言されているのは一個の明確な政治意志であり、その文言はその政治意志を伝達する隠語として周到に組み立てられたものである。これが単なる高齢や体調で象徴天皇としての任に耐えなくなったので退位さしてほしいという訴えなどではないことは誰でも直ちに読み取れるだろう。だが、政治家もマスコミも、ここにかなり露骨に表明されている政治意志を読み取りながら、いや読み取っているがゆえに、その核心だけを避けて、周辺をぐるぐる回りながら、「生前退位」は可能かどうか、皇室典範をいじるべきか、明仁天皇だけに適用される特別立法はどうか、いややはり摂政を置くべきだなどと、あらぬ議論を展開して見せ、問題から逃げ回っているのである。私にはそう見える。

 この「お気持ち」文書の核心は「象徴的行為」という概念にある、と私は読む。「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たす」ためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への「理解を求める」行為・活動が必要である、とこの文書で明仁天皇は主張する。ここが肝心である。このような行為を明仁は「象徴的行為」と呼ぶのである。明仁によればこの「象徴的行為」は一方通行でなく、双方向的交通として成立している。すなわち「天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要」があると言う。天皇夫妻がこれまで行ってきた国事行為外の活発な活動は、ほぼすべてこの意味の「象徴的行為」と説明されるのであろう。

 このような意味を担う明仁の「象徴的行為」が憲法学で用いられている概念と同じかどうか、私には判断しかねる。しかし「お気持ち」ではそれは上記のように明確に定義されている。象徴に関連する行為が天皇自身によってはっきり概念化さるのはこれが初めてではないか。

 そこで、以下、戦後国家の破壊がすすむ現在の時点で、〈象徴〉に与えられる意味に照明を当ててみることにする。

一九四七年「あたらしい憲法のはなし」

 象徴とは何か。日本国憲法は第一条に天皇を置き、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基ずく」と規定している。

 中学2年途中まで教育勅語で教育された私などの世代は,「新憲法」と呼ばれていたこの憲法で,象徴という言葉に初めて出会ったと言えるだろう。いや日本国民の大多数にとってもそうだったに違いない。「象徴」とは何のことか、教師は答えなければならなかった。いまでも私の耳に残っているのは、象徴とは学帽についている記章みたいなもの、という教師の説明であった。(その頃中学生はみな自校を表す記章つきの学帽をかぶっていた)。

 当時文部省は、新憲法をやさしく解説する「あたらしい憲法のはなし」という新制中学向けの教科書を編集して、それが全国で教材として使われたらしい。「らしい」というのは、私は戦後学制改革で旧制中学から新制高校に横滑りしたせいか、当時この教科書を目にした記憶がないからだ。しかし教師から聞いた天皇=象徴=「記章」という説明がそこから出ていたことは疑いない。この教科書は記録によれば一九四八年から朝鮮戦争勃発の一九五〇年まで中学の教科書として用いられたが、五〇年度に副読本とされ、五一年度から使用が打ち切られている。しかし憲法施行直後の文部省、そして日本政府の公式の憲法解釈をこの教科書が表していたことは間違いない。その意味でこれは現在にとって価値ある歴史的文書である。(以後この冊子を「新憲法冊子」、もしくは「冊子」と呼ぶ)。

 その上この「新憲法冊子」は後に護憲運動のなかで生き返る。八〇年代以降、憲法改正が叫ばれ、日米安保の下での日本自衛隊の飛躍的増強が進むなかで、この「冊子」は、戦後初期の日本政府がいかに憲法平和主義と民主主義をまじめに受け取り、実施しようとしていたかを示す例証として、復刻され、護憲の立場に立つ運動の中でてかなり広く用いられてきた。岩波書店や日本平和委員会が小冊子として復刻版を出している。確かに九条の解説は非武装がしっかり書かれていて役に立つ。

 だがこの「冊子」を再利用した人びとは、以下の「天皇陛下」の項をどう読んだだろうか。あるいは読み飛ばしていたのだろうか。本文をちょっと覗いて見ることにしよう。

天皇と戦争

 まず「象徴天皇制」について、「冊子」はどのように説明していただろうか。この教科書の目次立てでは、(一)憲法、(二)民主主義とは、(三)国際平和主義、(四)主権在民主義、と続き、その次に(五)天皇陛下、が来るという順序になっている。その天皇項目はこう始まっている。

五 天皇陛下 こんどの戰爭で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とう/\戰爭になったからです。そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。

 筆者は憲法を「こしらえる」のにだいぶ苦心したようだが、この解説も苦心の作である。しかし苦心はまったく報われていない。目を覆うばかりの自己分裂に引き裂かれた文章だからである。だいたい、冒頭の「こんどの戦争」での最高責任者、最高指揮官だった大元帥裕仁天皇への言及を「ごくろうなさった」ですませるのは、ふざけている。そのうえで戦争責任を「国の仕事をした人々」になすりつける。しかしこれらの「人々」が「天皇をお助けして」仕事をした人々だとも言う。つまり彼らは助手で、主要な行為者は天皇だったことを事実上認めることになっている。だからこそ、これからは、天皇は「憲法で定めたお仕事しか」してはならないと憲法は定めたという論理の運びになる。支離滅裂である。一九四七年の段階で、裕仁天皇を真っ白に描くことはさすがにできなかった。だが責任を取らせることはしたくないし、できない。だからそこは「たいへんごくろうなさいました」と裕仁の主観的状態の描写でごまかしたのである。

 おまけに「天皇をお助け」した人々は「国民の考えとはなれて」いたとして、国民はみな戦争に反対していたみたいなフィクションを導入している。それによって、戦争を支持した国民の反省の道を閉ざしている。戦争責任についての裕仁天皇の免責から日本国民の自己免責を導く戦後国家を貫く最悪のごまかしがすでにここで始められていたのである。

象徴A,象徴B

 さてこの後に〈象徴〉がくる。二段に分かれている。以下はその第一段である。

 憲法は、天皇陛下を「象徴」としてゆくことにきめました。みなさんは、この象徴ということを、はっきり知らなければなりません。日の丸の國旗を見れば、日本の國をおもいだすでしょう。國旗が國の代わりになって、國をあらわすからです。みなさんの学校の記章を見れば、どこの学校の生徒かがわかるでしょう。記章が学校の代わりになって、学校をあらわすからです。いまこゝに何か眼に見えるものがあって、ほかの眼に見えないものの代わりになって、それをあらわすときに、これを「象徴」ということばでいいあらわすのです。こんどの憲法の第一條は、天皇陛下を「日本國の象徴」としているのです。つまり天皇陛下は、日本の國をあらわされるお方ということであります。

