ここに掲載する「戦後日本における憲法平和主義の原理としての生成」および「代案は存在し、すでに提起されている」は、武藤一羊氏がれんが書房新社から近く公刊予定の論文集のために書き下ろした前書きの後半部の一部(江呂よび詐蓮砲任后

※先に本サイトで5回に分けてアップした武藤の「敗戦70年を越えて:安倍極右政権を倒すとは何を意味するか、その先に何が開けるのか――国家の正統化原理の角度からの考察」は、この文章の最初の部分の初期バージョンで、この部分は書物用にはかなり書き直した新バージョンが使われるとのことです。

戦後日本における憲法平和主義の原理としての生成(江蓮

武藤一羊

2015年10月8日

民衆運動による下からの原理化

戦後日本国家の著しい特徴は、日本国憲法が国家の完全な構成原理として働かなかったことである。形式上は、戦後日本国家は日本国憲法によって構成されたことになっているにもかかわらず、現実には、これまで見たように、憲法原理はそれとは両立しがたいアメリカ覇権原理および帝国継承原理と並んで、それらの掣肘の下に存在したので、原理として自己を貫徹することはなかったし、できなかった。アメリカの覇権原理は、戦後日本国家の大枠を決め、そこからの脱出を許さない強制力をもつという意味で、最強のものであった。にもかかわらずその軍事的要求は、憲法原理に阻まれて一〇〇%貫徹できなかった。また自民党は反共であったが、日本社会を戦後ある時期までの西ドイツ社会―「赤になるより死ぬのがまし!」(Besser tod als rot!)―のような反共社会にすることはできなかった。さらに帝国継承原理は、国家の中枢に保持されていたが、それを公然とかかげることはできなかった。こうして、どの原理も排他的に自己を貫徹できなかったから、どれも原理としての本来の資格を大きく失い、その結果、戦後日本国家は明確な正統化原理を持たぬ国家、逆説的に言えば、オポチュニズムを原理とする国家となった。

国家のレベルで国家非武装=憲法平和主義が原理として発動されたほとんど唯一のケースは、一九五九年いわゆる砂川事件裁判での東京地裁伊達秋雄裁判長による安保条約違憲判決であろう。だがそれに驚いた政府は、最高裁長官田中耕太郎と駐日大使ダグラス・マッカーサー二世との密談を経て、最高裁への跳躍上告を行い、最高裁は、日米安保条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかの法的判断を下すことはできない(統治行為論)として原判決を破棄し、憲法判断を回避した。これが憲法平和主義が国家原理の資格を外された瞬間である。

憲法九条から原理の資格を外したことで、行政権力は、その後数十年にわたって段階的に「解釈改憲」を行い、それによって自衛隊を合憲とし、自衛隊の増強、日米軍事一体化などを系統的に推進することが可能になった。とはいえ、憲法九条は存在し、その規制力は働いていたので、「歯止め」と言われる自己規制が設けられて戦後期の長期にわたってブレーキの役割をはたしていたことも事実である。専守防衛とか基盤的防衛力とかいう独特のコンセプトも憲法九条との関連で作られた戦後日本独特のものであった。

では憲法平和主義は原理として消滅したのか。そうは言えなかった。それを、原理として掲げ、実践の指針とし、それを通じて国家の方を縛っていったのは、民衆の抵抗と社会運動であった。原理はその中に保持され、実践のなかで用いられることで、社会的に定着していった。戦後期の大半、一九五五年から一九八〇年代半ばまでは、日本の政治は保守・革新という二大陣営の対抗によって特徴づけられていたが、この革新陣営のスタンスは、憲法平和主義と民主主義をかかげて、自民党を中心とする保守陣営の「戦争と反動」の政策に対峙するというものであった。多数派は社会の中でも議会内でも自民党=保守派であったが、革新は最大労組であった総評と組織は強固でないが大衆的人気のある社会党のブロックという社会に根をもつ実体を備えていた。この総評・社会党ブロックに共産党と知識人を加えた社会勢力を社会理論家清水晋三は〈戦後革新勢力〉と名付けた。この勢力はむろん一枚岩ではなく、とくに社会党・総評と日本共産党の間には根深い不信と対立があったけれど、この陣営は全体として、親社会主義圏で、マルクス主義言説は大きい影響力を持っていた。学生運動はこの勢力の行動的、思想的最左派の位置を占めていた。

