メニュー  >  街へ出た民衆が体制への同意と黙認を撤回する/ジェレミー・ブレッカー
全世界に拡散する「占拠運動」

 「占拠運動」(occupy movement)が世界中で広がっている。直接的な発端となったのは、「怒れる者たち」と称する人びとが5月15日にスペインで起こした抗議行動である。欧州各国の財政危機がその背景にあることは言うまでもないが、この運動は同時にまた、「アラブの春」からのインスピレーションをも受けていた。
 公共サービス切り捨てなどによって、この間の金融危機を引き起こした当の金融機関を救済するような政策に対して、欧州各国での抗議活動が広がる中、金融経済化の元凶ともいえる米国のウォール街を「占拠」することをめざした草の根の運動が9月17日から始まった。警察からの弾圧に耐えながら、12月初めの時点でも運動は継続しており、全米各地で同種の運動を触発してもいる。
 また、5月15日から5ヶ月にあたる10月15日には世界同時多発行動が取り組まれた。事前のアクション登録では「82ヶ国、951都市」が参加することになっていたが、実際の行動がどの程度の広がりを持っていたかは十分に把握されていない。
 以下に、「占拠運動」の歴史的意義について論じた、ジェレミー・ブレッカーとヴァンダナ・シヴァによる2本の文章を訳出する。
[編集部]

街へ出た民衆が体制への同意と黙認を撤回する
──ウォール・ストリート占拠運動の意味


ジェレミー・ブレッカー

 ウォール・ストリートから始まりアメリカ全土に広がった占拠運動(WSO)は、行進、デモ、即興の全員集会などの形で「民衆が戸外に飛び出す」というアメリカ革命の伝統の一部である。歴史家のゴードン・S・ウッドはそれを「民衆による立法行為」とした。「自分の要求や苦情にたいしてそれに代わる制度的表現をみつけることができない民衆」による立法行為だというのだ。この運動は、進歩的な社会変革への新しい希望を生み出した。しかしそれはまた、どうしたらこのような運動が、最初にそれを起動した民主的衝動を保持したまま、持続し強くなっていけるかについて、多くの疑問を提起もしているのである。
 タハリール広場からウィスコンシン州マディスンへ、そしてウォール・ストリートへ、運動のこの意外な伝播ほど予期できないものは珍しい。新しい電子的な社会メディアがその出現を助けたことは確かだが、この種の運動の歴史はインターネットよりはるかに古い。事実、ストライキとゼネストがアメリカの鉄道と一二以上の都市を麻痺させた一八七七年の「大変動」から、一九〇五年のロシア革命をへて、モントゴメリーのバスボイコット、ポーランドの「連帯」のストライキにいたるまで、社会運動の衝撃的出現は近代社会の形成に決定的役割を果たしてきたのである。いつ、いかにして、このような社会運動が立ち上がるかは予測できないかもしれない。しかし、そのパターンと動き方は、運動の歴史を研究することでよりよく理解できるだろう。

●「左からの茶会」以上のもの

 社会運動が、しばしば人びとがもっとも組織されておらず希望を失っているときに出現するということがなぜありうるのか。その答えはたいていの場合、組織者たちの賢い戦術には求められない(賢い戦術は役には立つのだが)。そうではなくて、答えは、共通の問題の認識、そしてそれらの問題への応答としての、しばしば驚嘆すべき人間の自己組織化能力に求められる。置かれた状態への怒りが高まってくると、人びとはお互いの不満を認め合い、みな行動への用意ができていることを認識しあうようになる。このような文脈において、職場を離れるとか隔離されたランチ・カウンターからの退去を拒否する[1]─あるいはウォール・ストリートの公園を占拠する─といった範例的行動は、大量の人びとに、彼ら彼女らの共通の状況とそれに対抗して行動する能力を劇的に開示する。ひとたび人びとがそれを認めると、数百人の抗議者の行動は、「伝染力をもって」地理的境界線、サブカルチュアのちがい、さらには国家の壁をも乗り越えて、数日のうちに、何百か所での何千人もの人びとを引きつけるのである。それはこれまで繰り返し起こってきたのだ。

 アメリカの奴隷制廃止運動、公民権運動、女性解放運動からポーランドの「連帯」の運動まで、社会運動は真の社会変革をもたらしてきた。だが、こうした運動は、その担い手が既存の制度のなかでひどく無力に見え、また自身無力と感じている人びとでありながら、また密集した権力が彼らに敵対しているなかで、どうしてあれだけ強力な効果を発揮することができたのだろうか。