 ここで挙げられている象徴とはたいていはモノである。校章ならそれは特定の図柄を打ち出した金属片である。だが、日本国の象徴は、人間である。天皇とは、血筋によって運命付けられた特定の人物が埋めなければならぬ地位・身分を指し、同時にその地位と一体化している人間そのものを意味する。記章のように金属製でなく、国旗のように布製でなく、オオムラサキのような昆虫でもない生身の個人を生まれによって国家の象徴(シンボル)と固定するというのは、それ自身、相当無理のあることだと誰でも思うだろう。職業選択の自由も奪うわけだから、この憲法の謳う基本的人権は保障されていない。このような存在を憲法全体を貫く人権と個人の平等の原理と両立させることができるのか、という根本的な難問が存在する。これはしかし後に回そう。

 ここで「冊子」は次に移る。ここが一番肝心なところである。旗や記章の例えには収まらない憲法第一条の二番目の象徴規定である。「(A)天皇は日本国の象徴であり(B)日本国民統合の象徴であり、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基ずく」の(B)の部分である。A,Bは便宜上筆者が入れたもので、憲法では(A)と(B)は、句読点も置かずにさらりとつなげられている。しかし「冊子」は(B)を単独で取り出してちょっと熱っぽく議論を展開する。以下のようにである。

 また憲法第一條は、天皇陛下を「日本國民統合の象徴」であるとも書いてあるのです。「統合」というのは「一つにまとまっている」ということです。つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本國民の象徴でいらっしゃいます。これは、私たち日本國民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、日本國民ぜんたいをあらわされるのです。
 このような地位に天皇陛下をお置き申したのは、日本國民ぜんたいの考えにあるのです。これからさき、國を治めてゆく仕事は、みな國民がじぶんでやってゆかなければなりません。天皇陛下は、けっして 神様ではありません。國民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。

 なるほど。「日本国民の統合の象徴」というのは、「日本国の象徴」とはかなりちがったものなのである。「日本国民統合の象徴」の方には天皇は自動的になれるわけではない。天皇が「日本国民統合の象徴」になるためには、国民側がかなり努力しなければならない。「国を治めていくしごと」はこれからは全部国民がやるが、そのなかで、天皇が「私たち日本國民ぜんたいの中心としておいでになる」ようにしなければならないのである。「日本國民ぜんたいの考え」によって「このような地位に天皇陛下をお置き申した」ので、国民は「國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません」ということになる。天皇に「ごくろう」をかけず、彼をたえず日本国民全体の中心に保持しておく責任を国民が負うということになる。天皇が国の中心にいる状態を維持するためにはーすなわち戦後天皇制を維持するためにはー国民はそのために一生懸命努力しなければならない、となる。

 しかし国民はいつどこで「総意」を表明したのか。天皇制の維持のために、国民は一体、なぜそんな努力をしなければならないのか。そういう疑問が出されても不思議ではないはずだ。だが文部省にとって、つまり日本政府にとっては、それはあるはずのない質問である。天皇制はまずあるのである。天皇陛下あっての日本。日本という定義にすでに天皇というものが入っている。それが文部省のこの「あたらしい憲法のはなし」の語られない前提なのである。ちなみにそれは、自民党の憲法改正草案にそっくり、いやもっとはっきり、気兼ねなしに引き継がれている。戦後日本国憲法体制というものは出発点においてそのように観念され、組み立てられていた。「冊子」の記述は、戦後日本が依然天皇制国家として、ただし象徴天皇制国家として、再出発したこと明らかにしているのだ。

時を隔ててデュエットが歌い交わされる

 さて、私のこのエッセーのテーマは二〇一六年の明仁天皇の「お気持ち」声明の意味するものについてであった。それを論じるのに、なぜ大昔の「あたらしい憲法のはなし」なぞを古証文みたいに持ち出したのか。

 それは二〇一六年の「お気持ち」声明と今から七〇年近く前に日本国文部省によって書かれたこの「あたらしい憲法のはなし」がどこか、ひどく似ていると感じたからである。この二つのテキストを並べてみるとよい。そこには同じテーマが、別の立位置から、展開されていることがわかる。それは天皇を中心にした日本国民の統合というテーマ、それを実現するための象徴作用=象徴実践の要請というテーマである。対極に立つ二つの立場から、すなわち一方は文部省の理解する〈国民〉の方から、他方は天皇の方から、時代を隔てて、掛け合いの二重唱が歌われているかのようである。それは象徴されるものと、象徴するものの恋のデュエットである。

 この両者には「国民統合の象徴」という概念が〈国民統合活動〉=〈象徴的活動〉を要求しているという共通了解がある。「冊子」の方は、天皇を国民の中心に象徴として置いておく国民側の活動を「国民統合」のための活動とし、「お気持ち」の方では天皇が国民統合の象徴になるための天皇の「象徴的行為」が語られる。すなわち「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには」、天皇のがわからの「象徴的行為」が肝要だと「お気持ち」は主張し、「常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる」ために「日本の各地、とりわけ遠隔後や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なもの」とする。

 明仁は、だいぶ前から「象徴である」ことと、「国民統合の象徴としての役割を果たす」ことを明確に区別して用いている。前者は「日本国の象徴」のことである。天皇は「国家の象徴」だけであるなら、憲法七条に挙げられた国事だけを黙々とこなしていればよい。東京都千代田区の居城に腰を据えて、差し出される書類に署名捺印し、賓客の接受など儀礼的な仕事をこなしていればよい。いや憲法はそれだけをやれと命じている。憲法は第4条で「天皇は、この憲法に定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とさだめ、第七条で、一〇項目にわたる「天皇の国事行為」を列挙している。「のみを行い」というのはそれ以外の行為にたいするきわめて強い禁止規定と読める。

 ちなみに国民統合の象徴についての「冊子」・明仁のような理解は、憲法学会の多数の理解ではないようである。日本国民統合の象徴ということについて、衆議院憲法調査会の小委員会で参考人として発言した憲法学者の横田耕一は、憲法学会では「統合とは日本国民を能動的、積極的に統合するというものではなくて、国民の統合というものを受動的に、受け身的にあらわす」と考えられていると述べ、それは鏡のようなもので、「国民がまとまっておればまとまった国民を映す、国民がばらばらであればばらばらな国民を映す、そういったものとして理解されて」いると陳述している。(第一五九回国会憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会、二〇〇四年二月五日)