平和・民主主義原理が、米国の覇権原理と「復古反動」への動きにたいして原理として獲得されていくプロセスは、占領下の再軍備への抵抗、朝鮮戦争への反戦運動、全面講和キャンペーン―などを前史として、講和後の米軍基地反対闘争、一九五四年のビキニ水爆実験での日本漁民の被災を引き金に草の根から起こった原水爆禁止運動、そして何より岸信介政権による新安保条約に反対する広範で激しい安保闘争など、民衆の運動そのもののなかに存在した。なかでも平和・民主主義を原理として権威をもって定着させたのが巨大な政治闘争としてたたかわれた六〇年安保闘争だった。それに懲りた自民党政府は、その後この原理への正面からの敵対を避ける方針をとった。岸政権崩壊の後を受けた池田政権は「所得倍増」計画で人々の関心を政治から引き離し、経済成長=消費生活向上に振り向ける戦略をとり、ある程度それに成功した。

この間、運動の主要な担い手は〈戦後革新勢力〉であった。自民党政権への対抗勢力として、この勢力が憲法の原理的部分―九条非武装平和主義はその核心―を本来国家が従うべき原理として国家に対して突き付けるという関係が生じ、常態化した。国家はこの要求を全面的に受け入れるわけにはいかないが、頭から退けることもできない。そこで非核三原則、武器輸出三原則のような、抜け穴はあるが、米国に対しても、日本自身にたいしても一定の歯止めとして作用する「原則」が採択され、そのことがまた社会における平和主義の原理としての定着を促した。寄港を求める外国軍艦船に核兵器を搭載していないことを証明する「非核証明書」の提出を義務付けることで、事実上、核兵器搭載米艦の入港を阻止している神戸市の場合は、原則が原則として適用された先進例である。「原水爆禁止は日本国民の悲願」という言い方の決まり文句としての定着も、広島と長崎の被爆から直接に出てきたものではなく、一九五四年のビキニ事件を引き金に起こった原水爆禁止運動とそのなかでの被爆者たちのカミングアウトをつうじて起こったことであった。

戦後革新勢力はこうした運動の主体を<国民>と言い表わした。運動主流の総評・社会党ブロックは、原水禁運動など労働運動ではない広範な運動を〈国民運動〉と呼び、組織内に「国民運動部」を設けて他運動との連携をはかった。毎年春に行われる春闘は、一九七七年以後、労働者以外の偕層の利益を擁護するという意味をこめて国民春闘と呼ばれるようになった。戦後初期には<人民>を用いていた共産党も、いつの頃か〈国民〉を用いるようになり、二〇〇四年制定の綱領では〈国民主権の民主主義〉をめざすとしている。ここでは〈国民〉が誰を指すのか、日本国籍者だけをさすのかどうかは、必ずしも明確でない。ともあれ〈戦後革新勢力〉は、国民の名による運動主体という性格で形成された。

〈戦後革新勢力〉の展開した運動は日本本土の運動であった。米軍政下におかれた沖縄では、それとは位相を異にする民衆の抵抗がおこなわれていた。米軍による土地取り上げへの「ぬちどうたから」思想による体をはった非暴力抵抗がその基調をかたちづくった。それの基礎の上にピープルとしての自己決定権の行使として「平和憲法下の日本」を選択する祖国復帰運動が強力に展開された。本土の革新勢力はこの運動を支援した。だが、その底に横たわる沖縄理解は皮相で手前勝手なものであった。

沖縄の運動は、根底に、一個の尊厳あるピープルとして自己の帰属を自ら決定することを求める脱植民地化の運動という次元をもっていた。当時の運動はさしあたり米帝国の軍事支配に向けられていたが、その米国支配の一枚下の地盤には、沖縄処分以来の日本帝国の国内植民地としての沖縄支配の地層が横たわっていた。大戦末期、日本は米軍の本土上陸を引き延ばすため沖縄を捨石として利用したため、沖縄は日本国領土上での唯一の地上戦の場となり、住民の四分の一が殺される結果をまねいた。裕仁天皇は、一九四五年二月、近衛文麿が降伏を勧めたとき、 沖縄で一度打撃を与えることで、有利な条件で戦争を終結したいとして同意しなかった。それが凄惨な地上戦を結果したのである。さらに、日本は、講和条約締結時に、アメリカに沖縄にたいする日本国の残存主権を認めさせたが、これは将来の植民地支配権を確実にするための抵当権設定のような意味を持っていた。将来の帰属についての沖縄の自己決定権行使をあらかじめ封じたのである。大きい状況の節目において、日本国は沖縄を取引の質草として使いまわしてきたのである。