 非暴力行動の理論家ジーン・シャープは、ガンジーに教えられつつ、はっきりと言いきった。政府、企業、その他もろもろの強力な制度は、民衆が、その権力に労働、資源、恭順を捧げ、同意を与えることでそれに協力し黙認していることに依存している、この事実がその答えだというのだ。社会運動が強力でありうるのは、民衆がその黙認と同意を撤回する可能性を体現しているからだ。そうすれば政府や制度が生き残り、その目的を達成するために必要とする「支柱」の根本を掘り崩すことができるからだ。社会運動は権力を握る者たちに重大な脅威を突き付け、それによって彼らが変化するよう強制することができる。ベルトルト・ブレヒトは「ドイツ戦争案内」という詩のなかでこう語った。

 将軍よ、君の戦車は強い乗り物
 森を引き倒し、人間百人を踏みつぶす
 でも欠陥がひとつ 操縦手が要るということ


 この潜在的な「非力なものの力」がどのようにみずからを動員し、働き始めるか、それは特定の「支柱」によって決まる。たとえば、公民権運動の時代には南部の財界人たちは、人種隔離廃止に総力をあげて抵抗する態度から黙認を奨励する姿勢に大きく変わった。それは人種主義的暴力への反応として北部の企業による南部への投資が減ることを恐れたからであった。ケネディ政権は、半身ではあったが公民権運動を支持した。それは一部は米国の人種主義にたいする外国の非難、とくにソ連が接近を試みていたアフリカの新興国の反応を恐れたからであった。民主党の政治家たちは北部とくにデトロイトやシカゴでの大量の黒人組織票に頼っていた。しかし、南部の民主党員、ホワイトハウスの民主党員、議会の民主党員などによるみえみえの人種差別的抑圧の容認は、その支持基盤を脅かすものだった。公民権運動は、人種隔離という悪との直接対決であったが、現実にはそれは、黙認によって人種隔離の継続を可能にしている諸勢力に圧力をかけるという「間接的戦略」から、その力の多くを引き出したのである。

 ウォール・ストリート占拠運動は、1%のエリートによる米国経済、政治、生活の支配への黙認の取り消しを劇的に告げるものである。それはまた、アメリカにおける階級支配の現実と99%へのその影響について政治家とメディアが沈黙していることへの民衆の同意の取り消しを表している。まさにそれは、1%の救済で企業と結託し、富者をますます富ませ貧者をいっそう貧しくする経済政策をとってきたバラク・オバマと民主党指導部への同意の撤回を表している。

 長期的には、反ウォール・ストリート運動は、「左からの茶会」以上のものになることができるだろう。「左からの茶会」なら選挙結果に影響を与えるかもしれないが、参加者の問題を解決する意味のある社会変革をもたらすことはできない。しかし「左からの茶会」以上になろうとすれば、「99%」が「1%」の支柱を掘り崩せる具体的な方法を発展させることが必要だろう。99%の人びとの自己組織化を促すことは、この方向への決定的第一歩である。

 社会運動は、その貢献にもかかわらず、時として悪い結果に終わることがあることを私たちは知っている。あるものは華々しく燃え上がるが、鍋の中で炎が燃え上がったあと消えてしまう。別のものは新しい位階秩序の土台になる。ある共産主義運動は全体主義的圧政になり、ある労働運動は腐敗した官僚制になってしまった。ある解放運動は、ウィリアム・ブレークの「暴君の頭を砕いて、そのかわり自分が暴君になった」あの「鉄の手」みたいな道をたどった。

 現世代の世界の若者の運動はよく「アナキスト」とか「水平主義者」と自称するし、まわりでもそう見られている。名前はどうであれ、核心の考えは、社会の中だけでなく、運動のなかの位階制度に反対するということである。この人びとはしばしば、いかなる形であれ指導者というものに反対するとして嘲られている。しかし、ウォッブリーと呼ばれた昔の世界産業労働者運動(IWW)の人びとがよく言っていた「われわれは指導者を持たない、われわれはみんな指導者だから」という主張は、解放が支配に、あるいは自称指導者間のエゴにもとづく終わりなき抗争に変っていく危険への一定の解毒剤になるだろう。こうした抗争は、民主社会のための学生同盟(SDS)や新左翼を荒廃させたのだ。