 明仁天皇はこのような見解に立たなかった。

裕仁天皇の場合―他人ではない関係

 現実には、戦後日本において、憲法七条の「国事行為」以外の行為の禁止規定は、象徴天皇制成立以来、一度も守られたことなかったと言っていいだろう。それを最初に大規模、かつ無神経に破ったのは昭和天皇であり、彼の全国巡行という天皇制存続のための一大政治キャンペーンであった。マッカーサー司令部の庇護のもと行われたこのキャンペーンは、天皇家・天皇制の生き残りを賭けた必死の大事業であり、それは裕仁本人にとって、もはや大元帥ではない自分と臣民大衆の関係を過去とは別の関係に組み替えられるかどうかが賭けられた乾坤一擲の大勝負だった。罵声と石礫に見舞われるかも知れなかった。だがこの賭けに裕仁は勝った。行く先々で彼を迎えて歓呼する群衆が出現し、彼はもみくちゃにならんばかりだった。軍装に白馬の人だった同じ人物は、今度はソフト帽に草臥れた背広の猫背の中年男として、大衆の前に出現した。もはや神ではなく人間だった。だが称号は同じ「天皇」であった。一九四六年から五四年まで実に四九回、沖縄を除く全県、三万三〇〇〇キロの旅を裕仁はやり遂げた。そういう彼を「国民」は受け入れ、それによってかつてとは異なる関係が新たに取り結ばれた、と天皇側は解釈した。この関係に中身はなかった。象徴とはそういうものであった。「生活は苦しいか」、「何とかやっております」、「アッソー」、「ご苦労であった」、そしてちょっと帽子を持ち上げ、去る。戦後日本において、国民統合の象徴という新しい関係はこうして天皇側からの積極的活動を通じて構築されなければならなかった。

 昭和天皇については言い出せばきりがないので、ここではあまり立ち入るまい。彼は、悪名高い「沖縄メッセージ」をはじめ、講和交渉への介入など戦後の国の進路について露骨に政治介入し、歴代首相との間に「内奏・御下問」関係を維持するなど、憲法4条などほとんど無視して振舞った。米英をはじめ旧敵国への訪問―皇室外交と呼ばれたーも裕仁の活動領域であり、政治権力は戦後外交にそれを有効に利用した。国事行為から逸脱したこれら広範な活動―厳密に言えばすべて違憲であったーは「公的活動」、「公務」などとして事実上認められるようになり、それが平成期に引き継がれて、明仁天皇夫妻に活動領域を保証したのである。

 昭和天皇は、おそらく「国民統合の象徴」の意味などに反省的に考えをめぐらすことはなかったであろう。敗戦・降伏・占領という天皇制の存続が危機にさらされる環境、そして彼の恐怖する〈共産主義〉の波が「食料メーデー」など大衆行動の姿で〈宮城〉に押し寄せる中で、必死に自己の生き残りをさぐり、米占領軍に取り入ると共に、日本国民大衆との関係をつなぎなおそうとしたのが戦後初期における昭和天皇の姿であった。

 ここで押さえておくべきは、裕仁天皇の場合は、日本国民大衆とのあいだにすでに切っても切れない関係が存在していたことだ。夥しい死者の姿が人々の目に焼き付いている時代、人々の間に戦争の体験がまだ生きていた時代、「ご真影」とか「宮城遥拝」とか「米穀通帳」とかの語彙がまだ理解されていた時代、そして、それらについて親から直接聞かされていた時代にあっては、人々は否応なく天皇裕仁と関係させられていた。それは歴史的関係であった。天皇の名のもとに戦争に駆り出され、その戦争で家を焼かれ、夫を失い、といった関係、怒り、恨み、同時に苦難の時代を一緒に過ごしたという一体感、などなど、愛憎ともに、裕仁天皇という人物は日本国民大衆にとって無関係な他人ではなかった。裕仁天皇にとって、新しい象徴関係の構築はこの既存の関係を土台にすることができた。両者を結びつけていたのが、侵略と戦争の過去の不総括と自己免責という共通分母であったにしても。

明仁天皇の場合――〈象徴〉への手さぐり

 裕仁とちがって、明仁には、国民大衆と歴史的な関係に入ったことがなかった。長い戦後昭和の時代のなかで、明仁は、戦後日本資本主義の絶頂期を皇太子ですごした。裕仁が死に五五歳で父親を継いだとき、その絶頂期は終わりつつあった。たしかに一九五九年、経済高度成長期の入口のところで、皇太子明仁は、正田美智子との華やかな結婚イベントを演じ、夫妻はマスコミによってスター化され、新しいファミリーモデルに仕立て上げられさえした。「大衆天皇制」という概念が政治学者松下圭一によって提唱されたのもこのときだった。だが新天皇ブームは長続きはしなかった。

 一九八八年裕仁天皇の死へのプロセスが始まり、息苦しい「自粛」が社会に事実上強制されて、社会・経済活動を窒息させた。一九八九年年頭に裕仁が死ぬと、葬儀をめぐる異様な神道儀式が突如出現して人々を驚かせ、それにかぶさるように、裕仁を「平和の人」として褒めたたえる歴史偽造がマスコミによって大量に社会に注入された。昭和は終わった。そのなかで、明仁は天皇となった。

 これ以後、天皇という自己の存在をいかなるものとしてこの日本社会に定位させていくか、ということが明仁の中心的命題になっていったに違いない。日本国民との間にネガティブ、ポジティブ含めて絡み合った歴史的関係を有していた先代とは違って、明仁天皇一家の国民大衆との関係は内容を持たない抽象的で希薄なものに過ぎなかった。あるのは憲法によって与えられた「象徴」という関係だけであった。今回の「お気持ち」声明はこう言う。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法上象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして日本社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 この文書は「個人として考えたこと」として述べられている。明仁が天皇職に就任以来、「個人として」本当にこのように考え、行動してきたことを私は疑わない。とはいえこの個人は天皇であるので、「個人」を天皇から引き離せるわけはない。彼、個人、の行為や考えの出発点は、「伝統の継承者」として「これを守り続ける責任」である。彼の発表文では必ず最初に「伝統の継承」を意味するフレーズが置かれていると言っていい。この伝統とは、太陽神アマテラスの命により地上に降臨した「天孫」に始まるとされる天皇家の統治歴全体のことであり、それを絶やさず守り続けることが「伝統の継承」である。天皇が天皇である以上それが最高の任務である。そして今日その任務を達成するためには天皇は「日本社会に内在」しなければならない。それが彼の思考の筋道であろう。