当時の日本本土の運動主流は、この関係、帝国から戦後日本国を貫通する植民地支配者としての日本国=やまとの沖縄への立ち位置に気づくことはなかった。沖縄はアメリカに不当に奪われ、侵略的な軍事基地に変えられた日本領土の一部、したがって奪い返すべき領土であった。沖縄について毎年行われたキャンペ-ンは、与論島から船を仕立てて米軍政下の沖縄との境界である北緯二七度線にぎりぎりまで近づき、国頭村から船で乗り出した沖縄側代表と海上で交流し、共闘を誓うというものであった。このとき歌われたのは「沖縄をかえせ!」という闘争歌だった。作詞は全司法労組福岡支部。歌詞はこうである。

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かたき土を破りて 民族の怒りにもゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもって 守りそだてた沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ 沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ、
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頭が変になる歌詞である。誰が誰に向かって叫んでいるのか。「沖縄よ」というのだからこれは沖縄への呼びかけにちがいない。呼びかけているのは誰だろうか。日本=ヤマト以外ではありえない。だからここにある「民族」とはどう見ても沖縄民族ではなく、日本=ヤマト民族を指すのであろう。ヤマトが民族として怒りに燃えているのである。怒りに燃えているのは沖縄の人びとであるはずだが、ここでは沖縄はヤマトの一部とみなされ、ヤマト民族として怒りにもえているという筋になる。この歌の主語「我ら」は民族=日本であるが、それは沖縄を含む我らである。では、それに続く「我らと我らの祖先」が「血と汗をもって 守りそだてた沖縄よ」とは何であろうか。漁船の上でヤマトの労組員や活動者たちがこう歌うとき、主語「我ら」は突如沖縄を含まぬ「ヤマト」に分離する。ヤマトが沖縄を「守りそだてた」のである。「ヤマトが苦労して手に入れ、同化・統合したお前、沖縄よ」という文脈が生じる。そして、その沖縄に向かって我ら、ヤマト、は「叫ぶ」のである。沖縄よ、お前は、我らのものだ、アメリカのものではない、だから当然の権利保有者として(潜在主権者)としての我らに、アメリカよ、我らのものであるこの植民地を返還せよと。

この歌は、返還後は意味を失い歌われなくなった。だが、一文字だけ取り換えることで意味を逆転させる芸当が行われ、その形で歌い継がれているようだ。機知に富む沖縄のアーティストが、歌詞の最後を「沖縄へかえせ」としたのである。(それでも私は、このメロディを聞くと、この歌が盛んに歌われた当時の運動の文化的雰囲気を思い出して気色がわるくなる)。

基盤的価値としての平和主義


戦後日本の<革新勢力>の生み出した憲法平和主義はどのように限界づけられていたのか。沖縄へのスタンスはその限界のはっきりした例示である。だが私は、戦後平和主義の全面的否定の立場はとらない。私は六〇年代からこの平和主義を批判してきたが、それは全面否定ではなく、限界の指摘であった。限界とは乗り越えるべきものとしてある現在の到達点である。憲法平和主義が、戦後日本が生み出した独特の社会的な思想的財産であることは否定しようがない。それは日本社会のなかに、今日にいたるまで、広く薄く、むしろ常識として沈殿していて、権力の出方によっては、それが再び凝集して、権力に対抗する行動を呼び起こす動機となりうることは、安保法制を強行する安倍政権への抗議行動の爆発的広がりが、大きくこの価値観をバネとしていることに示されている。