●グローバルな運動への展望

 占拠運動についてのこれまでの議論の多くは、それがどこまで来るべき米国の選挙戦に影響するかというものだが、占拠の当事者たち自身はずっと広い見通し、まさにグローバルな見通しをもっている。最初からウォール・ストリート占拠運動は、「アラブの春」やその後スペインからチリへ、ウィスコンシンからテル・アビブへと広がった運動をモデルとして行われたのだ。

 何日もの議論のあとウォール・ストリート占拠運動総会が採択した宣言は述べた。「私たちは、人類の未来は人類の構成メンバーの協力を要求しているという現実を認識する」。そこで「われわれが直面する問題に対処するプロセスを創り出し、だれもが享受しうる解決策を編み出す」ことが「世界の民衆」に求められているという。

 「グローバルな99%」が直面している問題はほんとうにグローバルなものだ。私たちは、どのような国であれ一国で解決することはできないグローバル経済の問題に向き合っている。私たちはまた、すべての国による抜本的な二酸化炭素排出削減を必要とする気象の危機に直面している。同様なことは、飢餓、大洋の汚染、大量破壊兵器、その他私たちが今日直面する多くの問題について言える。それらの問題の背後には、グローバルな自己統治の危機が横たわっている。すなわち、グローバルな協力が、万人の万人にたいする闘争に置きかえられ、国際的な経済、政治、軍事力が国ごとの民主化努力を打ち砕いていっているのである。

 健康保険、教育、失業など主として一国的なものにみえる問題すら、グローバル化とグローバルな新自由主義によって深刻化し、回復できない状態に陥っている。ウォール・ストリート占拠運動が抗議の的としている銀行やその他大企業はみなグローバルな存在だ。スタンダード&プアーズ社の格付け対象の企業の収益の半分以上は海外からのものだと、エコノミック・アウトルック・グループ主任研究員バーナード・ボーモルは指摘する。同様に、いろいろな問題の解決もまたグローバル化した。

 圧倒的に国内問題に活動焦点を置いていた労働、消費者、環境などの組織は、突如として、北米自由貿易協定(NAFTA)とか世界貿易機関(WTO)などの出現、そして企業と労働市場のグローバル化にぶつかった。そこで起こったことは、予期せぬことだったが、グローバルな規模での自己組織化だった。違った国の異なった集団たちがお互い知りあうようになり、お互いのキャンペーンを支持しあい、お互いの情勢分析を読み合い、共同宣言を回しあって発表し、共同行動を組織した。その結果が「シアトルの闘い」であり、おびただしい国際キャンペーンであり、債務、エイズ治療薬、食料政策、遺伝子組み換え食品、その他数えきれないグローバルな争点をめぐる国際行動であった。コペンハーゲン気候サミットに続くグローバルな気候問題をめぐる抗議運動は、このもっとも最新の産物である。

 大きい違いは、ウォール・ストリート占拠運動とその仲間はすでに、多くの共通テーマと目標をもつグローバルな運動の一部であるということだ。これらについて自己組織化はすでに進行している。そして、これらの運動は、もろもろの政府をグローバル99%の共通利益に協力させられれば、その目標を達成できるのである。

●全範囲での変革へのプロセスをつくりだす

 ウォール・ストリート占拠運動は維持できるのか、と問う人は多い。しかしそれはもっとも重要な問題ではないかもしれない。歴史家が一九三〇年代はじめの飢餓行進を扱うとき、何年それが続いたかとか、ましてやそれが当時の選挙にどう影響したかなどとは問わないのである。歴史家はむしろ、飢餓行進を、失業者の運動を創り出し、産業別労組の勃興と「第二次ニュー・ディール」を左にゆさぶることになった一つのプロセスの一部とみるだろう。

 むろん現時点で占拠を広げ、その継続を助ける支援と物的援助を拡大することは決定的に重要だ。しかし、究極的にはこの運動の意義は、99%のうち未参加の部分が何をするかにかかっている。占拠運動は、その継続という目標をこえて、その刺激で何を生みだすだろうか。