 「日本社会に内在する」という明仁の命題はよく考えられている。天皇は君主か。それははっきりしない。もし君主であれば、国民にたいしては、君臨する、統治する、という関係になり、「内在」などという関係にはならないだろう。しかし、憲法は、天皇は象徴である、としか言わない。象徴とはしかし、君主とか大統領とかの地位を表すわけではなくて、機能を表すに過ぎない。だから天皇とは何かという定義は空白なのである。強いて言えば、天皇とは天皇である、と同義反復で答えるか、天皇として存在してきた特別な地位と世襲的にそれを埋めてきた者たちである、と記述的に回答するしかないだろう。このように象徴という機能だけ与えられた天皇が社会とかかわるとすると、そのかかわり方は「内在する」という表現がふさわしい、明仁は悩みつつそういう発見に到達したのであろうか。

 明仁天皇が象徴という天皇存在のあり方は何か、について相当真剣に模索てきしたのは確かであろう。二〇〇九年即位二〇周年に明仁・美智子夫妻が記者会見を行ったが、このときも彼は「私は、この二〇年、長い天皇の歴史に思いを致し、国民の上を思い、象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ、今日まで過ごしてきました」と語っている。ここでも「長い天皇の歴史」が冒頭に置かれる。趣旨は今回の「お気持ち」と同じである。面白いのはこのときの美智子皇后の「象徴」についての発言である。

 御所に上がって五〇年がたちますが、「象徴」の意味は、今も言葉には表しがたく、ただ、陛下が「国の象徴」また「国民統合の象徴」としての在り方を絶えず模索され、そのことをお考えになりつつ、それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に、常にそれを感じてきたとのみ、答えさせていただきます。(河西秀哉、明仁天皇と戦後日本、一七四−五ページ)

〈平成天皇制〉モデルの成立

 さてこの模索は、ある着地点に達したのであろうか。私は「お気持ち」文書は、着地点への到達を示しているととる。この文書には、天皇制というものの新しい在り方を自分たちが作り上げたという達成感がみなぎっている。そしてそれに伴うある落ち着きも見て取れる。明仁夫妻は、長い年月をかけて「平成天皇制」と呼ぶべき象徴天皇制の新モデルを作り上げてきたのである。しかしこの平成天皇制は、いわば「アクティブ天皇制」である。維持のために天皇の側からの絶え間ない活動を要求する。それは明仁によれば「象徴的行為」、天皇の象徴関係を実質化する活動である。「国民の安寧と幸せを祈る」だけでなくて「事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う」ことが大切であるとし、「国民統合の象徴としての役割」を果たすためには、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も」天皇の象徴的行為として大切であるとしたあとで、こう述べている。

 これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 ここには、国民統合の象徴という関係を自分たちの行動によって国民との間につくることができたという自負が表明されている。戦前の天皇と臣民との関係とも、戦後の昭和天皇と新旧臣民大衆との関係とも、かなり異なった関係、ほぼゼロから自前で「象徴的行為」によって作り出した(と本人に感じられる)関係である。それが、戦後憲法に依拠した(と主張される)関係であるという点はここではっきり取り出しておかなければならない。憲法と天皇をつなぐキイワードはもちろん「象徴」であるから、平成天皇制は、日本国憲法の産物なのである。

 しかし平成天皇制と憲法のつなぎ目はおそらく「象徴」という形式的な一点にとどまらないであろう。

 明仁夫妻は実に精力的に「象徴的行為」を繰り広げてきた。災害の被災地におもむき、膝をついて目線を合わせ、被災者に慰めの言葉をかける。このスタイルは裕仁天皇一家には考えられぬものであった。こうした実践はそれを支える使命感と思想なしにはありえない、と私は思う。では、その使命感、思想とは何か。

 その根本には「伝統の継承者として」皇室を「いきいきとして社会に内在」させるという皇室本位の使命感であることを彼は隠さない。しかし、その使命感をもって、ひとたび社会に「内在」するというとき、彼の思想は、戦後憲法の平和・人権思想と接点を持ち、それに影響され、それと親和的な関係を保持するものにならざるをえない。平成天皇制と憲法の関係は、憲法の〈象徴〉規定という一点にあるだけではなく多面的なものであろう。明仁は彼の天皇としての立場全体を憲法に依拠して形成してきたと言えるかもしれない。少年期の明仁が米国のクエーカーであるヴァイニングに個人の自立を教えられ、慶応大学塾長のリベラリスト小泉信三にイギリス王室モデルを叩き込まれて育ったことが、この憲法との思想的親和性を培ったことは疑いない。こうして明仁夫妻は「護憲派」である。そして彼は憲法99条に従って憲法を公然と擁護する。

 まぎらわしい状況だ。天皇と手を組んで憲法をまもるべきなのか。

 それはもう少し先で論じよう。

象徴するものと象徴されるもの――天皇による国民統合と象徴権力

 明仁天皇夫妻の独特の憲法理解による象徴活動で生み出された平成天皇制というものは、しかし、国民大衆=ピープルとの関係において民主主義的ではありえない。一般的に世襲天皇制のような制度が民主主義と矛盾するという議論はしばらく脇に置いて(それが大事でないと言うつもりはないが)、ここでは平成天皇制特有の権力関係について見てみよう。

 まず「平成天皇制」が「象徴するもの」と「象徴されるもの」という二項関係によって成り立っていることに注目しよう。天皇の側の主導的働きと国民の側のそれに呼応する動きによって、この関係は生産され再生産される。このエッセイの冒頭で〈国民〉と天皇の二重奏に触れたのを思い出してほしい。明仁は、あの二重奏を、今回は時を隔ててではなく、ただいま実演しようというのである。これは、戦後憲法が生み出した、そして戦後憲法のみが生み出しえた独特の関係である。

 戦後天皇制において、象徴するものと象徴されるものはいかなる関係に立つのだろうか。くどいようだが、もう一度憲法第一条に立ち戻ってみよう。そこには、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基ずく」とあった。ただ「国民の総意」ではなく、わざわざ「主権の存する国民の総意」とされていることに注目しよう。