その中で注目されるのは、「平和と民主主義」意識の主要な担い手であった旧世代の人びとばかりでなく、その思想的伝統とはおそらく縦の線では切れたところで、安倍政権の常軌を逸した振る舞いに危機感を抱く若い世代の人びとが、一人一人の行動への動機をそれぞれ固有の言葉で表現しつつ、行動に立ち上がり、一人一人によびかけつつ行動を横に広げはじめたことだ。個人として自分と権力の距離、関係を確かめ、行動する。それはすでに権力との距離を確定している主体に一体化することで自分と権力の関係を確定するやり方とははっきり区別される。彼女ら、彼らの街頭での発言が、旧世代の心を打つのは、自分と政治の固有の結びつきを語る生きたことばが権力を撃ちはじめた場面に居合わせる感覚からであろう。大学生に続いて高校生がこの波に加わりつつある。

この立ち上がり方は、一九六五年のべ平連のそれを想起させる。べ平連は「組織でなく運動である」と宣言し、誰であれ、どこであれ、「ベトナムに平和を!ベトナムはベトナム人の手へ!日本政府は戦争に加担するな!」という目標に賛成し、行動を起こす個人やグループはすべてべ平連を名乗ることができるとした。そしていたるところでべ平連が生まれ、横につながっていった。小田実の言う「個人原理」による「組織ではなく運動」という考えは、組織を主体とする〈戦後革新勢力〉が主流だった当時としては驚天動地のものであった。そして、この運動は、当時の「新左翼」の突出した街頭行動がつくりだしたダイナミックな社会空間の中で、急速に横に広がり、活動を多様化するとともに、思想的な生産・交歓・論争の場ともなり、無視できない社会的力になっていった。現在の若い世代の新しい運動が似た道をたどって持続し、展開していくだろうか。それは分からない。

だがここで私が注目したいのは、過去五〇年、巨大な変化が日本社会を巻き込み、文化を変えたにもかかわらず、大学生を中心とするこの行動イニシャチブが、憲法平和主義の理念に直接に依拠しているかに見えることである。SEALsのHPに掲げられた立場声明はこう述べている。

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私たちは、戦後七〇年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法のもつ価値を守りたいと考えています。この国の平和憲法の理念は、いまだ達成されていない未完のプロジェクトです。現在、危機に瀕している日本国憲法を守るために、私たちは立憲主義・生活保障・安全保障の三分野で、明確なヴィジョンを表明します。
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これはかつて戦後革新勢力が掲げた戦後的理念に似た物言いである。だがそれが旧世代からの口移しではないことも明らかだ。右の引用に続いて強調されるのは「立憲主義」であり、これは旧世代の言葉ではないだろう。旧世代は旧世代で、安倍にたいして己の理念を己の言葉で叫んでいる。それとは明らかに異なった位相で、新世代は「日本国憲法の価値」を呼び出している、と私には見える。そこには何か戦後数十年にわたってこの列島住民の運動実践のなかから沈殿し、蓄積されてきた基盤的価値とでもいうべきものの存在を確認できると感じられる。若い世代は、当たり前のようにその基盤に接続し、直接その上に立って、安倍政権の政治に対抗しようとしていると見える。彼女ら、彼らの言葉の新しさと、推論の戦後的古典性の結びつきに私は新鮮な驚きを覚える。

「戦後七〇年一度も戦争で人を殺したことのない国」といった表現が広く通用し、積極的なナショナルな価値として受け入れられている国はおそらくあまりないか、まったくないかであろう。ナショナルな基盤的価値というものがあるとして、その国際比較をしてみれば、戦後日本社会の独特の姿が浮かびあがるだろう。新しい世代の個々人が権力に対して無媒介に対峙するとき、出発点において呼び出されるのがこの基盤的価値であるとすれば、われわれは引き継ぐべき戦後を持っていると言うべきであろう。だが無条件でそう言えるわけではない。

平和主義原理の重層的生成

基盤的価値としての戦後平和主義を重視すればこそ、戦後史において露呈してきたその限界を重大と考えなければなるまい。価値は実践、新しい経験、議論と批判を通じて、進化する。そして進化することで持続する。