 ウォール・ストリート占拠運動は、それ自身99%の運動のすべてである必要はない。ウォール・ストリート占拠運動はそのことを自覚しており、いたるところの人びとに、自分たちの集会(アセンブリー)を組織し、「われわれが直面する問題にとりくむプロセスを創造しよう」と呼びかけているのだ。労組を組織したり、議会にロビーしたり、選挙で候補を立てることがこの運動の仕事ではない。その仕事は、99%のまだ参加していない部分─若者環境にいない人びと、教育、政治、法律、その他の制度の内部にいる人びとを含めて─に、自分を組織するように、そして「われわれが直面する問題」を解決するに必要な全範囲にわたる変革を起こすための具体的な戦略づくりを始めるよう、刺激を与え、励ますことである。そして、この運動は、自己に忠実であり続け、まっとうな声をあげ、直接行動を実行し、99%の不満に街頭の熱源としての表現を与えることで、それをやり遂げることができよう。

 ウォール・ストリート占拠運動は最近、キーストーンXパイプライン[2]に反対する集会に派遣団を送り、会場まで行進していった。次は、立ち退き反対行動やストライキの人びとのために屋外暖房装置を提供するかもしれない。こうした行動は連合関係をつくることになり、人びとがいかに直接に状況を変えられるかを示し、この運動を99%の人びとの必要にさらに目に見える形で結びつけるだろう。

 社会運動はしばしば地べたでの闘いを立法を通じての変革の闘いに結びつけてきた。一九三〇年代には、労働者は地べたでストライキを組織し、地元での言論の自由の禁止に挑戦し、それと同時に議会では「労働マグナカルタ」、すなわちワグナー法の制定のためたたかった。一九六〇年代には、公民権運動は、ランチ・カウンターでの人種隔離とたたかうとともに投票所でもたたかい、同時に公民権法と投票法の通過のためにキャンペーンを行った。事実その二つのレベルは相乗効果をあげつつ結びあわされた。

 街頭に出た民衆、それは、アメリカ革命を引き起こすに至ったいくつもの出来事における決定的な参加者だった。ウォール・ストリートの占拠とキャンプ設置は、アメリカ政治に決定的役割を果たした。それは一九三二年の帰還兵による「ボーナス行進」[3]、一九六八年、マーチン・ルーサー・キングの暗殺に続く「貧民キャンペーン」の「リザレクション・シティ」キャンプ[4]、さらに一九八九年のピッツトン炭鉱労働者のストライキ[5]に連帯する連帯キャンプとならんで、歴史の一章を書いたのである。

 街頭に出た民衆にパワーを!

[注]
[1]一九六〇年二月、ノースカロライナ州グリーンスボロでウールワースの「白人専用」のランチ・カウンターに四人の黒人学生が座ってランチを注文するという人種隔離への非暴力直接行動を行った。これがアメリカ南部における人種隔離撤廃の大運動の口火の一つとなった。
[2]カナダのアルバータ州から米国各地に向けて計画されている大規模なパイプライン。環境運動はオイルサンドから抽出される汚い燃料を導入するプロジェクトに反対運動を繰り広げ、二〇一一年一一月には一万二〇〇〇人がホワイトハウス前に座り込み、オバマ大統領に環境再調査と計画の延期を約束させた。
[3]一九三二年、大恐慌のさなか、数万人の第一次大戦帰還兵が、各地からワシントンに行進し、議会前にキャンプを張り、一九二四年制定の法律による従軍にたいする政府の手当(ボーナス)の即時支払いを求めた。「ボーナス軍」と呼ばれた。これにたいし、政府は正規軍による攻撃をかけ、多数の負傷者を出した。
[4]一九六八年、マーティン・ルーサー・キング師と南部キリスト教指導者会議(SCLC)が主唱して「貧しい人びとのキャンペーン」が行われ、その最中、四月四日にキング師が暗殺されたが、運動は継続され、五月には数千人のさまざまな人種の貧困者が共同でワシントンに「復活の町」(Resurrection City)という掘立小屋の町を立ち上げ、六月半ばに閉鎖されるまで持ちこたえた。
[5]一九八九年四月から一九九〇年二月まで行われたペンシルバニア州ピッツトンの炭鉱労働者のストライキ。会社による退職者への健康保険打ち切りが発端。連帯キャンプ(Camp Solidarity)が設置され、そこに全米鉱山労働者組合の二〇〇〇人の労働者が泊まり込み、全国の数万人の労働者や支援者が同情ストやカンパでストを支えた。
[由良葦也訳]

※『季刊ピープルズ・プラン』56号(2011年12月)に掲載予定

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