 敗戦後、日本の支配集団主流にとって〈国体護持〉は死守すべき課題であった。他方、マッカーサー率いる占領当局にとって、裕仁天皇と天皇制をアメリカ帝国にとって無害で有用な形で維持することが戦略的政策課題であった。この憲法は、両者の要求をかなえるものとして成立した。天皇は元首でも大元帥でもなく、象徴とされて米国にとって無害・有用な存在として存置され、象徴天皇制であれ天皇制が存続するので、国体護持派の大多数もなんとか自分を納得させることができたであろう。しかし主権在民を原理とする新憲法の中で、天皇制はどのように根拠づけられるのか。日本国家に作り付けの、「万世一系」のゆえに取り外しのきかないコンポーネントだと謳うわけにはいかなかった。そこで、「主権の存する国民の総意」に基づくとすることで憲法全体の原理である主権在民に接ぎ木されたわけである。

 こうして天皇は、国民統合の象徴としては、日本国民の主権の発動として存在していることとなった。すなわち主権者がその「総意」によって天皇に全体としての主権者国民を象徴する権利を与え、象徴するものはその権利を行使する。論理的順序としてはこうなる。こうして象徴されるものは象徴するものへ象徴権を付与した(となっている)ので、象徴されるもの(国民)は象徴するもの(天皇)を自己の象徴として受け入れ、象徴として保持し、守る義務が生じることになる。象徴するものはこうして一巡して象徴されるものを支配する。ただしこの関係は総意を表現する手続きに媒介されないので、あいまいで、国民の方は別に象徴されることを頼んだ覚えはないかもしれない。そもそも出発点に置かれたこの〈国民〉は無規定の存在である。それは一個の抽象物に過ぎない。それでも憲法一条が発効したとたん、この抽象物を足場に「主権の存する国民の総意」に依拠する天皇の象徴権が発生するのである。

 こうして確立された象徴天皇は、被象徴国民にその「権威」への承認を社会的に要求する強制力として存在している。この強制力は行政的ではなくて、社会的であり、主として同調圧力として働く。それが内面化されると強制の側面は隠され、人びとの皇室への「敬愛」へと転化するだろう。多くの災害被災者が、訪れた天皇夫妻に慰めの言葉をかけられて、涙を流して歓喜する姿は、天皇の権威がいかに広く、社会的に内面化されているかを示している。この権威とは象徴する力である。日本国憲法第一条から発するこの天皇の力は、そこに働く社会的強制力に着目すれば、ひとつの権力である。それは、政治権力とは別種の回路を伝わって形成される別種の権力、すなわち象徴権力と呼ばれるのがふさわしいであろう。主権を有する国民の意思は、選挙をつうじて政治権力として表現されるが、それと並列して、象徴作用を通路とする象徴権力としても表現される、ということになろうか。

 私は、明仁夫妻は、天皇の「国民統合の象徴」者としての地位を、主権者としての国民の総意に直接基づくものと理解し、政治権力とは相対的に自立して象徴・被象徴関係を実質化しようとしてきたと見ている。放っておけば「国民の総意」は天皇への通路を持たず、天皇の方も自分が本当に主権者たる国民の総意に基づいているかどうかは知る手段がない。父親裕仁とは違って、息子の方は、「国民」との歴史的関係を有しない。そこに明仁の「象徴的行為」という範疇が新たに導入される必要性が生まれる。それは憲法学者の用いる「象徴としての行為」の意味ではなく、「象徴作用を実質化する行為」ともいうべき内実を与えられている。明仁天皇は、この浮遊した条件のなかで、彼の「象徴的行為」によって象徴天皇制の基盤探しを行い、なんとか「平成天皇制」に行き着いた、と整理することができよう。

定義の逆転――抽象的国民と現実の国民

 こうして天皇の象徴権力と政治権力という二つの異種の権力が一つの国家の中で同居することになったのである。それは、天皇というものの地位を「主権の存する国民の総意」に基づかせるという芸当が生み出した固有の国家の様態である。

 さて、天皇の象徴権力は「国民の総意」に基づくとしただけで成立するわけではない。端緒に置かれた「国民」は抽象的存在に過ぎなかった。その端緒の「主権者国民」の「総意」によって確立された象徴天皇制は、事後的に、自己の象徴対象である現実の国民に出会うのである。これは時間的順序ではなく、論理的順序である。そこで、国民は抽象物であることをやめて、現実の人間たち、種々雑多な民衆として姿を現す。そしてこの現実の雑多な民衆全体が、天皇が象徴すべき国民統合の対象となるのである。他方、民衆の方は天皇によって象徴されることを免れることはできない。なぜなら、これらの人びとは国民であり、憲法によれば、国民というものはすでにその総意で主権を発動して、天皇に象徴権を与えてしまった(ことになっている)からである。ここで「端緒の国民」は「現実の国民」に知らぬ間に置き換えられる。

 この端緒国民と現実の民衆の巧妙な入れ替えによって、天皇に象徴される人びとが、すなわち主権を有する国民であると逆に定義されることになる。(すなわちこれは「天皇の象徴権の及ばない人は国民ではない」とする非国民の定義でもある)。これは政治権力による国民定義(国籍法による定義)とは必ずしも重ならない独自の国民定義である。

 象徴作用とは統合作用である。平成天皇制の象徴作用=象徴し・象徴される行為による国民統合は一見ソフトのように見えるが、その内側にハードなコアを保持している。「よりそい」方式に引き込まれて天皇によりそい、天皇に「象徴される」ことを許してしまうと、ひとは明仁が「伝統」と呼ぶものにも統合されるのである。この「伝統」とは「万世一系、天壌無窮」の皇統というものに帰着する。それが天皇というものなのである。そして〈国民〉はこの「伝統」に包摂されてあるものと前提される。天皇に象徴されてある国家・国民を再象徴する日の丸や君が代が「国民」かどうかの踏み絵となる状況はそこから必然的に導かれる。君が代を歌わぬ者、国旗掲揚に起立せぬものを「非国民」とする社会的圧力が生み出される。象徴的行為の論理はそこに導いていく。こうして「象徴的行為」―象徴するものと象徴さえれるもの双方からする行為―は無害で中立的な作用ではない。それは排除と差別を「内在化」している。