戦後平和価値の最大の限界は、いくたびも指摘されてきたように、ほとんどもっぱら被害者意識の上に形成されたことだった。戦後国家が出発点において導入した自己免責レジームの下では、日本帝国の、そして帝国臣民個々の、加害者性は都合よく封印された。もちろん被害体験をもとに「二度と戦争はごめんだ、許さない」というところに運動を出発させることは、出発点としては当然のことであった。だがこの意識がそこから他者につながり、広がる回路をどれほど持てただろうか。他者とはこの場合、日本帝国が踏み荒らした地の人びとである。振り返ってみて、戦後初期―一九四五-五〇年ぐらいの時期―の運動はその回路を開くことをなしえなかったと私は思う。日本の軍隊が、軍隊だけでなく日本帝国を構成した一人一人の人間が、他国の人間一人一人に何をしたのか。三五〇万の軍人がアジア太平洋各地からから帰国したが、彼らの加害・被害経験が、聞き取られ、彼ら自身を含めて批判的に吟味され、運動の中に生かされる回路を、国家はもとより、運動組織も開かなかったし、開くことを思いつきもしなかったと言えよう。その後も状況は基本的に変わらず、戦後日本は経験の双方向的総括に基づく戦争認識―戦争の原因、責任の認識―を社会的レベルで生み出すことができなかった。それは、天皇不処罰を頂点とする自己免責の体系によって、戦争犯罪の追及と犯罪者の処罰が不可能にされた上のことであった。そこで被害経験に基づく平和主義が、自己免責の枠組みと共存する形で、広く共有されることになった。それが戦後日本平和主義の原型となり、基盤的価値としての平和主義の周縁部を形作っている。この周縁部では<平和>という一語が最も無難で無内容なプラスイメージの担い手として普及した。戦前の「師団通り」を「平和通り」に改名するといった調子であった。

基盤的平和価値は、原水爆禁止運動を始め平和運動を支えるとともに平和運動によって内容を豊富化していき、その中心部においては政治化していった。しかし、全体としては過去の加害はカッコに入れられた。そして、多くの場合、平和憲法下の日本国が、絶え間なく戦争を続けてきた米国の不可欠な後方として戦争に事実上参加してきたことも忘れられるか、カッコに入れられた。カッコにいれたまま「反核平和のメッセージを日本から世界に向かって発信する」とか、「憲法九条を全世界へ!」とか叫ぶ「発信」発想も、この平和価値の、よく言えばナイーブな、表現形態である。「七〇年間自衛隊が一人の外国兵をも殺さなかった日本に誇りを持つ」という言い方も、「多くの敵を殲滅してきたことに誇りを持つ」ことに比べれば、すばらしいが、平和と戦争の入れ子状の結合を視野の外に置いていることで、やはり同じナイーブさに彩られている。さきのSEALsの趣意書は「先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て、平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化のなだれをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」と言うが、これもひどく甘くはないか。戦後日本は本当に「侵略の反省を経」たであろうか。「平和主義/自由民主主義」を確立したであろうか。それならなぜ安倍政権のようなものが現れたのだろうか。むしろ安倍政権の出現を許した日本は「多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立」することに失敗したことを示しているのではないか。そういう日本が「東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく責任」などを買って出るのは気恥ずかしくはないか。

戦後平和主義の視野は一国的であった。一九六〇年の安保闘争は、平和と民主主義を原理として定着させることに最大の貢献をした闘争であったが、その安保闘争は、同時的に進行していた韓国の李承晩独裁体制打倒の学生たちの闘争に関心を示さなかった。朝鮮半島において、韓国はアメリカがつくった正統性のない反共国家であり、その政権を倒した四・一九学生革命も所詮反共的運動で、連帯の対象にはならないという了解が運動者を支配していたからである。この政治的教条を越えて韓国の闘う生身の学生と民衆に想像力を及ぼす力を六〇年安保闘争は持たなかったのである。

同年五月、ソ連のミサイル配備状況を、ソ連領空を侵犯して、高高度でスパイしていた米国のU2型偵察機がソ連上空で撃墜され、米ソ首脳会談が流れてしまうという事件が起こった。ところがこのU2機が、厚木基地にいるのが発見され、国会での安保討議の中で、大問題となったのである。当時平和委員会の常任幹事として安保闘争のセンターだった「安保改定阻止国民会議」に参加していた吉川勇一は、この事件をこう述懐している。

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首脳会談を流してしまうような危ない飛行機が日本にもあるということで議論になるわけですが、「こんな危ない飛行機を日本に置いておくとはなんだ、一刻も早く日本から移すべきだ」という議論が国会で行なわれる。そしてU2型機は日本から外されたと言われました。しかし、実際は沖縄の基地にずっと配備されていたのでした。それに対して、反安保闘争の側も批判を展開しない。原水爆禁止運動のときに、在日朝鮮人や中国人、フィリピン人などの被爆の問題が念頭になく、また原子力全般の問題も視野に捕えられなかった限界があったように、六〇年安保闘争も、「戦争だけはもう嫌だ」という強い主張はあっても、沖縄問題には思い至らない。(吉川勇一「原水爆禁止運動からべ平連へ」、高草木 光一編「一九六〇年代―未来へつづく思想」、岩波書店、二〇一一年)
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私は戦後日本のこのような認識構造が、日本国憲法体制(平和主義)と安保システム(覇権軍事)が最初から背中合わせに結合されて生み出されたことの結果だと論じてきた。占領期、マッカーサーは、核搭載の米国戦略空軍が沖縄カデナ基地を拠点として制空権を確立してさえいれば、日本を非武装化しておけると考えていた。すなわち憲法九条と沖縄軍事植民地化は背中合わせに結合されていた。癒着が背中合わせであったため、日本国内には憲法体制の完結性の幻想が生み出された。その構造を私はかつて次のように描写した。
この幻想はこの時期の戦後革新勢力の認識装置に限界を設けた。…この視野には、平和な日本、それに外から侵入する戦争体制という図柄が映じていたのである。この認識装置はいわば日本列島を すっぽり覆う巨大なドームであった。このドームは外から内部は丸見えの片面素通しの鏡、マジックミラー、が隙間なく内側に貼り付けられており、人々はそこに平和な日本という自己の姿の投影を見ることはできても、その外部の世界は見ることができなかった。外部はドームの破口からの侵入者としてしか内部者の目には映らなかったのである。(武藤 前掲書二四―二五頁)

実は、このドーム全体が戦争マシーンと結合していた。その連結部分は内部からは見えなかった。外部からは、自分の姿にうっとり見入るわれわれのことは丸見えであったが、内部者にはミラーに映る自分の姿、すなわち平和な日本、しか見えなかったからである。

しかし、一九六〇年代後半、このドームは内部から壊された。ドーム全体が崩壊したわけではなかったが、大きい破孔が穿たれた。明白な米国による侵略戦争であるベトナム戦争に佐藤栄作政権が全面的加担したことがきっかけであった。日本にある米軍基地、施設、兵站能力の米国の戦争遂行のために動員され、沖縄基地からはB29が北ベトナム爆撃に出撃していった。それは、今ある「平和な」日本がそのまま米国の戦争機械に直結していることを多くの人々に知らしめた。平和な日本が戦争に巻き込まれる、だからこの平和をまもろう、という見方を根本から疑う考え、姿勢が生まれ、広まり、そこに立つ新しい運動が一斉に生まれた。ベトナム反戦では、前記のべ平連がもっとも有力な運動だったと言えるだろう。この運動で中心的な役割を果たした小田実は「加害者・被害者のメカニズム」という考えを導入した。戦後日本の平和運動が、戦争での被害体験に依拠して、二度とあの体験を繰り返さないためにこの平和を守るという立場で組み立てられていた。しかし、日本人が被害者になったのは、日本がまず近隣アジアにたいして加害者になった結果としてではないか。反戦平和運動は、この加害者としての自覚なしにはありえない。加害者・被害者メカニズム自体を問題化し、壊し、別の関係で置き換えることが必要だと小田は考え、それは大きい共感を呼んだ。べ平連の運動は、たしかに幅広い運動であったが、戦争機械に直結している日本の現状を、行動をもって変えるという立場に立っていた。それはベトナムを外部と受け取るのではなく、日本社会に内部化された存在と捉えることで、日本を外に向かって開くことになった。外から現状を守る運動ではなく、現状を内側から変える運動への変化である。

一九六〇年代後半は世界的に下からのラディカルな民衆運動がいっせいに噴出した激動の時代だった。巨大帝国主義アメリカの侵略に立ち向かって一歩も引かずにたたかうベトナム人民の姿は、世界は変えることができる、という信念を世界各地の民衆に吹き込んだ。ラディカリズムの一時代が到来した。アメリカ黒人によるブラックパワーの運動、北の世界を席巻した学園占拠をともなう学生運動、第二波の女性解放運動、フランスでの五月闘争、それに中国における革命の中の革命と映じた文化大革命などが、呼応し合い、既存の世界秩序への挑戦として広がった。日本の運動もこの中に置かれていた。