 急速に多民族化しつつある日本社会の中で、平成天皇制がその象徴行為による国民統合作用によって生み出し再登録する「国民」とはどのようなものだろうか。私はそこに〈日本人〉と括られる集団が、少なくともそのコアが、成立するのだと考える。それは象徴されるものの象徴されていることの自覚の潜在において成立する帰属感=国民統合である。直接天皇を意識していなくともよい。漠としたしかし疑いなく存在する〈日本人〉というまとまり=国民統合は、天皇からの働きかけ(象徴的行為)が直接なくとも、象徴されてあることの潜在的自覚(何かのきっかけで呼び覚まされうる自覚)によってすでに成立しているまとまりであり、その存在は内と外を区別する場面ではっきりあらわれる。大相撲では、〈日本人横綱〉がいないことが嘆かれ、オリンピックでは日の丸が打ち振られ、金メダルなら君が代が演奏される。このまとまりは政治権力がべったり依存し、利用するけれど、自身では作り出し得ないまとまりであり、内と外を分ける境界線をもつまとまりである。そこでは天皇の象徴権力が機能している現場を確認することができる。

 私は、日本列島住民のすべてが個人として平等な権利をもつ主権者であるべきだと主張してきた。ちなみに日本国憲法の公式の英訳では、〈国民〉は〈people〉となっている。私は憲法の「国民主権」という表現を英訳のpeople’s sovereignty(人民主権)の意味で使うべきであり、国民とは日本列島住民すべてであると明確に法律で決めるきだと考えている。憲法第14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的、又は社会的関係において、差別されない」と規定している。ここで「すべて国民は」と言い出されている〈国民〉は、明らかに天皇制の歴史と伝統を軸に統合される〈国民〉ではなくて、むしろpeople=民衆、人民のことだと理解するのが自然であろう。人権は普遍的なものであって、それを国籍保有者の特権と解釈する立場にこの憲法は立っていないからである。こうして「国民」をpeopleと考えると、天皇の「象徴行為」による「国民統合」に潜在する排除の論理が浮き出てくる。それは憲法一四条とは相容れないであろう。

 日本列島は多民族社会である。現実には国籍法により日本国籍を有するものが「国民」と見做されているが、この定義からはずれる多くの人びとが居住し、世代を再生産し、日本社会の有機的一部として働き、生活している。この人びとは天皇によって象徴されることを喜ぶだろうか。そして日本国籍を保持する狭義の国民も多民族、多文化的に構成されている。この狭義の「国民」をとっても、その全部が天皇の象徴作用によって統合されうるだろうか。天皇に象徴されることを受け入れるとは、天皇制の歴史―そこには近代日本、日本帝国の血生臭い事績がすべて含まれるーを「伝統」として引き継いでいる天皇を自己の象徴として受け入れることである。この列島に住み着く主流日本人以外の民族、多文化の人びと、とくに近代日本に踏み荒らされた歴史を背景にする人びとが、現行制度の下で日本国籍を取得して〈国民〉となれば、同時にこの天皇に象徴されることになる。抱き合わせ販売みたいなものである。帝国軍隊兵士として戦死した台湾、朝鮮の若者が、自動的に靖国神社に合祀されていることに、遺族が抗議し、取り消しを求めても拒否されて、長い闘いが続いているが、国籍と天皇の抱き合わせにはそれとどこか似たところがある。

 こうして平成天皇制による国民統合は、統合そのものの中に分断のバネを蔵している。

 この分断力は、天皇よって象徴されることが、「国民」にたいして強制力として働いているから生じるのである。繰り返すが、天皇による象徴化対象から外されてあることは、「国民」でないことであり、多くの権利が奪われる。逆に「国民」であれば、国外に出るときには、菊の紋章入りのパスポートを携帯しなければならない。天皇によって象徴されることを受け入れることが、国民であることの条件として、自動的に強制されるのである。

 「菊のタブー」と言われるものが六〇年代の「風流夢譚」事件が暴力的な形で示したようにかつては強力に存在し、いまも言論界を支配していて、テレビも新聞も公然と皇室批判、天皇批判に踏み出ることはしないし、できない。マスコミは皇室についてぎごちない皇室用敬語でしか語れない。

 しかしこれらは政治権力による強制の結果ではない。不敬罪は廃止されて久しい。それなのに象徴権力は社会的強制力を持っている。それは人びとの内面を支配し、特定の振舞いと考えを導き出す相対的に自立した権力である。天皇を象徴とする国民統合はこのような形で成立する。

政治権力と象徴権力の共棲

 こうして戦後日本国家は二つの異種の権力を抱えることになったのだが、前述のようにこの象徴権力の方は主権者との関係に不確定さを抱えているため、明仁天皇は「象徴的行為」という活動によって国民との通路を確保するという方式をとることにした。この試みにはかなりの手ごたえがあり、民心も彼らに好意的であると判断されるので、「お気持ち」声明にみられる達成感が得られたようである。だがそれは象徴する側の一方的感想であって、象徴される側=主権者側の意思表示ではない。したがってこの方式―民衆への寄り添い方式―で主権者との象徴関係を維持しようとすれば、それはいくらやっても先の見えない作業であり、膨大なーおそらくは無限のー努力とエネルギーを要求する。八〇歳を超えた明仁と美智子にはもはや無理である。

 今回の「お気持ち」声明が、退位・譲位の訴えとして出された額面通りの意味はそこにあろう。私は明仁とほぼ同年代(私が3歳年長)なので、老齢の重さは十分理解しうる。しかしそれを退位・譲位の必要として国民に向かって訴えるという形で表したのは、平成天皇制として達成された天皇の象徴権力を彼の達成水準で維持したい、しなければならない、という強烈な意思が存在するからだと私は考える。この活動は、あくまで象徴である天皇その人が、全人格を賭けて行うべきもので、象徴ではない摂政に任せられる性質のものではない、と明仁は考える。だから、彼のこの活動を同水準で維持できる天皇体制を急いで準備せねばならない。これは引退許可の懇請などではなく、「平成天皇制」の内実を保証するための後継者への譲位の提案である。そうでなければ、象徴権力の相対的自立は掘り崩されてしまうだろう。「お気持ち」声明は、実にはっきりと、そう伝えている。そこには象徴権力と政治権力の緊張関係が如実に表現されている。

 政治権力と象徴権力という分離は明治憲法下ではおこらなかった。明治憲法のもとですべての権力は主権者たる天皇に一元化されていたので、権力と権威は基本的に一体化しており、今日のような問題は発生しなかった。しかし、前述のように、戦後国家は新憲法によって天皇の象徴権力を分離し、その象徴としての地位は「主権を有する国民の意思」に直接に由来するとした。こうすることで、象徴たる天皇は、政治権力とは異なる回路で主権者と結合する平行権力としての相対的自立の根拠が生じたのである。