日本の場合、戦後民主主義は、一九六〇年代半ばを過ぎると、思想的、政治的、文化的に敏感な若い世代にとって、守るべき価値と言うより、支配体制そのものとして意識されるようになっていた。全共闘運動という形で出現し、学園占拠・バリケード封鎖という激烈な形で全国のキャンパスを巻き込んだ新しい形の学生運動は、進歩的教授をふくむ教授会権力に象徴される学園内の権力関係を、その権力の働く現場において変革することを求める運動だったと言えるだろう。全共闘は、戦後の学生運動を代表してきた全学生参加の学生自治会から成る全学連とは違って、自発的な個人参加の行動委員会の連合として組織された。その点ではべ平連運動に似ている。この時期の後期には、男支配の社会関係に組み込まれた女性への差別・抑圧―運動内のそれを含めてーをその場において覆すことを掲げてウーマンズ・リブの運動が出現した。日本帝国主義の支配を背景にもつ在日朝鮮人・韓国人、中国人への民族差別が、当事者の告発により日本の運動者の意識に強烈に突きいれられたのもこの時期である。この時期の特徴の一つは、こうした新しいスタイルとエートスをもつ運動に並んで、革命をめざす新左翼諸党派―多くは古典的な前衛主義で組織されていたーが、政治課題をめぐって警察権力と激しい街頭闘争を展開し、それが、運動全体に強い影響を与えたことである。もう一つの特徴は、急速に膨張をとげた資本主義による破壊的開発にたいして農民、漁民、都市住民などによる抵抗が沸き起こったことであった。そのなかで水俣と三里塚の闘争が全国的な焦点となり、大きい運動空間が形成された。

ここは当時の社会運動の総括をする場ではないので、これ以上運動の叙述や批判や分析に踏み込むことはできない。はっきりしていることは、この時期、戦後革新勢力とはエートスを異にする潮流ーそれ自身いくつかの異質な潮流を含んでいたのだがーが出現し、日本社会にある新しい運動圏を出現させたことである。この運動圏は、しかし、やがて運動圏としては解体し、個別、課題別の活動に展開していく。戦後革新勢力とは区別されるこの潮流を何と総称すべきかは頭の痛い問題であるが、ここでは誤解を恐れず、戦後革新勢力というこれまでの左翼主流ではないという意味で「広義新左翼」と呼んでおこう。それが運動圏として解体していくきっかけの一つが一九七二年に暴露された連合赤軍事件といくつかの新左翼党派間で行われた左翼病理現象としての凄惨な「内ゲバ」であったことはあきらだ。この「広義新左翼」としての運動圏的括りが消滅したあと、各々の潮流は市民社会でそれぞれの道を歩み、活動を続けた。その間、一九八九年の総評の連合による吸収は、戦後革新勢力の組織的解体を意味するものであった。

平和価値基盤の露出と再生成

われわれは、戦後国家への抵抗を表す少なくとも二つの歴史的運動圏の解体を見てきた。しかし「圏」が解体しても、社会的抵抗としての運動は消えたわけでなかった。むしろ運動、あるいは人々の活動は、個別課題や地域に根ざして続けられ、新しく出現し、多様な形態をとりつつ広がり続けた。八〇年代には反原発運動が大きくもりあがり、裕仁天皇の「Xデー」にかけて反天皇制運動が脚光を浴びた。そして、その後の三〇年は、大規模な戦争、多くの体制の崩壊、重大な事故、自然災害が次々に起こる社会的地殻変動の時代にはいった。

しかし私は、この激しい変動と運動圏の明確な境界の消滅のなかで、むしろ逆に、日本本土社会において戦後期から積み重なって生成されてきた基盤的平和価値と呼んだもの、いやむしろ平和価値基盤と呼べるものが露出してきたと考えている。フクシマ破局以来の社会の下からの流動化といのちを守る自立した活動の噴出、その基礎の上に空前の継続的国会デモの形をとった安倍政権との対決が、その基盤を可視的にしたのである。

それはかつての、典型的には六〇年安保闘争期の、大衆的価値基盤と同一のものではないし、一九六五年以後の時期の体制への異議申し立ての再来でもない。かつての革新勢力の平和価値基盤が概して単層的だったのにたいして、いま安倍政権との闘いで露出してきた基盤は、一般的にいえば非武装・非暴力・平和的生存権・民主主義の価値基盤であるが、それは抽象的、観念的な存在ではなく、戦後的平和運動の経験も、広義新左翼の獲得物も、フェミニストの価値も、エコロジー運動の経験とスタイルも、原発・核をめぐる闘いも、若い世代の恐れと怒りも、これら、またその他、実に多様な民衆経験を、それぞれの固有性をほぼとどめたまま、呑み込み、保持し、発酵を促すかなり厚い社会的土壌層として存在しているのである。起源を異にする諸潮流はそれぞれの流儀で憲法を参照点としているが、お互いの交流と相互作用は始まったばかりである。この基盤は、今日安倍政権の安保、沖縄、原発政策を拒否し、行動するますます増えつつある人びとの行動のなかに、そしてその間のつながりのなかに存在する。それは国会を囲む重層的な運動世代のなかに存在する。

そこにはたしかに共通の基盤が露出している。しかしこの基盤は、ある原理を表しているだろうか。イエスであり、ノーである。イエスであるのは、ここに共有されている怒りが、法案や政策の個々の部分に向けられているのではなく、安倍政権が体現している政治と支配の全体に向けられているからだ。安保法案は修正すればいいのではない。廃案にしなければならない。なぜか。この法案が代表しているものが戦争であり、憲法の破壊であり、平和的生存権の蹂躙であり、立憲主義・民主主義への挑戦であり、個人の、女性の、若者の、いや人間の尊厳への冷笑であるからだ。アメリカの戦争に巻き込まれるのはもとより、アメリカの戦争に参加して、人を殺すことになることを拒否する。安倍政権は打倒しなければならない。ここで対立は明白に憲法平和主義を基点としる原理的次元に達している。

ノーであるのは、私たちが、まだ共通基盤を豊かにし、原理を形成するプロセスの始まりに立ったにすぎないと思われるからである。多様な背景の人びとが寄り合う巨大な国会デモの形で表現されたピープルの力は、社会の中に基盤的平和・民主主義価値を共有し、保持し、発展させる新しい民衆の自立圏とでも言うべきものが形成される可能性、いやむしろその形成の必要性を示唆しているように思われる。安倍政権との闘いのなかでの最大の獲得物は、政治的言語の復権の兆し、政治を語り街頭へ出ることへの自主規制秩序のほころび、政治行動で体制をゆすぶる手ごたえの感覚の広がりなど、制度的な間仕切りで分断された空間を突き抜ける多くの社会的・文化的空間が生まれたことにあると私は思う。世代、ジェンダー、職業、その他多くの社会的カテゴリーに属する人々が安倍政権にたいしてそれぞれの声をあげて、行動している。それら多くの自立圏が横につながりながら、交流し認識を交換し、対抗的な自立・自律的社会的空間を維持し、広げ、外に開いていく。過去の経験、特にマイナスの経験は同じ過ちの繰り返しを防ぐために、世代から世代へ手渡されなければならない。いま私たちは切実に討論に耐える言語を必要としている。言語、とくに政治的言語の退化、劣化は、国会の質問や答弁の水準にもっともひどく表れている。それに対して、若い発言者たちが、自分固有の感性と政治テーマをきちんと論理で結んで語り始めたことに、私はトンネルの出口が見えてきたときのような興奮を感じている。

私は、安倍政権の戦争国家化への暴走への抵抗を契機に、前述のような民衆の自立圏をもたらす新しい運動圏の出現の可能性が生じたと感じている。そのような運動圏が成立するためには、それを支える基点というべきものが必要であろう。日本列島社会には、過去数十年の歴史の中で、民衆の運動実践に媒介されて形成されてきたいくつかの基点が存在すると私は思う。生きた三角点のようにである。

それらの重要なものだけすら数え上げることはできない。ここでは、私は、安倍政権との当面のたたかいに即して、国家の正統化原理に直結し、広域運動圏の形成へのダイナミズムを支える上での基点として、とりあえず「安保」、「フクシマ」、沖縄、それに「戦後責任」という四つを取り上げてみたい。