 象徴権力は権力であるが、その実質は、基本的に、感情、情緒、信念、慣行、など非物質的素材から成っていて、それ自身は物質的支え、ハードウエアを持たない。皇室予算を含めて象徴権力はそのハード面のすべてを政治権力に依存している。象徴権力はその存在自身を政治権力との一体化に委ねていると言ってもいい。しかし一体化は吸収ではない。この一体化における二つの権力の位置関係は面白い。憲法は天皇の行動を厳しく国事行為に制限し、それについても内閣の助言と承認を求めている。その意味で象徴権力は政治権力の下位に置かれている。とはいえ、天皇は、(内閣の助言と承認によるとはいえ)国会を召集したり、衆議院を解散したり、(国会の指名によるとはいえ)総理大臣を任命したりする。権威としては、天皇は政治権力の上位に位置している。このような役割分業においてこの両者は合わさって日本国家の権力を構成している。いわば共棲(シンビオーシス)的相互依存関係で合体していたのである。

 平成天皇制もこの共棲関係の中で育ってきたのである。明仁とその一家は、外国訪問を含む皇室外交や国体など各種イベント出席、被災地の慰問や戦績への慰霊の旅など、憲法の規定の外にでる活動を、天皇家の「公務」として大きく拡大してきた。他方、自民党政権は長年にわたって、象徴権力の政治権力とは異なる支配領域を有する力、すなわち国民全体を象徴する力を利用し、それに依存して統治してきた。歴史的に天皇と政治権力は権威と執権を分業するシンビオティックな関係にあり、それが天皇制のむしろ本来の姿であり、明治―昭和の天皇権力への一元化は史上数少ない例外の一つであったことは、すでに広く論じられている。戦後日本の場合は、天皇制はこの伝統的分業の一変種として成立したが、その特色は、繰り返すが、主権を保持する国民に憲法的に直結する象徴権力として天皇制を基礎づけたことにある。そして、江戸と京都に権力と権威を分離して機能させた徳川幕藩体制とはちがって、戦後日本国家は二つを一つの憲法のもと、一つの国家権力に内部化したのである。

 象徴権力は仮象ではなく、実在する権力である。しかしそれは政治権力に寄生して初めて機能することができる。政治権力というハードウエアと一体化したその存在し方をカッコにいれて、象徴権力を「お気持ち」文書の「国民の苦しみ」に「よりそう」といったソフトなイメージだけで頭に描くと、大きい認識上の誤りを犯すことになる。

 政治権力と合体した象徴権力は、いかめしい、しばしば暴力的な実体として人びとの前に出現する。機動隊と公安警察によって厳重に固められた姿でである。この一体化した姿が象徴天皇制そのものなのである。戦後天皇制をめぐってどれほどの右翼暴力が振るわれ、不敬の口実でテロが行われ、血が流れたか、政治権力、警察権力がいかに彼らとつるんでいたか、それをここで具体的に述べることはしない。それを語る資格をもっとも備えているのは、昭和天皇の死、X−デーを挟んで戦後初めて、かなり大きい反天皇制の運動をつくりだし、その後も休まず天皇の「公務」場面で抗議行動をつづけ、右翼と公安警察の裸の暴力に直ひるむことなく立ち向かってきた反天皇制運動の人々であろう。私には彼ら・彼女らに代わって語ろうとは思わない。

安倍政権と平成天皇制の軋轢

 だいぶ回り道をした。ここで、ずばり本題に入ろう。二〇一六年秋、今日の状況である。

 私の見るところ、天皇一家は、この憲法のもと、営々と築き上げた象徴権力が、侮辱され、破壊され、安倍流の政治権力に吸収され、その飾り物に変えられることに強い警戒感を抱いているのである。権力掌握から四年、安倍は、事実上のクーデターともいうべき手法で、戦後国家の解体にかかり、閣議決定で憲法解釈を勝手に変更して、集団安保法制を強行し、ついに今年七月の参院選で両院三分の二の改憲勢力を確保し、いよいよ明文改憲プロセスに突入しようとしている。

 明仁天皇が、この参院選の直後、「お気持ち」声明の発表という違憲非難を覚悟の上の非常手段に訴えたのは、冒頭に述べたように、彼の象徴権力の防衛の意図をはっきり示しておく必要に迫られたからであろう。戦後憲法のもとでようやく安定的に定着したと明仁が考える象徴天皇制=象徴権力は、安倍流の改憲が実現すれば、その独自の主権者国民との回路を実質的に断たれ、極右政治権力の飾り物になる危険が大きくなっている、と天皇家側が受け取るのは当然であろう。

 安倍は、日本国憲法と〈戦後レジーム〉全体を否定し、したがってこの憲法に依拠して作り上げた平成天皇制も脅かそうとしているからである。安倍自民党の改憲草案では、天皇は「元首」という称号を与えられているが、この称号の代わりに天皇は政権の政策のために使いまくられるだろう。これは危うい。裕仁天皇が軍部と一体化した結果、あやうく元も子もなくす危険にさらされたように、安倍の時代錯誤的歴史認識に裏付けられた夜郎自大の世界戦略と戦争国家つくりに一体化したら、その冒険の失敗とともに、高祖高宗から受け継いだ天皇家の権威支配は巻き添えになり、危殆に瀕する恐れがある。明仁の平和主義憲法へのこだわりは昭和天皇とその時代への反省に裏付けられていると見るべきだろう。

 明仁夫妻は、極右政治勢力の台頭にたいして、すでに長年にわたって、批判的コメントを発して距離を置こうとしてきた。しかし、二〇一三年、第二次安倍政権の発足以来それは危機感と切迫感を湛えるものとなった。極め付けは、二〇一四年一〇月二〇日、美智子皇后が、終戦七〇年のコメントを求められたさい、文書回答で、A級戦犯の処刑に触れてこう述べたことであろう。

 私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従ってその時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います。

 A級戦犯への言及は皇室として異例の発言に違いない。政権に対して批判的論陣を張る電子メディアの「リテラ」(LITERA)はこの発言が、その二か月前、安倍首相がA級戦犯として処刑された元日本軍人の追悼法要に自民党総裁名で哀悼メッセージを送っていたことへの皇后の応答ではないかと見ている。この法要は、連合国による裁判を「報復」と位置づけ、処刑された全員を「昭和殉難者」として慰霊するもので、安倍首相は戦犯たちを「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」と賞賛したと報じられていた。私は「リテラ」の観察はおそらく当たっているだろうと思う。

 この間の天皇夫妻の発言を辿ると、歴史評価については美智子が明仁より大胆に語っているように見え、二人の間の分担が窺える。とはいえ明仁天皇も、二〇一五年の新年の所感では、その年が敗戦七〇周年という節目の年であるとして戦争に言及し、「戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始め各都市の爆撃によって亡くなった人々の数かまことに多いものでした」と述べた後、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なこと」であると語っている。これは過去の戦争についての反省的言及を含んだ発言であって、安倍はそれを「自虐史観」の表明ととるであろう。

 明仁天皇と徳仁皇太子はとくに第二次安倍政権が成立した二〇一二年以降、誕生日をとらえて明確な護憲メッセージを発してきた。二〇一三年一二月二三日、天皇は八〇歳誕生日の発言で、「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、 日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、 かつ、改善していくために当時のわが国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています」 と述べた。これは改憲によって「占領憲法」を否定することを至上命題とする安倍政権への対決姿勢の表明であった。伝えられるところでは(私自身は確認していないが)、NHKは安倍政権を慮って当日のニュースで天皇発言のこの部分を削って放送したという。また徳仁皇太子は二〇一五年の五五歳誕生日の記者会見で「我が国は、戦争の惨禍を経て、戦後、日本国憲法を基礎にして築き上げられ、平和と繁栄を享受しています」と発言した。

 極右イデオローグで、安倍首相のブレーンの一人と言われる八木秀次は、こうした天皇の発言が、安倍内閣が進めている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねないとして、そのようなことがないよう宮内庁が天皇を管理すべきだと、右翼雑誌「正論」で主張した(二〇一四年「正論」五月号)。

 憲法九九条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負う」と憲法尊重擁護義務を定めているので、天皇が護憲メッセージを発するのは、当然のことであるはずなのに、それがそのまま政権への対決になるという通常ならざる局面に日本国は入り込んでいる。

天皇陛下万歳!

 私は、明仁が今回の「お気持ち」宣言によって安倍政権との対決に踏み切るに至る直接のプロセスが、二〇一三年安倍が企てた「主権回復の日」の出来事で、始動したのではないか、と見ている。特別の情報を持っているわけではないので、状況と経過からの憶測であるが。

 安倍はサンフランシスコ講和発効の日四月二八日を「主権回復の日」として国民の祝日にすると提案した。当日政府主催の式典が開かれ、天皇夫妻も招かれ、出席した。

 安倍の思惑は、一九五二年のその日は、米軍占領が終わり、ようやく「自主憲法」制定への条件が整った日であるので、それを祝日とすることで、彼の改憲キャンペーンへの出発点としようというものであった。しかしこの企ては 悪評を呼び、準備過程で左右から批判の声があがった。サンフランシスコ講和条約で無期限の米軍の支配下に置かれた沖縄にとってこの日は屈辱の日であり、沖縄知事は出席を拒否、右翼はこの条約が東京裁判を受け入れたのでそれを祝うことを怒った。企画はあらかじめ挫折していた。それでも式典は開かれた。

 翌日の「沖縄タイムス」の伝えるところでは、

 約四〇分の政府式典は、安倍首相の独り舞台の様相でもあった。首相は舞台上に掲げられた大きな日の丸をバックに、約一〇分と最も多く時間を割いた。衆参両院議長、最高裁判所長官はそれぞれ三分。両陛下のお言葉はなく、残りは児童合唱団の歌声だけだった。首相は式辞で「沖縄の辛苦にただ深く思いを寄せる努力をなすべきだ」と強調し、沖縄戦や過重な基地負担に苦しんできた県民に一定の配慮を示した。
 しかし、直後に米軍のトモダチ作戦を持ち出し、「熾烈(しれつ)に戦った者同士が心の通い合う関係になった例は古来、稀(まれ)だ」と二月の日米首脳会談で語った「完全な日米同盟」をアピールするような文言を続けた。
 一方、児童合唱団が歌声を披露する場面でも不可解な空気が漂った。出席者に向かって舞台上で歌うのではなく、出席者と同じ舞台下から、天皇皇后両陛下や首相などが並ぶ舞台上に向かって「翼をください」などの歌を合唱した。

 その後に何が起こったか。

 壇上の安倍晋三首相ら三権の長がそろって両手を上げ、声を合わせた。「天皇陛下万歳」。天皇皇后両陛下が式典終了後に退場する際、出席者から突然声が上がり、出席した国会議員や政府関係者約三九〇人の一部も同調。天皇陛下は壇上で一瞬立ち止まった。仲井真弘多知事に代わって参加した高良倉吉副知事は万歳をしなかった。「突然でびっくりした。あの場面でそうする必要はなかったかなと。ただ、積極的にしなかったわけではなく、反応できなかった」と終了後、報道陣に話した。

 異様な光景であった。式次第にない「天皇陛下万歳」の演出であった。出席者が勝手に発声したと説明された。だが首相、衆議院議長も腕を振り上げた。万歳は三唱された。この「天皇陛下万歳!」のシーンを私は後からネットで見た。退出しかかった天皇夫妻は一瞬振り返り、歩み去った。背中の表情に不快感が現れていたと私は見た。

 この「天皇陛下万歳」が今後何を表すことになるか、それをこの瞬間が閃光のように照らし出した。この万歳三唱は、天皇に向かって、もうお前は俺たちの神輿になったぞ、担いでいくぞ、絶対逃がさないぞ、勝手なことは許さないぞ、とおらびあげる声、姿であった。明仁夫妻は、この粗野で愚かで自己中心的な極右潮流に担がれ、利用され、使われるのは、天皇家にとってきわめて危険であることを、改めて感じ取ったのではあるまいか。そう私は憶測する。

 それから三年余.事態はさらに急速に進み、象徴天皇はついにテレビを通じて「お気持ち」ステートメントを全国民に向かって読み上げることになる。
(第二部に続く)

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第二部 安倍を倒し、平成天皇制を越えて
(執筆予定項目)

天皇護憲の中身
平成天皇制におけるアメリカの要素
帝国主義・植民地―帝国継承
昭和天皇との継承関係
「伝統」の理解
条件闘争、政治権力への構造的依存
安倍の戦術―譲位と改憲
民衆自身の国民統合
列島住民およびそれを越えて
脱天皇列島主体の形成